キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)1999年12月
1999/12/26
どんな時にも元気でおれる人
「ワッハッハ、元気が出る電話」を始めて一か月たちました。どうぞこの電話を聞いてください。(電話番号は097−551−4154です)。
ところで、「そう簡単に笑えないし、だから元気にもなれるずはないよ」という声をよく聞きます。わかります。なるほど、人生には失敗や患難があります。しばしば失望し、落ち込みます。失敗も患難も一度も経験しない人など、この世には一人もいません。
でも、成功する人は、次の機会を求めて、再び挑戦するのです。それをやれる秘訣は、小さな意志でよい、意志を起すのです。私の経験では、その意志を起すのには、気軽に自分でまず笑ってみるがよい。
作り笑いでもよいのです。作り笑いで笑うだけでも、気分が少しは軽くなります。もう一度笑ってみます、また少し元気が出ます。こうして繰り返し、自分で笑って自分を元気づけ、それから「やっこらさ」と自分に声をかけて立ち上がるのです。
それから、今、気のついたことにヒョイと挑戦をする、挑戦と言うのは大袈裟で実は小さなことでよい。紙屑を拾うようなことをちょっとするのです。そして次の小さな仕事を捜して又ヒョイとするのです。これが人生勝利の秘訣の第一です。
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さて、聖書にこうあります。「(私たちは)患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し練達は希望を生み出すことを、知っているからである」(ローマ5:3、4)。
忍耐とは、私の思うのに、人間の持っている能力のうちで最大の必須の能力です。この忍耐力がなければ他の何が出来ても駄目です。何はなくても忍耐心があれば、人は成功します。たとえ失敗しても、忍耐しつつ、その解決策を捜し、また次のチャンスを狙う。そのようにしている内にしだいに「練達」という心の力を獲得できるのです。
心には肉体と同様に一種の筋肉があると考えましょう。この筋肉を鍛えるのです。鍛え上げると「練達」を生じます。運動選手が肉体の筋肉を鍛える時、 負荷力と、 持続力と、 巧みな技術を強化するのです。
同様に心の筋肉にも、まず困難にたえる負荷力。それを長い期間耐え抜いてゆく持続力。そしてやってくる困難に如何に対処するか、その心の技術が必要なのです。先程、引退した舞の海ではないが、横に飛ぶか、うっちゃって相手をころがすか、猫じゃらしするか。しかし相撲でいうなら、48手全部を使いこなす必要はないのです。たいてい熱心にやっていると得意技が生まれるものです。運動でも、将棋でも、営業でも、なんでも各自、得意技が生まれるものです。
その得意技を持てなくて困る人は、正直もので律儀な人です。そういう人はいっさい正面切ってのマジメ戦法でやりぬくことです。薩摩の示現流という武道でしたか、この剣道では、守りの技は全然学ばない、ただ真剣に「ヤッ」と吊るした棒切れに打ち込むだけの稽古。徹底して死ぬ気で打ち込んで行くだけ、理屈はいっさい言わない。これが凄いですね。ここでは特に必要なのは忍耐と、そして気迫です。
気迫で思い出しましたが、聖書でいう忍耐とは「預言者的忍耐」であると言います。つまり、メソメソと泣きごとを言って小さくなって忍耐している、そういう忍耐ではないのです。雄々しく立って、風や波に立ち向かっている忍耐です。最後の勝利を信じ、栄光の日を期待して忍耐するのです。ですから、この場合、私はしばしば「忍耐」ではなくて、「忍待」と書きます。
これが、先にあげた聖書の言葉、「練達は希望を生み出す」ということでもあります。練達とは、「心の力や技術」が強化熟練された状態をさす言葉です。この熟練を把握すると、人は希望を持ち始めます。野球の選手諸君ですと、自分の熟練ぶりを自覚でき、自信が持てるようになります。そこで、甲子園の大観衆の前で、あるいはテレビの中で活躍するという希望を持てることになります。
