キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

2000年10月

2000/10/29

  幾らかの
     勇気さえあれば

 チャップリンの「ライムライト」という映画だったと思います。希望を失った少女に老俳優が語って聞かせる言葉があります。

「人生は勇気と幾らかの金さえあれば大丈夫さ」 正確なせりふは忘れましたが、たしかそんな言葉だったと思います。チャップリンらしい言葉です。さて、私は彼の言葉をもじってこう言いたいのです。

「クリスチャン諸兄姉、み言葉の信仰と幾らかの勇気さえあれば大丈夫です」

         *

 士師記第6章にギデオンの召命の記事がのっています。最初のうちは、なんとも奇妙な物語です。ギデオンは気の小さい男です。彼はミデヤン人の略奪隊が来るのを恐れて酒ぶねの中で麦を打っていたといいます。(日本の酒ぶねは、昔は木で造った高さも直径もそれぞれ3,4メートルの酒樽でした。イスラエルのぶどう酒の酒ぶねは岩に掘った浴槽のようなものだったらしいです。麦を打つとは、収穫した麦の穂を叩いて実を落す作業です。)

 このギデオンに向かって天使が現われて言われました。

「大勇士よ、主はあなたと共におられます」(士師記6:12、口語訳)

 これを聞いたギデオンは仰天しました。すぐに、彼は天使に率直に聞きました。こういう点はギデオンのよいところです。

「主が私たちと共におられるといっても、あのエジプトから私たちの先祖を導きだした時の驚くべきみわざが、今どこにありますか。主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されているではありませんか」
 こうしたギデオンの疑問に対して直ちに返事があります。聖書にこうあります。

「すると、主(新改訳では太字)は彼に向かって(口語訳では「振り返って」)仰せられた。あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか」 聖書のここの個所では、天使がいつの間にかエホバの神に変わっています。アブラハムの場合にもこれに似た場面がありますが、芝居の早変わりみたいです。聖書を読む者に対して深い洞察を要求する個所です。

 ギデオンは神様のお言葉を聞いて、彼の小さい「その力」を用いてバアルの祭壇を取りこわし、又アシュラ像を切り倒しました。これは大胆な仕業だと言えます。しかし、彼は人々を恐れて昼の間にせず、夜それを行ったとあります。臆病は少しも直っていません。

 その後、いよいよギデオンは敵の連合軍と戦わねばならなくなります。主の霊が彼を覆い、彼は小さい勇気を振るい起こしてラッパを吹きますと多くの民が集まりました。

 しかし、彼は怖じけついたのでしょう、確かに神様が自分を守られるか、どうか。神様を試(ため)すために奇妙なことをします。

 地面に羊の毛を敷いて、露が羊の毛の上に降りるか、羊の毛の外のほうに降りるかどうか、奇蹟のしるしを神様に求めます。これを2回繰り返しています。くわしくは旧約聖書士師記第6章36〜40を見てください。

 あくまでも小心というか、くどいというか、神様に甘えているというか、神様は怒るよりも、苦笑されたことでしょう。しかし、こういうギデオンを神様は愛されたことは確かです。(ちなみに、神様を試みるということについては、聖書はいろいろに語ります。出エジプト記4:2〜7、マラキ3:10、マタイ4:7、ヨハネ20:27等を参照してください。)

 ギデオンはこうして、次第に訓練をかさね、偉大な将軍になって行きます。

        *

 かつてある聖会で韓国のチョウ・ヨンギ先生が語った言葉を私は今も覚えています。

「私には、癒しとか、預言とか、霊を見分ける力とか、そんな御霊の賜物があると皆さんはおっしゃるが、そのような賜物は私には少しもありません。ただ私にあるとすれば、それは大胆という賜物です」

 しかし、誰も不審に思うでしょう。あのチョウ・ヨンギ先生が、私には御霊の賜物など少しも無い、などとおっしゃるのは可笑しい。先生がそんなことをおっしゃるのは、「一流のユーモアなのか、それとも謙遜の賜物なのか」と頭をひねりますよね。

 この言葉を私が聞いたのは、今から十数年前のことでした。その時、先生は中心テーマを逸れて、ふと洩らされたように語られました。私はそこに先生の偽らない本心を聞いたように思えたのです。私は先生の信仰の秘訣の一端を伺いえたように思いました。

         *

 私は前記のギデオン以上に気の小さい小心者でした。母一人子一人の甘えっ子です。小学校、中学校の時、キャッチボールの球を取ることさえ怖くて友だちと遊べなかったような子です。 神様の信仰を頂いてからも、神癒のご奉仕など、とてもじゃないが、私には出来ることではないと思っていました。まして悪霊の追い出しなど思いもしないことです。

 しかし、ある頃から、主のみ言葉に迫られて来たのです。まず「説教の講壇に上ったならば、かならず病気の癒しのメッセージをしなさい」と聖霊さまが言われます。恐る恐る礼拝説教の中で「主は癒されます」と宣言しはじめますと、なんと馬鹿正直(!)な人がいて、本当に乳癌の人など連れてくる。心の中では困ってしまうのですが、仕方なく必死になって祈ってあげると、なんと不思議に癒されるのです。

 そうしたことは、1960年代のことですが、80年代になると、祈ると足が伸びる人や、倒れる人が出るようになる。霊的な雰囲気が高まってきて、私は実は心配になったものです。こんなことをしていて大丈夫なのか? と。

