キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

2001年1月

2001/1/28

神様をどうして知り得るか

 私たちは天然自然、すべてのものを見るとき、そこに神様の御手を認めることができます(ロ−マ1:20)。自然の営みを観察してギリシヤのヘラクレイトスは「万物流転」と言いました。

 それを他の面から東洋人はカルマ(因果)というふうに観じるのです。これは聖書にくらべれば浅い認識だと言って、これを蔑視するクリスチャンがいますが、それは慎まねばならぬことです。万物流転の自然観はヨブ記に的確に書かれている事ですし、因果の法則は旧約聖書の重要な倫理学です。

 また、自然の豊かな実りや生産を享受し、それを感謝し賛美することは善いことです。しかしそれが、しばしば謬った偶像信仰を招きました。けれども、それも万物の創造者に対する開眼、賛美と感謝の第一歩であることは事実です。

 まして自然の美と、その荘厳さに打たれ、美的観照、更に進んで宗教的崇敬心を起こすに至ることは誰にも分ることです。聖書にも詩篇第19篇のように極めて雄大に天体を観照して歌う詩篇があります。 永遠、無限、宏大、深遠、秩序と整合性、優美、力動性、生産性、こうした神様の属性の一部を天地自然の中に、よく観察することができるのです(ロ−マ1:20)。そのようにして、人は見えない神秘な方をあこがれ始めるのです。

 「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、被造物において明らかに認められるではないか」(ローマ1:20)とパウロは言います。まして神様の創造の最高の作品である人間にこそ、神様の人間手作りの御手の跡型が伺えるのは当然です。

 絵画などに、その作者の落款(サイン)がしるされているように、人にはそれぞれ神様の落款が押されているように思えます。それが非常に汚損されているとは言えますが、良心とか、霊とかいうのがそれです。

 良心というものは戒律型、命令型です。ロ−マ2:14,15のとおりです。(註、人の良心というものは完全ではないのです。すべての人の良心はエバとアダム以来汚れているのです。しかし、有るのは無きに勝ります。特に人が心に誓ったコトバを守ろうとするのは良心的人格の本質でして人間の人間たるところです。良心は信仰と聖霊によって清められなくてはならないのです)。

 この良心が狂ったり、歪んだりしているとき、人は神様を認めようとしません。良心が苦しむからです。神様なんか無いんだ、という人がいます。そういう人は実は神様が有ったら困る人たちです。

 良心的に生きている人にとっては、功利的な言いかたですが、神様がおられ、死後の世界があったほうが善いはずです。

 霊の領域は良心よりも、さらに深く人間の中心にあります。人の内発的、自発的におこる愛(雅歌2:7下)や喜び等の感性、真理を悟る理性、善悪いずれかを選択し志向する意志、それらは元々は霊の領域より発します。

 霊が人間の最も内奥部にあるものとして、その周辺に心(魂、精神)、その更に外側の周辺に肉(感覚的自我)を想定できます。こうした人間構造の三層図を冥想するとき、「不可視なる父なる神、その御心としての聖霊、肉をまとった可視的神なるイエス様」の三位一体的神様の在りかたを多少とも伺うことができます。

 人間はトガを犯しやすいものです。しかし、トガをいくら責めたてても、それは無くなりません。無理につみ取れば、他の所から違った形で芽を出します。

 トガは内なる罪の結果であって、ちょうど内がわの体質改善をしないと皮膚病がなおらないように、罪を処理しないとトガはなくならないのです。それかあらぬか、トガという言葉は旧約聖書には頻繁に出ますが、少なくとも口語役では新約聖書には一度も出て来ません。

 神様は聖にして義なるかた、人間を愛すると言っても、その聖にして義なる属性の故に、人は神様に近づき得ません。

 旧約の時代、しばしば「人は神を見れば死ぬ」と言ったのはそれです。石の下にうごめく日陰の虫が太陽の光を恐れて、その日光の下には生きて行けないように、人はこの罪の実のままでは神様の前に出ることが出来ません。