ただし自己省察を欠いだ単なる自惚れでは困ります。ですから、この正しい自己省察を踏まえた上で、謙虚に、しかも自分の熟練ぶりを自覚できる時、それを練達というのです。そして循環論法的ですが、この希望を持てるとき、人はだれでも患難をも喜ぶ心境に達します。
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エジソンはあの白熱電灯の発明で光を放つ肝心のフィラメントの材料を1000回近くも実験しましたが、発見できませんでした。ある人は、「エジソンさん、あなたは白熱電灯のフィラメント捜しに1000回近くも失敗したんだそうですね」と質問したら、エジソンはこう答えたそうです。「いいえ、フィラメントに使ってはならない材料を1000個近く発見することに成功したのですよ」と。
リンカーンは人生の途中で13回も仕事や選挙にチャレンジしたそうです。そうして13回のうち10回も失敗し敗北しました。成功はたったの3回でした。しかしその3回目の成功はアメリカの大統領の金的だったのです。
彼らはくじけません。いらいらしません。エジソンは特に快活な人だったようです。ある時、研究室や工場を全焼しました。あいにく火災保険にはいっていなかったそうです。新聞記者がきて「エジソンさん、どうしますか」と質問しました。「ああ、また研究をつづけるんだ」と言ったそうです。
それにくらべるとリンカーンは本来はウツ的な人です。彼はしかし、正直一方、目的にまっしぐらの人。先にあげた薩摩の示現流のタイプです。示現流のやり方でなんども挑戦する時、やはり悟るのです。「これでいいのだ。俺は正直、まっしぐら、これでやってゆこう」と悟るのです。それが彼の得意技になります。そして地味だけれど、確実に勝利の道を登って行きます。その証拠に彼が何度失敗しても、彼を信じ、応援してくれる友人たちがそばに残っていたではありませんか。
もう一つリンカーンについて忘れてならないのは、彼の義母です。父の後妻としてきた義母ではありましたが、彼の生涯に黄金のごとき信仰と倫理力を与えました。彼女は彼に聖書を与えました。貧しい丸木小屋で育ったリンカーンは何一つ財産を親から貰いませんでした。しかし聖書がありました。彼の演説には、しばしば聖句が用いられました。
そして彼はどういう訳か冗談が好きでした。会議などで、閣僚をよく笑わせたそうです。そうでなければ、あの困難な南北戦争や奴隷廃止政策など、指揮できるものではなかったでしょう。
各々の人間に、その人の根本的思想がある。《その人の日常的な習慣的考え方、つまり一日中その人の頭脳を占めている考えは何か、それがその人だ》と言ったのはエマーソンですが、つまりそれがその人の根本的思想です。リンカーンの頭脳には聖書の言葉が満ちていました。そして、よく祈りました。それだけです。貧しい丸太小屋のなかには、ほかに本も新聞も雑誌も、ラジオもテレビもありませんでした。それでも彼の常識は豊かでした。そして辛いときほど、ワッハッハと笑って目の前の小さな仕事をしたのではなかったでしょうか。
1999/12/19
クリスマスのしるし
クリスマスの夜の物語は、たいていどなたでもご存じです。まず導入物語として、ナザレの処女マリヤに対する天使の受胎告知があります。処女懐胎の問題は一般のかたがたの疑問を大いに呼びますが、常識的にまた科学的にこの疑問に答える事は私にはできません。これは人間の知恵では計りがたい神秘なことであります。たとえ科学的にこれを解明できたとしても、信仰上の役には立ちません。
次に登場する物語は、後にイエス様の義父となるヨセフがこのマリヤの懐胎らしき兆候にたいして思い悩む時、天使が夢のなかに現われて適切な教えをする処です。イエス様のお名前はその時ヨセフに示されます。
また、東の国の博士たちが貢物を持ってイエス様を拝みに来る物語があります。この博士たちは今で言えば、イランあたりの占星学の教授です。彼らは「ユダヤ人の新しい王様がお生まれになったことを星によって知りました。その方を拝ませていただきたいのですが、その方はどこに居られましょうか」と、愚かというか純真というか、時のユダヤの王ヘロデに尋ねるのです。
ヘロデはびっくりして、「俺を倒して新しい王になる奴が生まれたと申すのか」というわけで、ベツレヘムに生まれた子どもを、念のため2歳以下の乳児を捜しだして皆殺したというのですから残酷なことです。
