キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(告白の力)

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告白の力


 

第1回・言葉は力がある

一、山頂で叫ぶ

 婦人宣教師メ−ベル・フランシスのことはご存じの方が多いと思います。彼女は多くの日本人に慕われました。戦時中は、本国の宣教団から離脱しても日本にとどまる決意をし、事実その故に日本の憲兵隊に監禁されるような目に会いながらも日本を愛しつづけた方でした。しかし今回はその事を書くのではありません。彼女の書いた「聖霊に満たされてから」(いのちのことば社発行)という本についてふれたいのです。
 この本の題は「聖霊に満たされるために」ではなく、「……満たされてから」というのです。彼女は既に聖霊様に満たされた経験をしていました。既に宣教師としてかなり成功もおさめていました。しかし、この誠実で勤勉で愛に富んだ宣教師は、その内側の自我との葛藤に苦しんでいたのです。その実に赤裸々な体験記なのです。
 その本の中で、メ−ベル・フランシスはこんなことを語っています。
 「自我は私を悩ました。サタンは次のように言って私を散々苦しめた。『……あなたは、みじめな敗残の身で故国に帰るだろう』。この悪魔の叫びは激しかったので、私は山に登った。そして頂上から声の限り叫んだ。『私は疑わない。悪魔よ、去れ。聞け。私は疑わない。私の神は私を用いて、日本の人々にご自身を知らされるのだ』と。」
 このとき、神様はフランシスに明確に力強く答えられました。彼女はまったく自身の自我が十字架につけられてしまっていることを悟りました。そして、しっかりと再び立ちあがったのです。彼女はその場所を今もありありと覚えていると書いています。
 ところで、自我を十字架につける、ということは信仰の初めから、また聖霊に満たされた時から、とっくに分りきっているはずではありませんか。しかし、神様はこうして一人の人に、入念に繰り返し迫り、悟らせ、信仰を向上させ、品性を磨いて行くのです。これは神様の教育です。人間の側から見れば信仰の自己鍛練(第二テモテ4:7)であります。
 これは行いによって救われるという律法主義ではありません。栄光から栄光へと変えられて行くべき聖徒たちのために、神様が備えたもう常道であります。
 ここで、メ−ベル・フランシス女史ははっきりとは触れておられませんが、このとき山の頂上で叫んだ、そのことは「告白」のすばらしい実例でありました。

二、告白ということ

 告白という言葉は世間では普通、ざんげ、つまり罪の告白という意味でよく使われます。しかし聖書では、信仰の表明という積極的な使いかたのほうが多いのです。
 告白という言葉は新約聖書ではギリシヤ語で、ホモロギアです。「同じことを言う」というのが元の意味です。洗礼式で受洗決心者を前にして牧師が「使徒信条」を区切って読む、同じ言葉を決心者がなぞって唱える、そんな風にして「信仰告白」をしてもらうことがあります。つまりその人は牧師と「同じことを言」っているわけです。よく求道者の信仰を導くとき、これに似たことをします。また、子供達の祈りを導くとき、この方法ははなはだ有効です。
 この「同じことを言う」ということに私はすばらしい意味を発見します。次のことをさしていると、思うからです。
 1,告白とは神様のお言葉と同じ言葉を言いあらわすことです。
 2,心に深く感じた言葉を言いあらわすということでもあります。
 3,また、それらの言葉を同信の者たちと一緒に言い表わす、ということもあります。
 4,また、以上のような言葉を繰り返し言いつづける、ということでもあります。

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 ヤコブ1:21(下)に「御言には、あなたがたの魂を救う力がある」とあります。そうです、言葉には力があるのです。実は悪魔の言葉には悪魔の力があるのです。ですから、悪魔も人を誘惑するとき言葉を使います。悪魔の言葉に負けないためにも私たちは常に神様の言葉を身に付けておく必要があります。ですからコロサイ3:16では「キリストの言葉をあなたがたのうちに豊かに住まわせ」なさい、というのですね。
 エペソ6・14〜17をみると、クリスチャンが持つべき6つの霊的武器のなかで攻撃的武器は御霊の剣だけです。それは神の言葉の事なりと、ちゃんと注釈までついています。 悪魔に対して取るべき態度についてちょっと言い添えておきます。それは、ただ攻撃あるのみです。お手柔らかにどうぞ、と哀願するのでもなければ、逃避するのでもありません。「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば悪魔は逃げ去ります」(ヤコブ4:7)とあるとおりです。この悪魔に対する攻撃の武器は、御霊の剣、すなわち神の御言なのです。この御言を口で言いあらわして告白しなさい。かならず勝利します。
 

三、告白の実際

 ある古い信者が、「先生、信仰がすっかり駄目になりました。もうおしまいです」。としおれきった顔やってきました。こうして牧師をたずねて来るようであれば、だいじょうぶです。もちろん、しばらくはあれこれと彼の否定的感情や泣き言につきあうのも牧師の務めですが、「頃あい良し」と私はどなりつけたものです。
 「あのねえ、グズグズ言わんと、会堂の講壇の前に行ってさ、この聖書の言葉を千遍叫びなさい。『生きているのはもはや私ではないッ。キリストが私の内に生きておられるのだあッ』。声が枯れてもええ、枯れ尽くして叫ぶんじゃあ」。
 彼はおったまげて教会に行きましたがね、10分もすると帰ってきました。
 「先生、よく分かりました。イエス様が私の中におられる。ようくわかりました」。
 彼は泣いているのです。
 「あの聖句、なんべん言うた?」ときいたら、30遍も言わぬうちに聖霊様の感動をうけたそうです。
 ある気の弱い男がいました。奥さんが、
  「先生、この人、気が弱いから強くしてやってください」
 ご本人を見ると、「ハイ」とうなずいています。私は歯がゆくてしかたない。
 「ハイ、教会の講壇の前に行って」
 また講壇前です。
 『私を強くしてくださる方によって私は何 でも出来るッ』と百遍叫んできなさい」
 ノ−マン・ヴィンセント・ピ−ルお得意の聖句です。誰が得意だって構わない、聖書の言葉には力があるのです。
 こうした大声で叫ぶ型は、ビジネスマンの鬼の訓練とやらでやるアファ−メ−ションと似ているところがあります。心配せんでよろしい。向うがこっちの真似をしているのです。
 いつもこんな大声とは限りません。最近、あるお母さんがその娘さんがウツ病ということで相談に見えられました。そのお母さんは既にイエス様を信じておられましたから、すぐにイエス様による癒しを信じるように勧め、そして共に祈りました。その後、私が癒しの信仰を告白し、それに続いて同じ言葉で告白してもらい、最後には二人で一緒に同じ言葉で告を白しました。あとで聞いたところでは、まったくその時とおなじ時刻に遠くにいる娘さんの病気がなおったそうです。もう一つ、同じような例がありました。
 言葉には力があります。言葉を使って告白することは信仰の武器です。信仰生活をかならず実り多い、充実した日々に彩ってくれるはずです。

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