 人の罪の問題を処理できる方は、罪の親玉であるサタンを打ち負かしたイエス様だけです。「神の怒りは……、人間のあらゆる不信心と不義とに対して天から啓示される」(ロ−マ1:18)とありますが、この神様の罪に対する怒りが、確実に、徹底して、具体的に、残酷なまでに顕わされるのが、十字架上のイエス様に於いてです。

 そして、イエス様は神様のその怒りをご自身の背に存分に背負われて、陰府のどん底まで下って行き。そこでサタンに圧倒的に勝利されて、地上に復活されるのです。その復活の力をもって神の御子は罪の牢獄にうめく私たちを悪魔の手から奪還してくださるのです。これが聖書のダイナミックな人間救済計画です。

 これはまさしく、人の目には愚かに見えますが(第一コリント1:18、21参照)、真に神様にふさわしい智慧であります(ヘブル2:10)。

 そして、この人間の罪と罰からの解放を、全被造物がうめき声をあげて待っている(ロ−マ8:19〜22)というのがパウロの深刻壮大な自然観です。静観的風物観照の東洋的自然観にくらべ、なんと倫理的、なんとダイナミック! ここに神様の全知、全能、正義、愛、聖、等の「力と神性」が窮極の姿を帯びて現れてきます。これが、キリストの福音です。

 私たちは神様をどうして知り得るのか。実は神様が初めより私たちを知り、召してくださっているからです(ロ−マ8:29)。いいえ、神様はまず、私たちを「あなたはどこにいるのか」と捜し求めておられる方です(創世記3:9参照)。私たちは神様に知られて、神様を知るのです(ガラテヤ4:9)。

 そうです、この神様の求めに応答すること、それが信仰だとも言えます。聖書と、特にイエス様の生涯と十字架は、神さまからの人間呼かけであり、啓示であり、福音です。

 さて私たちは、神様の怒りをどうして避け得るか。イエス様の十字架の蔭に隠れるほかはありません(ガラテヤ3:13、ヘブル9:22)。そこには更にまさる、勝利も恵みも豊かにあるのです。主は豊かに命を人に与えようとして地上に来て下さったのですから(ヨハネ10:10)。 
  (1988.5.29、主日礼拝メッセ−ジ、「ロ−マ人への手紙」 第6講より付加訂正して再掲載)

 

2001/1/21
福 音 三 重 奏

「ダビデの子孫として生まれ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」
               (第二テモテ2:8)

 むかしの流行歌に「××二重奏」というのがあったような気がします。真似をして、こんな題をつけてみました。

 かかげた聖句は使徒パウロが弟子のテモテに書き送った手紙の一節です。パウロの信仰が端的に現れていると思います。

 福音の第一は「イエス・キリストが、人間として肉をまとって生まれ、そして十字架の上の人類の罪を背負って死なれ、そして復活されたということです。もっとくわしく言い添えるなら、復活の後、天に帰られ、父なる神の右に座し、そこから今も彼を信じる者たちに聖霊を送って下さっているということです。

 ここに書かれているのは、まず「父なる神様のみ旨を受けてイエス・キリスト様が何をされたか」という、その「事」なのです。

 福音とはまず、このイエス・キリスト様にかかわる「事件」なのであります。この事件が起っていなければ、私たちを罪と死から救い得る神の力は決して実現しません。

 福音とは人類の罪に関することです。福音という言葉はギリシャ語でユウアンゲリオン、たぶんこれを英語でエバンジェルと音をあてているのかと思いますが、訳せばゴスペル。この英訳の意味はグッド・スペル(=ニュース)、「善い知らせ」ということです。

 善い知らせ! これは確かに人類にとっても宇宙にとっても、根源的に最大の善い知らせです。エバ、アダムの堕罪以来、被造物はすべて虚無に服しています。人の罪の結果が被造物、つまり宇宙全体に及んでいるのです。この宇宙大の滅亡状態から万物が救い出されるためには、神の独り子が父なる神を見失うほどの神的宇宙的悲劇を経なくてはならなかったという、この事件です。これが聖書でいう「福音」なのである。