イエス様のご誕生の巻き添えで殺された無辜(むこ)の赤ちゃんたちは、必ずや主のご再臨の日、「み空の星と輝きつつ、主の冠の珠とならん」という賛美歌458番のとおりに栄光のうちに称えられるでしょう。
古代の占星学の教授らがイエス様を拝みにやって来たことは、見逃せないエピソードです。いわゆる占いは旧約聖書では禁じられていることを考えると容易ならざる逸話です。現代のニューエイジ問題を考慮しつつ、深く霊的に、また神学的に追及すべきテーマでしょう。
この博士たちが乳児のイエス様を拝したのは、ご誕生からしばらく経過していたはずです。ヘロデが二歳以下の乳幼児を皆殺したことが、そのことを匂わせます。この後に出てくる羊飼いたちの物語は、これよりも以前のことだったということになります。つまり、ベツレヘム郊外の羊飼いたちはご誕生の直後のイエス様を拝見したのでしたから。
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ヨセフとマリヤの住んだナザレの村は、北に分割されたユダヤの領土ガリラヤの山地に属します。「異邦人のガリラヤ」とか、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」などと軽蔑された土地柄です。ところで、聖書の預言によるとメシヤ(ギリシャ語でキリスト)が生まれるのは南のユダヤ本国、ダビデの出身地ベツレヘムということになっています。ナザレに住んでいるヨセフとマリヤにとっては、この土地の問題は厄介だったでしょう。
しかし、彼らは共にダビデの家系の者ですから、キリストがダビデの子孫として生まれるとい聖書の預言については、彼らは喜んで受け入れることができ、喜んだことでしょう。
ところが人口調査の勅令が皇帝から出ました。当時の行政では人口調査のためには人々はみなその故郷に帰らねばなりません。現代の日本でしたら、人口調査するから皆すべて本籍地に帰れ、というようなものでしょうね。そうして日本の御盆や年末のように、故郷に帰る人々で幹線道路はごったがえすことになるでしょうが。
ヨセフとマリヤは喜びました。メシヤの生誕預言の地ベツレヘムに帰らねばならない事になったのですから。マリヤの出産予定日は近づいていました。彼らは神様の御手の働きを感じた事でしょう。
ところで、ベツレヘムに帰ってみると、どうしたわけか故郷の人々はヨセフとマリヤに冷たいのです。多くの帰郷者たちの故に数少ない宿屋が満員になっていても無理もないとは思いますが、少しは親族らしき人達もいたと思うのに、彼らを泊めてくれる家は一軒もありません。あるいはナザレでマリヤが父無し子を孕んだという誤解が噂となって故郷に飛んで来ていて、それが彼らをこばんだ理由だったかも知れません。
二人はついに、宿を捜しあぐねた上、やっと家畜小屋を見つけ出しました。それは岩の側面に掘った洞穴でありました。臭気ふんぷんたる侘しい所です。そこに入るとすぐ、マリヤは産気づき、赤児を生みました。きれいなベビーベッドもない、ととのった布団もない。天地を造られた神の御子が寝かされたのは家畜のための汚い飼葉おけでありました。
この状況を、マリヤとヨセフは悲しんだでしょうか。腹を立てたでしょうか。失望したでしょうか。いいえ、彼らは喜んでいました。天使によって知らされた神の御ひとり子を自分たちの子として与えられた又とない光栄に心は喜びと感謝に満たされていました。
神様から約束の言葉を心に抱いている人は、どんな目にあっても嘆きません。失望しません。落ち込みません。心の内に神の言葉を握っているならば、どんな逆境にあっても確信と勇気をもって喜んで居れます。
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その頃、郊外では羊飼いたちが羊の番をして野宿していました。そこに天使が現われました。
「恐れるな。……、きょうダビデの町に、救い主がお生まれになった。この方こそ、主なるキリストである。あなたがたは、幼子が布にくるまって飼葉おけに寝かしてあるのを見るであろう。それがあなたがたに与えられるしるしである」。
