キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

1999年11月

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1999/11/28

千年王国が近づいている?     

 あなたはイエス様が再びこの地上に来られる再臨ということを信じますか。そして主のご再臨の後に、イエス様が治められる地上の至福千年、あるいは千年王国といいますが、その千年王国を信じますか。

 その千年王国では、ご再臨の時、生き返ったクリスチャンや、その時生きていてイエス様をお迎えしたクリスチャンたちがイエス様と一緒に地の諸国民を審き、また治めると言います。その時、滅亡の運命にいた天と地も解放され、神様との和解を得るのでしょうか(ローマ8:21、コロサイ1:20参照)。天国のような時代が来るのですね。

 その時、サタンは底なき所に閉じ込められています。そして、それから千年の後、サタンは一度解放され、ふたたび軍勢を集めて天使たちと戦おうとしますが、今度はサタン軍は完全に滅ぼされ、そして古き天地は消え去り、新しき天地、つまり完全な天国がくるのです。

 この主のご再臨と千年王国や天国、サタンの滅亡等のことは、先生方の間でも、説はまちまちです。しかし、私は素朴に聖書を読んで、しろうとらしく解釈します。

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 ミレニアムという言葉が新聞や雑誌などで散見され始めました。千年紀のことです、新しい千年がくるという何か希望と心配とごちゃまぜにしたような語感がします。そしてこの言葉は、もともとキリスト教の千年王国をさすのです。

 今、社会ではY2Kのことが問題になっています。これはコンピューターの2000年問題です。何か起るかもしれないという不安を企業や一般市民にも抱かせています。私などは、旅行を見合わせることや、貯金残高を通帳にしっかり印字して貰っておくことくらいしか用心の仕方を知りません。元旦早々、電気がとまり水道がとまるくらいのことは覚悟しておいた方がよいでしょう。食糧を1、2ヶ月分貯めておけという説もあります。

 しかし2000年を迎えて、私たちがもっと本気に意識したいのは、イエス様のご再臨のこと、また千年王国の問題です。しかるに、このことがキリスト教界の新聞雑誌にも、さして記事が上がってこない、なぜでしょうか。

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 千年王国というテーマは扱いにくい問題らしいですね。アウグスチヌスは千年王国を非常に象徴的に考えたらしい。それが長い間ヨーロッパの神学界を支配したという。

 しかし、素直に聖書を読むと簡単です。まず再臨のことですが、主は空中に雲に乗って来られる。先に死んでいたクリスチャンたちが甦ってイエス様のもとに集まる。次に、生きていているクリスチャンたちが天に携挙される、などです(第一テサロニケ4:16〜18参照)。

 千年王国のことはヨハネの黙示録第20章1〜6に僅かに書かれていますが、なおルカ福音書19:17、19を読むと、千年王国下の行政のモデルの一つでしょうか、イエス様がおっしゃって居られる記事がある。主の良き僕たちが、その王国でそれぞれ5つの町、10の町の町長さんになるだろうと言うのです。

 千年王国とイエス様のご再臨との関係はくわしくは分かりませんし、また大艱難期がこの千年王国の前に来るのか、また後か、聖書学者や神学者の間で説が分かれますが、大事なことは千年王国はもうすぐ来るということです。

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 現代の一般天文学によらず、聖書の年代記を素直に読むと、大ざっぱに言ってアダムからアブラハムまで2千年、アブラハムからイエス様まで2千年、そしてイエス様から現代まで2千年、合わせて6千年です。第二ペテロ3:8により「一日は千年、千年は一日」として換算すると、6千年は6日になります。
 十戒にあるとおり、6日働いて7日目は休む。聖なる安息日です。これを一日を千年と計算すると、今度やってくる千年は6千年目のあとの千年ですから、これは安息千年と呼んで良いのではなかろうか。これこそ千年王国です。

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 さて、今はまさに世紀末です。先日、新聞のコラムに出ていました、「悪を取り締まるべき警察官や裁判所の書記官が逮捕され、エジプト航空のパイロットは自殺を図って乗客217人を道連れにした」というようなことです。私は現代の日本では、もっとひどいことが起っていると思う。親が自分の子供を虐待し、殺しさえする。さらに驚くのは実の父親が自分の娘、いとけない少女期の娘を強姦する。まさに非人間的暴行です。ノアの時代の民も、ゴモラ、ソドムの市民たちも目をそむけるに違いない。

