キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

2000年2月

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2000/2/27

十戒は神の愛と憐れみの言葉     

                 永 井 基 呼

  私たちが滅びうせなかったのは、主の憐れみによる。
  主のあわれみは尽きないからだ。
  それは朝ごとに新しい。
  「あなたの真実は力強い。
  主こそ、私の受ける分です。」と
  私のたましいは言う。
  それゆえ、私は主を待ち望む。
           (哀歌第3章22〜24節)

 

 最近、京都、新潟で恐ろしい事件が起こりました。どうしてこういう事が起こってしまうのかと、誰でも思います。私は、「十戒」を親が子どもたちに教えていたならば、絶対にあれは百%防げた事件だと確信しています。

             *

 アメリカの統計で、ある年を境に、学力が低下し始め、犯罪率が増加し、10代の妊娠が増加、そういう変化が同時に起こっているそうです。

 ある年とは、公教育の現場から十戒が取り除けられた年なのです。それ以前は十戒を教室に掲げ、授業の前に主の祈りを告白し、十戒を唱えていた。けれども、特定の宗教の特別扱いをやめようということで廃止された、その時を境にして、アメリカが乱れて行った。ということが、はっきりと数字に表れているのです。

 学校の中だけではありません、教会の中からも十戒は失われています。宗教改革者のマルチン・ルターやカルビンたちが行なった、礼拝の改革の3つの柱は、主の祈りと使徒信条と十戒でした。明治にプロテスタントが日本に入って来たとき、初期の宣教師たちが行なっていた最初の礼拝では、主の祈りと使徒信条と十戒の告白が毎礼拝ごとに行なわれていました。それが、教会の中で十戒が掲げられなくなり、告白もされなくなり、だんだんと十戒に対する意識が薄れていっています。

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 聖書の言葉はすべて、神の霊感によって書かれたものです。そして、それを信じ従っていくのがキリスト者の務めです。しかし、十戒はその神の言葉の中でも特別なものです。なぜなら、これ以外に神様が直接ご自身の手で書かれたものはないからです。十戒は、モーセがシナイ山に登ったときに、神が直接ご自身の指で石の板に刻まれたのです。

 イスラエルの民は、この石の板を「特別な宝」として、箱に納め、神殿の奥に納め、大切に扱いました。そのように、クリスチャンも、全人類も、これは宝のように扱わなければならないものなのです。十戒は、私たちがこれを尊び、それに従って歩んで行くときに、千代に至るはかりしれない祝福を受け継ぐことができるという、神様の約束の言葉なのです。

 今もう一度、教会の中に宝として、取り戻さなければならない。私たち、クリスチャンだけではなく、この世に向かっても、この神の宝である、命の言葉を伝えていかなければならない、そして、まず私たちが、十戒に生きる民になろうではないか、と私は強く思うのです。

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 朝日新聞二月五日の一面に「日本の子どもだいじょうぶ?」という記事がありました。子ども対象のアンケートで、「うそをつくなと言われたことがありますか?」という調査に対し、日本ではなんと約一割の子どもしか、親から「うそをつくな」と言われたことがないそうです。

 世の中の人は絶対的な、変わることのない真理というものを持っていない。それで、今の親は、子どもをどう教育していいかわからない。今の子どもは「うそをついてはいけないよ」ということすら教えられずに育つから、当然の結果としてあのような事件が起きるのです。

 絶対的に変わらない、永遠に変わらない、神のみ言葉、神様ご自身によって刻まれた十戒に、はっきり「偽証してはならない」と書いてあります。神様ご自身がそう語られたのです。

 今の風潮では、個人の自由の尊重が強調されすぎ、束縛されることは嫌われます。しかし、教会は、耳さわりのよい言葉だけでなく、神様は私たちに限りない愛を与え、許し、受け入れてくださるお方ですけれども、同時に、罪を裁かれるお方であるということを語らなければなりません。

 私たちは、十戒を、大切な、私たちの生活の生命線としてしっかりとこれを伝えていかなければならないのです。これによって、ゆだねられた子どもたちを教育して、次の世代に神の恵みを受け継がせるために、永遠に変わらない神の言葉によって教えていかなければならないのです。

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 実は、私は最近、この十戒から「私はあなたを愛している」という神様の御声が聞こえるようになりました。

 イエス様は、律法を一言で言うならば「愛しなさい」ということですよ、とおっしゃいました。「力を尽くして神を愛せよ」「自分と同じように隣り人を愛せよ」この2つの言葉に律法は集約されるとおっしゃいました。

 私たちは、神様と愛し合うために、人と人とが愛し合うために造られたのです。しかし、罪のために、私たちは憎しみあい、傷つけあい、滅ぼし合い、殺し合うような悲惨な姿になってしまいました。

