キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

1999年8月

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1999/8/29

礼拝メッセージ(全文)    
1999/8/15天野弘昌牧師       

 今は朝の9時ですから、あなたがたの思っているようにこの 人たちは酔っているのではありません。これは、預言者ヨエルによって語られた事です。「神は言われる。・・・」(使徒の働き2:15〜21)

 皆さん、私たちは酒に酔っているのではありません。しかし、聖霊様によって「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」(使徒の働き2章の13節)という状態なのです。

 今日は8月15日この教会の終戦記念日です。「御霊で始められたものを、なぜ御霊によって仕上げないのですか。」と、主はずっと言われています。神様の宮であるこの教会は御霊によって始められましたので、御霊によって成し遂げられなければなりません。皆さんはこの先生方の為に祈らなければなりません。愛に満ち、皆さん方によく仕え、本当に主に仕えるようにやって来られた先生方、またさまざまなスタッフの方々を含めてこの教会はここまで主に守られ、祝福されてきました。しかし、皆さん。その時代が終わろうとしています。聖霊様がすべてを指導する時代です。今日の賛美の礼拝の中で聖霊様が指導されている、導かれた神へのプレイズandワ−シップをしたではないでしょうか。時間に制限があっては止めなければなりません。しかし、本来は神様はもっと私たちと交わりたい、もっと「わたし(神様)と喜びをともにして欲しい!」と願っておられます。今日初めて来た方には残念でしたけれど。(もう少し心を尽くした配慮のある礼拝をすべきでした。)しかし、今日、あなたは最高の日に来たのです。ハレルヤ・・・。(補足:神様は)長い間これを待ち望みました。その日に来たあなたは何と幸わせな人でしょうか。・・・愛する皆さん、この教会にはこれからこの聖書に書かれてある預言の事が起こり始めます。

 かつて油注ぎは祭司や王やあるいは預言者だけの受けるべき特権でした。しかし、今の終わりの時代はどうでしょうか。すべての造られた者に、神様を信じるクリスチャン−(注:聖書を指して)ここには息子、娘、青年、老人、はしためすべての者に油を注ぐとあるのです。高森先生は、いつもこのように(注:笑って笑って口が聞けなくなる状態をして)礼拝を捧げておられますか?(笑い)

 フィリピンにある教会の話です。牧師はデッビッド・サムロード先生でフィリピンのマニラで礼拝している素晴らしい器です。彼はこのような体験をしました。そして毎週の礼拝のたびごとに講壇に上ろうとすると先程の高森先生のようになりました。毎週です。それに、神学的にもきちっと学び準備したメッセ−ジを私のように用意して講壇に立つのですが、聖霊様が先程の姉妹のように(注:証しのために前に立ったけれど、何度試みても「主はすばらしいことをしてくださいました。」ということしか言えなかった姉妹のことを指す。)、それを語らせてくれないのです。そして、講壇に立つごとに笑いころげて、足をバタバタさせながら講壇をはいずり回り、時には動物のような鳴き声をあげ(ワァォ−)、すると会衆は変に思うどころか真面目にメッセ−ジするより喜ばれて−その先生のパフォ−マンスを見て喜ぶのではなくて、その先生をそうされた聖霊様を喜んだのです。その教会は1年の内にみるみる成長して1万人になりました。

 皆さん、聖霊様が働かれると私たちの今までの習慣や形式−今まで培われてきた信仰の礎はしっかりしていますけれども、−が取り除かれてきます。かつて、なぜデビット先生がそうなったのかを聞きました。かれはロドニ−・ハワ−ド・ブラウン牧師に祈ってもらったのです。それから、取り扱いが始まりました。今、世界でリバイバルを起こしている人物たちは同じ体験をしています。それを決してひけらかしたり、それを公表しない先生がたもいます。

 シンガポ−ルにはシティ−・ハ−ベスト・チャ−チというのがあります。牧師はコン・ヒー、まだ30代です。しかし、その教会は爆発的に成長しています。その理由は、さっきの高森先生のようになったからです。(笑い)

 彼は極東地区のロドニ−のサムロ−ド先生と一緒にチ−ムでその責任を持っています。彼の教会もそのようなリニュア−ル的な素晴らしい体験をしました。多くの人達が傷ついていました。病んでいました。教会に来ながら喜びがない。苦しみと悲しみばっかり・・・・・。皆さんそんな状態でかろうじて天国に行ってもあなたはカルチャ−ショックになります。黙示録の中に天国は悲しみがない。悩みがない。あまり教会で悲しんだり、悩んだりしていると天国に行った時、カルチャ−ショックを受けます。その時、悲しみや悩みに戻ろうとしても、もう帰ることはできないのですよ。(笑い)いや永遠にそこから帰ることはできないのです。今このような働きは神の国の一つのひな型に過ぎません。もっと爆発するんです。