 しかし、そのうちに、もっと激しいアルゼンチンやトロントの例などが出てきましたから、安心もしました。今では私など足元にも寄れませんですね。

 これ以上はもう書きません。要するに、「み言葉による信仰に立って、幾らかの勇気を振るって立ちあがる」と、何ごとかが起こる!ということです。これがチョウ・ヨンギ先生の言われた「大胆さ」だろうと思うのです。

 小さな大胆さでよい、行動を起こすのです。それも、この行動というのが口を動かす「宣言」だけでもよい、としたらどうです。簡単ではありませんか。
 小さな勇気ある行為を繰り返すのが秘訣です。繰り返していると、しだいに信仰が蓄積されて、少しづつですが、更に大胆になります。少しづつ更に大胆になり、更に大胆に祈り始め、更に大胆に要求し、更に大胆に信仰の宣言をし、そして大胆に行動を始めるのです。牧師なら大胆に説教し、大胆に信徒諸君に訴えましょう。

 み言葉に立つ信仰と、幾らかの勇気さえあれば、その勇気を継続して繰り返し発揮しているうちに、次第に信仰は増殖し、強められてゆくのです。

 最近のM兄の店の資金ぐり解決法がそれでした。私と共に祈り始めた当初は、4,5日おきの返済や利息払いに追われていました。僅かな金にも苦しみました。そうしたハードルを次々に越えてきて、先日は国民金融公庫の最も難しい苦手のはずの融資係がにこにこしてOKです。彼には祈りの自力がついて来ました。 
 (リバイバル新聞1999年6月20日号に  掲載のもの、多少加筆訂正)

 

【私の想い出−22−】

上記の本文に「信仰の増殖」という言葉を使いましたが、これは早く天に帰られた山本和万先生から教えられた用語です。初めて聞いた時はびっくりしました。お金の利殖を図るような言葉だものですから不思議に思えたものです。しかし、よく考えると種まきの例話とか、タラントの例話とか、イエス様のお話には、しばしば増殖の話が出て来るのです。▼1タラントを地中に隠しておいたしもべは「なぜ、銀行に預けておかなかったのか」と主人に叱られていますが、イエス様の時代すでに銀行があったのかとか、イエス様も利殖のことに詳しいのねとか、意外に思うことが多いのです。▼私はこの山本和万先生に啓発されて、信徒諸兄姉の信仰を増殖するために、信仰のノウハウを教えることが非常に大切だと思うようになりました。「ワッハッハと笑いましょう」というのも、その一例です。信仰のノウハウとは、信仰を養う上のコツ、勘所、ツボです。ありていにいえば、イメージ法とか、信仰告白のいろんな方法とか、やさしい瞑想法とか、祈りの具体的な方法論の数々です。▼そうした方法を知的に理解し、かつ意志や感情を巧みに使って自己訓練する(第一テモテ4:7)と便利なのです。便利という言葉はなんだか敬虔さを欠きますが、この教会では10年ほど前、「この祈りの仕方は便利がよいなあ」などという言葉が聞かれたものです。たしかに、やさしい便利の良い信仰のノウハウが多くのクリスチャンに必要だと思うのです。信仰は実用的でないといけません。 

2000/10/22

  救 い の 確 か さ (五)

 日本人の宗教意識の特徴の一つに「他力」という言葉があります。これは法然や親鸞が発見した浄土信仰の極致です。この信仰は阿弥陀仏による救済を信じる信仰です。

 阿弥陀仏とはもともと法蔵菩薩と言う方でした。この方が衆生を救済しようとの願を立てます。その四十八願の中の第十八番目、「世の人々が南無阿弥陀仏と私の名を心から信じて口に唱えるなら必ず救われて浄土に生まれるように」(意訳)との願を立て、長い長い修業をされその願を成就します。そしてついに阿弥陀仏という仏ほとけ)さんになられたというのです。

 この名前を説明しますと、阿弥陀は原語では無量寿もしくは無量光という意味です。つまり、キリスト教式に読めば、「永遠の命、無限の光」ということです。これはヨハネの福音書特愛の熟語でありませんか。仏という言葉は原語でブッダでして「悟った者」という意味なのです。多くのブッダの中でも釈尊は特に、その悟った者の代表者のように尊ばれて、仏(ほとけ)様と呼ばれるようになりました。

 南無阿弥陀仏の「南無」という言葉は帰依する、委ねる、命をかけて従うという意味だそうです。「然り、そのとおりです」と言って全身全霊、他者に委ねる言葉です。キリスト教のアーメンと同じだと言ってもよいのです。

 だから、クリスチャンでしたら「南無キリスト」と称名しても可笑しくはないかもしれません。たしかに、称名の信仰は「主の御名を呼ぶ者はみな救われる」という私たちの信仰と実によく似ています。真宗の信仰を神学者カール・バルトが東洋における宗教改革者の福音に並行的に最もよく似た宗教と称賛したそうですが、さもありなんと思います。

 でも、ここではっきりさせたいことは、イエス様は修業して救いを成就されたのではないということです。イエス様は永遠の初めから天におられ、天地の創造以前からキリストであられた。そのキリストが人類を罪より救うため地上に下り、人の形を取って人類の身代わりとして罪の刑罰の死を受けとめてくださったのです。

 イエス様はご自分で堂々と「私は道であり、真理であり、命である」と言われました。また「私は世の光である」とも言われました。イエス様は修業の結果「永遠の命、無限の光」を悟ったのではなくて、「永遠の命、無限の光」そのものであったのです。

