キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(告白の力)

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告白の力


 

第8回・日常生活における告白         

一、告白としての挨拶

  私が30歳代のこと、しばらくある信仰団体に属していましたが、最初その集団の人々にふれた時、彼らの濃密な挨拶に非常に驚きました。
 彼らがじっと手を握りしめ、互いに瞳を見つめあう様に、見ている私は身震いするほど感動しました。短い挨拶言葉にも万感の思いをこめ、しばしばしっかりと抱きあっていたものです。
 初代教会の信者たちの挨拶も、そのようなものではなかったでしょうか。「見よ、彼らはなんと愛し合っていることか」と、当時のクリスチャンたちを見て、周りの一般市民が噂したことを、ある教父は書き残しています。
 初めてペンテコステ派の教会を訪ねたとき玄関でいきなり「感謝します」と、受付の方に言われて面喰らいました。今では私どもの教会でも愛用している挨拶です。何ごとにも感謝し、賛美することはたしかにクリスチャンのしるしです。 英語でよく使います、「プレイズ・ゴッド(神様をたたえます)」。また「ゴッド・ブレス・ユウ」(神様の祝福がありますように)」という挨拶。欧米では伝統的にこうした良い挨拶用語があるのですね。 でも教会には、もっとよい挨拶用語があります。「ハレルヤ」です。昨年昇天された崔子実先生は「私は英語はだめだけれど、どこに行っても『ハレルヤ』を使います。ハレルヤはクリスチャン共通語ですから、どこに行っても分かります」と、自慢していたものです。
 初代教会の人々は「マラナタ(主よきたりませ)」(第一コリント16:22)と挨拶したそうです。これは御再臨のイエス様を待ち望む挨拶です。しかし又「主よ、今ここに来てください」とも聞こえます。よい挨拶の言葉だ、と思います。
 まず日常の挨拶を信仰的告白として聖別しましょう。これはあなたの日常生活をてきめんに変えます。

二、挨拶言葉を変えよう

 あなたがクリスチャンであるなら、少なくともまずクリスチャン同士でいる時だけでも、挨拶を互いに主にある者らしく変えたいものです。
 暑い季節にはよく世間では「きょうは死ぬほど暑いですなあ」などと言います。寒ければ寒いで、「きょうは寒うてかないません」。雨がふれば「うっとしい雨です」。こんな挨拶をクリスチャン同士で使うなら、なんと淋しいことでしょう。 「きょうはたいへん寒いけど、かえって気がシャンとしますね。イエスさまのお陰です」と、なぜ言えないのでしょう。 もし、クリスチャンが互いに信仰の挨拶をかわし、賛美の告白をかわすなら、相乗的に互いの信仰を高め、喜びで心を一杯にすることでしょう。
 家庭の中でまず始めましょう。一度始めたら、あとは簡単、習慣づけましょう。まず、朝起きたら早速ベッドで、「ハレルヤ、神様おはようございます」。そして、それぞれ起き出してくる家族がお互いに、「ハレルヤ、感謝します。きょうも神様のご祝福があります」。あるいは「ハレルヤ、お父さんを愛します」などと挨拶をかわしてみませんか。
 こうした経験が、これまで全然なかった場合、いきなり始めるのはみんな照れるかも知れません。そんな時、最初だれかが音頭をとるとよいのです。応援団長のように拍子をとって「さあ、朝のあいさつ」と号令をかけるのです。
 第二コリント13:12でパウロは言います。「聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい」と。互いに聖別されたあいさつをかわす事は聖書の命令なのです。