 事件と私が言うのは、それが「事実」だ、ということです。人間の世界には夢幻(ゆめまぼろし)というか、あまりに不確かな事が多い。

 私たちが目で見て、確かめて、これはまちがいなく実在するものと思っている物が、実はどうも真空状態のものらしいなどと言う。そういう物理学の世界を学者から聞くと呆然としてしまうのですが、聖書は二千年前からこう言っているのです。「見える物は見えないものから出来ている。私たちは見える物にではなく、見えないものに目をそそぐ。見える物は一時的であり、永遠につづくものは見えないのである」(ヘブル11:2、第二コリント4:18参照)と。

 信仰とは、この永遠につづく真のレアリティ(真実)に触れるということでもあります。哲学はレアリティの外郭をさぐり、(果実に例えるなら)その香りを嗅ぐことはできるが、しかしその実、そのものを食べることは出来ない。

              *

 さて、福音の第二ですが、その事件は人格によって起されたのだということです。かの事件を起されたお方はイエス・キリストです。この方が福音の中核です。イエス様がいなければ福音はなりたたないのです。

 さて福音は事件であると前述しましたが、その事件によってどのように(How to)して人が死と罪の状態や身分から救われるのか。聖書を読むと、そこに一つの法則がおのずから見えてきます。救いのシステムと言ってもよいですが、それが影のように投影されたものをさぐり得た天才的先人たちがいます。

 釈迦とか、ソクラテスとか、孔子とか、そういう人たちが、それでしょう。私は日本において、その人たちのすぐれた弟子たちを発見することができます。この人たちは日本の誇りです。空海、法然、親鸞、日蓮、道元、また私は儒教では中江藤樹、教派神道では黒住宗忠など、私は彼らを尊敬し、愛します。

 しかし、イエス・キリストは格別にかけ離れて独特な人格です。このお方が地球の歴史上にくっきりと足跡をしるし、時を刻んで下さった。そして真理を語り、真理を生き、人類救済の事実を為し終えてくださったということは、神のみ心による特別のことです。

 イエス・キリストは十字架上で息を引き取られる時、「全ては終わった」と大きな声で叫ばれたと聖書にあります。この「全ては終わった」という言葉には、なんとなく絶望と自暴自棄の語感がありますから、時々、この聖書の個所を読む人がつまづく。

 特に日蓮系の人は、日蓮聖人が首切り役人の刀の前で雄々しい態度を示して奇蹟をもって救われる、この伝承を盾にイエス・キリストの最後を揶揄することが多いのですが、実はイエス様は最初から死ぬことを目的として地上に来られたのです。この十字架の死なくてはイエス様の生涯は終わりようが無いのです。

 キリスト教の中心はイエス・キリストの、その人にある。この方がいなければキリスト教はなりたたない。「この人以外に救いはない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4:12)ということです。

              *

 さて福音の第三は何か。パウロの言う「わたしの福音」ということです。この接続詞「の」という言葉は、所属を示す言葉です。

 当教会の名称を決めるときにも、この「の」を使いました。私は迷うことなく、キリストの福音大分教会と決めたものです。私の存在のすべてをキリストが持って居られ、私のすべてはキリストから頂いたた福音にかかっているという自覚があったからです。

 パウロもそうです。この福音の力をパウロが体験したのは、あのダマスコ途上でキリストの光に照らされた時でしょう。彼はこの経験を使徒行伝のなかで3回も語っていますが、これは彼はいたる所で、この経験を語らずには居れなかったということを示しています。語らなくてはおれなかったのです。私が何かと言っては、つい22歳の秋、福岡の刑務所の独房で、回心した自分の信仰の証しをしないでは居れないのと同様です。

 パウロはイエス様による救いの事件と、そのことを為された主体者であるイエス様の人格を、いつも思いつづけていると、ここで漏らしています。私はかつて、彼が「イエス様のことを思っている」という、その思い自体が彼の福音なのだ、とさえ講壇から言ったことがあります。