 この真理(永遠の命、無限の光)なるイエス・キリストというお方が私たちに人格として現われ、迫ってき、そして私たちの中に入って来、更に居続けてくださる、これがキリスト教です。キリスト教は単に宇宙の意識や宇宙の法則を悟って、安心立命する宗教ではないのです。

 日本の仏教は真宗、禅宗、日蓮宗、真言宗など、すべて日本において集大成されたすぐれた宗教です。そして究極的には自然の中に隠れた法の世界、「自然法爾」を尊び、「自然髄順」に生きることを目標とするように思えます。

(「いるほどは風が持てくる落葉かな」、この良寛さんの一句はこの心境をよく表しています)。 これは神を時間の支配者、歴史の支配者と信じるキリスト教の信仰とは随分と違います。とは言うものの仏教的悟りというものはやはり凄いものです。

         *

 代表的仏教者の悟りについて、二、三、紹介してみましょう。

 白隠という人は今の静岡県を歩いて旅行した時、富士山が一度も目には入らなかったというほど熱意をもって悟りを求めた人です。彼が越後高田の路上で夕暮れの鐘の音を聞いて遂に卒然として悟りを得た時、欣喜雀躍して路上で旅の荷物を放り出して踊ったと言います。

 また中国の香厳和尚は旧師から「お前の生まれる以前、お前はどこに居たのか」と意地悪な質問をつきつけられて答えられずに泣く泣く師の前を去って山寺に逃れて修業していました。ある日、瓦のかけらが落ちて竹から手水鉢に当たり、その音を聞いた瞬間、長い間苦しみ求めていた悟りを得た。彼はガバと地上に打ち伏して遠くにいる先師を礼拝したと言います。

 親鸞は「ただ念仏して弥陀にたすけまいらすべし」との法然上人の一句を聞いて、アッと信じただけなのである。「ほかになんの子細もありません」と親鸞は言う。禅語にいう、「一句通ずれば千句万句通ず」。ただの一句が分かったとき、経典全部が分かるのである。

 無教会の雄、塚本虎二先生が言った「聖書は数学の教科書とは違う。数学の教科書だったら、第一頁から勉強を始めて最後の頁まで進めば、それでよい。完全にマスターしてしまえば二度とその教科書をひらく必要もない。しかし聖書は違う。何回読んでも分からなければ、みな分からない。ところが一つの言葉が分かる時がくる。すると聖書の全部がみな分かる。そこで、もう二度読む必要がないかと言うと、そうではない。何度も何度も読めば読むほど、新しい光が差し込んできて、読むのを止められないようになる」と。

 日蓮が法華経の神髄にふれたのは、きっとそういう触れかたをしたからだと思います。そうでなければあんな熱烈な宗教を生み出すはずはない。法華経の中心命題は久遠の成就者、久遠の存在者ということであろうか。日蓮は限り無く法華経を通して永遠者に近づいた人だと言えよう。内村鑑三が「代表的日本人」の一人に日蓮を選び、矢内原忠雄が「余の尊敬する人物」の一人に選んだ訳は分かるように思う。

         *

 「自己実現」という言葉を精神訓練の本などでよく見かけます。この言葉の創唱者はマズローでしょうか、よく使われます。たしかに自己を励まし、自己を訓練するには良い目標語です。仏教は、この言葉でカバーできるかもしれません。しかしキリスト教は違うのです。キリスト教は「キリスト実現」を目標とするのです。

 キリスト教は、永遠の生命であり無限の光である救済者ご自身が、私たちの霊の中に乗り込んでくるという教えです。

 16世紀の宗教改革者マルティン・ルター。彼は、友人が落雷によって死んだ時、そのそばに彼は居た。その経験から彼は信仰を求めるようになったという伝説があります。

 それはともかく、彼が修道院にはいって深い罪意識に苦しみ、ついには気を失って床のうえに倒れるまでに苦行に励んだと言われます。しかしそういう肉体の修業を如何に努力しても、心に真の平安を得ません。こういうところは法然や親鸞によく似ています。

 ある時、ルターはシュタウビッツというすぐれた上長の神父に会います。この師父はルターを一見して彼の深刻な苦悩と誠実な霊性を見ぬきます。そこで忠告するのです。「キリストは威嚇する方ではない。慰めてくださる方です」。この一句は強い矢のようにルターの胸を貫いきました。そして更に師父は言うのです。

 「イエスの傷を見るが良い。君のために流されたイエスの血を見るがよい。そこに神の憐れみが見えるであろう。贖い主の腕に君自身を投げかけ、彼の義の生涯と犠牲の死に寄り頼むがよい。先に彼が君を愛したのだ。君も彼を愛しなさい。そして君の難行苦行はすっかり棄てなさい」と。これを聞いてルターは自分が自分のへそばかり見ていたことに気づきました。そして、ただキリストだけを見上げる人になったのです。ルターはあらためて聖書を開きました。そして、あの一句が彼の魂を捉えます。「義人は信仰によりて生くべし」(ローマ1:17)。この一句によって宗教改革は始まるのです。 

 

