キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

1999年4月

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1999/4/25

 その1

リバイバル新聞の新発足を祝す    

 みなさんに愛読されている「リバイバル新聞」が、この四月よりマルコーシュ・パブリケーションから分離して新しい会社で発行されることになったらしい。この間の事情は知らないが、いっそう身軽になって、独立独歩、主のためにきびきび働いてくれるでしょう。この新会社発足を祝いたいものです。

 さて、この時にあたって、同紙のために主幹の谷口和一郎兄から原稿を頼まれたのです。そこで、急いで作文したのですが、それが先週の週報の原稿です。そのためか、もの足らない点があり、申し訳なかったです。今後は、谷口兄のご期待にも応えて、良い原稿を送りたいと思っています。皆さんも私のため、祈ってください。

 ところで、この原稿の打合せをしている時、この谷口兄からファックス来信がありました。その中で私の非常にびっくりし、また喜んだことがありました。それは、

 昨年だったか、私がかつて十年ほど前「恵みの雨」誌に連載した「告白の力」をコピーして谷口兄に送ったことがある。その「告白の力」が今回の会社設立にあたって非常に役にたったというのです。谷口兄からの来信では次のようでした。

              *

 会社設立のため当初、三百万円の金が必要だったらしい。「告白の力」を読んでいた兄弟は「主は三百万円を与えられる」と、事あるごとに口で告白をしたそうです。締め切り寸前、ギリギリやっと二二〇万円出来た、しかしまだ足らない。ところが締め切りの、その時には、なんと三一〇万円と一〇万オーバーして金は出来ていたというのです。

 もう一つは社屋のことです。社屋は「JR豊田駅から歩いて五分ほど、十二万円の物件を」と、以前から祈っていたそうですが、「告白の力」に従って、「実際的な映像を見せてください」と祈ったのです。

 そうすると、白いモルタル塗の二階建の家で、下に駐車スペースがあって、その横に高い木が生えている映像が見えたと言います。もっとも、その時、谷口兄は「あの木が邪魔だな」と思ったそうです。さて兄弟は、 三日目に不動産屋に行って物件を捜しました。紹介されて行ってみた家が、今、使っている家です。まさしく、豊田駅から五、六分。白いモルタル塗の二階建、下に駐車スペースがあり、なんとその横に五メートルほどの木が生えている。ただし家賃が十三万円。こうなったら自信をもって値下げ交渉をしますよね。もちろん、十二万円になりました。

 谷口兄は言います。「本当に主は生きておられます。『告白の力』という小冊子を本当に必要な時に送ってくださいまして、感謝します。」

              *

 このようなリバイバル新聞の新発足にあたっての貴重なエピソードをご紹介したわけですが、この新聞にはペンテコステ信仰の力強い証しや、諸先生方のメッセージ、世界各地からのグローバルな聖霊の働きのニュースが満載されています。みなさんの信仰の養育のため、どうぞご愛読ください。予約購読のお申込みをおすすめいたします。

 また、私の「告白の力」という小冊子のことですが、かつての「恵みの雨」誌の抜き取りコピーにすぎませんが、それを仮綴しました、この機会に少し増刷しましたので、他のパンフレットと併せてお読みください。ご存じよりの方々にもおすすめください。 

 

その2 

祈 り の 義 勇 軍     

 今、地球上において人類の道徳というものが追いつめられて、窒息状態に陥ろうとしている。この原稿を書いている今日は、一九九九年四月二十二日であるが、この両二日の新聞記事で、特に三つの事件が特に私の心を戦慄させた。 

 一、ユーゴースラビアのコソボで、男性十万人が行方不明だという。多分虐殺されたのであろうという。この人命軽視の恐るべき道徳意識の退廃を見よ。

 二、NATO軍がユーゴーを爆撃した弾頭に劣化ウランが使われているそうだ。劣化ウランは人に対して被害が少ないと、NATOは弁明する。しかし、こうして核兵器の怖さは無しくずしに不感症にされてしまおうとしている。

 三、アメリカの高校におけるヒトラー崇拝の二人の学生が、同じ高校の生徒たちを無差別銃撃し、十八人を死亡させたという。ここに私はヒトラーまがいの自己完結的な悪の哲学が、少数の若年の高校生たちに孤立的確信を与えていることの怖さを感じる。これはウイルスのように殖え広がる恐れがある。