 自分がイエス様とその救いの事件について思うことができ、その思いを自分の心に蓄え、思いを持続できる。そのことが自分の脳裏より離れがたい習慣となっている、これこそ私の福音ではないか、こうパウロは言っているのだと、私には思えたのです。ともあれ、

 福音(救いの力)が「私のもの」になっている。つまり二千年前の歴史的あの事件、その主体者であるイエス・キリスト様、その福音が今、私のものになっているということ、このパウロのいう「私の福音」、この「福音の三重奏」をあなたも、あなたの魂で奏でてください。 

 

私は元祖で、あちらが家元

 電話番組「ワッハッハ元気が出る電話」は昨年11月21日から始めました。(ちなみに「テレホン聖書」はもう始めて20年になります。皆さんから愛聴されて人気番組になっています。みなさんのご援祷を感謝します)。さて、「ワッハッハ元気が出る電話」のことですが、この電話回線は長い間、小松栄次郎先生の「星の子どもたち」のテープを拝借して使っていたものです。それが急な事情から突然「星の子どもたち」を中止しますと本部から連絡があり、困惑したあげく、せっかく電話回線があるのだからと、急遽「ワッハッハ元気が出る電話」を始めたのです。お聞きになれば分かりますが、ちょっと類のない電話番組です。のっけから「ワッハッハ」と私の大きな声が出てくるのですからね。

 最近は世の中にも、笑いを推奨する本がいろいろ出ています。それは読むだけで笑わせられる滑稽物語や、ジョークやユーモア噺の紹介などです。それも良いのですが、独りで家に居てテレビも見ない、本を読まなくても、自力で「ワッハッハ」と笑い出せる強力な笑いを持ってほしいと始めたのです。そこで、私はまず「独り笑い」のデモンストレーション(実演)をやってみせます。昔から「笑う門には福来たる」と言います。笑うことは良いことだくらいは皆さんも知っているのです。しかし、嬉しくも可笑しくもないのに突然笑い始める、そんなことは出来ません。

 私は言います。私は笑いの実演者(デモンストレイター)であり、かつ笑いの実践訓練者(トレーナー)であると。電話を通して私の笑う声を聞いたら、少しでも笑ってみようかと考えると思います。そして、私の声につられて少しでも「ウッフフ」と笑い始めたら、しめたものです。

 本当は、実際に私の所に来て試みてくだされば、なおさら良い練習が出来ます。練習し習慣づくと、いつでも自然に笑える人になります。

 「なぜそんなに笑うことを奨めるんですか」
 「いつも喜べる人になるためです」
 「そりゃ、無理です。何も喜ぶことがないのに笑えませんですよ。それを無理に笑うなんて、不自然ですし、偽善ではありませんか」
 と、答えが跳ね返ってきます。しかし決して、人にむかってお追従笑いしたり、又だますためにニコニコ笑ったり、そういうことではないのです。ただ自分を磨くために笑う練習をしているだけなのですから、それは偽善ではありません。努力だと言うべきです。

 私は大きく大げさに、手をふり、足も跳びはねるようにして、口を大きく開けて、大きな声で出来るだけ長く、笑うことをお奨めしています。そうしたほうが体にも心にも、なおさら笑いやすい習慣を作るからです。実際の場面でそんなに大きな声で笑う必要はありません。とは言え、人の前で、また大勢の人のなかで、大きな声をあげてパフォーマンスよろしく笑うことは、実に気分がいいものなんですよ。これは体にも心にも健康のもとだと、私は自分で実感しているのです。
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 さて、この私の笑いの実践強要?(いや教養)教室みたいな「ワッハッハ元気が出る電話」を、毎日聞いてくださっているのが岡山県倉敷市にお住まいの小橋護牧師先生です。毎朝、一番に私の「ワッハッハ元気が出る電話」を聞き、それから「テレホン聖書」を聞いて下さっているそうですが、今日も電話をくださった。