【私の想い出−21−】

何度も何度も書くので気が引けるけれども、今回も刑務所の話。仏教の真宗や禅宗にくわしくなったのは獄中の読書のお陰です。刑務所の戒護課の職員はほとんど僧侶の資格を持った人たちです。だから戒護課の管理下にある図書は真宗関係の本が断然多いのです。それと禅宗の本が多かったのです。キリリスト教の本などは聖書、賛美歌だけ、その他のキリリスト教の本は本当に少なかったのです。その上、キリスト教思想のゆえに刑務所に来た奴だと言うわけでキリリスト教関係の本はなかなか貸して貰いにくかったのです。ただ本間俊平先生の本は戒護課の人たちになじみがあり、貸して貰えました。むさぼるように読んだことを覚えています。★私がみ言葉により回心して以後、私の信仰の栄養は真宗関係の本から得ることが多かったのです。信仰義認の信仰の仕方に限っていえば、親鸞さんのほうがパウロよりも余程徹底していると言える面がありますからね。その他禅宗の本も読み、座禅の真似事をしました。後々の私の座禅修業に役だちました。★それから、刑務所での読書の恩恵は森田療法の本を読んだことです。今では世界的に認知された森田療法ですが、当時はまだ医家から見たらヘンテコなインチキ治療法に見えたでしょうね。しかし、ともかく欝病的で神経症的だった私にとって本当に良い本でした。それに禅宗的信仰の理解にとても役に立つのです。森田療法は信仰的にも示唆の多い実践哲学を擁していると、今でも思っています。 

 

2000/10/15

 やさしい瞑想法(一)

  一、この瞑想法の特徴

 瞑想というと、むつかしく考えがちですが、事実、本格的瞑想はむつかしい。でも以下に述べるのは、だれでも出来るやさしい瞑想法です。

 正座法とか呼吸法とか、そういう修業めいたことはしません。無念無想になる必要もありません。健康法でもありません。もちろん、心が落ち着き、体も健康になるなど、そういう副産物がおこる可能性はあります。空中浮揚したり、空飛ぶ円盤を見たり、霊界にはいったり、そんなことが目的ではありません。いわゆる霊的修道法ではないのです。

 「それなら、この『やさしい瞑想法』とはどんな事をするのですか。また、その目的は何ですか」、と質問される方がいるでしょう。

 お答えすれば、「とにかくまず知性を無視せず、かえって知性を活用すこと」と言えましょう。普通、瞑想というと、知性をまず放擲(ほうてき)して、心をからっぽにすることが要求されます。ところが、この「やさしい瞑想法」では、まず知性を用いて十分に思いめぐらすことから始めるのです。

 さて、この瞑想の究極の目的はなにか。それは「キリストとの交わる」ことにあります。神人キリストと常に親しい交わりを持つこと、これほど神様からの最高の恩寵はありません。

  二、リラックスしよう

 無念無想の状態になるのはすばらしいことです。それを否定するのではありません。しかし、それを無理に求めようとすると、反って心が緊張し意識が硬化して、瞑想がうまく行かないのです。まずリラックスすることです。

 リラックスする一番の秘訣は、笑うことです。「ワッハッハハ、オッホッホホ、ウフッフッフフ」と小さい声でよいですから、笑ってください。少しづつ、声を大きくし、しまいにはおなかを抱えて笑ってください。そうすると、心も体も自然にリラックスしてきます。何度も笑っていると、終わりには周囲に遠慮することも忘れて、自然に長く長く、いつまでも笑いつづける人になります。そうするだけでも、健康になるでしょう。

 さてそれから、あなたが子どもの時のことを思い出してください。なんでもよいのですが、たとえば、遠足や海水浴に行き、友達と愉快に遊んだ光景を思い出してください。

 できればあなたが、原っぱや砂原にひっくりかえって大空を見ている、そんな自分を思い出してください。特にそばに、あなたを愛してくれるお母さんや、仲のよい友達が一緒に居る、そんな絵を心に描くと良いですね。そうすると体がリラックスし、心もゆったりして来ます。

  三、イエス様の手から豊かなパン

 さてもう一度、目をつぶって、春の野原に仰向けになって寝てしまっているつもりになってください。空を心にいっぱい思い描いてください。楽しいイメージ・トレーニングです。

 突然、どっと周りから歓声が起こりました。

「わーい、パンがどんどんふえる、ふえる」

 イエス様が一切れのパンを手にして、さっとお裂きになる。そしてお弟子さんたちに渡される。お弟子さんたちは目を丸くしてイエス様の手元を見ていますが、「どうも分からない」。首をひねています。そして取りそこねそうになったパンをあわててかごに入れます。

 人数は五千人も一万人もいるのではないでしょうか。時々、「キャーッ」と女性の声があがります。特別においしそうな王様でも食べたことがないようなパンが出来たからです。

 そばで一人の少年が嬉しそうにイエス様を見ています。自分がイエス様にさしあげたパンを見つめています。今朝、お母さんが持たせてくれたパンです。彼は最後までじっと見ていることでしょう。脇でみんは言います。

「いや、たしかに、この方は王様だ。救世主だ。神様がお約束になったお方だ、みんなこの方について行こう」

 ふと上を見上げると、大勢の天使たちがにこにこして、この有様を見ています。

 このようなイメージを見ているうちに、あなたの心は次第に平安と喜びに満たされます。

 ただイエス様のお姿と、周辺の多くの人々の興奮と賑わいにより、人生に対する希望、確信が心にいっぱい湧くのです。

  四、なつかしい友だち

 ふと気がつくと、草の上に座ってパンをかじっている、懐かしい仲良しの幼な友達がいっぱいて、みんなでおしゃべりです。

 そうしているうちにイエス様のお声が聞こえはじめました。

「みんな、幸福だね。心が貧しくて、いつも不平や不満、愚痴いっぱい、うらんだり、ねたんだりしていた人たちも、今は幸福でしょ。

 私の言葉を聞きなさい。私の言葉があなたがたの耳にはいると、そうだ、本当に、私の言ったとおりに、あなたがたの中で変化が起こるのだよ。ホラ。あなたがたは、今、幸福です。泣いている人も、ほら、涙が消えたでしょ」