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 しかし、私はもう一つの明るい世紀末現象を私たちのキリスト教界に見るのです。ここ数年、世界各地の福音宣教の場に驚嘆すべき奇蹟が続出している。(ピーター・ワグナー著「天の女王との戦い」冒頭の2頁にこれまで教会が経験したことが無かった最近10年間の世界的な驚くべき奇蹟を伴う宣教について語っています)。

 その奇蹟たるや、異常で、かつユーモラスです。金歯、銀歯がはいったり、金粉が降ってきたり。信じがたいが、エンジンがない自動車が走ったという話もある。もっとも私の教会でも故障したプリンターや高速ダビング機がイエス様の御名による命令で動き出したこともあるので、やはり信じられる。それのみか、最近は死んだ人が元気に甦ったという話も聞いた。

 私はしらべているのだが、こういう激しいタイプの奇蹟がどんどん起っている宗教が、今世界に他にあるだろうか。また日本の新興宗教にあるだろうか。無いであろう。

 こういう腰を抜かしそうな奇蹟が続々と起っている現代の有様は過去のキリスト教には見られなかった。かつてキリスト教とは上品な文化的教養的宗教であった。神癒とか奇蹟などおぞましいことは言わなかったものだ。神癒などは、まずともかく、物証的奇蹟は皆無であったように思う。それが今、世界でそれが起っている。

 実は残念なことは、そういう奇蹟が日本においては少ないということである。しかし近い日、日本にも同様の奇蹟は輩出するであろう。

 以上、起っていることは、それこそ明るい、本当に明るい世紀末的現象である。否!

 ひょっとすると今、すでに世紀を越えて新千年紀、ミレニアム現象が起っているのかも知れない、10年前から、この数年前から。

 学者に言わせれば、イエスの実際のご誕生は紀元前4年頃だという説もある。それが本当だとすると、紀元2000年は実質的には4年前に来ていることになる。そして、事実、前に書いたように、この数年前より、奇蹟は特に異常に起り始めているではないか。

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 私は千年期になって起るであろう、もう一つの重大な奇蹟を想し、期待している。人間の肉体の完全栄化、人間の性質の聖化、人間の心と霊の力の強化を。

 クリスチャンはイエス様のご再臨の時、その体もあがなわれ(ローマ8:28参照)、現世の肉体が回復され健全な肉体となる。他の被造物、天も地も消え去るというのと異なるのである。

 クリスチャンがイエス様と共に千年王国を治める時、それにふさわしい、すばらしい品性や知恵、諸能力を持たなくてはならないはずです。

 その時にはイエス様の「天の父のごとく完全であれ」というご命令は当然、成就されなければなりません。「私たちが全き人となり、ついに、キリストの満ち満ちた徳の高さにまで」(エペソ4:13)至る完全さに私たちは達しなくてはなりません。

 私は思います。今、私たちは「神に満ちているものをもって満たされる」(エペソ3:19)というような完成度が私たちに実現する希望や確信を持ってよいのでないでしょうか。

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 私たちは罪ある不完全な者である、ただイエス様のあがないにより義と認められるという信仰によって生きてゆく外に道はない。この私たちが現実的に主にふさわしい聖化され栄化された生活を生きて行けるとは到底信じられない、ただ義認信仰一筋に生きて行くだけとしたら、

 イエス様が共におられ、あらゆる環境が天国的となり、私たちが地の人々を審き治めるという時が来ても、私たちは旧人のままの弱い、つまずきがちな者として生きねばならないなどと、そんなことは、どう考えても考えられません。

 しかし、千年王国が来て、事態は一変するはずです。私たちのこの弱い身と心がガラリと変わって、爆発的革命が起るとしたら、何とすばらしいことか。私たちは全く変化して天国人のごとくになって新世界で生きる日がくる。かく期待して心は燃える。千年王国への期待である。

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 あなたは千年王国を信じますか。学者先生方の間には、艱難期が千年王国の前に来るのか、後にくるのか、異説はあるようですが、すでに北朝鮮や中国やイスラム教圏では艱難期はとっくに来ていると言ってもいいのかも知れません。