 私の家内も最初は冷ややかでした。大学もしっかり出た教育者でした。私がロドニ−の集会の《追っかけ》から帰るたびにまるでダビデの妻のように私を見ました。しかし、この教会の牧師夫人は何と幸いでしょうか。先生があんなになったのに、(注:口が聞けなくなったこと)喜んで飛び上がっています。 皆さん、私は家内が不一致をもたらすと思ってロドニ−の集会に連れていきました。オ−ストラリヤのシドニ−にCCCという教会があります。クリスチャン・チャ−チ・センタ−という教会。そこにプリングルという牧師がいます。その先生もその体験をして爆発的に成長していました。そして、ロドニ−をそこに呼びました。家内は最初すごい目でみんなを見ていました。あちらこちらで笑ったり、踊ったり、ひどい人になると走っていました。ウワァ−ッと、ほとんど動物園状態でした。妻は生まれつきクリスチャンホ−ムに育ちました。それとミッションスク−ルを出ていますから、「これはキリスト教ではない、聖書と違う!」という目で私をにらみつけていました。

 家内は、集会の中であちらこちらで取り扱いを受ける人達を変な目で見ていました。ところが、その時に自分の長椅子の下にものすごく大きな、190pぐらいの男の人が倒れていて、その椅子の下からウワァ−と叫んでいるのを何だろうと覗いたところ、その人と目と目があったんです。その瞬間に家内はウワァ−・ウワァ−と飛び上がるは・・・、騒ぐは・・・。

 その集会の最後に彼女は日本人ツワァ−として来たのに帰ることができないのです。私が彼女を背負うようにして連れて行こうとすると、彼女は私をわしづかみにして、「聖霊様のいる場所から離れてはいけな〜い!」と叫ぶのです。私の方が冷めてきました。そうしてバスに乗り込ませようとするのですが、無理。でもバスは出てしまうので、他の牧師先生方と一緒になって4人でバスに乗り込ませようとすると、今度はバスのタラップのところで、まるで子供のように足をバタバタバタさせて、「いやだ−。」と叫ぶのです。彼女の知的インテリジェンスや教育的賜物はどこかに行ってしまったと思えるぐらいで、まるで《だだっこ》のようでした。

 その経験の後、家内は変わりました。預言をするは・・・、若い青年の女の子たちを弟子訓練して・・・。今、彼女を通して弟子訓練された人達がどんどん献身して神学校に入っています。ハレルヤ!

 聖霊様の扱いや働きは私の理解を超えます。私の想像した通りにはなりません。英国のある有名な司祭がその集会に参加しておりました。私に中華料理をごちそうするから来い、と言いました。詰め襟の、カソリックか公聖会のような服装をしていました。彼は言いました。「今まで私の信仰生活は、真面目に忠実にやったけれども、集う人びとにいのちを与えることはひとつもできなかった。」と。彼らの礼拝はこのようなものでした。「アナタガタハ−、神ノ御加護ニアッテ−、祝福ガ−アルヨウニ−。ア−メン、ア−メン。」と。毎週やっていました。その結果、ほとんどの教会員たちは堕落し、教会の生活と自分の生活が分離して行き、罪に打ち勝つ力がない。ほとんどがのんだくれになり、ほとんどが異性の問題を起こし、彼らは神様から完全に離れて行ったのです。

 ところが、その先生はロドニ−の話を聞いて行きました。彼はやはり聖霊様に打たれて、今までの習慣的な、儀礼的なあるいは律法主義的な、何かそのような霊的なものが悲鳴とともに出て行き、全部出て行った後、彼の内側から満たしが来て、喜びが来て、自分のやっていたことは聖書から外れていた、聖書的ではなかったと悟り、それから彼の教会はカリスマ・カソリックとして、今1万2千人の教会を牧会しています。

 そのように聖霊様に触れられると、どんどんと教会が変えられリバイバルしてきます。この教会もそのようになると信じますか。ア−メン。触れられましょう。飢え渇いて・・・・。今日から始まりました。先生がお祈りし、先生が按手するたびにみんなはどうなるのか・・・(笑い)。まず先生のためにお祈りしましょう。この先生方の為に背後で執り成してください。本当に油注ぎが今だけのものではない、ずうっと続いてリバイバルのために用いられるように。

