キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)2001年2月
2001/2/25
香油のすべてを注げ
一、聖書の中で最もうるわしい物語
ここに登場する女性はベタニヤのマリヤです。彼女の姉のマルタは、てきぱきとした気性の人のようでありますが、マリヤはどちらかというと、情緒に溺れやすいタイプの人であったろうかと思われます。しかし、それだけにマリヤは直観の人でありました。
彼女は心ひかれるままに、自分の結婚のためにしまっておいたものでしょうか、高価なナルドの香油の壷を持ち出して来ました。それは後で弟子たちが300デナリ以上にも値踏みしましたが、デナリは当時のロ−マの兵隊の1日の給与額です。今の貨幣価値に換算すると凡そ200万から400万円見当の金額になりましょうか。
それは香りを失わないために石膏の壷に入れてあります。マリヤはその壷を割って、惜しげもなく油をイエス様の頭に注ぎかけたのです。彼女はそれが何を意味するのか、自分で分っていたとは思えません。
かつて、らい病をイエス様に癒していただいた人なのでしょう、シモンという人が主をお招きしていたのです。その宴席で起こったことです。強い香りは部屋中にみちました。弟子たちは気を呑まれて、しばらくは黙っていたでしょうが、でもやっとこう言ったかと思うのです。
「うん、先生の頭に油をお注ぎするのは良いことだよ、マリヤ。でも もっと良い使い道はなかったかなあ」
とりわけイスカリオテのユダの言葉は激しかったのです。
「そうだよ、無駄づかいだよ。三百万円以上には売れるはずだ。その 金を貧しい人たちに施すこともできたのに」
イエス様はそれらの言葉をさえぎって、次のように言われました。
「するままにさせておきなさい。なぜ彼女を困らせるのか。せっかく善いことをしてくれているのに。貧しい人たちはいつでも君たちと一緒にいる。いつでも善いことをしてあげられる。しかし、私はいつまでも君たちと一緒にいるわけではない。マリヤは出来るかぎりの事をしてくれたのだよ。つまり私のからだに油を注いだというのは、私の葬りの用意をしてくれたことになるのだ。よく、聞いていなさい。今後、私の福音が宣べ伝えられるところでは、世界中どこででも、このマリヤのしたことは語られ、人々の心に覚えられるであろう」
このイエス様の言葉のなかで最も重要な言葉は「私の葬り」という言葉だと思います。その言葉を耳にとめたのはイスカリオテのユダだけだったかも知れません、意味は理解できなかったにしろ。あとの弟子たちは何のことだか分からず、ただ聞き流してしまったことでしょう。
その時すでにユダはイエス様を祭司長たちに売り渡す決心をしていたはずです。ユダにとって重大な時でした。
*
この箇所は聖書のなかでも最もうるわしい物語のひとつです。
世の常識や律法的判断を越えています。マリヤの直観的一途な行為は美的情感に満ちています。それを理解できたのはイエス様だけでした。
イエス様は言われます。「彼女のしてくれたことは良い事なのだ」と。この良い事と訳されている言葉は「カロン・エルゴン」と言って、「自分を忘れた愛」という意味もあるそうです。まさしくマリヤは自分のしていることを知らずして行っているのです。
そうです。何が良いことであるか、それを悟るのは時には非常に困難です。しかし、ただ一つ知っておきましょう。それはイエス様が喜んで下さることこそ、本当に良い事だということです。
二、全力でぶっつかる
先だって、東京・秋川集会に行ったとき、ちょっと近所の書店に入ったのですが、小坂秀二という人の「わが回想の双葉山」という本が私の目を入りました。昔の人ならだれでも知っている天下の名横綱です。大分県中津市の出身ですが、今でもJRの日豊線でとおると、以前は天津村と言った所、そこに彼の出身地を示す標識が立っているのが見えます。
さて、この「わが回想の双葉山」という本ですが、読んで驚きました。双葉山が69連勝の歴史的偉業をなしとげた稀有な名力士であったこと、彼の立ち会いは「常に受けて立つ」という実に奇麗な立ち会いであったということ、そんなことはおぼろげに知っていましたが、その見事さを本当に知ったのは、この本によってでした。