 ともあれ、イエス様のご再臨も、千年王国もすぐそこに来ているのではないか。そして私たちがイエス様のみ姿に似る時も近いのではないか、これが私の千年王国の夢であります。 

1999/11/21

弱い信仰も育てれば強くなる    


 先日(1999.11.18.)のこと、午前の祈祷会が終わってからだった。牧師館に帰ろうとして、ちょっと左の景色を見ろうとしたら、なんだかぼんやりしている。多少、最近左の目に曇りがあるな、と感じていたので、ためしに右の目を閉じて見ると、前方の景色はすっかりかすんで、濃い霧に覆われているようであった。

 今年の1月、運転免許の更新に行った時、視力検査でどうしても丸のしるしの欠けたところがはっきり見えなくて困った。とうとうカンで答えたら、それがみんな見事にあたって合格、無事免許の切り替えができたのだったが、そのことを思いだして、はっと気がついた。

 「おやおや、白内障がおきているじゃないか」と、私はつぶやきながら家に入った。正午であったから食卓につく、食事のまえの祈りで、私は祈った。「神様、左の目が白内障のようです。このままでは原稿などでワープロ仕事の多い私には問題です。どうぞお癒しください。このかすみをすっかり取り去ってください。」

 私は小さい声だが、ぐっと腹の底に祈り込むように祈る。すると、私の腹から一条の命の電流がはじき出て神様のエネルギー源に接触するような感じがする。こんなことを書くと、読む人には不審な感じや、異端ではないか、オカルトではないかと言う不安やつまずきを与えはしないかと思うので、私も遠慮したいところだが、敢えてこれを書いている。多少とも同感の人もおられるだろうと思うからである。

 こういうことには個人差があり、一人の経験を普遍化してはいけない。しかし、また個人的経験は貴重で、かつ同傾向の人には参考になるので、無視してもいけないと思う。

 その祈りを終わって、顔をあげ左の目をたしかめてみると、あの霞の度合いが半分減っている。「やあ、今さっきあった白内障が半分治ったよ」と私は妻に言った。そして、手をあげて神様を賛美した。こういう時、エリヤではないが、私は手のひらほどの雲を見ても、すぐ声をあげ、手をあげて、神様、イエス様の御名を賛美する。

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 この日は午後、別府市方面に訪問したい所があった。N兄に運転してもらって、私は家を出た。その時、ポケットにカウンターを入れていた。あの手にもって通行人や入場者の人数をしらべる小さな器械である。ボタンをカチッカチッと押すたびに数の表示が出る。

 私はこのカウンターを使ってしばしば告白的祈りをする。沖縄の教会から派遣されてきた無銭リヤカー徒歩伝道のペテロ老人から教えられた方法であるが、非常に重宝している。(私の書いた「だれでも出来る『心の強化法』」をお持ちの方は その中の「短句繰り返し(リピートフレイズ)宣言法」をお読みください)。

 さて、その別府方面に行き、また帰るのに2時間ほどかかるのだが、その間、私は、カチッカチッとカウンターをたたいて告白したことである。「目がもっとはっきり見えます」「イエス様の打たれた傷によって私の目は癒されます」「白内障は完全に治ります」「イエス様のあがないによって左の目ははっきり見えるようになります」「なおる、なおる。きっと治る。早く治る」などと口で言い続けるのである。

 自宅に帰って、玄関を見ました。左の目もすっきり見えます。カスミもクモリも一点もありません。私は「ハレルヤ!」と叫びました。カウンターを見ると、1929回と数字が出ていました。その夜、ベッドに入って眠りに入る前にカウンターを追加して打ちました。ちょうど紀元2000年にちなんで、2000回にして、感謝して眠ったことです。

 ちなみに私はいつもベッドで眠りに陥るまで、カウンターで一つのテーマを告白の祈りをします。「××さんの病が癒されます」「あしたの祈祷会が祝福される」等々。たいてい、2、30回で眠ってしまいます。こうした祈りの言葉は眠っている間も潜在意識では続いているのだろうと思う。朝になり目が醒める時、相変わらず、私はその祈りを繰り返していることが多いのです。「夜、眠る前の祈りは朝の祈りの一部である」とある先生に伺った事がありますが、そのとおりだと思います。