 特にこの教会は−預言的に言います。この教会はこの九州をリ−ドし、霊界を動かす、すごい教会になります。そして、この先生方はみんなから馬鹿にされたり、中傷されたりするけれども、皆さんはそれを守らなければなりません。そして、時々牧師にやってくる、《冷静になろう》とする思いから、常に解放されるように執り成してください。牧師先生、奥様、また家族が恵まれていますとみんなが恵まれます。先生の所に天から素晴らしい聖霊様がもっともっともっと下って内側から根本的に、あのキル・パトリックやスティ−ブンヒルが聖霊様にキルされ(殺され)たように。そのようにしてかのブロンズビルがリバイバルしました。牧師先生も人間ですから、自分の肉に死ぬために、そして御霊によって生きるためにお祈りしましょう。天の窓を開き、この高森ご夫妻の上に神のみ栄えを現わすべくものすごい聖霊様の息が直接触れられますように。息に向かって預言せよ。息よ四方から吹いて来い。 (完)

 


 

1999/8/22

 君が代、日の丸、人間天皇      

 先般、国会において「国歌、国旗法案」が通過しましたが、これは遺憾なことです。もともと国歌とか国旗というものはヨーロッパ人の習慣です。日本人の習慣になったのは明治以来のことです。ヨーロッパ人ほど厳粛に尊敬をもってこれを扱う習慣は日本人にはありません。それを無理に法制化するのは、別個の意図があるからでしょう。

 自分の国の君主を尊敬し、また「永遠に生きられますように」と歌うことは当然のことです。イギリス国歌も歌います。「神よ、女王を助けたまえ」と。旧約聖書ではダニエルがダリヨス王に呼びかけています。
「王様。永遠に生きられますように」(ダニエル6・21)と。

 さて、国旗の日の丸のことですが、単純明快、日本人の気質にあってよいデザインだと思います。かつての中国の晴天白日旗と比べると、国民性の違いが分かります。日本人はとうていあの青地に白い太陽の旗は耐えられないでしょう。国旗掲揚は運動会気分でやる分には何の遠慮もいりません。しかし、かつて戦時中の日本軍が残酷な爪跡を残した極東や東南アジアでは、これを気遣って遠慮するのは、これまた当然です。

              *

 ところで、クリスチャンとして考えたいのは天皇神聖観の問題です。さきほど、チョー・ヨンギ先生が「日本人が人を『天皇』と呼ぶことを神が非常に怒られている」と語られたそうです。韓国の方ならではの指摘でした。私も実は頭をなぐられたような気がしました。「チョー先生、そんなことを言ったって、少々無理です。日本人は承知しませんよ」と心でつぶやいたものです。しかし、ともあれ、これは日本キリスト教界の誠実に応答すべき問題です。黙って知らぬ顔をしておれる問題ではありません。

 ネブカデネザルはダニエルの神を「私は天の王を賛美します」(ダニエル4・37)とたたえました。「天の王」は、創造主なる神様だけです。このことをネブカデネザルは率直に告白しているのです。

 「我のほか何物も神とすべからず」との十戒の言葉を思い出せば、結論は簡単です。日本のスメラミコト(天皇の古代の呼び名)は世を「すべおさめるかた」ということです。これに昔の日本人が漢語をあてはめて「天の皇帝」と格好をつけたにすぎません。

 実は、かつて天皇を「現御神」(あらひとがみ、生きている神様)と呼んだことがあります。これは天皇ご本人にも重荷であったに違いありません。似た観点に地方の神社の統領としての天皇という見方もあります。それはつまり地域霊の集合体のヒエラルキーとしの霊的天皇制です。これが一番日本ににおける災いの原因です。それに比べれば、かつての政治的行政的天皇制はそれほど問題にすることはないと思います。

 ともあれ、1946年の年頭の詔勅で昭和天皇は、「神話と伝説による『現御神』説を否定し『人間天皇』を宣言」されました。その詔勅の中で又、こうも言っています、「私と国民との間の紐帯は相互の信頼と敬愛とによって結ばれ……、云々」。こういう麗しい意味での天皇制こそ、日本のジイチャン、バアチャンの懐古する善き天皇制です。

 最近、調べて見ると、分かったことがあります。実は、天皇については、古来「人皇」(にんのう)という呼び方があったということです。広辞苑を見ると、この「人皇」というのは「神代と区別して、神武天皇以後の天皇をいう語」とあります。昔から天皇は神様ではないのです。ちなみに天皇という称号がはっきり法制化したの明治憲法からでした。 