笠置山という人は当時ただ一人の学生出身の力士で、インテリでもあったが相撲も良かった。この人は元来真面目な人なのですが、双葉にだけは正攻法ではどうしても勝てない、よし奇襲戦法で行こうというわけで、絶対大丈夫という作戦をねって土俵に上りました。しかし、仕切っているうちにだんだん意識が変わって行く。ついに全くの正面きっての取り組みになり、負けてしまった。しかし、こんな気持のいい、すがすがしい相撲をとったことがない、という感想を彼は残しています。
他の力士も沢山そういう感想を残している。とにかく全力をつくしてぶっつかれる人であったらしい。当時、羽黒山という力士がいた。言わば双葉山と共に両雄並び立つという感じの強い横綱、この人にまともにぶっつかろうとして立ち上がる時、全力でぶっつかるとは言うもののやはり5%か3%の余力は残したという、変わられたら困るからです。
ところが双葉山にはそれがない、まともにぶっつかって行けば必ずまともに受けてくれる。そういう攻撃を双葉山は喜んでさえいた。だから誰も微塵の迷いもなく、ぶっつかって行けたといいます。
この本の著者・小坂秀二氏が「双葉という人は昭和の第一級の人物です」と惚れきって書いていますが、本当にそんな感じがしますね。
三、神様に全力でぶっつかろう
さて、神様こそ全力でぶっつかろうとすれば、それこそまともにぶっつかれる方です。イエス様は、不義なる裁判官に裁判を求めたやもめの話や、夜半に客がきて隣の家にパンを借りに行った男の話、そういう例話を用いて熱心に求めつづけることを強く勧めました。
さて、聖書の中でもっとも熱意をもって全力で神様にぶっつかった人物はヤコブでありましょうか。彼は神様と相撲をとって、神様に勝った人であると、聖書は書いています。
反対に神様に負けて大いに悟るところがあった人もいます。使徒パウロが、それです。彼は、多分病気だったのでしょう、彼の肉体にトゲを与えるサタンの使いを離れ去らせてくださるようにと3度も祈った。けれども「私の恵みはお前にたいして十分である。私の力は弱さのなかで完成する」などと、神様の拒絶を喰うのです。しかし、それにパウロはまったく満足しています。いや感激さえしている様子です。なるほど、神様に全力でぶっつかってゆく人は「勝っても負けても」、あの双葉山ではないが、すがすがしい満足感を与えられるのだ、と思うのです。
マリヤはイエス様に香油を「注ぎ尽くし」ました。そしてイエス様はそれを喜んで精一杯受けてとめて下さったのです。(1991・11・10の主日礼拝メッセ−ジ、マルコによる福音書14・3〜9による。 )
2001/2/18
真の危機管理
一、森首相いじめについて
私は政治向きの事はしろうとで、まったく分からない。今、政界やマスコミの間で森首相いじめが始まっているが、この人はどこか平素なら憎めない人だろうが口が軽くて難儀している。私は森さんを一級人物として買っている訳でもないし、また何の縁故もないのだが、少し口を挟んでみたい。
今回の宇和島水産校のアメリカ原子力潜水艦による事故はたしかに憂慮すべき事件であるが、「あれは事故でしょ、危機管理の対象ではないと思う」と言う森さんの言葉は、たしかに遺族のみなさんがたにはむごいかも知れないが、しかし森さんの言い分は正しいと思う。
かつての阪神大震災とは違う。あの時の大分出身の首相トンちゃんは手ぬるいと言って批判された。大分市民として残念だったが、どうもやむを得なかった。
今回の森首相バッシングは田舎芝居じみている。政界やマスコミが森さんの足を引っ張るのは、実にみっともない。対アメリカ交渉のために、もっとバックアップしてよいではないか。ゴルフ権無償譲渡の件などといっしょくたに非難の論議に巻き込むのは大人気ないと思う。
物事はもっと大所高所から見よう。たとえば先だっての日航機ニアミス事件、あの時のマスコミは航空管制官の失策を非難する一方だった。しかし東京都知事の石原さん言わく、「だから言わんこっちゃない。東京付近の上空は横田基地のおかげでアメリカ空軍の飛行機の発着で過密状態なんだ。横田を移転しなくっちゃ、ああいう事故はなんべん起っても不思議じゃない」。
これは名言だと思った。それほどアメリカ空軍の飛行機の発着が激しく、あの辺が過密状態なのかどうかの真偽は私は知らない。もしそれが本当だとしたら、石原さんの指摘は俯瞰図的で正しい。大いに称賛したい。
多くのあのころのマスコミの航空管制官批判は正しいとは言えるが、人間の精神機能の不確かさにたいする同情もなく、批判の目の位置が低すぎる。
二、現時点、日本の緊急の危機管理は?