 その人類に向かって、神様は「私はあなたを愛している」「私はあなたと愛し合うためにあなたを創造した」「あなた方が互いに愛し合うためにあなたを創造した」・・・だから、殺してはならない、盗んではならない、偽ってはならない、というメッセージをくださったのです。これはわたしたちを、束縛するのではなくて、私たちが神様が与えてくださった愛に生きるために、神様と愛の交わりを回復し、そして私たちの隣り人との愛の交わりを回復して、本来、神様によって造られた姿に生きるために、与えてくださったみ言葉なのです。

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 十戒の光、律法の光に照らされると、私たちは神の憐れみ無しには生きていくことのできない存在であるということに気づかされます。本当は、私たちは、瞬間的に裁かれてしまわなければならない存在です。しかし、神様の憐れみが、ご自身のひとり子を惜しむことなく、与えてくださるほどのその愛と憐れみが、注がれているので、だから、今、私たちは神の前に立つことが出来るのです。

 本当に私たちには神の憐れみが必要です、私の受ける分は、主よ、あなただけです。そのように心から叫び求める時に、神様が私たちに日毎に注いでくださる、朝ごとに新しい、豊かな憐れみの中に、生きる者とされるのです。

 今、心から主のみ前に、主よ、あなたこそ、私の受ける分です。主よ、私に憐れみを与えてください。私たちの望みはただ、あなただけです。と祈りつつ、神のみ前に進み出て行こうではありませんか。
     (ながいきよぶ・2000年2月13日当教会におけるメッセージ)

2000/2/20

イエスという名を持った イエス様以外の人々

 イエス様の名前の由来ははっきりしています。マリヤがイエス様を宿した時、心配した婚約者のヨセフに向かって天使が夢の中で告げました。「ヨセフよ、心配するな。マリヤの胎の子は聖霊によって宿ったのです。彼女は男の子を生む。その名をイエスと名づけなさい」と。

 ところで、イエスという名前はそんなに珍しい名ではなくて、ありふれた名前だったと言われます。日本で言えば、太郎とか、三郎とかいうような名前です。もっとも、意味は本当にイエス様にふさわしい名前です。「主は救われる」という意味です。今回はこのイエス様のお名前に関連したエピソードをお話しします。

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 今年の7月23日に大分市の若草公園で、「ミレニアム宣教フェステイバル」という伝道大会を開こうと、県下の牧師先生方の間で内々計画を進められています。その時の主賓講師にミッション・バラバの鈴木啓之先生を招くことになっています。

 鈴木先生は言わずと知れた元ヤクザ、今はイエス様に愛され、救われて、牧師さんになっています。彼がアーサー・ホーランドに連れられて、日本列島縦断十字架行進に参加していた時でした。熊本県警の前で、「熊本県警のお巡りさん! 以前ご厄介になった鈴木です。今はイエス様を信じて真面目にやっています。人間は法律では救われません。愛によって救われます。みなさん、神様を信じてください」と、路上からスピーカーで挨拶したそうです。その鈴木先生が壇上からメッセージされます。期待してください。先生の属している伝道チームをミッション・バラバと言いますが、その言われは何からでしょうか。

 バラバは人の名前です。イエス様と同時代に生きたのみならず、イエス様ととんでもない関係が出来た男です。聖書では彼は暴動と殺人で獄に投じられた評判の囚人であったと書いてあります。その彼が突然、監獄から釈放されます。聞いてみると、「彼の身代わりにイエス様という方が十字架にかかって死んだのだ」と、言うではありませんか。もちろん、イエス様が死んでくださったのは私たち全人類の罪のためなのですが、このバラバにとってはもっと現実的です。彼はビックリしたことでしょう。彼こそイエス様に命を救われた第一番目の男というべきでしょうか。

 さて前記の鈴木啓之先生はじめ、元ヤクザの人たち、皆さんは殆ど、元気のいい体育会系の異色の牧師アーサー・ホーランド先生に救われた人たちです。この元ヤクザの連中が一緒になって、かの元暴動と殺人犯のバラバの名をもらってミッション・バラバを作ったわけです。今では日本よりも、アメリカや諸外国で有名になっています。

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 最近、私は聖書を新共同訳の聖書で読んでいます。聖書はもともとヘブライ語やギリシャ語で書かれています。日本語の翻訳はいろいろありますが、新共同訳は最新の翻訳でカトリック陣営とプロテスタント陣営と共同で翻訳委員会を作って訳したものです。かつて仲の悪かったカトリックとプロテスタントとが手を組んで、大事な聖書の翻訳をしようというのですから、かつてない立派なことでした。

 とは言うものの、大正生まれの私にとってはこの新共同訳聖書は、なじめなくて今日まで書架においてあるだけ、めったに手にとって読んだ事はありませんでした。でも、正直言って、私も年をとりました。そうだ、この際、心を新しくしようと決心して、読み始めたのです。