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 最初にあげた、「ぐっと腹の底に祈り込む」ように祈って、腹から命の電流がは水がはじき出るような祈り、こういう祈りはいわゆる、聖霊の賜物としていただく信仰の祈りと言えようか(第一コリント12:9)、強い信仰なのである。

 ちょうど同じ頃、一人の古い信仰の友の奥さんが悪質の腫瘍ではないかと危ぶまれているという知らせを受けていた。その友に電話をした。この友は強い信仰の人で、数年前に胃癌を信仰の祈りで癒した人である。そこで、この人は奥さんのためにも祈るであろうが、またその奥さんに同じような強い信仰を強要するであろうと私は心配したのである。「僕も信仰と祈りによって胃癌をなおしただろう。あなたも僕と同じ信仰をもって祈りなさいよ。必ず、いやされるから」。こう言っても奥さんはこう答えるかも知れない。私の失礼な想像だが、「そんな、あなたのような強い信仰は持てません。心配で一杯です。怖いです。祈るだけで病気が治るなんて信じられません。あなたは多分、偶然なおったのです。私は信じられません」。すると、私の友人は嘆くのではないでしょうか。あるいは、嗤うかもしれない。「あなたは信仰がないんだなあ。なぜ、僕のように信仰を持てないのかなあ」などと。

 これは危険です。しかし、信仰の強い人の陥りやすい欠点です。弱い信仰の人を受け入れられないのです。彼は「信じ込む」ことの、いわば名人です。信じられない人の弱さが理解できません。そして、こういう人は案外アクが強い。自分の信仰を、あたかもだれからも貰ったものではないかのように自分の信仰を誇る(第一コリント4:7参照)のです。こうして人をつまずかせこそすれ、人の理解や尊敬は得られないのです。

 私は、この白内障の事件で最初の半分は「強い信仰」の持ち主のごとく、一発の祈りで癒されました。ところが残る半分はカウンター利用の繰り返しフレイズ法式の告白の祈りで癒しが完成したのです。これは信仰の弱い人がいかにして、力ある祈りができるかの一方法を示したものです。けっしてこれだけとは言いません。いくらでも他にも方法があるはずです。それを自覚的に体得している人は、はやく秘訣を発表してください。

 無意味な言葉を数多く祈れば神仏が聞いてくれる、そういう異教的な勧めをしているのでありません(マタイ6:7参照)。心をこめて祈ってください。できれば達成イメージを心に抱いて祈ってください。このカウンター方式は、断続的に用いると、初めから終結まで何日、空けてでも合算式に実行できます。「なぜ、カウンターですか。カウンターを使わなくても、何度も連続的に口で告白すればいいのでしょ」と言う方がおられるでしょう。理屈としてはそのとおりです。しかし実行してみると、CTCの古林先生も感心していましたが、「カチッカチッ」という音が非常にはずみをつけてくれて具合がいいのです。どうぞ、やってみてください。弱い信仰も育てれば強くなるのです。(1999.11.20. )

1999/11/14

キリストによる癒し      

 昭和30年(1955年)の頃、私は一冊の薄い本を手にした。T・L・オズボーンという人の書いた「キリストの癒し」という本である。万代恒雄先生の翻訳だったろうか。神癒について、これほど明確に簡単に書いた本を、それまで読んだことがなかった。私は感動して、毎週毎週、礼拝説教で「イエス様は病気を癒される」と熱っぽく語った。それを聞いて、ぼつぼつ信徒諸君のなかに神癒についての憧憬が湧いた。そして私が祈ってあげると、本当に病気が治る人が出始めたのである。

 最初は軽い腹痛が癒された程度であった。次には神経痛が癒された。それから盲腸炎が癒され、赤痢が癒され、乳癌が癒され、脚に出来ていた大きなコブがジュジューと目の前で音をたてて消えた。ほとんど、瞬間か、あるいは私が思わず口にした3日とか1週間とかいう期日のとおりに癒されるのである。私は驚嘆した。