彼らは「飼葉おけに寝かされている」ような貧しい家の幼子がキリストであろうとは……? などという疑問はいっさい抱きませんでした。彼らが純真無垢な労働者たちで、そういう疑問を抱きそうな人たちではなかったということも事実です。それもあります。しかし、彼らは栄光のうちに現われた天使たちの言葉、その賛美の歌声、それらを体験した上は、疑おうにも疑うことはできなかったのです。
彼らはさっそくベツレヘムに行きました。家畜小屋を捜すくらい、彼らにとってはなんでも無いことです。そこに行って彼らはその幼子のしるしを見ました。「飼葉おけに布にくるまれて寝かされている」赤ちゃんを……。彼らは天使が語ったとおりであったので、大いに喜びました。マリヤはそれらのことを心にとめ、思いめぐらしたと聖書にあります。(マリヤは思いめぐらし、ヨセフは夢を見るのが霊的特徴です)。
この最初のクリスマスのしるしは「布にくるまれて飼葉おけに寝かされている赤ちゃん」でした。同様に、今、私たちにおこるクリスマスは、むさ苦しい臭気ふんぷんたる飼葉おけのような私たちの心に、主イエス様が生まれてくださることです。そのしるしをあなたは持っていますか。
イエス様は長い間、私たちの心の戸を叩いてくださっていました。今、私たちが心の戸を開くならイエス様は私たちのなかに入ってきてくださり、一緒に生活を始めてくださいます。このしるしが信仰の第一歩です。もしあなたがクリスチャンなら、既にこの経験をなさっているはずです。そうでしたら尚その上に、その記憶を日々心に呼び起し、それを習慣化し強化して、クリスチャン生活を永続させてください。主イエス様は永遠にあなたと共にいて勝利と恩寵の生活を保証してくださるのです。
1999/12/12
「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者」
今回、「ワッハッハ、元気が出る電話」を開設しました。長い間小松栄治郎先生の「もしもし星の子どもたち」の電話番組を代行発信していましたが、小松先生の事情で中止することになりました。その代わりに、私のお話の「ワッハッハ、元気が出る電話」を始めることにしたのです。その第一日、11月21日のメッセージを、以下に載せます。
*
なぜ、「ワッハッハ、元気が出る電話」なのでしょうか。実はですね、多くの場合、クリスチャンというのは、どこか優しすぎて、弱々しい感じさえする。なぜか頼りにならない感じさえすることがあるようです。
もっとも、女性のかたがクリスチャンになると急に気が強くなって出しゃばりすぎることもあるようです、呵々。ところが、男性諸君がクリスチャンになると、なんだか弱々しい感じになる人が間々あるのです。
それは、残念だ!
クリスチャンになったら、ますます元気になって、ワッハッハ、ワッハッハ、といつも愉快で元気のいいクリスチャンになってほしい。そう私は思ったわけです。聖書の言葉にありますね。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」(第一テサロニケ5:16〜18)。
今後、この聖書の言葉を、「ワッハッハ、元気が出る電話」のキャッチフレーズにしたいと思っています。この聖書の言葉のとおりに毎日の人生を過ごすよう工夫しますと、人生は次第に楽しくなり「ワッハッハ」と笑って愉快な、元気のいい、成功的な幸福な人生が始まるのです。
どうして、そんなことが起るのでしょうか。それはイエス様が私たちに向かって、「あなたがたは幸福だよ」と宣言してくださるからです。
「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり」。これはマタイの福音書5:5の古い文語訳ですが、イエス様の宣言です。イエス様の宣言は人の宣言と異なります。必ず実現し成就する約束です。
この文語訳聖書の言葉の順序は一番原文に近いのです。「心の貧しき者」というのは、当時ユダヤでは「謙遜な人のことだ」という解釈もあります。それも正しいのですが、私は日本語の語感のとおりに、「心の貧しい、いじけた、とげとげしい、自己中心な、冷たい」、そういう人たちに対してイエス様が幸福宣言しているのだと受け取りたいのです。
