キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(告白の力)

  【HOME教会案内ニュース牧師メッセージリンク

 

告白の力


 

第3回 感情のコントロ−ル

一、かんしゃく男

 私は20歳代に聾学校の教師をしていました。生徒を愛し、熱心に指導もし、かなり成果もあげていたつもりでした。その時の生徒たちの一人が最近、同窓会誌に思い出を書いていました。その中に、「釘宮先生は非常にかんしゃくもちだった。いきなりコップの水をぶっかけられたことがある。ずいぶん辛かった」などとある。がくぜんとしました。事実、私は大変なかんしゃく男、私の母親がぐちっぽいのにかんしゃくをおこして、食事最中の食膳の机をまるごとひっくり返したことなど思いだしました。
 そんな私でしたが、最近はだいぶ穏やかになったつもりでいました。このことは多分、家族も周囲のものも認めるでしょう。ところが残念! 昨年、こんなことが起こったのです。
 原因はもう忘れましたが、私はなぜか妻に不満を覚えていました。小さい怒りの感情でしたが、でも、それが心の中にゆらいでいました。私は心を落ちつかせるため落ち着いてコップに牛乳をつごうとしました。ところが私の手がふるえていたのでしょう。牛乳はどっと脇にそれて、食卓のうえに池のようにひろがりました。それをきっかけに、なぜかその瞬間、若い時のあのかんしゃくがワッと噴き出してきたのです。思わず手に持ったパックを床に投げつけ、そして足音も荒々しく書斎に帰っていったものです。
 書斎には火の消えたスト−ブや脇机風の本棚がありました。怒りの余憤がまだ残っていて、それらを思わず、エイッとばかり蹴とばしました。そして机につくと、情けなくなって頭をかかえて泣きだしました。こんな事は絶えて久しく無かったことでしたから。

二、妻に詫びる

 照れくさいし、第一、以上に書いたようなていたらくでは、どうもまずいのですが、思い切って書きますと、私ども夫婦は世にも珍しいほど仲のよい夫婦であると、自分たちでは思っています。
 これは努力して仲よくしているのではなく、元もと相性がよいのです。でも、生来の相性だけではそこまでは行きますまい。私たちにはある時、神様の深いお取り扱いを受ける日がありました。その時、互いに結婚愛の賜物を受けたのです。 人は独身であるにしろ、結婚しているにせよ、神様からの賜物をいただかなければ、結婚生活の喜びと聖化は望めないと思います(第一コリント7:7参照)。
 ともあれ、この30年ほど、こんなに怒りを妻にぶっつけたことはありません。どうしたことかと、口惜しいやら、失望するやらで、しばらくは打ちしおれていましたが、やっと気を取りなおして神様に祈りました。「神様、私をこの状態から救い出してください。」
 そうして私は妻のところに行って詫びました。もっとも、素直にあやまれません。低い声で軽く頭を下げた程度です。まして妻から許しの言葉をもらうようなことはしませんでした。(これでは実は不十分。こんな時は丁寧にはっきりとあやまるべきです。また柿谷正期先生の本で教えられたことですが、相手の許しの言葉をちゃんともらうことが大切です)。

三、命令の法則

 しかし、とにかく、そこで私は心に平安を多少とも得たのです。ホッとして書斎に帰りました。ところが机のそばに先ほど蹴とばしたスト−ブや低い本棚がありました。それを見たとき、なんと私は、そのひっくり返ったスト−ブなどを、又もや蹴とばしたくなりました。私の足にモヤモヤッと怒りの霊がうごめいているのを感じました。私は思わず叫びました。 「足よ、止まれ。悪霊よ、出て行け。」 次の瞬間、私の足は床の上に踏みとどまり、私は平静と喜びと、悪魔に対する勝利感を味わっていました。
 あの時すでに、私の心に怒りの感情は消えていましたが、しかし、足だけに怒りの思いがたむろして、それが今にも爆発しようと力んでいるのが分ったのです。ですから、瞬間に私は叫んだのです。「足よ、止まれ。悪霊よ、出て行け。」
 私はこれを「命令の法則」と呼びます。私はすでに、このことを詩篇57篇や108篇によって学んでいたのではありました。こういう聖句があります。
  「神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。
  わたしは歌い、かつほめたたえます。わが魂よ、さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ。
  わたしはしののめを呼びさまします」
 私はここで、詩人が自分の心に命令しているのを発見したのです。これは今まで誰からも聞いたことのない真理でした。自分の目をいぶかりましたが、聖書のこのみ言葉の意味はあまりにもはっきりしていました。私が神の子であるのなら、自分自身の心に命令して、その心を変える権威があるはずだというのです。

四、意志は感情に勝てるか

 心理学では意志は感情に勝てないというのが通説です。だから、うまく感情を処理するためには、意志に服従しやすい肉体の運動を用いて間接的に感情を制御するのです。たとえば激しく愉快そうにダンスをすれば憂欝な気分も朗らかになる、という具合に。
 ところで神の子どもたちには、自分の心に(その他、琴やしののめにも)命令する権威があるのだというのです。意志が感情に勝つのかもしれない。この発見は、私を興奮させました。そうして、
 ある日、こんな事がおこりました。車に乗せてもらっていました。しばらくして私は珍しく不機嫌な感情に陥っている自分に気づきました。助手席で、私は自分のこめかみに手をあてて(これは私の習慣になりました。皆さんが真似する必要はないでしょう)言いきかせました。
 「私の魂よ、明かるくなれ。」
 これを5度ほど繰り返しました(これも私の習慣になりました)。こう言ってから、すぐ効果を期待したり験したりせず、主にゆだねて忘れておきます。五分ほどすると、何気ない、路上の小さな出来ごとに陽気に反応してケラケラ笑っている自分を発見して驚いたのでした。
 〔これは病気のとき、その患部や症状に向かって、「癒されよ、出て行け」と命令するのと同じ原理です。なお、疑問を持つ人があるかもしれないけれど、こんな事もありました。あるとき、無邪気な日曜学校の子どもたちが真似をしました。故障で鳴らなくなった電子オルガンに向かって、「オルガンよ、鳴れ」と命じました。そうしたら、その電子オルガンが鳴りだしたそうです。まさしく、立琴や琴がさめたわけです。「石をパンにする」のたぐいで無闇に試みるべきことではありませんが。〕

五、自制心について

 人類の始祖、エバとアダムは神様の命令にそむいた時、その霊は死んだのです。それは人間としての中核である意志の力がサタンの支配下に入り、善事を行い悪事を避ける力を失ったということです。それは感情を制御する力を失ったということでもあります。しかし、イエス様を信じて新生した私たちは、意志力を復権して感情を制御することが出来るのだと信じるべきではないでしょうか。
 ガラテヤ5:22、23の徳目の最後に「自制」という徳目が出てきます。他の徳目の基礎をなす大切な心の働きです。自制心は感覚の快不快や感情の好き嫌いを越えて、ある行動をとり、あるいはその快不快や好き嫌いを転換させる意志の力です。その力が持続するとき、性格の改善(このことは次回に述べたい)ということも可能になってくるのです。

 

「告白の力」第4回へ

「告白の力」の目次に戻る