 聞いているうちに私たちは、本当に幸福になるから不思議です。イエス様の言葉は魔法のように力があります。聞くだけで、あなたは変わります。あの明るい広い、のどかな春の大空に、ひばりの声が聞こえて、やわらかいそよ風が吹きます。

 イエス様は、続けて、おっしゃっています。「まさしくあなたは、いま、幸福です。なぜなら私の言葉があなたの心に入り、私の命があなたがたの命になったからです。私は私の命をあなたがたのために捨てるために、この世に来たのです。私は命のパンです。私を食べなさい。私があなたの中にはいって、あなたを永遠に活かします。あなた絶対に死にません」

  五、イエス様と共にいるあなた

 こうしてガリラヤの湖畔の草の上に座って、懐かしい幼な友達と遊んでいますと、

「これが神の家族です。私は一度死んで、再び生き、そして天に帰りました。今、天から下ってきて、あなたがたの中にいます。私はあなたがたを、けっして孤児とはしません。私は平安を与えます。世の与えるような平安ではありません、私の血による絶対の平安です」

 こうおっしゃるイエス様のお声を聞きながら、あなたは瞑目します。この時、あなたの知性を働かせて、いろいろ思いめぐらせなさい。

 「いろいろと思い巡らす」ことは聖母マリヤの特質です。イエス様のご誕生を祝って羊飼たちが来た時、イエス様が12歳で神殿にとどまって心配させられた時、マリヤは「それらのことを思いめぐらせていた」と聖書にあります。聖書のお言葉にしたがって、イエス様の居られる様々の場面を心に描きながら、楽しく恵まれた健康で幸福感で一杯の感情を温めるのです。

 これがまず第一番に、みなさんに推奨する知性を用いて思いめぐらす楽しい瞑想法です。これを毎日、なんどもやってみて下さい。イエス様と共にいる楽しい時をすごすのです。

 なぜこんなことをするのでしょう。主と共なる楽しい経験を記憶するためです。(10月1日の週報に書きましたが、「信仰は記憶である」と言いたいほどなのですから)。「ワッハッハ、オホッホッホ」と笑ってください。こうして、自然に「笑いの瞑想」に移ってゆきます。次回は「笑いの瞑想」法でも学びましょうか。 
(連載中の「救いの確かさ」は今回は休みます)  

 

【私の想い出−20−】

以上の、絵を頭に思いうかべる方法は言うまでもなくイメージ法の応用である。もう40年も前のことだ。東京、多摩川の上流のほとりで、ある裏神道の先生の指導を受けた。裏神道というのは仏教でいう密教と同じである。この先生の神道は皇室のなかで養われてきた伝統的神道の一派だという。明治天皇が好んで使ったという桃山時代建築の茶室で、古代の語り部(かたりべ)や忍者集団の伝承的記憶法や霊言法など伝授を受けたのである。これは、その時、その先生から聞いた話だが、その全部が事実かどうか、真偽のほどは今更極めがたい。数年前、訪ねてみたがすでに亡くなって居られた。▼その先生が組織者で、奥さんが巫女(みこ)さんという、典型的新興宗教の形態を保っていたが、本当に小さい集団であった。私はイエス・キリストを信じながらの、そうした異教の本部に住みこんで学んだのであるから、霊的にはイエス様に叱られそうで心配しつつ一、二か月居候した。悪霊にも取りつかれず、無事、退去した。もちろん、その先生から私の信仰をとやかく言われたことはない。この先生は多元的宗教の共生ということではまさしく模範的(?)であったわけです。▼私がそこで学びやすかったのは、キリスト教の異言を始めとして、聖霊舞踊とも言うべき霊動現象も既に経験していたので、その先生に「キリスト教の人は飲込みが速いなあ」などと誉められもし、教学(神学)をつくるために私に居続けてほしい様子が見えもした。牧師としては珍らしい経験をしたと思います。 

 

2000/10/8

  救 い の 確 か さ (四)

 「救いの確かさ」というのは、しばしば「入信の確かさ」であることが多い。次に3つの尊い証しを紹介します。第一は、イスラエル生れのユダヤ人ルベン・ドロンという人のことです。

 彼はゴラン高原の戦場で、近くにいた戦友が弾丸で倒れる死の現場を見た。兵役を終わって彼は改めて死と生の真理を求める。しかし、人の心は可笑しい、かえって彼の心は堕落し崩壊するのです。でも、不思議!