そうです、日本語のままで読んでみましょう。イエス様が神様の権威をもって、宣言するのです。
「あなたは幸福なんだ、心の貧しい者と人々に嘲笑われている者よ、私は宣言する。あなたは幸福なんだよ、あなたは天国の人なんだから」。
「えっ、私が天国に行けるんですか。ご冗談ばかり」。
「大丈夫、あなたは今、私の宣言を聞いたでしょ。私の宣言は必ず成就します。ですから、こうして私の言葉を聞くだけで幸福な感じがするでしょ。さあ、私の言葉を信じて喜びましょう。ワッハッハと笑って」。
イエス様の言葉を約束として信じて受け取る時、必ずその言葉が成就します。今まで、運に見放された人生、劣等感や未達成感にさいなまれた人生、どんなに苦しい辛いことが山積していても、それらが必ず良いこと、楽しいことに変えられ、希望が達成します。あなたの性格が変わります。イエス様が、必ずあなたの人生を変えます。一切を感謝する人、喜べる人に変わります。ますます明るい人になり、人々から好かれる人になります。「ワッハッハ」、「ワッハッハ」。(1999.11.21. )
私が赤ちゃんの時の写真
我が家の古びた写真帖(アルバム)に、私の赤ん坊の時の写真が貼ってあります。写真はもちろんカラーではありません、白黒です。大正11年の頃のはずです。当時は写真はすべて写真屋さんに行って撮ってもらったものです。写真屋と言わず、写真館と言っていましたよ。
さて、その私の写真ですが、まっ裸かで、ただし頭に大黒さんの帽子のような白い帽子をかぶっているのです。「どうして、こんな帽子をかぶせたの」と母に聞いたことがあります。すると、「お前の生まれた時は頭に全然毛が無くてね、恥かしかったから帽子をかぶせたんだよ」と言うんです。そんなことは何も知らず、その写真な中の私はニコニコ笑っているのです。私の大好きな写真です。ニコニコして永遠に笑っていそうな屈託のない笑いです。当然でしょうね。赤ちゃんですもの。
頭に毛が無いことも気にせず、不格好な帽子をかぶせられていることも気にせず。まっ裸かで平気でいます。そしてニコニコ笑っています。
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数えたことはありませんが、赤ちゃんは一日に千返は笑うでしょう。すこし成長して一般の子どもになると少しは減るでしょうか。数えた人がいます。子どもは一日に400回も笑うそうです。大人は一日、10回だそです。時には1回も笑わない人がいるそうです。
私の伯父・釘宮徳太郎は「へその緒を切って以来一度も笑ったことの無いような顔をしていた」と言います。まさか赤ちゃんの時はそうではなかったでしょうね。私のようにニコニコ笑っていたに相違ない。
私はこの伯父の18歳ごろの自転車に乗って得意になっている写真を見たことがあります。自転車に乗っていること、野外のスナップ風の写真を撮っていることなど、この当時としては彼が如何にぜいたくにくらして居たか分かりますが、その写真の顔に私は吹きだしたことあがります。まるで猿がふくれっ面しているような顔をしているのです。
その伯父に初めて原田美實先生という伝道者が会った時、「釘宮さんはまるでへその緒を切って以来一度も笑ったことの無いような顔をしていた」と、その原田先生が言うのです。伯父は実業界や政治界では正義漢として活躍した人でしたが、信仰が熟してきた晩年は本当に優しく、うるわしく、さあれ、ちゃんと引き締まった、いい顔をしていました。信仰とは凄いな思ったものです。
イエス様は「あなたがたは幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」(マタイ18:3)とおっしゃいました。幼子の特徴の一つはよく笑うことです。そうすると、幼子のようになることは割合に簡単なのです。そうです、笑うことです。
しかし、こう言う人がいるでしょう。「そう簡単には笑えません、なんにも面白いことはないし、楽しいこともない」と。しかし、面白くなくても愉快でなくても、無理に笑う真似をしてみてください。口を大きくあけて、おなかから息を大きく吐きながら、笑いましょう、「ワッハッハ、ワッハッハ」。少しは愉快な気分になるはずです。そしてもう一度、「ワッハッハ、ワッハッハ」とやってみてください。