 私は、病人に会えば、信者さんだろうと、信者さんでなかろうと、祈ってあげた。多くの人が癒された。正直に言って、全部が全部、癒されたわけではない。癒されない人もいた。天国に行ったらイエス様に聞いてみたい。「なぜ、あの人はなおらなかったのですか」と。同じようなことをチョー・ヨンギ先生も言っていたので可笑しく思った。

 30年来の腰の痛みが癒されて、今でも会うたびに礼を言ってくださるが、信仰には入ろうとしない人がいる。そういう人は多い。残念でならない。「神様、癒しの力よりも、彼らを信仰に導く伝道の力をお与えください」と、つい私は祈ってしまうのである。

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 さて、神癒と言ったり、キリストによる癒しと言ったりするようだが、私は今回「キリストによる癒し」という言葉に決めたいと思っている。それは「神癒」というと、一般の宗教やニューエイジによる癒しと同一視されやすいからである。「神」という言葉が記号化され、絶対的固有名詞として、また人格として受け取られない傾向があるからである。

 キリストというお名前は絶対である。宇宙に一つしかない。私どもの癒しの信仰は、この生きた唯一人のお方によるのである。だから、私は癒しのご奉仕の時、必ずこういうふうに宣言する。

 「イエス・キリストの御名と権威によって命じる。熱よ、出て行け」。 これはイエス様がペテロのしゅうとめを癒した時、「熱が引くようにと命じられた」とある聖書の記事(マタイ4:39参照)の真似である。

 このようにイエス様の言動を真似すれば、お癒しの奉仕も、容易、かつ効果的である。私はよく言う、「信仰とは真似である」と。誤解されやすい不謹慎な言葉であろうが、真理の一端だと思っている。

 ペテロがヨッパの町で、死んでいるタビタという婦人を甦らせたことがある。その時、ペテロは「タビタよ、起きなさい」と言ったと聖書にある。この時、ペテロはアラム語で「タビタ、クミ」と叫んだことであろう。なぜならカペナウムでイエス様のお供をしてヤイロの家に行った時、イエス様が叫んだ言葉を真似したに違いないのである。イエス様は死んでいる少女を起き上がらせた。その時、イエス様は「タリタ、クミ」と言われたと聖書にある。このアラム語は「少女よ、起きなさい」という意味である(使徒10:40、マルコ5:41参照)。

 結論すると、新約聖書が告げる癒しはイエス様を信じる者であれば、だれでも出来る癒しの奉仕である。イエス様の癒しの力がイエス様の御名と権威をとおして働くのである。イエス様は言われる、「(私を)信じる者にはこのようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で……病人に手をおけば、いやされる」(マルコ16:17以下)と。

 ここで記憶しておきたいことは、癒しのためにイエス様もペテロも、祈ることはしなかった。ただ癒しを命令し、病気を責めているように見えるということである。私も当初は「神様、この人の病気を癒してください」と祈っていた。もちろん、それも悪くはない、よく癒された。しかし、聖書の原則は命令形であると悟ってから、常に「癒されよ」とか「病気よ出て行け」とか「痛みをもたらす者よ、出て行け」と命令することに変えた。すると、癒しの効果は抜群に違ってきた。なお、以上の最後の例で「痛みをもたらす者よ、出て行け」とあるのは、その痛みの背後に悪霊を認めた場合に用いるのである。

 こういう時、すべて当然のことながら「言葉」を使っていることに注意したい。イエス様も同様であった。聖書にこうある。「イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった」(マタイ8:16)と。病院などに行って、周囲のベッドに気をつかって、黙って心の中で癒しの言葉を言う、という事は有りがちなことである。

 しかしそれは止めたほうがよい。癒しの言葉は歯切れよく、はっきり発してほしい。こういうことは勇気をもって大胆に声を発するべきです。声の大きさだけでも悪霊がおびえるだろうくらいの意気込みが必要です。また悪霊は人の心を見抜くことは出来ないのではないかとも思えるのです。彼らは表面の言葉だけしか聞けないようです。また表面の表情やしぐさだけしか見えないようです。そこで、私たちは言葉も動作も、悪霊に向かって彼らを圧倒する勢いで対決するのです。