 

 「嬉 し い 一 句」

○… 手束先生の「ヨシュア記の如く生きん」という本は本当によい。私の偽らない感想をこの週報の前号に載せました。ところでキリスト新聞にも書評を依頼されたので、前記の私の感想に加えて、少々堅い文章を書きましたが、その中の一部を以下に紹介します。
○… 「ヨシュア戦記」というコンピューター・ゲームがあったらどうだろう。ヨシュア記を脚本にして、そこに現代の日本の風土や我々日本の教会・牧師、信徒の画像をはめこみ、日本の勝利的福音化のシュミレーションを試みてみたらどうだろう。実は、手束先生はそれをこの説教集の上でやっていると、私には思えた。
○… 私は、ここ一年ほどかけて、この「ヨシュアの如く生きん」という本をテキストにして読書会をしようかと思っている。希望者はお申し出ください。夜の部と昼の部と分けてもいいと思っている。コーヒーでも飲みながら気軽にやりたいのですな。
○… 8月12日から14日までの青島聖会、すばらしい聖会でした。宮崎教会の先生方、諸兄姉には大変お世話になった。ところで、講師の天野先生には驚いた。年が若い。あかしが凄い、面白い。ぜひ、先生のメッセージを聞いてください。(宮崎教会でテープを安くサービスしてくださった。1本500円、4本一組で2000円)。テープが牧師館に届いたその日に顔を見せた人に、早速3本押し売りしたくらいです。
○… 天野先生のメッセージは手束先生のメッセージと違い、多分文章になおしたら真価が出ない。パフォーマンスがスマートで面白いのでビデオが一番いいのだけれど、残念です。仕方ない、テープで聞いてください。死人がよみがえり、大きな切り傷がスーッとくっつくとか、何もしないのに歯に金冠がかぶさる、エンジンのない自動車が走った。そんなすごい奇蹟の話、いよいよ、世界が最終リバイバルのステージになった証拠でしょうか。我々もこのステージに上がりましょう。
○… トルコの地震報道には仰天。先年の阪神大震災を思い出す。こうした災害をどうして神様は地にもたらすのか。下段に大分の地元の新聞、大分合同新聞の東西南北というコラムから転載した。(省略)「大災害があれば、日本の若者が飛んでくる。そんな評価が国際的に広まれば嬉しいではないか」
○… この短い一句に私は心から共感した。日本が自信をもって世界に売り出せるもの、自動車だろうか、電子機器だろうか、評判の工作機械だろか。それもいいだろうが、それ以上に若者でも老人でもいい、すばらしい人間を送り出したい。どこに行っても世界中すばらしい日本人がいて、いいことをしているという評判。そうなると、日本は世界の工場である必要はない。日本は世界のカントリーになる。世界中の人が日本に心を休めるためにくる。お互いに平和条約があっても、無くても、大丈夫。日本はだれも攻めてこれない国になる。赤トンボがいつも舞っている国になる。

 


 

1999/8/15

王の憂いを解き放つ預言者     

 HEATSという祈祷会は吉田教師が担当しています。もともと私の妻の肺がんが発見された時、その癒しのために設けられた祈祷会でした。 HEATSというのは「天と地を震い動かす祈り会」という意味だったかと思います。この祈祷会が最近、特に面白い。面白いと言うのは、語弊がありますが、メッセージに吉田教師の特徴が出てきました。吉田教師の習慣で、良いレジュメ(要旨概要)を作ってくれています。

 さて今、ダニエル書をやっています。「今度、ダニエル書をやります」と聞いた時、正直言って最初、私は不安でした。説教者にとってダニエル書は鬼門です。彼は難しいテキストを選びすぎたのではないか、心配しました。

 ところが、実際にダニエル書が始められると、吉田教師の意図が次第に鮮明になってきました。それは私が日ごろ言っている所の、その先を行くものでした。私がかねて言おうとして、まだ言っていなかったことを、メッセージし始めたのです。

              *

 ダニエルはイスラエルから当時の大国バビロン帝国に連れて来られた一介の捕虜です。その彼が紆余曲折があって、とにかくその国の王様ネブカドネザルの夢を解くことになります。歴史家に言わせれば、ネブカドネザルは古代国家のなかでも、文字通りの専制君主の最後の王です。彼はそのような王らしい夢を見ました。彼は国と前途を思って憂慮しましたが、だれも解くことができません。

 これは創世記に出てくるエジプトの王パロに似ています。彼も、その国の前途を暗示するような夢を見たのです。彼は心配でたまりませんでした。その憂慮を解いたのが「夢見る人」ヨセフでした。