 「先生、私はこの『ワッハッハ元気が出る電話』を毎日聞いて、ワッハッハとやっているうちに、私は最近、変わってしまいましたよ。頭のてっぺんから足の爪先まで、まったく変わりました。市中に出ても、街角に立って「ワッハッハ」と路傍伝道を始められるんですよ。近所の方々と道で会っても、何かとジョークを言っては「ワッハッハ」ですわ。礼拝でも信者さんといっしょに「ワッハッハ」、礼拝の雰囲気がすっかり変わってしまいました。楽しくて嬉しくてたまりません」 とおっしゃる」。

 私は、もうびっくりしてしまいました。遠い地方におられる信者さんから電話がかかってくる。小橋先生が「ワッハッハ」と笑うと電話の向こうで、その信者さんが「先生の声を聞くだけで、元気が出ます、私」と言っているそうです。

 そこで小橋先生、毎日のように私に極彩色のマンガ入りハガキを描いて送ってくださる。そのハガキに、私に対して「ワッハッハの元祖様」と書いてある。はがきの表にそんな絵や文字が一杯だから、郵便配達のおじさんがクスクス笑いながら配達してくる。

 ところが先日、この小橋先生がB全版の模造紙に大きな「ワッハッハ宝舟の絵」を描いて、送ってくださいました。七福神ならぬ、何人もの笑顔の天国人たちが一杯乗っている天国からの「宝舟」でしょうか。祈祷会の日に、みなさんの前にこの絵を貼って「主を喜ぶことは私たちの力です」と賛美の歌を歌ったことです。その絵を下に載せます。

 さて、こちらの元祖先生(釘宮)より、この小橋先生のほうがずいぶん元気が良いような気がします。そこで、私は言うのです。「どうも小橋先生が笑いの家元だよなあ、こちらは元祖かも知れないが、あちら様は家元だよ。しかも家元のほうが元祖よりも勢いがよいようだよ」。

 小橋先生のおっしゃるとおり、「笑っていると、人が変わってくる」というのは事実です。笑いつづけていると、本当に人の性質が良い方に変わってくるようです。性格というより性質なんです。性格と性質がどう違うのか、言葉の詮索はむつかしいですが、とにかく四角ばらない、くだけた人になるのです。

 「神は砕けた魂をかろしめたまわない」という言葉が聖書にありますね。徹底して悔い改めた、へりくだった心です。しかし、もう一つあります。「あの人はくだけた人や、付き合いやすい人やなあ」と言う手の、「くだけた」という言葉です。膝をくずして屈託なく話し合えるような、そういう「くだけた」という人物像があります。「ワッハッハ」と笑う練習をしているうちに。こういう人物が出来上がってきそうです。

 大胆に言えば、笑いは一種の瞑想です。またある意味で信仰の訓練法の一つです。笑いはけっして信仰の中心ではない。しかし信仰を深め、強め、広げるためには、絶好の道具であると思っています。 

 

2001/1/14
喜ばしき忍耐の力

 全国の府県知事の中で大分県知事の平松さんは有名な人です。「一村一品」とか、「ローカルにしてグローバル」などキャッチ・フレーズの名手です。この平松さんが熱情を燃やしている一つがワールド・カップ。

 そのワールド・カップ、再来年、大分市松岡の競技場が会場である。収容人員は五万人は越えるかと思うので、将来、大分で伝道大集会を開催するのはもってこい。まず手始めに今回(2002年6月?日)の大分開催の際に有名クリスチャン選手(ビスマルクのような)を迎えて伝道会を開いたらいいなあ、などと内々相談も始まっている。

 中国、四国、九州をクローバーの三つ葉に例えれば、大分市はその三つ葉の中心になります。問題は佐賀関半島と佐田岬の間をつなぐ豊予海峡に架ける橋がほしい。これが先にご紹介した平松県知事の念願です。私たちも大賛成。みなさん、平松知事のこの夢を応援して下さい。

 大分市の城址公園、旧県庁裏の松栄神社の入り口に「継続は力」という大きな石碑がある。これは平松知事の父君・平松折次氏の文字。戦前のこと、この方は教育に熱心で大分市の中島に私立の大分夜間中学校を立てた。勉強したくてたまらない商店や町工場の店員さんや工員さんたちのために立てたのである。なかなか出来ないことである。