こうして褒め上げた石原さんであるが、首都移転問題では石原さんの保守的姿勢に私は疑問を呈したい。学者の意見では、あの大正12年の関東大震災に匹敵する大震災が東京に、いつ起ってもおかしくないそうだ。
それこそ過密な情報が交差し、蓄積するこの時代に首都が壊滅したら日本は滅びるのではないかとさえ、私は憂慮する。現在の政府機構では重要資料だけでも膨大なものだろうが、その文書やコンピューターのコピーをどれほど地方に分散して保存してあるだろうか。(社会保険の被保険者の記録など壊滅したら全国の被保険者の混乱、悲嘆、怒りは目に見えている。だから、政府機構は今、一斉に地方に移転すべき時だと私は思っている。)
こうしたことが、現時点の日本における緊急の危機管理の課題ではないのか。その他、北朝鮮の核戦略志向や日本人拉致問題など、日本の首相として取り組むべき問題は山ほどある。
北朝鮮が日本の特に東京に核弾頭を打ちこんだら、東京はおしまい。皇居の中のご一族のお命も危ない。天皇家の落とし胤を捜さねばならなくなるかもしれない。こんな不謹慎なことも考えてみる必要が起ってくるのだ。
三、聖書が示す真の人類の危機管理
人類にとって、本当の最大の危機管理は、第三ミレニアムに処する地球の危機管理である。聖書的に見るならは、この地上に戦争、ききん、地震、洪水等、何が今日、明日、起ってもおかしくない。地上の環境は行き詰まり、人の愛は冷え、しかし福音は全世界の隅々まで拡がりつつある。イエス様のなされた預言は、お言葉どおり成就しつつある。確実に最後の審きの時は近いのだと思う。
かつて弟子たちとイエス様との間に以下のような問答がなされた。「先生、ご覧ください。何という立派な神殿でしょう」。「お前たちは、この神殿を眺めているのか。この石の一つ残らず破壊される時がくるであろう」(マタイ24・1,2参照)。
こうした問答は今も主と私たちとの間に交わされるかも知れない。主はニューヨークや東京を見て言われるであろう。「お前たちはこの都会や工場を見て、この地球文明に感動しているのか。これらはすべて壊滅する時が来る。私が地上に来る前に」。時は切迫している。
人類は今、主の前に来てひれ伏して悔い改めねばならない。主の十字架の死のみが私たちを救う。人類が謳歌する言わゆる文明に深くひそむ人類の悪念、悪しき歴史、一切の罪悪をイエス様は背負って人類を救い、呻いている地球と宇宙を救うのである。 (2001.2.15.祈祷会)
2001/2/11
七日目に
神様はなぜ休んだの?わたしの家の近くに立派なお風呂屋さんができました。24時間営業です。書きものが終って、午前2時ごろ、そのお風呂屋さんに行きました。お湯にひたっていると一人の青年が近づいて来ました。
(青)いいおひげですねェ。
(釘)いやァ………。
(青)お仕事はどんな?
(釘)牧師です。
(青)ああ、キリストさんですか。道理でそのおひげ、キリストさんの真似ですか。
(釘)そう言われると、ちょっと恥かしい。
(青)そんなことないですよ。人間は尊敬する人の真似をするのがいいんですって。
(釘)なるほど。
(青)ぼくも実は宗教の方をやってんのです。
大和のほうにある××教の本部詰めです。
(釘)どうしてこちらへ?