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 大正期から昭和初期にかけてのホーリネスの人々は「新生・聖化・神癒・再臨」という四重の福音というスローガンをかかげて神癒を高調しました。特に病気の人自身の信仰を励ましたものです。当時はまだ、癒しの奉仕の賜物の表れが弱かったように覚えています。たとえばチョー・ヨンギ先生が講壇から癒しを宣言すると即刻、会集席でどんどん人が立って「癒されました」と証しするなどという、ああいう事はなかった。講師が癒しの説教をして、「癒しの信仰を持て」と強力に勧める。その際、

 よく「信仰の行為」ということを言ったものです。「この病は癒されたり」とみ言葉を握ったならば、さっそく「すでに癒されたり」との信仰をもって実際に「床から起きよ」、「実際に食事をせよ」と迫ったものです。これで成功して癒された例も多かったでしょうが、また却ってふたたび病を重くする弊害もあったのではないかと思います。イエス様や使徒たちが、弱い人に手を貸して起こしてやるということはありました。しかし無理にでも起きてみよ、ということはなかったと思います。

 現代は、人間の側の信仰をあまり問わないで、神様の側からの一方的な恵みで癒しを与えられるという事がしばしばです。チョー・ヨンギ先生以後、ここ20年、癒しのミニストリーは各教会、各聖会で強烈です。 これは初代教会を除いて、かつて無かったことかも知れません。宗教改革を越えています。かつてのリバイバルをも越えている感じです。最近のリバイバルでは目に見えるような具体的奇蹟が大きく働いています。既に広範な世界的奇蹟の時代が足元に来ているように思えます。

 今、私たちは信仰を強化して、どんな目をまわすような奇蹟をも喜んで受けとめることが出来る大きな信仰の受け皿を作りたいと思います。前述のかつての「信仰の行為」も、その信仰を強くするコツだったと言えないことはありせん。しかし、もっと楽な信仰強化法もあるのです。小冊子「だれでもできる心の強化法」を参考にしてください。 

1999/11/7

日本の柱になろう!     

 故山本七平氏が言った「空気」という言葉、日本の社会に多かれ少なかれ通有する空気的了解事項というものですね。皆が気がつかないようでいて、実は皆が知っている違法行為や悪い慣習や不条理な風習のことである。

 最近は覚醒剤隠蔽工作まで明るみに出て元警部補を逮捕などという神奈川県警の呆れた体質、過ぐる山陽新幹線のコンクリート剥落事故、未だに懸念の残る東海原子力発電所の臨界事故、あるいは中央や地方の官庁のカラ出張問題等、それぞれの組織に閉塞され温存され蔓延していた癌のような「空気」があります。それがちょっとした事から外に洩れて、社会問題になるのです。

 ここに別の重大な問題がある。官庁の役人のカラ出張がばれると新聞記事は「空いた口がふさがらない」などと書くが、私はその新聞記事に対して「空いた口がふさがらない」。そんなことは以前から当然、記者は知っていた筈ではないか。

 神奈川県警の例で言えば、県警に出入りする新聞記者が、なぜああした不祥事にちょっとでも気がつかなかったのか。多分感づいて知っていたけれども新聞記者も「空気」に惑わされていたのであろう。

 山陽新幹線のコンクリート剥落事故は二度も起こってしまったのだが、すぐにも営業を中止して安全点検したらどうかと思うのに、なかなかやらない。政府が率先してJRに命令を出せばよいと思うのだが、政府も黙っている。不思議なのは、最初の事故のときから、手抜き工事をした工事会社の責任を問う声が、さしてあがらないことである。その会社の名前すらはっきりしない。これを追及する姿勢が新聞にも見受けられない。どうしたことか。ここにも一種の空気がある。

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 ところで、東海原子力発電所の臨界事故のことで感銘したことが一つある。この臨界事故の時、現場の人々は決死の覚悟で処理にあたっていたという新聞記事を読んだ。組織としては、たしかに空気がよどんでいた。安易な違法マニュアルで作業をしていたであろう。

 しかし、一旦事故が起こった時、職員は放射能の危険を覚悟しつつ、独身者をできるだけ除いて(生殖能力の破壊を避けた?)、みんなで協力して事後処理をしたという。

 私はここに日本人はいざと言う時、個人レベルでは、まだまだ道徳的意識が健全である、という印象を抱いた。

 これは私にとって救いであった。まだまだ、日本は捨てたものではない。この日本の健全な階層にキリストの言葉をもっともっと多くを注ぐならば、必ず福音による日本精神の新生が起こるであろうと私は思ったのである。