 夜間中学! 昔、住み込みの店員さんや工員さんなど、きびしい仕事をすませて、夜、学校に行くのです。難儀です。自然、挫折する少年たちも多かった。そこで平松校長さんはハッパをかけた、「継続は力!」。今では誰も知っているこの言葉、実はこの平松折次氏の創唱である事を評論家の草柳大蔵さんが調べ出している。

 さて、この継続ということ。これは実は「忍耐」という言葉の裏言葉です。忍耐という言葉は、なんだか重苦しい、辛い感じです。事実、そういう艱難辛苦の忍耐も世の中に多いのです。しかし、ちょっと考えを変えて、これは「継続」なんだと言い直してみるとよいと思うのです。

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 私の毎日吹き込んでいる「テレホン聖書」や「ワッハッハ元気が出る電話」、単純な毎日の継続作業です。「テレホン聖書」はもう始めて20年になります。「20年」と聞いただけでも「ようやりますなあ」と、尊敬してくれる人がいます(面映ゆい!)。

 とろで、この吹き込みそのものが、しばしば忍耐を要します。やっと吹き込みを終わりかけたと思ったら、そこへ「ジリジリジリー」と電話がかかる。そう、私の家には音を遮蔽する録音室などないのですよ。隣家の犬の鳴き声が入ることもある。こういうことに最初はイライラしていましたね、しかし、もう慣れて来ました。

 「大丈夫、大丈夫。やり直せばよい。もっと良いメッセージが出来るかも…」と無理にでも思うことにして、もう一度やるのです。いつもぶっつけ本番の吹き込みですから、その時その時の出来、不出来も極端。妨害音以外に私自身の不首尾も多い。それも仕方ありません。「大丈夫、大丈夫」と言いながら耐えているのです。

 しかし、このようにして20年も継続してきますと、慣れてしまいます。いろんな支障にも笑って耐えることが出来るようになります。継続は知らず知らずのうちに忍耐を生み、忍耐はいかなる事態をも平穏に受けとめる性格を作ってくれるのです。

              *

 ガラテヤ人への手紙5:22,23のみ言葉をご存じでしょう。

 「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自 制であって、これを否定する律法はない。」

 これはクリスチャンに、ぜひ持ってほしい品性というものです。そして、私は前々から、よく言ったものです。もし、この九つの品性の徳目にもう一つつけ加えることを許されるなら、「忍耐」という言葉をつけ加えたいと。(忍耐は自制に含まれるのではないかと言う方もおられましょうが、私は自制心というものは禁欲とか忍耐とかを含めないで、もっと積極的な精神の自在性であると考えています)。

 私の思うのに、忍耐心は最低限の状況において人間の精神力を最強に発揮させる最大の力です。ですから、忍耐心は実に人間を最高に育てあげる力です。ヤコブの手紙1:4に「(あなたがたは)なんら欠点のない、完全な、出来上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせなさい」、とあります。又、ヤコブの手紙1:12には、こうもあります。「試練を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束された命の冠を受けるであろう」と。

 クリスチャンとしての第一歩はイエス様を信じて、内に新しい命を頂くことです。そうすれば霊の目で神の国を見ることができます。死んだら天国に行ける約束を受けます。その確信を与えられます。しかし、

 その信仰の第一歩から次に進む時、更に雄々しい、もっと力強い、前記の聖書の言葉にあるように「なんら欠点のない、完全な、出来上がった人」になれるはずです。また遂には「約束された命の冠を受ける」ようなクリスチャンになれるはずです。ヤコブは言います。「そのために必要なのは忍耐である」と。

 よくパウロの「神の力は弱いところに完全に現れる。私はむしろ私の弱さを誇ろう。なぜなら、私は弱い時にこそ強いからである」(第二コリント12:9〜10参照)という言葉を引用して、弱くてもいいんだ、と開き直る人がいます。それも一つの受取り方ですが、パウロはそこでは、客観的には弱らざるを得ないような状況の中にあっても、神様によって強くされている自分の不思議な信仰の生き方を表白しているのです。