 その時、一人のすばらしいクリスチャンに会う。彼は訴えた。「私も生ける神に会いたい。どうしたら生ける神に会えるだろうか」。その友は答えた、
「ひざまずいて、神の御顔を求めるんだよ」

 ドロンは裏庭の茂った草むらにひざまずいた。そして見えない神に語りかけた。いろんな難問を神に浴びせた。彼の唇からは沢山の質問が出た。しかし神からはなんの応答もなかった。かえって明確に聞こえるのは悪魔の声であった。「祈るのは止めよ、止めよ。お前の馬鹿げた質問に答えてくれる者なんか、いるものか」と。

 やがて彼の質問の種も切れた。最後に言った。「神よ、あなたに近づくためには、あのナザレのイエスを信じる必要があるのですか」。

 なんと、その時神はお答えになったのだ。天からの声があきらかに聞こえた。「しかり、お前にはあのナザレ人イエスが必要である」と。

 この言葉が彼を変えた(!)。神様からの命が尚も続いて注いでくるように思えた。彼は神様からの命を飲みつづけた。彼は生ける神に会ったのである。彼は今、日毎、ユダヤ人たちにイエスの命を証言している。
 (「ハーベスト・タイム」1998年10月号 より適宜抜粋して転載しました)。

         *

 次はジョン・ラジャーというインドの人のことである。彼は子どもの頃から口に障害があり、声を出して話すことができなかった。

 だれも彼を相手にしない、孤独です。14歳の時、彼は苦しみのあまり自殺しようとした。夜の12時ごろ鉄道の線路にたたずんだ。彼は神様が存在することや、奇蹟を行ってくれることは知っていた。しかし、果たして自分の為に奇蹟を行ってくれるか、どうか……。そこで、彼は短く祈りました。

「もし、あなたが居られるのなら、私に語り、私の口をなおしてください。そうすれば、私は残る生涯を、あなたに仕え、あなたが行けという所にはどこへでも行き、あなが為せということはなんでもします。しかし今、私の口をなおして下さらなければ、私は列車にひかれて死んでしまいます」。

 彼は線路に立った。列車が近づく、体が震える。もう駄目だ、と思った時、声が聞こえた。「子よ、私はあなたを選んだ。あなたは家に帰って聖書を学びなさい」。彼は驚いて線路を跳びのいた。その彼の横を列車が猛烈なスピードで通り過ぎた。彼は夢中で家に帰った。

 帰ってみると、家族が寝ているので電気をつけられない。祈ろうとするが涙が出て祈れない。しかし気がつくと部屋が明るいのです。神の栄光が部屋に満ちている。その不思議な光の中で彼は聖書を読み始めた。

 そして……、翌朝になった時、彼はすっかり自分が新しい自分に変わっているのに気がついたというのです。(この人の、列車にひかれて死にますなどと神様を脅迫?するところや、光で周辺が満ちるところ、実にサンダー・シングや私の父の体験に似ています)。
 (アジアキリスト聖書学院の機関紙「CFA ニュース」1998年1・10月号より適宜抜 粋して転載しました)。

         *

 これは日本での例です。木村後人先生の出しておられる「原福音」第20号(1998年2月号)に載っていた先生のあかしです。以下に失礼ながら適宜抜粋して転載させて頂きます。文中私というのは木村先生のことです。

 かつて沖縄の小さな病院に一人の婦人を訪問した。病室の片隅に3人の子ども(長女が中学生くらい)がいて、おじけたような顔で私を見ていた。母親はもう末期症状で衰弱しきっていたが、言葉は意外にしっかりしていた。それはほとんど、自分や子どもたちを捨てて行った夫や、非情な世間に対する恨み言であった。そして終わりに言った。

「先生、神様や永遠のいのちなんて本当にあるんでしょうか。生きていてこんな目にあうなんて……、私には神さまなんて信じられません」。

 私には返す言葉がなかった。なんとか神の愛を説こうとしたが、そんなきまり文句を語れるような雰囲気でなかった。しかたなく沈黙していた。そして必死で神様に助けを求めていると、突然、ある光景が心に浮かんだ。私は静かに彼女に語りかけた。

「私はいつか丘の上に真っ黒に焼けたままの蘇鉄が、その根元から可愛らしい新芽がふいているのを見たことがあります。あなたは沖縄の方だから、こういう光景はよくご存じでしょう」。

 彼女はハイと返事しました。「それと同じですよ、あなたの生命は滅びたりはしません。ソテツの根が土にかくれているように、あなたの命は神様の懐の中に隠れているのです。神様にお願いすれば、きっとまた幸せな人として甦らせてくださいます。それに、あなたの命はあの子どもたちの中で一緒に居るんですから大丈夫、何も心配する事はありませんよ」。

 彼女はそれを聞いて、少し安心したのか、顔が明るくなり、落ちついて「どうも、ありがとうございました」と礼を言った。

 その直後、私は沖縄を去り、上京した。それから2年ほどして、私を一人の少女が訪ねてきた。彼女は明るい笑みをたたえながら、

「先生、私はあの時、病室にいた長女です。先生が帰ったあと、母は別人のようになり、少しも愚痴や悪口を言わなくなりました、私たちにもやさしくなりました。あんな母を見たのは初めてでした。そして亡くなる時もとても穏やかでした」。

 少女の話を聴きながら私の心は感動に打ち震えた。あの宿命に泣く彼女たちを、その鎖から彼女たちを解き放ち、全く新しい人生へと導かれたのは生けるイエスである。私は不肖の弟子、ただ呆然自失していただけなのである。

         *

 こうして、生けるイエス様に触れる、あるいは神のみ言葉に触れる、神の聖霊にふれるというようなことが起る。こういう経験によって、とっさの間に信仰に入る人がいるものである。こういう人たちにとっては「救い」とはまさしく「確かな」ことである。文句のない経験です。 光や、耳に聞こえるような声は聞かなかったにしても、声ならぬ声を心にしかと聞きとめて信仰の事実を掴むのは前号に書いたアウグスチヌスがそうであった。メソジスト教会の創立者ジョン・ウェスレーもそうであった。内村鑑三もそうであった。私もそうであった。