(青)青年部の布教の加勢です。 牧師さんに会えてよかったです。ぼくはキリスト教のことを調べてみたいと思うとった矢先ですねん。
(釘)ほう……、わたしもあんたのほうのこと、知りたいねェ。
(青)ええ、どうぞ。 ……ぼく、何回か聖書を読んだことあるんです。
(釘)それはうれしい。
(青)実は、聖書の最初のところ、
(釘)創世記?
(青)ハイ、創世記。あそこを読んで 不思議に思ったというか、腹が立ったというか。
(釘)へえ、またどうして?
(青)神が 天と地を造られた時、光や空や陸や海や、太陽、月、星、いろんな物ができた、面白い。うちの宗教にもそんな物語があります。教祖さんの自動書記です。聖書は誰が書いたんでしょうか。ああ、創世記はモーセですね。
(釘)くわしいね。
(青)そのうちに、植物や動物、そして 人間でしょ。アダムとエバです。こうして6日間の仕事を終って、第7日を休まれた、とある。
(釘)そのとおりです。安息日の始まりです。
(青)あの時、神はなぜ休んだのですか。
(釘)神様は 創造を完成された。そこで第7日目を祝福され、そして休まれたのです。
(青)そこの所が どうも分かりません。もちろん、人間の世界では、国家的な、あるいは国民的な祝日を作って休日とすることは、よくあることです。でも、神様ともあろうものが、なんで休むんですか。疲れたんですか。『ああ、天地万物の創造の作業が終って良かった、良かった。ビールでものんで一休みしよう』、とでも言うんでしょうか。
(釘)驚いたねェ、そんな読み方。
(青)そうでしょうネ。牧師さんにとっては不謹慎きわまる想像でしょうか。でも、ぼくは、ここんとこがいつも引っかかるんです。
(釘)どういうことです?
(青)神様は休んで、昼寝でも していたのでしょうか。そのスキをねらってサタンはエデンの園に侵入してきたのです。どうして神様の造られたものの中にサタンがいたのか。これも大事な問題ですが、それはひとまず問わないことにして、ここでは神様のこの怠慢が重大です。こうしてサタンは這入ってきた。まっさきにつかまえたのがエバです。分かります?
(釘)ははァ、あんたの推理には びっくりですが、でも話の筋道はわかる。
(青)エバはグルメ志向で、しかも 美感覚がすぐれているんです。ですから、知恵の実を見て、『食べるのにおいしく、見るとそれは麗わしく思えた』というわけです。
(釘)その解釈はおもしろいねェ。
(青)さて エバは夫のアダムに言います。『アダム、これおいしいわよ、あなたも食べてごらんなさい。私は死にもせずにピンピンしてるでしょ。それどころか、肌もホラ、ずっときれいになったでしょ』、とでも言ったかも知れません。そして、いつの時代でも男は女の言葉に弱い。アダムはついに知恵の実を食べます。それもこれも神様が第7日目を休まれたからです。
(釘)お湯、あがりましょう。うだってしまう。(青)ハハハハハ、降参ですか。
(釘)そう、降参だねェ、ハハハハハ。
(青)いや、どうも難題を吹っかけた感じで 失礼でした。でも、いつも気になっていたことなんで、お聞きしてみたんです。世界一のキリスト教の教典にしては、ほころびが見え見えという感じがするんです。
(釘)そうねェ。聖書は もともと、書きなおしたり、書きたしたり、また削ったりすること、絶対しないんです。不利益に見える記事や、矛盾に見える記事、そのまま残してあるんです。
(青)ああ、それは好感 持てますね。
(釘)ありがとう。ところで イエス様の言葉、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます』、見たことあります?
