キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(告白の力)

  【HOME教会案内ニュース牧師メッセージリンク

 

告白の力


 

第5回・聖書の教えを実行する

一、信仰を成長させないのは神様への反逆である

 ある信徒修養会の懇談会で、一老婦人が自己紹介でおっしゃる。
 「私はもう洗礼をうけてから50年になりますが、信仰は一向に進みません」 私は率直に申しあげたことです。
 「姉妹、信仰が一向に進みません、などと言ってはいけませんよ。それは神様にたいする反逆罪です。」
 その姉妹のみならず、列席のみなさん、不審そうでした。私は説明しました。
 「神様があなたを50年前にお救いくださった時、あなたを今後どれほどにも成長させようかと、大きい期待を寄せられたことでありましょう。よもや、あなたをいい加減にほったらかして、このまま成長せんでもよい、とお思いだったとは夢々考えられません。神様はいろんな手立てをつかって、あなたをお導き下さって来たはずです。あなたが、その神様のお導きに少しも従わなかったからこそ、一向に成長しなかった、ということになるではありませんか。つまりあなたはずっと神様のみ心に反逆しつづけてきたことになるのです」。
 こう言い終ると、みなさんもやっと分ったというような顔をなさいました。

二、信仰は実行がむつかしい?

 「信仰は実行がむつかしい」としきりに言う人があります。少々自慢そうに言う所が可笑しいのですが、しかし笑えません。その人は多分、「信仰は実行が伴わねばダメだ」と思いつめているのでしょう。そして容易に実行できないので、がっかりしているのですが、しかし、その努力のほどは褒めてほしいという気分も濃厚、いじらしいタイプです。
 これとは別に、とことん握ってほしい深い信仰のタイプがあります。「実行面はもう徹底してあきらめます。そんなことは大体、人間に出来るはずがないのです。だからこそ聖書は『人は行いによらず信仰によって救われる』というのですね。私はこの信仰義認に固く立つほかないのです」という人です。
 この義認の絶対信仰に立つ立場は、実は信仰がずいぶん成長したときでも、そこで信仰の破局を感じるような場合、必ず帰って行くべき所です。いかなる地歩にいても信仰の安定と確立を守るためには必要な基礎です。これは詳述したいテ−マですが今回の主流からはそれるので、ここでは省きます。

三、実行は案外やさしい?

 さて、あっさり書きますと、信仰の実行的側面は案外やさしいのです。第一、信仰の実行は困難であると聖書のどこに書いてありますか。それを捜すのは、それこそ困難です。逆に、「行うことが出来る」、「何でも出来る」、そういうお言葉のなんと多いことでしょう。
 「信ずる者には、どんなことでもできる」(マルコ9:23b)。
 「もし、からし種一粒ほどの信仰があ
 るなら、この山にむかって『ここから あそこに移れ』と言えば、移るであろう。このようにあなたがたにできない事は、何もないであろう」(マタイ17:20)。
 「よくよくあなたがたに言っておく。 わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう」(ヨハネ一14:12)。
「わたしを強くして下さるかたによって、 何事でもすることができる」(ピリピ4:13)。
 聖書が真に神様の言葉であるなら、これらのお言葉を素直に聞いて、それをそのまま信じるとき、信仰の実行的側面、つまり聖書の教えを実行するということは可能であります。却って用意なのです。