 しかし私は、長い間、多くのクリスチャンの方々と交わっているうちに、別のタイプの方々のことが分ってきた。以上のような霊的体験、鋭角的回心と呼ぼうか、それが無くても大丈夫なのだ。大きく円弧を描くようにして、ゆっくりと信仰の門に入る人たちもいる。いや、その方々のほうが随分と多いのだということを書き添えておきたい。これまでも何度も書いていますが、ビリー・グラハムもその事に触れています。彼自身は鋭角的回心だったそうです。しかし、彼の奥さんは大きく円をめぐるゆっくりした回心だったと言っています。感謝!  
    (1999年2月7日週報より再掲載)

 

【私の想い出−19−】

もう20年も前になるだろうか。ビリー・グラハムが福岡に来た。会場は当時の平和台球場、大集会だった。私たちはバスを借り切って福岡に行った。私は遠くから初めてこの目でビリー・グラハムを見たのだった。その時すでに相当年をとっているように見えたので、私は内心驚いた。しかしメッセージを始めると彼はやはり若々しい。あらためて天下のビリー・グラハムだなあと思った。▼ビリー・グラハムが大集会を始めたのは随分早くからだった。青年だった。彼のりりしいアップの写真のポスターを見て、正直に言って私はジェラシーを覚えた。「彼も人なり、我も人なり。彼に出来ることが、なぜ私に出来ないのか」というわけだ。大会集を前にしてカッコいい伝道者の姿がうらやましかったのだ。こういう宗教的見てくれヒロイズムも若いときには、ある程度許されよう。いや、そのくらいの方がいいのだとも言える。▼しかし、サンダー・シングのようにただ一人チベットの奥に神隠れしてしまうような人もいる。いや、それ以上に全然世間に名の知られなかった聖者も多くいることだろう。天国に行ってそういう方々にお会い出来るのも、天国に行く楽しみの一つである。▼最近、いよいよビリー・グラハムも引退すると聞いた。グラハム二世が活躍を始めているようだ。人の世はすべて草木のように移り変わる。いや、天地さえも滅びる日がくる。しかし、永遠に変わらぬものは神の言葉、神の国、聖霊様の活動、私たちの内にあるイエス様の命である。 

 

2000/10/1

  救 い の 確 か さ (三)

 「信仰とは記憶である」と、私が言うことがある。誤解を受けやすい言葉であるし、全面的な真理でもないが、大事な信仰の側面を言い当てていると思っているのです。禅学者の鈴木大拙も「記憶というものは大切なものだ」と、ある所で語っています。

 しかし、単純に「信仰とは記憶である」と言ってしまうと、以下のような難問にぶっつかる。これは1994年11月20日の週報にも書いたことであるが、大正から昭和にかけて、作家、思想家として活躍した人物で、倉田百三という人の言葉です。

 「もし、ピストルの玉があなたの頭に打ちこまれ、あなたが意識を全然無くしてしまったとする。その時、それまで信じていた、あなたの信仰はどこに行くだろうか。信仰していたことも、信じていた内容も、みんな記憶を失ってしまう。その時、あなたは天国に行けるという、その確信を持てるでしょうか」

 倉田という人は大正の頃、論文集「愛と認識との出発」や、戯曲「出家とその弟子」でたいへん有名になった人です。その後、神経症に陥り、不眠症どころでなく、一番ひどいのは計算恐怖症という他人には推測もつかない奇妙で悲惨な症状に陥る。ところが、今では世界的認知をうけている森田正馬博士の治療法によって、その状態から解放されて、彼に大変化が起こる。その治癒法は医学的治療のようなものではなく、禅宗の修業か、その考え方の習得法に似ていた。だから、その治癒そのものが非常に宗教的「悟り」に似たものであったのである。

 彼はその森田療法による解放体験を得てのち、親鸞の信仰がよく分った。私は獄中で倉田の「生活と一枚の宗教」という本を読んで彼の真宗的信仰の徹底さを知った。すでにその時、私自身回心していたので、一種の宗教的共感を覚え、体がおののいたものです。

 先に載せた「ピストルの玉があなたの頭に打ちこまれたら、あなたの信仰はどこに行くだろうか」。この倉田百三の言葉は、彼らしい、最も彼らしい信仰の底を衝く質問である。この質問を最初知ったとき、私はまだ信仰を持っていない二十歳まえの時であったから、この容易ならぬ質問に私の魂はわなないた。この質問にたいして倉田百三はすでに解法を持っていると私は思った。しかし、私はそれを持っていないことを自覚した。私は悶えた。私の魂は、それを求め、かつ飢え渇いた。

         *

 ところで、話題をちょっと転じる。昭和18年(1943年)の夏、私は非戦主義の故に軍隊からの召集を拒否して自殺をはかった。戦時下、当然、当時の法律にふれる。私は逮捕され、起訴されます。罪名は「兵役法違反」と「出版言論集会結社等ニ関スル臨時取締令違反」。

 外観には、兵隊に行くのを恐れて自殺をはかったという格好ですし、そこに私の気弱な性格が見え見えの感じなので、どうも恥かしい。もう一つ、当時、私はまだ本当のクリスチャンではなかったにしろ、でも自殺行為をはかったということは、現在クリスチャンである私としては、これも又、恥かしい、困るのです。

 しかし当時の私は、警察につかまって後は、警察でも、検事局でも、裁判の法廷でも見苦しい言い訳はしなかったと思います。「窮鼠猫を噛む」とも言えるが、検事とは激論を戦わした。検事は「お前のような奴は刑務所に送って使い殺してやる」と言った。大分の裁判所の公判では「懲役1年」の判決だった。当時としては破格に軽い刑で、その時の裁判長は偉いと思う。その故だろうと思うが、加えて検事と激しく口論した影響もあったろう、検事局は判決に抗告しそうな気配があった。