 ダニエルはネブカドネザルにとってヨセフの役割を演じました。バビロンのネブカドネザルも、エジプトのパロも異教の王様です。絶対君主です。しかし、彼らは愚かな王ではなく、国民のため誠実で、賢明な王であったと言えます。国と国民のため真剣に気遣いしているのでした。 ですから彼らは、一夜見たその夢を尋常な夢ではないこと、国家か、自分の王家か、国民に大きな影響のある夢であることを察知したのでしょう。彼らの顔色は変わったのです。その不安を解く力は、全知全能の創造主なる神に愛されれる神の人にしかありませんでした。

 今、世界において、特にわが愛する日本において、この国を愛して、だれよりも、この国の前途を思い、夢をいだき、憂慮をされて居られる方、その方は私は天皇様だと思う。また総理大臣かも知れないが。しかし、天皇様にまさるそういう方はいないはずだと思う。天皇は日本国の象徴だという。憲法ではそうだろうけれど、ご当人の天皇様にとっては、それ以上のご自覚がおありだろう。この方の心に潜む、憂慮、この国に対する夢、責任感、そうした思いに対してヨセフやダニエルのように、あたまも国父のごとく、夢を解き、提言し、忠告をなし得る現代の預言者はいないだろうか、と私は案じる。

 一体に、新約の時代になって、旧約の時代に輩出した預言者たち、イザヤ、エレミヤ、あるいはエリヤ、エリシャ、あるいは前述のヨセフ、ダニエルのような大型も預言者が出ないのはなぜだろうと、私はいつも疑問に思う。現代、世界と国家と王や大統領、政府や国際連合等に向かって、訴求し、断罪し、あるいは慰謝、示唆、激励、提言、指導する預言者は出ないのだろうか。彼らの不安、恐怖を一掃できる預言者が。 

 

読書の快味        

 私は少年時代から本好きであった。本好きというより活字中毒だったと言えよう。本が無ければ、広告の文字でも読んだ。頭が痛い時にも本を読めば治る。

 それかと言って、頭が良かったのではない。難しい本は読めなかった。ドンキホーテなど、その最たるもの、マンガで知っていたあの有名な物語だが、青年期になって世界文学全集のドンキホーテを開いてみたら、一向に面白くなかった。

 似た例では、夏目漱石がある。「坊ちゃん」が面白かったので、もう一つの愉快な題名に誘われて「我が輩は猫である」を読もうとしたら、少しも面白くない。がっかりした。まして、「明暗」など、さっぱり。カントの哲学書など尚更の事である。

 ところで、私という人間の面白さは、そのドンキホーテや「我が輩は猫である」が読めなかったことが、少しも劣等感にならない。いつか読める時がくるよ、とノホホンとしている所がある。これは何の勉強でも、練習でも必要な鷹揚さであろう。

 こんなことを書きはじめたのは何も私の自慢をするためではない。ただ、最近、みなさんの読書意欲が落ちているように思うので、もっと気軽に本を読んでほしいと思ったからである。

 多くの人の読書嫌いは、読みながら「分かろう、分かろう」と力んでいるからではなかろうかと思う。学校時代の「読書感想文」などの宿題の弊害が残っているのではないかと思うが、如何。「読書感想文」の課題を気にしながら、本を読むぐらい無粋なことはないと思うのだが。

 分かろうと分かるまいと、そんなことを気にしないで、読める分だけ読んで、分からなかったら、いつか分かる時が来るだろうと、書棚にツンドクのが良い。

 それに、表紙でも何でも気に入ったら片っ端から読むことである。乱読がよい。マンガでも良い。マンガを読むことに罪悪感を持たないことだ。日本のマンガは世界一である。ただし、たいていのマンガは保存する必要はない。捨てなさい。尤も、捨てがたいマンガがあったら私に教えてください。 

 

この本を読もう       

 ぜひ皆さんに読んでほしい本を紹介します。それは「ヨシュアの如く生きん」という本です。マルコーシュ・パブリケーション発行(1700円+税)教会に置いてあります。抜群の説教集です。旧約聖書「ヨシュア記」の連続説教を文章にしたものですが、読ませます。三国志や徳川家康などを例話にして、面白い。人情が日本人にぴったりの文章です。著者はだれあろう、高砂教会の手束正昭先生。先生がこんな文章を書こうとは私には想像も出来ませんでした。