 そこで、マタイによる福音書第27章にさしかかった時です。その16節以下に、先ほどのバラバのことが出てくるのですが、私は「あっ」と驚きました。こう書いてあるのです。「そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まってきたときに言った。『どちらを赦してほしいのか、バラバ・イエスか。それともメシア(キリストのヘブライ語)と言われるイエスか。』」

 いくら、当時、「イエスという名前はそんなに珍しい名ではない、ありふれた名前だった」と言っても、バラバという暴動殺人犯のバラバにもう一つの名があって、それがイエスという、この新共同訳の文章には驚きました。

 しらべてみると、他の日本語訳聖書にも、私の持っている限りの英訳聖書にも、このことは出ていませんでした。しかし、ただひとつギリシャ語原典の聖書には小さい英文字で補註がありました。「他の有力な写本にはバラバ・イエスとある」というのです。

 このバラバは、後になって、イエス様の十字架の意味を知ったとき、どんなに感激したことでしょうね。また、このイエスという名前の尊さに震えおののいたのではないでしょうか。また、こんなもったいない名前を持っているのは申し訳ないと、この名を捨てたかったかもしれません。いや、逆にこの名前の尊さに誇りを抱いて喜んで証しをしたかもしれません。そうした文献は一つも残っていないのが残念ですが、文献がないだけにいろいろ想像も湧いて楽しい感じもします。

 私たちも、それにいささか似ています。キリストという名前をかぶせられてクリスチャンと呼ばれます。初代の信徒たちはアンテオケの町でクリスチャンと呼ばれ始めたと言われます。多分からかい半分のニックネームだったでしょうが、最初は軽蔑や冷やかしの悪口だったに違いないのです。このクリスチャンという言葉を内村鑑三先生はキリスト者と訳しました。いい訳だと思います。

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 さて、新約聖書の中には、このバラバとは別にイエスという名前の人が2人出て来ます。1人はパウロがバルナバと一緒にキプロス島に行った時のことです。そこで地方総督という高官に会おうとすると、魔術師で偽預言者のバルイエスという者が出てきてパウロたちの伝道を妨害しました。パウロが聖霊にみたされ、この男をにらみつけて、「今こそ、主の御手がお前に下る。お前は目が見えなくなって、時がくるまで日の光を見ないだろう」と言うと、この男はたちまち目が見えなくなって手を引いてくれる人を捜したそうです。このバルイエスという名前、これはイエスの子という意味です。

 イエスの名をかたる反キリストである悪魔の手下も、世には多数出て来ます。彼らは「俺はキリストの再来」などと言って人をまどわすのです。終末の時代には特によく出没します。

 もうひとりイエスという人がいます。コロサイの信徒への手紙4章11節にある「ユストと呼ばれるイエス」という人です。パウロのお弟子さんのようですが、伝道者としては二流三流の平凡な人のようです。平凡な私たちの代表者として、私たちに慰めを与えます。私たちはこのユストさんよりも、もっと平凡で出来の良くない、愚かで弱音をはきやすい信徒かもしれませんが、しかし、それでもイエス様の尊い名前を私たちの看板のようにしていても、叱られはしない。いや、却って褒められるでしょう。これは本当に嬉しいことです。 

2000/2/13

    全託、賛美して神の力を得よ      

 私たちは現実の困難な問題にぶっつかって苦しみ悩む事が多いのです。その解決の秘訣は神に全託し、神を賛美することにあります。

 聖書をさぐりますと、まず忍耐深い信仰を発見します。イエス様は仰せられました。「信ずる者には、どんなことでもできる」(マルコ9:23)、また「失望せずに常に祈りなさい」(ルカ18:1参照)と。

 そのような信仰を私たちに起させ、その信仰を強固にする手段として、私はよく次の聖句を紹介します。「だれでもこの山に、動き出して海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成る」(マルコ11:23)。この聖句の中心は「海の中にはいれ」というように、目標とすることを口に出して言い続けるコツにあります。そうすると信仰が湧いてくるのです。

 また、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)。この聖句は個人の信仰を高め、強めるための告白用語として最適です。このお言葉を声に出し、口で叫んで神様に訴える時、神様はあなたの信仰を強め、殖やします。

 もう一つ、つけ加えてほしい原則は「何事でも神様の御旨に従って願い求めるなら、神はそれをお聞き入れて下さる」(第一ヨハネ5:14)ということです。み心に沿わない祈りは当然聞き入れられません。それは「神を試みてはいけない」という言葉と表裏になる言葉であります(マタイ4:7参照)。

 以上は神様を信じる者が「何事もなし得る」者として神から約束された原則です。なんとすばらしいワクワクするような原則でしょうか。 しかし、私たち人間には現実として、不可能なことが山ほどあって苦しむのです。特に、私たち神を信じるクリスチャンにとって、聖書に書いてある神様のお約束が、その言葉のとおりには実現しない。そういう現実にしばしばぶっつかって苦しむのです。

