キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)2001年5月
2001/5/27
新聞と、小泉さんと
左の頁に新聞の論説記事を複写転載しました(HP上では省略)。これは大分県でただ一紙の地元新聞、大分合同新聞のこの5月20日朝刊に載せられた論説です。この頃は社説と言わず論説と呼んでいるようですが、私は正直に言ってこの論説を読んでびっくりしました。
最近、日本の宗教界には先年のオウム真理教事件のような際だったニュースは無いように見え、一見平穏無事ですが、これは私の認識不足なのでしょうか。ともあれ、こうした論説を他紙に先駆けて地方の新聞が載せるということは凄いと思うのです。かつての明治時代の新聞には社会の木鐸(ぼくたく)としての自負心がありました。その気概が今回の私たちの地元紙に見えるように思えて嬉しかったのです。
いや、新聞社のほうが、こういう論説を出さねばおれない切迫感を持っているというのに、それを見て私ども宗教家がびっくりしているということに、私自身驚き、かつ恥入っているのです。私はさっそく、
この記事をコピーしてキリスト教界の新聞や出版社にファックスで送りました。そうして、こう書き添えました。「時代の変革は小泉さんだけでなく、地方の新聞社からも始まっているのかと思いました。云々」と。
*
ところで、それから数日して小泉さんがヒットを飛ばしました。ハンセン氏病患者さんの訴訟判決に対する控訴を断念、つまり「法律を越え常識や人情に従った」意志決定をしたということで、原告も世間もびっくりしています。
これはたいへんな勇気ですね。小泉さんが心の中の常識、いや良心にズバリ従ったという感じです。政府の官僚的メンツを捨ててかかっています。単なる人気取り政策とは思えない、重い意志決定だったと察します。
このことは私たちに大きな勇気を与えます。善いと思ったことは思いきって意志表明しよう。そして実行しようという、そういう雰囲気が今後の日本の政界や経済界や教育界や宗教界にさえも起こってきはしないか。そういう希望が湧きます。いろんな場所で、学校のPTAや町内会や、労働組合や、趣味や文化運動の仲間サークルなどで、明るいオープンな空気が生まれるのではないか。こういう予想は甘いと言えましょうか。私自身も驚いています。ノンクリスチャンの小泉さんの決断に牧師が勇気づけられるなんて、恥ずかしい限りですが、しかし私の心の中に、そういう受け身の勇気を感じるので自分で驚いているのです。
*
主の祈りの中にある「御心が天になるごとく地にもなさせたまえ」という祈りは、ただ単に神様のみ心よ、天から降りてきて地上に無媒介的にそれを実現して下さい、というのではなくて、私たちクリスチャンの心に神様の御心が示され、それを私たちが外に向かって発言し、また叫び、そして行動することにより、世界が変わって行く、ということでは無いでしょうか。
私は戦時中の体験に恥辱的後悔を持っています。それは日本の戦争(特に対中国戦)の非道徳性について、それを心に示されつつも世に向かって公けには言えなかった。少数のメンバーに、また教会の青年会などで語ったにすぎない。
主が言われる、「わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言え。耳にささやかれたことを屋根の上で言いひろめよ」(マタイ10・27)。このイエス様のご命令に、私はとうてい従えなかった。小心で卑怯だった。後日、
警察や検察ではなるほどハッキリと非戦主義を述べたし、特に検事とは激しく論争した。けれど最初から雄々しく堂々とはしていなかった。私は卑怯で、弱々しかった。そのことについて、私はずっと恥かしく辛い思いをしているのです。
現代になっても、同じような卑怯さに陥る危険が全然ないとは言えない。如何なる時にも信仰と良心に従って、強く雄々しく処するためには、あの戦時中ほどではないにしても、結構勇気を要するかもしれない。その時、あのノンクリスチャンの小泉さんでさえ、あれほど思いきってやったではないか、そういうモデルが私たちを結構励ますのではないかと思うのです。
*
実は、今、私は小泉さんを大いに褒めているけれども、いつか必ず、批判する時もくると思う。伊勢神宮参拝や、憲法改定や、それほど踏み込まないにしても、小泉さんは自衛隊問題では相当ハッキリした態度を示すであろう。
実は、私は産経新聞を購読している。本当に面白い。読んでいて論旨がしっかりしているから、私のほうも気分がいい。スッキリする。