 しかし決して面白いというだけではない。なんといっても先生は学者である。ただ、並の学者ではない。むつかしいことを分かりやすく書いてくれる。

 割礼のことは講壇からしゃべりにくくて困る題材の一つであるが、この一件の先生の説明に私はびっくりした。初めて聞いた説であった。こういう滅多に聞けない説明が沢山ある。

 ヨシュア記では必ず出て来る、敵を皆殺しにする「聖絶」という凄惨な記事。どうして愛なる神様がこんなことをイスラエルに命じるのか。不思議である。又、

 なぜ、神様がアベルの献げ物を喜ばれ、カインの献げものを斥けられたのか。だれもが不思議に思う。この神のなさることの不条理さ、これに光をあてる先生の筆致は鋭い。

 先生の会堂建築でご苦労なさった話は知っていた。しかし、それが如何に困難で、挫折が多かったか、初めて知った。そうした難関を乗り越えられた理由に、先生の生来の能力、気質、鍛錬、頭脳、胆力、そんなものを上げるのなら私たちに少しも参考にならない。

 そうではなく、先生の日毎にイエス様の血潮を仰ぐ秘訣や、また祈って確実にレーマ(神から特別に賜る言葉)を頂いて、疑うことなく不動の姿勢でいたということを読んで感動した。だからどんな困難な時にも明るくしておられる先生を見て、信徒の皆さんは絶対の信頼を寄せていたという。

 その他、紹介したい記事が山ほどありますが、割愛する。第一級の説教集です。内容もよいが、文章も名文。繰り返し読むと信仰の養育に大いに益するでしょう。 


 

1999/8/8

シンボルマークで         
    福音の浸透戦略        

 最近、大分市で判じもののような絵図が街のあちこちに貼り付けられたり、並木に吊り下げられたりしています。六月の初めころかららしいのですが、しだいに教会の信徒諸兄姉の話題になってきました。私も見ましたが確かにヘンです。

 その図柄はこういう図です(省略)。周りに、私たちのよく知っているダビデの紋章(現代のイスラエルの国章のデザインですが)、その紋章が青色で手書きで描かれています。それに囲まれて赤い丸、ちょうど日本の日の丸のような赤い丸があり、その真中を縦に電光のような筋が白線ではいっています。あたかも日の丸が真二つに裂けているように見えます。大きさは普通の西洋紙(B4)の大きさです。

 このようなシンボルマークらしい絵図が最近、市内によく見られるのです。電柱や、歩道橋の橋脚などに貼ってあり、また私は聖公会やバプテスト教会の前の並木に段ボール紙に貼って吊るしてあるのを見ました。

              *

 私は最初はニューエイジ流の思想や主張を持っている団体のアッピールだろうかと思いました。七月になると、ははあ、ノストラダムスの関係だったかな、とも思いました。またダビデの紋章と日の丸のような図形をみると、反ユダヤ団体が「ユダヤ勢力の陰謀によって日本が滅ぼされようとしている」と言うようなアッピールではないかとも思いました。 このような野外掲示絵図について、多少あちらこちらに問い合わせましたが、大分市以外からはそんなものは見当らないとの返事でしたが、最近、関西方面でもボツボツこのデザインを見ることがあるという噂を聞きました。

 今のところ、最も興味をひくのはその匿名性です。この記号というか、マークだけがしだいに増殖しながら、大分市を埋め尽くしてゆくのかと、どこか不安を感じさせるものがあります。

              *

 匿名性の標識物では、だれもが一番気がつくのは「世界人類が平和でありますように」、この出所は私は知っていますが、ある宗教団体です。又もう一つは東北地方でよく見受ける聖書の言葉を黄色の下地に黒色で書いたブリキ板です。これは当然キリスト教団体がやっているのだろうと見当はつきますが、その施行者の名は書いてありません。相当、厳しい警告が多いのが特徴です。このごろは関東地方でも時々見受けます。

 ところで今回、大分での表示物の特徴は、文字がなく、何を訴えているのか、それもはっきりしません。各自の想像にまかせています。それが何となく不気味です。一般の人に聞いてみると、デザインそのものからも、だれも不安を感じると言います。

 注意をひくのは、その絵図が印刷されたものでなくて一枚一枚手書きで描かれています。しかし型取りにはしっかりした下図があるようです。この絵をプラカードにしたり、ゼッケン風に体の前後にさげて街の中を歩いていたのを見た人もあります。最初のころは覆面姿でした。背後に一種のカルト集団がいるのではないかと思っても当然だと思います。

              *

 こうした図面を何度か目にすると、異常に印象に残るのは個人差はあるにしても、だれにも起こることです。この事を思って、私はこれは大変だと思いました。大衆の潜在意識をトータルに洗脳するのには、もってこいの技術だと思いました。