 その判決の日は昭和19年(1944年)1月14日である、奇しくも私の誕生日、満22歳であった。刑の執行後、私は福岡刑務所に送られる。

         *

 さて信仰上の苦悩は、福岡の刑務所にはいってからひどくなった。刑務所にはいってからは、私の心の中では「非戦論」はあきらめ、もう棚上げである。そして、神様の前における罪の問題、悪に染んだ自分の心、また言いようのない人生の不安、そうしたことが強迫観念のように、日夜、自分自身を責める。事実、体内時計過敏症と私の称する神経症すら起こった。

 キリスト教の知識はあった。ルター流の義認の信仰をはじめ、その他の教理も大体は知っていた。ただし、その信仰の実感が掴めなかったのです。イエス・キリストを信じたかった。大声をあげて叫びたいほどに信じたかった。しかし、どうしても信じられなかった。自分のこの理屈っぽい意識がイエス・キリストを信じるという心理状態になれるとはどうしても考えられなかった。

 しかも、可笑しいのですが、口はもちろんのこと、心の中でさえ、「私はイエス・キリストを信じられない」とは言えない。それを言ったら「もう万事お仕舞いだ」、とおののいているのでした。そして「なんとかして信じている自分を発見したい」と思う。それが私の本心であったのですが、そんな獄中のある日、

 私は勇気をふるって丸一日かかって自分の心を点検しようとした。「私はイエス・キリストを信じているか、どうか。本気で確かめよう。もし信じているならお前は救われるのだから」。そして一日かかって私は最後に自覚した、「私はやはりイエス・キリストを信じていない」と。

 この言葉を心の中で言った瞬間、私の前に地獄が開けた。地獄の炎がメラメラと燃え上った。「ああ、もう私は永遠に滅びる」。絶望感が私の脊骨と内臓を貫いた。地獄の火を恐怖をもって見つめながら、私は3日間過ぎて、昭和19年(1944年)11月23日の夕刻、

 不意に、私の脳裏に聖書の一句「すべての人に代わって一人の人が死んだので、すべての人はすでに死んだのである(第二コリント5:14)」という言葉がひらめいたのである。

 「一人の人」とはイエス・キリストである、「すべての人」の中には、この私も含まれていると私は即座に思った。そうだ、私は死んだのだ、醜悪な虚偽と卑怯さに満ちた私の自我は死んだのだ。そのことが私の現実として確信出来た。そういう確信が心に湧くこと、不思議であった。これこそ聖霊の働きだと私には思えた。

 この一瞬を、よく私は「イエス様の声を聞いた」とか、あるいは「わが神秘的体験」とか呼ぶ。しかし、レアルに書けば、「ふと気がついた」ということに過ぎない。パウロのように光に照らされ、地上に打ちのめされ、肉声でキリストの声を聞いた、というようなことではなかった。私の父のように部屋中が光に満たされた、そんなこともなかった。しかし、

 アウグスチヌスと同じように「心に平安が満ち溢れ」、ジョン・ウェスレーの経験と同様に「胸にあたたまりを覚えた」ということは、私はへりくだりつつも断言できる。だから、やはり私はイエス様の言葉を聞いたと言いたくなるのです。そして、私は確信する。この私の信仰はペテロやパウロや、あの使徒たちと同一の尊い信仰を主より授かっているのだと。かように公言しても、高言にはなるまいと私は思うのです、呵々。(第二ペテロ1:1参照)。

 この信仰は「たとえピストルの玉が私の頭に打ちこまれ」ても、私の深層の記憶からは消えることはないと信じます。これこそ「救いの確かさ」です。まさしく消えることのない「記憶
!」ではないでしょうか。 
  (1999年1月31日週報より再掲載)

 

【私の想い出−18−】

先週もこの欄でアウグスチヌスやジョン・ウェスレーのことを書いたのでした。 私もくどいですね、呵々。さて、上記にある「イエス・キリストを信じているか、 どうか。本気で確かめよう」という気持を起したというのは、ガラテヤ人への手紙2:16に「人の義とせらるるは律法の行為によらず、キリストを信じる信仰に由るを知りて、キリスト・イエスを信じたり」というみ言葉があったからです。これは文語訳ですが、ほとんど現在の口語訳も同じです。現在の日本語訳聖書はみな同じように訳しています。▼さて、私は戦後になって英訳の聖書を読んだ時、右の聖句の傍線の個所が「キリスト(オブ)信仰によって」となっているのを見ました。驚きました。さっそく貧しいギリシャ語能力ながら、その個所を原典で読むと、まさしく「キリスト信仰」なのですが、傍線のところが「キリストの(屬格)信仰」と英語で言えば、所有格です。再び私は愕然としました。「私が信じる信仰」というのではなく、「キリストの持っておられる信仰によってよって救われるという事です。▼後で、知りましたが永井直治訳「新契約聖書」だけは「キリストの信仰」と訳してありました。もちろん「自己の意思で信じる信仰」は大事です。しかし、それでも尚「キリストの信仰」とわざわざ所有格で言い表すパウロの確信は本当に凄いです。翻訳はこのように微妙で大事です。マルコーシュ・パブリケーションの笹井大庸兄が聖書の真の聖霊的翻訳を計画しています。大賛成、後援しましょう。 

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