 まさしく、ここには地上の人類道徳の危機が露呈している。夢想的な幼稚な対策だと笑われようが、私はここに提案する。この危機を防衛するため、祈りの義勇軍を結成すべきであると。

 これに参加する義勇兵はいませんか。決して、爆弾、自動小銃を持って戦う軍事行動のようなものではない。祈りの義勇兵である。

 義勇兵と言えば、今、コソボ人民を守るために多数の義勇兵が参加しているらしい。二十世紀前半、スペイン内乱のとき、多くの欧米の知識人たちが義勇兵となって参加したことがある。日本人には、そういう経験がなくて、なじめない行為だが、ボランティアの軍事行動である。

              *

 かつてフランク・ブックマンという牧師が道徳再武装運動(MRA)を提唱した。もともとはオックスフォードグループ運動という一種の聖霊運動だった。その、「もともとは……」という聖霊運動のほうが、今、私には現実的に見える。地上において、最終的、地球包囲的な武力や武器や暴力による弱者殺害の黙示録的状況が起ころうとしている。

 これらの非人間的行為の跋渉(ばしょう)を誰が止め得るか。人では駄目だ。聖霊の力がいる。

 聖霊様の力を招くには、祈りしかない。しかし、その祈りとは、並の祈りではない。火のような祈りである。火をもって答える神の力を招き寄せる祈りである。

 マタイ三・七〜一二には、終末的な審判の時の情景が簡潔に描かれている。「だれがこの神の怒りの時から逃れ得るか」とバプテスマのヨハネは言う。そのような事態に耐え得るのは、聖霊と火のバプテスマを受けた者しかない。ところで、火のバプテスマとはどんなことか。

 聖霊体験の特徴は、聖霊を受けると、そのことを事前に知識として聞いていなくても「これは聖霊様だ」と悟れる。実際に聖霊様を体験しなければ、いくら人から聞いても、本を読んで勉強しても分からない。しかし、体験しさえすれば、それは分かる。火のバプテスマもそうである。

 そうした火のバプテスマの体験者たるクリスチャンが総勢で祈る、祈りの義勇兵よ、集まれ。義勇軍を結成しよう。こうして地上の人類の道徳的壊滅状態を防衛しようではないか。
       (1999.4.25.木曜祈祷会にて)


1999/4/18 

行ないのない信仰は死んだ信仰?   

 「行ないのない信仰は、死んでいるのです」(ヤコブ2・26) このみ言葉は多くのクリスチャンを奮起させますが、また逆の意味で震えあがらせます。行ないが伴わなければ、せっかくの信仰も死んだものだとすれば、信仰を持ったことはまったく無意味だったのか。だれでも疑問に思うところです。

 そして、多くの方が、「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰による」というローマ三・二八をはじめ、ガラテヤ二・一六等によるルター特愛の「信仰のみ」の教えを基にして、このヤコブの手紙の言葉に疑問を呈するのです。しかし、私は今回、このヤコブの手紙の言葉の趣旨を、その言葉どおりに受けとめたいと思ったのです。それは「死ぬ」という言葉をヘブル語的に考えた時からです。

 私はけっして語学的に深くこの言葉を知っているわけではありません。ただ聖書を読んでみますと、ヘブル人が「死ぬ」という言葉を使う時、私たち日本人とは違う感覚で言っているように感じたからです。そこで聖書の原語、ヘブル語やギリシャ語の「死ぬ」という言葉を調べてみました。すると、両者とも、「死ぬ」という言葉は「無くなってしまうこと」を指してはいないというのです。「死」とは、人が神から離れ、活ける者としての価値を失っているということですが、しかしその人が死んでも、天国に行くにしろ、陰府や地獄にゆくにせよ、霊的生命は永遠である、というのです。

 ところが日本人にとっては、「死ぬ」ということは「すべてが無くなってしまう」ことです。(横道にそれますが、これが日本人に自殺の多い原因です。死んだのち何もかも無に帰するなら、人生は太く短く、悪行をかさねてでも結構、成功して贅沢して、楽しく生きて、早く死ぬが幸福です。第一コリント一五・三二参照)。