              *

 クリスチャンの第二歩と言うべきか、第三歩というべきか知りませんが、とにかくすべてのクリスチャンに、「もっと力ある人生、また清められた人生を過ごしてほしい」と思うのです。そのような人の第一は、聖霊経験というべき瞬間的な霊的次元引き上げによって大きく恵まれている人たちです。もう一つは「信心のための自己訓練」(第一テモテ4:7)によって、地味な上昇課程を踏んでゆく人たちです。

 「自己訓練」と言えば、厳しい修道院的訓練もあると思いますが、私が推奨するのは言葉とイメージによる案外やさしい訓練法です。割合に楽しくできるものです。私の書いた小冊子「だれでもできる精神強化法」は参考になるかもしれません。

 要するに訓練というものは何でも、運動でも芸事でも、易しいことから難しいことへ段階を踏んで、持続、忍耐、継続、習慣化し、癖となり、自在能力へと、自分を造りあげて行く事です。たとえば、

 「いつも喜んでいなさい」(第一テサロニケ5:16)と聖書の、これは命令です。そんなことは難しいよとあきらめないで、私は出来るかぎり笑うことから始めます。嬉しくも可笑しくもない時に、いきなり「ワッハッハ」と笑ってみます。そうすると次第にどんな時でも笑える自分になって行きます。そういう習慣を身につけるのです。いつしか、いつも喜んでいる癖がつきます。習慣や癖は第二の天性、こうして、「喜ばしき忍耐の力」を練りあげましょう。 (2001,1,11、祈祷会にて)

 

2001/1/7
欲望充足の時代から
   神意発現の時代へ

 世界は何から出来ているか、ギリシャの哲学者たちは、それは火だとか、水だとか言った。万物の本質を見極めたいのは人間の本能ですね。

 現代になっても、この宇宙が何から出来ているかは、推論の域を脱しない。この宇宙を生み出し、支えている力は何か、素粒子などの学問では「四つの力」などと言っているが、科学者はやはり複数では満足できない、単数にしぼりこみたいのではなかろうか。これは人間の持っている本能的知的指向であろうと思う。聖書は次のように言う。

 「神は御子を万物の相続者と定め、御子によって、もろもろの世界を造られた。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。」(ヘブル1:2,3)

 創世記第一章を読めば、だれでも気がつくが、神様は言葉をもって天と地を造られた。特に最初に「『光あれ』と言われた、すると光があった」とある。太陽ができるのは第四日目であるから、太陽の出来る前の「光」とは何であったか。光は万物が造られる基本的素材とも言える。

 一方、「神は光であって、少しの暗い所もない」などと聖書は神様の属性を説明する。物理学上の光はどう考えてもモノとは考えにくいが、光がモノが造られる土台であることは創世記第一章によると確かなような気がする。現代科学もこれを弁証してくれるかもしれない。

 その上で、もう一つ考えたい。「御子は……、その力ある言葉をもって万物を保っておられる」という言葉についてである。それは、宇宙とこの私たちの世界を支える「力とその秩序と法則」を、御子のものとして指しているのである。

 もし「御子」という人格を抜きにして、「力とその秩序と法則」だけを取り出して語り、これを称揚し、これを信仰の対象とするなら、これは仏教に似てくる。まさしく、仏教は神という唯一者を見ないで、その影だけを仰いでいる宗教だと言ってもいいだろうと思う。その限りにおいて、決して誤りではない。そこに真理があると思う。単に偶像教だなどと言って蔑視してよい低俗な宗教でないことは明らかである。

 しかし、キリストは「神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿」(ヘブル1:3参照)なのである。故に、神様が地上に降り立った時の栄光の姿をイエス様においてはっきり拝することができる。これがキリスト教である。「法」においてでなく、キリストという人格において真理を拝し、真理を学び、永遠の生命を頂く、これがキリスト教である。