私は信仰は保守的だが、一般的思想としてはリベラルなほうだと言えよう。それに比し、産経新聞は右翼だし、間違いなく国粋的である。今、中国や韓国からイチャモンをつけられている教科書問題にしてもしかり、産経新聞の姿勢は頑固である。たとえば、
南京三十万虐殺事件だが、私は三十万人という数は信じられない。あれは中国一流の白髪三千丈のたぐいであろう。しかし、一般市民の虐殺はあったであろう。強姦もあったであろう。略奪はもう当然のこと、軍隊では「現地調達」と言ったのだ。第一、中国人をチャンコロと呼び、韓国人をチョウセンと呼び、何よりもそう呼ぶときの軽蔑しきった日本人の高慢な表情を私は忘れることは出来ない。恥ずかしい。
特攻隊で死んで行った若者たちの尊さを称賛し感動するのは私も同じである。しかし死という極限的感動場面や、その純粋さを利用して戦争を美化することには、私には耐えられない。その手の国民精神昂揚テクニックは戦争中の映画によく見られた。私は戦時下、そういう戦意昂揚映画にどれほど歯ぎしりしたことか。
ともあれ、結論を書く。上記に書いたとおり、将来は小泉さんを批判、攻撃する文章も書くこともあろうが、そういうことになったとしても今の日本で、捕縛されたり、牢屋に入れられたりすることはあるまいから、これは感謝。
私は衷心から祈ります。私たちと信仰においても、政治的意見などにおいても、相対峙するとしても、総理大臣や大臣諸兄姉、その他の人々のために、なお又、天皇様や皇室の方々ためにも、神様のご祝福豊かならんことを、と。
2001/5/20
やくざ回心す−ボーン・アゲイン−
最近、ミッション・バラバのメンバーの方々の入信体験を書いた本が出ています。伝道用に使うのに非常に良いと思います。
鈴木啓之さんの「愛されて、許されて」、鈴木啓之さんの、もう一冊「誰だって人生をやり直せる」、吉田芳幸さんの「回心(やくざが生まれ変わるとき)」、中島哲夫さんの「悪たれ極道いのちやりなおし」の4冊です。
吉田芳幸さんの「回心(やくざが生まれ変わるとき)」は、著者が大分県国東出身の人だったので、最初「……?」と思ったものでしたが、この方の紹介記事が大分の地元新聞に出ました。左頁に転載しました。お読みください。
このミッション・バラバの人たちの本には、映画「親分はイエス様」に欠けている所を十分に、はっきりおぎなっているところがあります。言って失礼なんですが、映画「親分はイエス様」に欠けている所と言うのは、この旧やくざの人たちがイエス様を信じるようになった、その瞬間を明確に表現していないということです。さすがの名脚本家松山善三さんも信仰の急所は分からなかったかと、私も慨嘆したことです。
ともかく映画では、十字架をかついで道を歩いていたら、いつの間にか信仰に入ってしまっていたというように見えるのです。(いや、事実そのような人たちも居るだろうことは私は認めます。そうした十字架行進のなかで急所を掴むことがしばしばあるからです)。
上記の3氏の証しを読むと、この方々のイエス様を信じる信仰への回帰点が明らかです。それが非常に感動深く、リアルに書かれている。この本をどれか一冊でも事前に読んで置くと、一般の人たちを映画「親分はイエス様」に誘うのに、確信を持ってさそえるし、勧める熱意も湧くと思うのです。
この信仰の瞬間を「ボーン・アゲイン」もしくは「回心」と呼ぶのです。まさに、左頁に紹介した吉田さんの証しの本の題名そのものです。いい題です。
*
その事は、人から証明してもらわなくても、自分で「うん、これは神様の聖霊の働きだ」と断言できる確信が自分の心に湧くものです。メソジスト教会でいうアシュアランスです。聖書で言う、神より下さる聖霊の証印です(第二コリント1:22、エペソ1:13、同4:30参照)。
また、しばしば神様のみ言葉が鮮明にあなたの心を照らし、啓示される、あるいは明確な声として聞こえることもありますが、時にまた声無き静かな細い声として、あるいは聖書のみ言葉が「打ち開けて光を放ちて、愚かな者を賢くする」(詩篇119:130文語で)ということが信仰を求める者の心に起こります。ペテロは言います。「あなたがたが新たに生まれたのは、……、神の変わることのない生ける御言によったのである」(第一ペテロ1:23)と。
これが、ボーン・アゲイン(回心)です。古人の伝記を見るとアウグスチヌスはまさしく、このボーン・アゲインでキリストのものになりました。メソジスト開祖のジョン・ウェスレーにしても、すべてこうした経験から輝かしい新しい第二の人生が始まっています。
2001/5/13
カヤンジャ師はすごい!