人は悲しいから泣く。しかし泣いていると悲しくなる。これは心理学の原則です。同じように人は嬉しい時に笑う。だから又、笑っていると嬉しくなる。嬉しさを毎日つづけていると、あなたは自然に幸福になります。「笑えば必ず幸福になる」という私の小冊子を、ご参考にお読み下さい。(1999.12.10.「ワッハッハ元気が出る電話」で語ったもの。)
1999/12/5
パウロ特愛の句 「主にあって」
私がまだ若い時、聖書を勉強していた時、ベンゲルなどという有名な聖書注解者がいた。そのベンゲルだったと思うが、使徒パウロが特別に愛用した言葉として、「キリストにあって」とか、「主にあって」とかいう言葉をあげて、説明を加えてくれているのであった。
それは原語のギリシャ語では「エン・キリスト」、あるいは「エン・キュリオス」である。直訳すれば、「キリストの中に」、「主の中に」と訳すであろう。「エン」が「の中に」という意味の前置詞である。
これをベンゲルは言う。この「……の中に」という言葉は、「魚が水の中にいる」というような緊密な関係を示す言葉だ。切っても切れない親密な関係、それが「キリストにある」という言い方でパウロが言っているのである。パウロが体験し、そして言いたくてたまらないそのキリストとの関係は、水と魚との関係のように、それを離れれば死んでしまい、その中でのみ自由に生きてゆける特別の関係である、という説明であった。
こういう聖書の語句の説明を読む時、私は感動して生唾を呑みこんだものだ。しかし、今回、私はもっと興奮する、この「エン・キリスト」の関係に気がついた。別掲の山口先生の本を読んだからである。
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パウロは聖書でこうも言っている。私たちはキリストのからだの肢体である、と。肢体は全身を離れる事はできない。全身も肢体を離すわけにはゆかない。パウロの時代にはまだ細胞という認識はないが、現代風の視点では細胞というと良く分かる。私たちはキリストのからだの一細胞である。この時、こう言える。ベンゲル風に言えば私たちは細胞がからだの中に生きるように、キリストの中に生きているのである。
「だれでもキリスト(の中)にあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなった」(第二コリント5:17)という聖書の言葉のとおり、だれでもキリストの中に宿りさえすれば、死人にひとしいその人もキリストの生命を得て、新しくされ、生き返って、彼の目には一切が新しく見えるのである。
「あるものの胸に宿りしその日より輝きわたるあめつちの色」と内村先生が歌ったとおりである。
ヨハネ15:5以下の「キリストにつながっている枝」という言葉だが、この「つながる」という言葉は本来「宿る」という言葉である。そこで、小池辰雄先生は「イエス様は豊かな宿屋だ、その宿屋で腹一杯食べたり飲んだり、そして休む事ができる」と言ったそうだ。さすがに小池先生です、この説明は聞くだけで胸がおどる。
イエス様はかつて「私の肉を食べ、血を飲みなさい」(ヨハネ6:51以下参照)と言われた。枝は幹から樹液を一杯吸わなければ実を結ぶことはできないし、第一生きてゆけない。そして枝が実をむすぶならば、それは幹の誉まれ、そして農夫の喜びである。
黙示録3:20を読むと、こうある。「あなたが戸をあけるなら、私はあなたの中に入って、あなたの中で食事をし、あなたも私の中で食事をする」(私の直訳)。生命体の中で全身と細胞や内臓等の関係をみると、体は血液を部分に送りこみ、部分は全体に分泌物や免疫体などを送り返し、全体が互いに活かしあっている。しかも全身は大きく、細胞や内臓の下位組織は小さくて、しかも全体と一体であるという、キリストの御からだの神学に非常に近く相似するのである。
瞑想の枠を広げよう
今回、TBSブリタニカから「もしかしたら神に出会えるかも」という異色な本が出ました。著者は山口修慶という方で、トゥルニエの翻訳などで知られていると思います(当時は山口實という名前でした)。