 日本の精神を新生させる責任は私たちクリスチャンにある。日本国民に神のみ言葉をどしどし浸透させなければならない。かつて私のような小さな者でも、聖書のみ言葉にふれていたからこそ、当時の偉い識者や文化人たちさえ騙(だま)され妥協させられていた日本の軍部や指導層の基本思想や政策の誤りと偽りを、見抜き得たのではなかったか。

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 ここで大きく題材を広げて、国家的空気ということを書いてみたいのです。ちょうど、この原稿を書いていた時、FEBCというキリスト教ラジオ放送の機関紙が届きました。その第一面に加藤常昭牧師の放送原稿が載っていました。「信仰の闘士・矢内原忠雄」という文章です。

 私はそれを読んだ時、急に目が開けました。神奈川県警とか、東海原子力発電所とか、官公庁とかいう規模を超え、民族のレベルで、国家大の次元で、民族の良心、国家の理想という問題を今一度考えようと思ったのです。

 矢内原先生はキリストの福音を土台として、国家の理想を求めます。

「まずキリスト、そして日本」です。そこから、有名な「ひとまず、この国を葬ってください」という言葉が出る。現実の日本は理想を失っている、良心を失っている。当時、日本は武器をもって東アジアに覇権を握ろうとしていた。日中戦争は始まっていました。このような日本という国はひとまず葬って、本当の理想国家をめざそう、と先生は言ったのです。

 矢内原先生の「国家の理想」という論文は昭和12年の中央公論9月号に載りました。その年の12月に矢内原先生はその論文が理由で東大教授をやめさせられるのです。

 FEBCの紙上で加藤常昭先生は矢内原先生を預言者と呼んでいるが、私も同感です。最近、よくペンテコステ派で言われる聖霊の賜物としての預言とは範疇を異にすると思いますが、旧約聖書のイザヤ、エレミヤ流に模するなら、内村鑑三先生や藤井武先生、矢内原先生をこそ預言者と呼びたいと私は思う。

 戦争に狂奔する当時の日本で平和を論ずる者は、まさに非国民、国敵扱いにされた。しかし「誰が真の愛国者であったか、それは後の歴史が証明するでありましょう」、これはたしか矢内原先生の「余の尊敬する人物」の日蓮を論ずる文章の最後に書かれた一句である。私は当時この文章を読んで泣いた。先生が当時出された「イエス伝講義」を読むと同じような烈々たる気迫が伝わってくる。いつ警察に引っ張られてもいいという覚悟が迫ってくる。

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 加藤先生は実際に代々木の教会で聞いたそうだが、矢内原先生が講演でこんなことを言ったそうだ。

 「私に明白な二つの自覚がある。一つは、私は罪人であって、キリストの十字架のもとに立たねば生きていけない人間であるということである。この自覚は私をして世界のだれよりも謙遜に、だれよりも柔和にせずにはおかない。しかし、現実には私が十分に謙遜でなく、柔和でないのは、この自覚が不徹底である故で、それ自体、私が罪人であることの証拠である。それにもかかわらず、私にはこれと全く相反したもう一つの自覚がある。それは私は日本の柱であるという自覚である。私を倒す者は日本を倒す者であるという自覚である。これを聞けば、人は私を度しがたい傲慢な人間と非難するであろう。しかし、私は聖書の真理の把握者として立つ時、この自覚を払い除けようと、いくら努力しても払い除けることができない。」

 ここに国家的「空気」に抗して真理を語る預言者的人物の言葉があります。このようにキリスト教的良心を基盤として、日本国家の理想を求めることこそ真の愛国心である。官庁や公共団体や、また大企業の腐敗や業務の怠慢等を批判することにもまして、日本国家の背骨を論じ、方向を気遣う愛国心を現代の日本に求めたい。その意気込みや姿勢だけを言うなら、明治維新当時の青年武士たちに見ることが出来ようか。

 君よ、日本の柱になろう!

〔以上は拡大宣教学院機関紙「マグニファイ」1999.Nov.137号に掲載したものに、多少の手を入れました。 〕

 

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