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 この数年、社会のドン底に生きてきた人物に接してきました。なんどもだまされたり、逃げられたりしました。金も少々使いますが、問題は金ではありません。あちこちに迷惑かけそうですし、一般の常識とまったく違ったその言動に接しますと、応対に私も閉口します。

 ついに、先日でした。口惜しいながら「もう君、僕には何もできない。君を助ける力は僕にはない。勘弁してくれ」、こう言って彼を元居た町に送り帰しました。別れるとき祈りましたが、実際、私は泣きました、私の力の無さに。

 船で彼を送って、その帰りの途中でした。私は聖書の言葉を心の中に聞きました。イエス様は言われるのです。「人にはできないが、神にはできる。神はなんでも出来るからである」(マルコ10:27)。

 この聖書の言葉は、何度も使った言葉です。信徒の諸兄姉をなんども励ました言葉です。しかし、この時は私に向かって、まったく違った感じで迫って来ました。

 「私には出来ない」と私の言う所から、神様の力が始まるということです。聖書の言うとおりです。「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで私のよわさを誇ろう。……。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」(第二コリント12:9、10)。

 主はこうも言われるのでした。「だから、彼の今後のことは私に委ねなさい。お前は彼のことをなかなか諦められず、なんとかしたいと気遣いし、彼から手を引いて私にまったく委ねるということは難しいだろう。しかし、それができるために私の力を与えよう。お前が彼のことを諦め、私に全託する(委ねきる)力を、お前に与えよう」。

 とたんに私に喜びが来ました。あの「わたしを強くして下さる」(ピリピ4:13)というみ言葉によって、「彼のことを諦め、彼のことを神様に全託する」ことができる強さをも含んでいることを、私は教えられて驚いたのです。私の顔は涙でぬれました。

 今、彼は再び不思議ないきさつから大分に再びきて、突発的な発病により思いもかけず大分健生病院に入院している状況下ですが、今後、もっともっと神様が彼を行き届いた配慮により健全な生活に導かれるよう祈っているのです。

 こうして、私が牧師として幾ら言い聞かせても、力を尽くしても、立ち上がることの困難だった彼ですが、彼に対して、ただ一つ「権勢によらず能力によらず、ただ神の霊によって」(ゼカリヤ4:6参照)、彼に変革の可能性があることを信じて、感謝賛美しているのです。

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 さて更にもう一つ、ある事が起こったのです。これも具体的にはまだ書きにくい事ですが、ある夫妻が大変な重荷をかかえていました。大きな負債があったのです。明日の午後3時までに銀行に納められなければ、ただちに取り引き停止、倒産に追いこまれるという危機です。「借りられるだけは、もう借金しつくしました。この上は天から何かが降ってくるような奇蹟でも起こらなければ、到底この窮地を脱する見込みありません」という訴えです。私は祈り始めました。

 私は断食を決心し、朝9時から祈りはじめ、12時になりましたが、どうも平安がきません。祈りの経験のある人は分かってくれましょうが、魂の芯にグッと感じるような応答がない。きびしいのです。夫妻の苦衷が目に浮かび、万一金策のできなかった時の悲劇的様相が脳裏に浮んできます。不安が一杯に心を占めます。その時、私はあらためて、前述の「今後のことは私に委ねなさい」という言葉を思い出しました。そして更に主の語りかけを聞きました。「これは、お前には出来ない事なのだ。たしかにこれは、お前の限界だよ。しかし、お前の出来ないことも、私にはできる。私はなんでもできるからだ。お前はすべてを私に委ね、私を賛美しなさい」。

 私は、あのマーリン・キャロザースの「賛美の力」を思い出しました。「苦しい現状が取り払われることを祈るのではなく、この現状を知って居られる神様を信じ賛美しなさい」と言います。私は改めて神様に感謝し賛美し始めました。まず不安が除かれました。そこで私はまた、主の御名を呼んで、主を賛美することに専念したのです。あとはただ、「権勢によらず能力によらず、ただ神の霊によって」(ゼカリヤ4:6参照)のみ事態が変化することを信じたのです。

 3時になりました。電話すると、奥さんが「たった今、主人が銀行に支払いに行っています。金ができました」と興奮の声です。

 私は「どこか天からでも金が降って来る」ように祈っていたのですが、その私の祈祷イメージとは違って、ご主人自身に不思議な気力と洞察力が湧いたのです。想像もしていなかった金も無い筈の人の所に行って、必要な金額を借りてきたのだそうです。「人の心には多くの計画がある。しかし主の、み旨だけが堅く立つ」(箴言19:21)のです。電話で感謝と賛美と喜びの声を共にあげたことです。 

 

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