              *

 さて、いよいよ21世紀に入りました。というより、第3ミレニアム(千年紀)に入ったと言うべきでしょう。人類の歴史から見れば、第7ミレニアムです。黙示録第20章のキリストと共なる千年期にはいったと見るべきです。まだ、黄金の「至福千年」の様相はどこにも見えないように思いますが、しかし世界各地におこっている大リバイバルのニュースを聞くと、「至福千年」も近いという予感がしますね。その予感と期待に私たちの胸は震えます。

 ところで、視点を現実の現代に呼び戻します。ある新聞にこんな投書が載っていました。「20世紀は膨脹の時代だった。21世紀は求心の時代でありたい」と。確かに日本を見るとそんな気がします。1904年日露戦争、1910年日韓併合、1914年第一次世界大戦、1931年日中戦争、1941年大東亜戦争、1945年の敗戦により、平和国家に転向、以後続く50年間、経済戦争でアメリカを辟易させる。たぶんアメリカとしてはいまいましいことであろう。前期は軍事力で、後期は金の力で、膨脹に膨脹を重ねる日本に黄禍の気配を感じるのは、白人国家としては尤もなことです。しかし膨脹主義は白人国家のほうが本家です。

 18世紀から19世紀にかけて西洋諸国家によるアフリカ、中南アメリカ、東南アジアの植民地強奪競争は目を覆うばかりの無惨さです。ドイツが遅れをとりますが、それが第二次世界大戦の原因でしょう。日本も同じくです。右に当時のドイツの新聞がイギリスの植民地支配を揶揄している漫画をのせておきます。右がわの宣教師の所在に注意してください。

 最近は、どうも見ることが出来ませんが、1930年頃までは目にすることができた「進化論」の図表の一つ。アメーバから始まって、魚、蛇、鳥、豚、牛というように生物が進化し、最後に猿、チンパージ、人間の黒色人種、黄色人種、白色人種となっており、西洋人が一番進化した人間ということになっている。我々日本人はどうも二等人種らしい、残念ながら当時、私たちに対してこの絵には説得力がありました。白人の彼らと我々の文明度の違いを見て承認せざるを得ませんでした。この絵は過去において確かにあったし、私の目にはっきり見た記憶があります。ぜひ発見して博物館に保存しておきたいものです。

 この進化論の故に、西洋人は人類の兄貴分として劣等人種を従え、彼らを見下し、追い使う権利があると見たのです。日本人の韓国や中国に対するいわれ無き蔑視も似ています。この蔑視感情は具体的暴力や収奪行為よりも罪は深いと私は思っています。この根は深い。これを悔い改めなければ、特に本当の日韓友好は実現するはずがありません。

              *

 20世紀まで、世界は文明という人間の便利さだけを追及してきました。もう、人間の欲望を充足させることのみに熱をあげる文明論は終息する時だと思います。すでに環境問題が浮上し、それに対するインフラも国家政策に上がってきつつある時代です。これからは、知的ヒューマニズム、情操的ヒューマニズムを越え、国民意識の深層に聖書的倫理水準の土台に国民の意識を築くべき時ではないかと、私は思いつつあるのです。それが本当の文明だし、文化だと思います。

 実はキリストの福音が国民の大半の層に根づき、聖霊による福音国家が建設されるとき、神様の御心が私たちの国に発現する。そういう国家を期待することは度はずれた願いでしょうか。さて、聖書は言います。

 「すべての人を救う神の恵みが現れた。私たちを導き、不信心とこの 世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、私たちの救い主イエス・キリストの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。」

 テトスへの手紙2:11〜23のお言葉です。この御子イエス・キリスト様の恵み、万人を救う恵み、この恵みにより、私たちはあがなわれて世の情欲を捨て、御子の「力とその秩序と法則」に支えられ、この地上生活に勝利する。そして尚、今すぐにも「私たちの救い主イエス・キリストの栄光の出現」を期待出来る! 何たる恵みでしょう。主を賛美しつつ、皆様の上に今年のご祝福を祈ります。 (2001.1.1.新年礼拝)

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