山口さんは多分カトリックの神父さんです。たしかどこかの大学の教授をしておられたし、学位もお持ちだと思います。現在カナダに居住されています。数年前出された「生命のメタフィジックス」という本を書かれて、その本で私はこの方を知りました。その後、だれにも分かりやすい「ミネルバの森の哲学入門書」を書かれ、この本の書評を私が書かされて、キリスト新聞に載ったことがあります。
これはカトリック的冥想の案内書であります。カトリック的と言っても私はカトリックの伝統的、また正統派(?)の冥想というものを知らないので、本当にカトリック的冥想の案内書かどうかは確言できませんが、大いにカトリック的であることは確かです。
しかし、またひょっとすると、カトリックの中でも「とんでもない本」と批判されるかもしれません。日本的な宗教感覚に親和的で、しかも時折あまりにも日本的語彙を使うのでびっくりするのですが、そこがまた魅力です。
実修的冥想として日本の内観法や一燈園の便所掃除などを好意的に肯定的に紹介しているのも、その一例です。内観法というのは奈良の吉本伊信師が開発した自己観察修業法です。一燈園は西田天香師が創始された無所有共同体です。
世間受けはしない本と見て版元は売れ行きは悪いだろうと踏んだのか、印刷も少部数に止めたそうですが、私は案外売れるのではなかろうかと思っています。富岡幸一郎さんの「使徒的人間」だって出版社の講談社が驚いているほど売れているそうですから。
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冥想ということは、少しでも宗教的人間には魅力のあるものだろうと思います。私もご多分にもれず、あれこれ試みました。日本人なら、まず第一番に禅です。それからヨガですね。
ヨガは一種の霊的生理学と体操と言ってもいいかも知れません。戦時中、刑務所の中で私は岡田式静座法と森田療法をゴチャゴチャやっているうちに、からだの自動運動が起きました。
この経験のせいでしょうか、キリスト信仰の過程で異言が与えられると同時に、霊動も簡単に起きました。これは非常に冥想的です。
後にイスラム系の新興宗教にもふれ、また裏神道の密教的教団で霊動的笛と舞踏を見聞きするなどで、私の経験も振幅を広げてゆきました。 その後、現大分県芸術会館館長の立木稠子さんの紹介でフランスのある信仰団体の「体をもってする礼拝」という実例にもふれました。
いろいろと大勢の実践家がいるものだと驚いたものです。
それはともかく、日本人の多くが考えている冥想とはほとんど呼吸法による生理学的修練です。そうして、そういう方法論と訓練だけが重んじられます。一般の人にとって非常に門戸が狭くなっています。
そこで私が注目したのは、西欧や古来のヘブライの伝統的冥想は言葉、それも聖書の言葉を黙想することらしいということでした。それは、まず新改訳で詩篇1:2の「おきてを口ずさむ」という聖句からヒントを得たのでした。
後にロヨラのイグナチオの「霊操」を読みました。そこでイメージの活用に気がついたのです。その後、しだいに私は信仰の成長のために「口と言葉による告白」と「イメージ」を重要視するようになります。
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さて、自分のことを書きすぎました。山口修慶先生の本のことを書くべきでしたね。
この本には実に驚きました。冥想といっても、まず知性による反省法が述べられます。この辺で「内観法」が紹介されています。また心情的冥想として、イメージ法による聖書の味読黙想の仕方がたくさん紹介されています。元アメリカ大統領カーター氏の妹さんステープルトン女史のヒーリング手法にもふれているのです。
さて、最後に出て来る、哲学篇というか、宗教観、宇宙観を語る100頁ほどが凄いのです。
これが本番かも。宗教的進化論というか、生命的進化論というか、これが凄いのです。上位の生命が下位の生命を呑み込み、上位生命に引き上げて行く。インカーネイト(受肉)という言葉を山口先生は使っていますが、首をかしげる神学者もいるかと思いますが、私の杞憂かも。私はこの辺の文章に啓発されて、私は前頁の文章を書いたのでありました。感謝!
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