先月28日にFGBジャパンの塚本兄から送られたメールの一部を転載します。アフリカのウガンダからの神の器、ロバート・カヤンジャ師が講師、神戸キリスト栄光教会での聖会の報告です。
一言で言って、ものすごい聖霊の臨在でした。神の力にあふれていました。両耳とも聞こえないろうあ者が少なくとも二人、音が聞こえるようになりました。片方の耳が聞こえない人も六、七人癒されました。その方々は十年、二十年、ある人は三十年間も聞こえなかったそうで、聞こえるようになって涙を流して喜んでいました。 悪霊から皆の見ている前で解放された人も二、三人はおられました。目の見えなかった人、弱視でほとんど見えなかった人も見えるようになりました。
その他、多くの病の方が按手を受け、癒しを体験されました。カヤンジャ師は、普段はしないが今日は特別に導きがあったと言われ、なんと来られた方全員に按手をして祈られました。
私の家族も祈っていただきました。メッセージからミニストリーまで、三時間以上に及ぶご奉仕でした。私も通訳として用いていただき、本当に恵まれました。
集会は昨日から始まりましたが、私は仕事があったため、今日からの参加でした。昨日も素晴らしい奇跡が起こったそうです。会場は超満員で補助席を出すほどでした。先生のメッセージは、ルカの四章一八節〜二〇節の箇所から、主の御霊が来るとき、それは何にも勝る力が来ることであって、悪魔も病気も罪も呪いも死も、その力に勝つことはできないというメッセージでした。
「さらに優れた力」、イエス・キリストの力が来るとき、私たちは必ず変わり、教会も変わり、地域も変わり、国も変わり、世界が変わるというお話でした。そして主に呼ばわり、その力が今日も会堂に働くように祈られ、聖霊さまを歓迎し、イエスさまの御名を賛美して、そしてミニストリーが始まりました。
今日、カヤンジャ師が三十年間片方の耳が聞こえない人のために祈っておられた時、主が語られました。それは、「日本が三十年前にリバイバルを受け取るはずだったのに、敵が来て、霊の耳を聞こえなくしたこと、そして今日、主が敵の霊を追い出し、霊の耳を癒し、霊の目を癒すので、これから日本に大きなリバイバルが来る」というメッセージでした。(岡先生の「カミングリバイバル」より感謝して採取しました。2001.5.4. )
陀羅尼(だらに)について
先日、古林先生と一緒に別府の鉄輪(かんなわ)温泉に一泊しましたが、投宿したのは古い格式のありそうな旅館でした。
中庭に祠があったものですから、ちょっと覗いてみたら、お経本がありました。表紙を見ると、真言宗のお経でした。
興味が湧きましたから、開いてみますと、漢文のお経と、和賛と、陀羅尼(だらに)が載っていました。 陀羅尼というのは、「意味不明の開祖秘伝の呪文です」と言ったらいいでしょう。時々、葬式などでお坊さんが「ナムカラタンノトラヤトラヤ」と唱えているのを聞くことがあります。般若心経の中にも「ギャァテイ、ギャァテイ、ハラギャァテイ」という意味不明の陀羅尼が載っています。
先年、世界で一部に流行しました瞑想グループがありました。それは指導者が各自におのおの別々の呪文(マンダラ)を秘伝として与えます。その呪文を唱えていると次第に解脱する、という教えですね、一時、流行したと思います。これも陀羅尼の一種でしょうね。
空海という方は日本の生んだ世界に誇っていい宗教的天才です。この方が当時の唐の都で仏教のほかに学び取ったに違いない宗教が、ペルシャから来た景教というキリスト教と、ゾロアスター教(拝火教)とです。ゾロアスター教から空海和尚が拝借したと思われるのは火をたく胡麻の儀式です。
景教から空海和尚が、受け継いだのが、この陀羅尼(だらに)ではなかっただろうかと思います。
陀羅尼とは、もともとはキリスト教でいう異言のことに違いありません。
真言宗の僧侶たちは、病気や火伏せ、旅の安全や、商売繁盛などのため、それぞれのきまった陀羅尼を唱えて祈願します。空海等、開祖たちが口から発したその無意味な言葉を有難く思って書きとめ、伝承したのが、現在、唱えられている陀羅尼ではないでしょうか。 比較宗教学として、その外形を比べて見れば、なんとよく似ているのがキリスト教の異言です。
キリスト教では何も開祖や聖人たちでなくても、一般の平信徒たちが、この異言を体験し、いつでも発言できます。
その最初の発現が使徒行伝第二章にしるされていますし、その説明が第一コリント一二章と一四章に、記されています。