 かつてのナチスのハーケンクロイツ(鍵十字)の重みのある黒色のマークは、まさにその威力を持っていたと思います。ある思想集団が国民の潜在意識をゆっくりと浸透させ、そして確実に洗脳しようとしたら、その前段階として。これは実にうまい方法だと思います。

 ある時期が来た時、このマークに伴う文字的メッセージを加えてゆけば、大衆の意識を一挙に変化させるだろうと思うのです。

 もし悪魔がある団体をそそのかして、これをさせているとすれば、戦慄すべきことです。この背後に反キリストの勢力を感ぜざるを得ないではありませんか。

 もしそうだとすれば、どうすればこれに対抗できるでしょうか。まず第一に、これに気づいた私たちが、一枚一枚これをはぎ取る運動を起こしましょうか。(公衆電話などのピンクチラシなどには、この手段がよいと思います)。

 また、この絵図の背後にある悪霊集団を排除攻撃することも必要な手段だと考えます。しかし、「悪霊、悪霊」と派手に言い立てるのは、理解の無い人々には却って恐怖心を呼び起こす逆効果も考えられます。心ある者たちだけで内密の祈りのうちに悪霊払いしようかと思っています。 私の思うのに、一番効果的な方法は私たちもデザインで対抗するのが良いと思うのですが、いかがでしょうか。

 かつて初代教会の時、自分たちがクリスチャンであることを証しするのに、魚の絵を用いました。今回は、目的は違いますが、あの魚の絵のようなシンプルな絵があるとよいなあと思います。

 これは一教会や一教団、一教派の宣伝ではありません。キリスト教全体のための宣伝です。しかも脳裏に浸透させ、定着させるのです。

 ここまで、考えると分かりますが、十字架のデザインそのものがすぐれたキリスト教のシンボリック・イメージだったと思います。しかし、今の段階では、直ちにはキリスト教とは分からない、匿名性のデザインがよいと思うのです。

 今、この状況下にあっては、もっと暖かい印象深い画期的なデザインが生まれないものでしょうか。前記の「ダビデ紋章と裂けた日の丸」の解釈は単なる杞憂であり、その対抗方法としてもナンセンスな愚策であるとしても、キリスト教を暗示する新しいシンボルマークを考えることは無意味ではないと思います。クリスチャン・デザイナーに呼びかけたいことであります。これは、一般大衆にむけての大リバイバル前の印象工作として、考えるべき価値はないでしょうか。

 下記の絵図(省略)は拡大宣教学院の機関紙にこの原稿を掲載したさい、参考デザインとして学院の蟹田伝道師が既成のコンピューター・ソフトから引き出したものです。ノアの洪水の物語を思い出させる格好のデザインだと思いました。こういう絵図を、あちこちの電柱などに貼ってゆこうというわけです。ただし、無断で貼ると、たいてい県か市の条例に反すると思いますので、その心構えはいります。

 ともあれ、これは大衆むけ広大な心理的宣伝作戦として有効な予備戦略ではないでしょうか。

(拡大宣教学院機関誌「マグニファイ」1999年8月号に掲載、またリバイバル新聞1999.8.1.号に関連記事あり)

 


 

1999/8/1(テレホン聖書より2題)

@「幸福の宅配便」       

 キリスト教とは「幸福の宅配便」です。

 玄関のベルが鳴って「こんちわァ、クロネコヤマトでーす」と声がしたらたいてい、「はーい」とニコニコ、いそいそと玄関にゆく。「嫌だよッ」と言って受け取らない人は少ないでしょう。

 このように、「幸福の宅配便」を受け取るのが「信仰」です。むつかしいことは無い。ここで、「幸福の宅配便」を断わる手はない。ただ、貰えばよいのである。

 「あなたはなぜ信仰をするんですか」と問われたら、私は「ハイ、信仰すると得をするからです」と答えたい。

 時には信仰のおかげで損をすることもある。いや、命さえ捨てる事もあろう。しかし、信仰のお陰で永遠の命を得るのだから、やはり信仰するほうが得である。

 まして、この人生で、いつも愉快にしておれる。自信に満ちている。思うように生きられる。失敗しても簡単に立ち直れる。罪を犯しても直ちに赦される道を知っている。

 病気になっても心配しない、自分で祈って病気を癒していただく道を知っているし、またたとえ癒されなくても感謝、死んでも感謝なのである。常に私の神であるイエス様が共に居てくださり、また天国へ連れて行って下さるからである。