(青)ええ、よく教会の前の掲示板などで。
(釘)ある宣教師に言わせると、 あの『休ませる』という言葉くらい、日本人の心に染みこむ聖書の言葉はないんじゃないかと言うんです。平安ということが日本人は好きなんですね。
(青)ははァ。
(釘)キリストは 私たちに休み、すなわち平安を与えて下さるという、それは神様には人に休みを与える力があると言うことですね。つまり、神様ご自身が休むことが出来る方だったということなのですよ。休むということは特技です。
(青)あれ、なんだか上手に言い負かされたようで。いや、まあいいや。
(釘)ハハハハハ……。第7日目に 神様が休まれた事ね、それはご自身の創造的仕事を一段落終って後、万物の一切の運営をそれ自身の法則に任せられたということ、なんですね。それは仏教流に言えば万物は真理の法則のまんま不生不滅(ふしょうふめつ)であるということです。科学的に言うなら、神様が創造の仕事から手を引かれた後は、万物は進化論者の言うとおりに変化適応してきたのだと言ってよいでしょう。ただし「種」の範囲内においてですが。私たちは実は、進化論者ではありません。万物は神様の創造によって出来たと信じていますから。
(青)なるほど、先生は 神はこの宇宙や人類の歴史を見守りながら、その進展を導き、かつ支えて来られたと言うことのようですね。なんだか分ります、隠れて働いているというような。
(釘)ほほう、うれしいですね。実は イエス様ご自身もそう言っているのです。『父は今にいたるまで働いて居られる』と。
(青)ああ、そういう言葉がありましたか。
(釘)そしてイエス様をとおしてなされる最大の事業が十字架と復活による人類の救済です。その復活の日が週の第一日ですから、その日を第7日目の土曜の安息日と入れ替え、祝福して日曜日を礼拝の日としたのです。その結果、日本でも一般に日曜日は休日となったのです。
(青)その恩恵を 今も一般サラリーマンは受けているわけですネ。少々シャクだけど、有難く思わねばいかんわけですか。
(釘)今度の日曜日、どうぞ教会にも来てください。あなたにも神様の「平安」は必要だと思いますが、どうでしょう。
(青)そうですね。まだ、いろいろ勉強したいですから、一度寄せさせてください。
(釘)ありがとう。もう一度、お湯に入りましょうか。* * *
以上は1992年9月の「ミーニング」という雑誌に書いた私の原稿をそのまま載せました。この雑誌は未信者か、あるいは初心者向けの企画の楽しい週刊誌型雑誌でした。この雑誌は新生運動の出版で、出色の出来だったと思います。その後、廃刊になったのは残念でした。
当初の編集長は辻 潤 さんで、会話風に作ったのも、この方の注文でした。いつもそう簡単に書けるスタイルのものでもないので、書き続けるのは苦労ではありましたが、しかし楽しくもありました。
辻 潤 さんはその後、その出版社を辞されて大阪に出て牧師をされ、今は国分寺市の教会に転任、兼ねて雑誌「雲の間にある虹」編集長です。辻 潤 さんと「さん」づけでは申し訳ないのですが、最初の名編集長の印象以来、先生づけで呼びにくい。私を貧しいながらも一応のライターとしてキリスト教出版界にひっぱり出した恩人です。
「ミーニング」の前に「恵みの雨」という雑誌に「告白の力」という連載記事を載せたのがそもそものはじまりでした。あの頃、お茶の水のOCCビルの新生運動のオフィスに入ると、「ワッハッハ」と笑い声が起こって楽しかったものです。懐かしい思い出です。
名編集長・辻 潤 さんが去って以来、この特徴あるイキイキした雑誌も萎えてしまった感じで、すぐに廃刊になりました。ところで、その後の「笑い」を強調する私の信仰に関する一種の身心テクノロジーの開発はこの頃から息吹いていたのだなあ、と最近よく憶うのです。
2001/2/4
感 動 の 波 は 拡 が る
明治の小説家国木田独歩はしばらく大分県佐伯市で私立学校の教師をしていたことがあります。その頃の経験を元にして「源をぢ」など、幾つかの心に残る短編を書きました。晩年の独歩を有名な植村正久牧師が訪ねたことがあります。独歩は植村先生に訴えたそうです。「先生、私はこの頃、驚くということが無くなりました」。