真言宗では、この陀羅尼を唱えさえすれば、あらゆる願いが聞かれ、奇蹟がおこると信じられています。この言葉は仏様から与えられた真実の言葉だから、これを真言というと真言宗では言います。だから「陀羅尼真言」と言って、ありがたい言葉、呪文の言葉として扱われているのです。
後世になって、それは市井の土俗宗教になってしまっています。しかし、彼らの祈祷行事に事実、少々の実力があるのは本当です。そうでなければ拝み屋さんが、こうも繁盛するはずがありません。 寺院や神社ではお払いやお札にしても大抵は気休めにもらって帰っていますから、実際的にご利益や奇蹟が無くても、「まあこんなもんだろう」と批判しません。
しかし、市中の拝み屋さんでしたら本当に紛失物のありかを当てたり、病気いやし、悪霊を追い出したり出来なければ、一ぺんに営業(?)に差し支えます。だから、彼らは熱心です。事実、当たります。失せものが見つかります。病気もなおったりします。
むかし大阪にある老婆がいました。彼女のご祈祷は効き目があると評判でした。なかなか流行りました。ところがなんと、彼女の陀羅尼を聞いていると、「油売ろうか」と繰り返しているだけです。それを知った坊さんが本当の陀羅尼を教えてやりました。「アビラウンケン」というのです。「ほう、そうでっか。おおきに」と、その老婆は正しい陀羅尼で「アビラウンケン」と唱えだしたら、なんべん繰り返しても効き目はなくなっていたということです。俗に言う、「イワシの頭も信心から」というのは、実際問題としてあるのです。 効き目としては、しばしば老婆の迷信的な「まじない」のほうが、やさしい、正直な、上品なクリスチャンの祈りより、よく効果があがっているという事実があります。クリスチャンは真剣にこのことを反省する必要があります。そして、私たちが誰でも体験し得る「異言」の恵みこそ、これを解決し、私たちに信仰の力と喜びを与える聖霊の働きなのです。聖霊様を求めましょう。異言を求めましょう。
2001/5/6
信仰の第一歩
信仰の第一歩は、ただ単純にイエス様に求めることです。むつかしい教理は後回しでよい、まずイエス様に求め、あるいはイエス様にすがりつく、そうした初心の発動をイエス様は発止(はっし)と受けとめて、それを「あなたの信仰」、時には「大いなる信仰」とさえ認めてくださる、ここに信仰の第一歩があります。
ある時、バルテマイという盲人の乞食が道ばたから、イエス様に「ダビデの子イエス様あ。私を憐れんでください」と叫びつづけました。イエス様が彼を呼び寄せ、「私に何をしてほしいのか」とお聞きになると、バルテマイは答えます。「はい、見えるようになることです」 即座に、イエス様は言われました。「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」。たちまち、バルテマイの目は開いたと、聖書にあります。
バルテマイは、「はい、見えるようになることです」と、ただ、それだけ答えただけです。イエス様はそれを「あなたの信仰」と認めておられるのです。
バルテマイの信仰は、それほど驚天動地の大きい確固たる信仰だったとは思えません、しかし、イエス様を仰いで「はい、見えるようになることです」と単純に申しあげた、唯それだけの言葉を聞かれて、イエス様は「あなたの信仰」と認められたのです。
ガラテヤ人への手紙第2章16節を読みますと、「人が義とされるのは律法による行いによるのではなく、ただイエス・キリストの信仰によることを認め……」とパウロは言っています。この傍線の個所を多くの邦語訳聖書は「イエス・キリストを信じる信仰による」と訳しています。もちろん、キリスト教の教理としては正しいのですし、又、決して誤訳とも言えません。
しかし、直訳すれば、やはり「イエス様の(所有する)信仰によって人は義とされる」と、訳したほうが正確なのです。又、そのほうが、更にすばらしいイエス様の恵みがはっきりする訳となります。(この個所をカール・バルトという神学者は「イエス・キリストの真実」と訳したと聞いたことがあります。さすが適切な訳だと私は思います。)
イエス様は真実な方です。イエス様は、ご自身の真実をもって(あるいは、信仰)私たちの切なる求めや叫びを「私たちの信仰」として認め、これを受け入れて下さいます。イエス様の「真実と信仰」に私の小さな信仰を委ねる、それが信仰第一歩です。どんなに我力一本の信仰のように見えても、そこに信仰の第一歩があります。
過去のメッセージIndex 今月のメッセージに戻る