 人からののしられ、叩かれ、財産を奪われても、その人を憎まず、怒らず、却って喜ぶことが出来る。イエス様はそんな場合、「踊り上がって喜び喜べ、大喜びしなさい」と言われた。私がそこまで出来るかどうか、少々自信がないが、しかしイエス様のご命令は又、約束だと知っているので、いつか必ず私はそういう人間になれるだろうと信じて喜んでいる。

 こうやって、信仰を持って生きていると、どう考えても信仰がないよりは、信仰を持って生きたほうが得である。

 「得をする」という言葉は、あまり品の良い言葉ではないが、この言葉を使ったほうが、よくわかる。滝元明先生が、キリスト教のご利益は世界第一というようなことをいう。それと同じだ。

 そうです。キリスト教にはご利益がある。永遠の命が貰える。元気が出る。病気が直る。家族が救われる。善い品性に生まれ変わる。確信に満ちた生きざま。落ち込んでもすぐ立ち直る。大胆になる。世間を恥ずかしがらない。新しいことを始めるのに平気である。忍耐心がある。くじけない。だから、常に幸福である。キリスト教は「幸福の宅配便」だから。

 先週の日曜日、ある方が私の短い奨めを聞いて、幼子のように「ハイ、イエス様を受入れます」と祈った。これは神様からの宅配便、イエス様という「幸福の宅配便」を貰ったということです。代金引換えではない。前金でもなかった。ただ、貰っただけ。これが本当に得する道、ご利益第一の道です。さあ、心で納得したら、口で言ってください。「ハイ、イエス様を信じます」と。あなたは「幸福の宅配便」を今、受けとった訳です。

 聖書の言葉、「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからです」(ローマ10・10)
             (1999.7.26.「テレホン聖書」)

 

A運転手はだれだ       

 「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、私ではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである。」
                (ガラテヤ2・19、20)

 自動車の運転手席のとなりを、なぜ助手席というのか、知っていますか。むかし、自動車が少なかった頃、走っている自動車はたいていタクシーか、営業用のトラックか、そうでなければお金持ちの自家用車か、会社やお役所のトップの人たちを乗せる専用車でした。とにかく、運転手はたいてい雇われた人たちです。

 当時、自動車運転学校などという気のきいたものはありません。みんな、上記の運転手さんたちの下働きをしながら、運転を覚えたものです。たとえば荷物の上げ降ろしや、車体の掃除、時には運転手さんの私用もしたのです。それが助手さんです。その助手さんが座るところが助手席です。(ですから、むかしは、いや最近まで、お客さんの上席は運転者の後ろの席でした。助手席は最下等。ところが、この頃は親しい元気のいいお客さんでしたら、助手席に案内することが多くなりました。助手席のほうが景色がよく見えるし、運転者とも会話しやすいからでしょうね。)

 さて、前記の昔の助手さんのことですが、彼は多分ほとんど給料らしいものは貰えなかったでしょう。あるいは運転手のポケットから小遣い程度のものをもらっていたかも知れません。

 そして、もちろん無免許運転なのですが、お巡りさんがいないような、道の良いところにくると、「おい、お前、代われ」と言って運転を助手にまかせるのです。そのようにして助手はしだいに運転を覚えます。道の難しいところに来ると、「おい、俺がやろう」と正規の運転手がハンドルをとるわけです。

              *

 私がイエス様を信じ、イエス様を私の心に迎える時、私というボロ車の助手席にイエス様が座ってくださるのです。

 イエス様はご自身が地上を去って天に帰ったならば、そこから私たちに「助け主を送る」と、約束されました(ヨハネ15・26、同16・7参照)。その助け主とは真理の御霊のことです。この御霊様が私たちに宿ってくださるということは、イエス様が私たちのうちに宿ってくださるということと同じことです。

 ここから、神学でもなく、教理でもなく、私の実感なのですが、イエス様が私というボロ自動車に乗り込んで、助手席に座って下さるのです。私はチラチラ横目で主を見ながら運転していますが、難路がやって来ると、「さあ、私に運転をまかせなさい」とイエス様が言われるのです。「ハイ」と人生の車のハンドルをイエス様におゆだねします。その時、味わう自由感、自在感、そして喜びを体験している人は、多いかと思います。しかし、又いつの間にか、ハンドルをイエス様から奪い返して、自力でがんばっているというのも、多くのクリスチャンの実態ではないでしょうか。

 でも、その内にまったくイエス様と一体となって運転しているという日が早く来ると良いですね。
             (1999.7.27.テレホン聖書)


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