三、互いの告白

 聖書には、前述の「聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい」をはじめ、イザヤ書6章の「天使たちが神殿内を飛びかけり、『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主』と互いに呼びかわし」とか、エペソ人への手紙5:19にある「詩と賛美と霊の歌をもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい」等、「互いに……かわす」という表現があります。二人、ないしそれ以上の人たちが、同じ信仰の言葉を告白し合い、その感動を共にすることをさしていると思います。
 私は、かつて聾学校の教師をしていました。耳の不自由な子供たちが多人数で笑いころげるとき、前のほうの子供は必ず後ろを振りむいては後ろの子供たちと一緒に笑おうとするのです。後ろの生徒たちが笑っているのを見たいのです。
 人間というものは笑う時、みんなと一緒に笑いたいものらしい。まして信仰の喜びを告白することは尚更なのです。
 昨年のこと、マリヤ姉妹会のシスタ−、オリヴィエさんとスミルナさんが見えられました。その時、近くにあるキリシタン殉教公園にご案内しました。園内に彫像があります。十字架上の殉教者の背後に、イエス様のお姿があります。
 そのイエス様の像を見ると、この2人のシスタ−たちは歓喜の声をあげました。「イエス様、イエス様」と口々に御名を呼んで、互いに顔を見合わせ子どものように喜んでいるのです。
 そういう彼女らのそばで、私たち日本人はいわゆるジャパニ−ズ・スマイルでつっ立ってだけ、ということでありやすいのです。欧米人のこうしたあけっぴろげな表現習慣は本当にいいですね。
 とにかく、これは互いに告白し合う事の楽しさです。告白という新約聖書の言葉は「ホモロギア」ですが、直訳すると「同じ言葉を語る」です。「同意して、同じ言葉を語り合う」のであります。こうした語り合いで毎日が暮れるようでありたいのです。

四、生活の現場で

 私たちの毎日のさりげない生活の中で、挨拶にしろ、短い会話にしろ、そういう簡単な言葉が意外に大切なのです。うっかりすると、そういう所に、サタンのつけこむすきが出来るものです。彼らは私たちのすきをねらっています。
 エペソ人への手紙4:27に「悪魔に機会を与えないようにしなさい」とあります。その少しあとを読むと、悪魔に機会を与える一番のすきは、悪い言葉、みだらな言葉、いろいろの汚れた言葉、どんよくな言葉、卑わいな言葉、等々であることが分かります。そういう言葉が、私たちの間にはいりこまないようにしなさい。
 その為には常に神様のみ言葉を口ずさんでいることです。それこそ勝利の道であり、繁栄の道です(ヨシュア1:8、詩篇1:2参照)。祝福の言葉をいつも口ずさむとき、その善い言葉は、これまであなた脳中にあった悪い言葉を追いだして、その良い言葉であなたの心を満たしてしまうのです。
 ですから、前回まで述べました特別の「告白」とは別に、日に何回も繰り返す挨拶や短い会話、いや長い会話でも、あなたの口にのせる言葉のすべてに、神様の恵みの言葉、励ましと、約束の言葉を満たすことを心がけましょう。
 さて、それほど気分がよくないのに、「神様は恵み深い。きょうも感謝の一日でした」などと言うには一種の大胆さ、また信仰が必要です。あなたは、こういう発言をすることに気がひけるかも知れません。第一、これは偽善ではなかろうか、と心配する人もいるでしょう。
 しかし、聖書的標準に近づこうとして、その目標を心にかかげて言い表わすことは、偽善ではけっしてありません。「目標にむかって力をつくす」ことは聖書的なことでありますから。

五、結婚生活のために

 夫婦の場合は特に大切です。
 今から結婚なさる方たちは、結婚第一日より信仰的な挨拶ができるように、結婚前によく約束しておいてください。また聖書的な言葉を使うことを習慣づけておきましょう。そうした会話を何か堅苦しいことのように思うのは誤解です。
 主にあるユ−モアな会話というものがあります。というより、本当のユ−モアというもは主にあってこそ可能なのです。 結婚している方は、特に「結婚の賜物」(第一コリント7:7)を求めなさい。求めれば神様はこの賜物を必ずくださいます。そうすれば、仲のいい時はもちろん、意見の合わない時でも(実に不思議!)、またベッドのなかでも(本当!)、明かるく楽しく、聖別された会話をかわせるのです。そこに主が居られるのですから。

 

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