四、信仰の完成者イエス様と
     そのお言葉に目をとめよ

 次の聖書のお言葉をお読みください。
 「わたし(イエス様)が来たのは律法や預言者を成就するためである」(マタイ5:17)。
 「信仰の完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル書12:2)。
 パウロの言葉も取りあげましょう。「ダビデの子孫として生まれ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい。これがわたしの福音である」(テモテ2:8)。以上は信仰の完成者であるイエス様を見つめていなさい、思っていなさい、という聖書の勧めです。
 次にこういう聖書のお言葉もあります。 「完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である」 (ヤコブ1:25、なおペテロ1:19も同様に、聖書の言葉に目を留めよと言っています)。
 これは聖書のお言葉に目をとめよ、という奨励です。いいえ、これらすべては命令と読むべきです。
 これらの言葉こそ信仰を実際生活に具体化し、実行し、完成していく秘訣です。ハウツウものの本の表題はしばしば「……の秘訣」でありますが、これはまさしく「如何にして信仰生活を実現するか」という秘訣であります。それは、
 イエス様の姿を心に描き(ガラテヤ3:1参照)、その方の言葉を豊かに心にたくわえる(コロサイ3:16参照)。という簡単なことにつきます。もちろん、すでに新生体験を持っているという条件をつけますが。これは「生きているのはもはやわたしではありません、キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)というパウロ体験を、さらにあらわに生活に表現するためのパウロの自己修錬の一方法であったと思います。
 パウロは、ズバリがこれこそが私の福音であるとさえ言っているように見えます。パウロにとって福音とは、単に言葉ではなく力であり、常に内側にイエス様を宿して罪や臆病に勝利し、外延的には豊かで聖別された人生を送り出す力動的なものであったのです。

五、告白せよ

 パウロは言います。
 「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」(ロ−マ10:10)。 心に信じて義とされる、ということはクリスチャンの内面におこる霊的事実であります。口で告白して救われるということはクリスチャンの外側に起こる現実であります。

 以上のパウロの言葉の直前に引用されている旧約聖書の個所を開いてみます。「わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、 また遠いものでもない」(申命記30:11)
 なんと驚くべき言葉でしょうか。旧約聖書の時代にあってすら、聖書はその戒めが及びがたく遠いものではない、手に届くほどのやさしいことなんだと告げるのです。さらにその方法を告げます。
 「この言葉はあなたに、はなはだ近く あってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる」(申命記30:14)。
 あなたの信仰の完成者であるイエス様のお姿をいつも心に描き思うこと、そして聖書のお言葉をあなたのものとして口で言いあらわすこと。このことによりあなたは聖書の教えを実行できるのです。
 さて、実技的なお勧めを最後に書きます。どのようにしたらよいか。
 まず、み言葉を暗唱しなさい。み言葉があなたの肉になるまで冥想するのです。まず暗記できなければ冥想はできません。 それに加えて、あなたの望むところ、神様に示される夢をはっきりとイメ−ジしなさい。その際、必ずその場面にイエス様に来て頂くことです。イエス様が、そこであなたの夢を喜んでくださり、その完成図をイエス様が演じてくださるくらいに心に描きなさい。
 そのイメ−ジが形においては明確、色彩においては鮮やか、しかもその映像が大きく運動する、これは大切なコツです。 更に、その映像に信仰の言葉をつけなさい。映像に意味を与えるのです。意味がつくと、あなたの魂に深い人格的印象を残します。かくて内なる事実があなたの人格の外側において現実となります。(次号は祈りの実際について書きます)。

 そこで彼は告白の力を宣言するのです。律法の言葉を口に言い表わすとき、それは心にも刻み込まれます。その時、律法を実行に移すことは、むづかしくない、可能なことなるです。
 マルコによる福音書11:23以降を読んでください。まず、大胆積極の信仰です。「こ山に、動き出して、海の中にはいれと言い」。この傍線の個所は原文で現在形、つまりギリシャ語では、繰り返し、継続し、習慣的行為をしめす文法の形です。その結果、そのような大胆なことの可能をを信じることが出来るようになるのです。つまり可能性の信仰です。 その信仰がさらに進んで、すでにかなえられたと信じるにいたるなら、それはもう信仰として万全です。その信仰を既得実感の信仰と呼びたいと思います。
 ここに、つまりノ−マン・ヴィンセント・ピ−ルの積極的信仰、それからロバ−ト・シュ−ラ−の可能性の信仰、そして趙 基師の夢と幻の信仰(既得実感の信仰)が言い尽くされています。それはまず、言葉において、繰り返し継続的に、習慣化するまで告白せよ、ということです。そして、夢と幻の法則によるイメ−ジによる既得性の信仰を把握することです。

 

「告白の力」第6回へ

「告白の力」の目次に戻る