 ヘブル語やギリシャ語の「死」という言葉の意味に従えば、たとえ「行ないのない信仰は死んだ信仰である」としても、信仰が無くなってしまうというわけではない。このことを信仰に援用すれば、行ないのない信仰は生命力を失い、生きている間クリスチャンらしい所は少しもないにしても、死んで天国に行けば、そこでやはり永遠の生命は持続しているということです。だから、私はよく冗談っぽく言うのです、  「死んだら天国、生きている間は地獄」と。

              *

 これほど極端なクリスチャンは私たちの中にはいないにしても、しかし、パウロが言う「火の中をくぐってきた者のように救われる」(第一コリント三・一五参照)とか、「彼の肉が滅ぼされても、その霊は主のさばきの日に救われるように」(第一コリント五・五参照)と指摘されるようなクリスチャンはコリントの教会にはいたらしいのですね。

 最近、私どもの教会のNという姉妹の家で驚くべきことがおこりました。詳しいことは省きますが、この三年間、N姉が祈ってきた祈りが次々と答えられて、異教の勢力の強い大分県の山村部にあって、頑固なキリスト教反対だったN姉のお母さんが率先して一族の葬儀をキリスト教式にさせ、ついには仏壇をこわし、台所に祭ってあった偶像を取外し、山に行って焼いてしまったのです。

 こうしたことのあった、ある日、N姉が早く亡くなった父親の日記を発見しました。そうすると、そんな気配は微塵もなかった父親が早くよりイエス様を信じており、しかもその信仰を世間にも家族にもずっと隠しとおしていたことが分かりました。N姉はびっくりしました。この父親を恨めしくも思いましたが、又「お父さん、あなたが信仰を持っていてくれたからこそ、今の私たちのこの信仰一家が生まれたのですね」、そういう感謝も湧いたのです。

              *  

 文章の流れを一転させますが、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れよ」(マタイ九・七参照)というイエス様のお言葉があります。私はこのお言葉によってハッと気づいたのです。新しいぶどう酒とは「イエス様の福音」と言い替えてみましょうか。この福音を宿して生きるのは私たちの肉体と精神であります。その肉体と精神の生きる様式、規則、生活概念や意識、習慣、それらを皮袋という言葉でたとえられないしょうか。それはまさしく「律法」であります。こうした皮袋(律法)が古いまま、そのままであると、新しいぶどう酒(福音)を迎え入れようとする時、どうしてもギクシャクします。そこで、牧師や信仰の先輩は共々に祈り、そして世の力に負けないよう、聖霊様よる能力や実を頂けるよう努力するのです。そして又、様々に世間の中でクリスチャンとして生きて行くコツだの要領をアドバイスします。

 ところが、前述のN姉のお父さんは田舎に棲んで、一人教会を離れていたことでしょう。信仰的にも、霊的にも、必要な指導や賜物を受ける機会が無かったのに相違ありません。そして初信の信仰一片を抱いて天に召されたのでありましょう。

 私は想像します。天国には大きな学校のような所もあるのではなかろうかと。N姉のお父さんは元々純粋な魂の人であったでしょう。天国で豊かな教育と賜物をいただいて驚くべき成長を遂げておられるのではないでしょうか。そうして、今、地上にいる家族と、その地域の友人や住民たちのために執り成しの天使のごとき奉仕をしてくださっているのではないでしょうか。(クリスチャンが天使のような存在になる可能性についてはマタイ二二・三〇を参照)。

 人が「義と認められる」ためには行為は必要でありません。心の中の信仰だけで結構です(ローマ一〇・一〇参照)。しかし生き生きとした信仰に生きるためには行為が必要です。そうです、救いの完成を目指そうとすればパウロのように「自分のからだを打ちたたいてでも敬虔のために自己を訓練をする」(第一コリント九・二七、第一テモテ四・七参照)という意気込みになります。

 ところで、ぶどう酒と皮袋とは、どちらが重要でしょうか。あきらかです。大切なものはぶどう酒です。しかし皮袋がなければぶどう酒は保存できないのです。

  (リバイバル新聞に載せたものを多少訂正して)


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