あの「武蔵野」や「牛肉と馬鈴薯」を書いた国木田独歩、詩人でもありました。「驚くこと」の無くなった自分を嘆いているのです。芸術家にしても、私たち牧師にしても、「驚くこと」が無くなったら、お仕舞いです。
先週、永井明先生が当教会にお出でになった時、私に漏らしました。「私は感動する牧会をしたいのです。感動する伝道をしたいのです」。この永井先生の言葉に、私は驚きました。そして感動しました。
驚きとは感動です。イエス様は外国の百人隊長の短い信仰の言葉に驚かれ、感動しました。イエス様は空の鳥を見ても、野の花を見ても感動しました。名もない婦人の涙に感動されました。イエス様は私たちの貧しい祈りにも感動してくださることを、私は信じるのです。
*
先日、東京山手線の新大久保駅のホームから転落した人を救おうとしてお二人の方が線路に跳び降りて列車にはねられ命を落されました。今でも、その関連の新聞記事を読むと、目に感動の涙がにじみます。特に韓国のイー・スヒョンさんについては、日本でもそうですが、韓国では更に大きく感動の波が起こっています。
感動の波が次々と広がっています。この事は、五月に封切られる「親分はイエス様」の映画と同様、韓国の方々には特に異常な感動を与えることと思われます。「親分はイエス様」では3人の韓国の女性が日本人のやくざの夫の為に血を吐くようにして仕え、祈る、その熱烈な祈りに答えられて、夫が悔い改めて雄々しいクリスチャンになる実話がモデルです。
韓国の方々がこれまで、なかなか日本と日本人を許すことが出来なかったとしても(無理のないことです)、これらの同胞韓国人たちによる犠牲的な愛の行為には、心から感動することでしょう。そして私たち日本人や日本に対する恨みは少しでも解けるのではないでしょうか。
とは言え、私たちがすぐ良い気になって「謝罪」の精精神を忘れてはいけません。戦前の韓国の人々に対する日本人の軽蔑心は今も尚、私の心の深い傷です。これは私ども日本民族の心の罪です。よく取り上げられる慰安婦問題など冷酷な植民地支配の底に流れる、洗い去りがたい日本人の心中にあった(今も残っている?)高慢な見下す心です。これは徹底して悔い改めねばなりません。
反対に日本人には、明治以来いだいている白色民族に対する奇妙な卑下心があります。アメリカ従属のぺこぺこした外交姿勢など、こういう所に本当の深い原因があるのではないでしょうか。
*
話題をちょっと変えます。先だって森首相がアフリカを訪問しました。日本の現職総理がサハラ砂漠を南に越えてアフリカに行ったのは、森さんが初めてなのです。たいへんな感動を現地の人々に与えたそうです。日本では軽口で失笑を買っている森さんですが、アフリカに行くと違うらしい。こんなことを言っています。
「アフリカの平和無くして世界の平和はない」。
この演説に答えて、南アフリカの新聞は書きました。 「こういう見方をアフリカ人以外によって語られたこ とはかつてなかった。この言葉は我々に大きな希望を 与える」。
森首相が民主運動の蜂起者記念碑に献花したり、難民キャンプを訪れて子どもの詩に感極まり涙をながした姿に、現地の人々は粛然として感動したそうだ。日本の政治家が外国に行って、その言動にその国の人々が感動したなどという話を私は聞いたことがない。森さんは、その軽口と、彼には責任のなさそうな事件について揶揄され、格別の失政はないと思うのに「森おろし」の声も高いようですが、この人の良い面をもっと買ってあげたいものです。もちろん、森首相の人格性をキリスト教的水準で称賛しているわけではないが。
*
イエス様は「飼う者なき羊のような群衆を深く憐れまれた」と聖書にあります。傍線の原語は「断腸の思い」という言葉です、激情的感動です。かくて、イエス様はご自分を十字架に架けた人たちを赦されました。しかも、その十字架は人類の罪の為の身代わりの死でありました。 このイエス様の激烈な愛に私たちの心が触れる時、私たちは心底から「感動」するのです。この「感動」こそ、「信仰」の原点です。初めの「愛」です。「感動」の波は更に広がることでしょう。 (2001.1.31.相良家集会)
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