キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

2001年6月

2001/6/24

どうして百人斬りの    
    作り話が生まれたか  

 日中戦争で日本軍の二人の将校が中国人百人斬り競争をやったという事件があった。中国の教科書には南京大虐殺事件の中の一つとして載せられているという。この事件というのが、実は一新聞記者が書いた架空の記事であったという。そのことが先週の産経新聞に出ていた。

 当時のその新聞記事を理由にして、その二人の将校は南京で死刑にされた。中国も戦争が終わった直後、政府も民衆も気分が昂ぶっていた。当時、相当行き過ぎた報復裁判も行なわれたようである。この二人の将校を初め、多くのそのような犠牲者も多かったと思われる。

 たとえばフィリピンなどでも、民衆の一人が「こいつが俺の妻を殺した」などと、いい加減な証言をしても簡単にとりあげられてアメリカ軍に捕らえられ、モンテンルパで死刑になったと言う話はよく聞く。

 戦争という極限的状況では、こうしたことはよく起こる。極限状況を理由に加害者が自分で自分を許すようなことはしたくはない。しかし、私たちに対する他国の誤認裁判に対しては寛容でありたいのです。

 先般のハワイ沖で宇和島水産学校の練習船がアメリカの原子力潜水艦の過失で沈没した。その練習船えひめ丸を近く引き上げるということです。考えさせられるのは、その近くの真珠湾では日本軍奇襲によって沈没されたアリゾナ号は未だに海底に眠りつづけ、中に閉じ込められた乗員たちの死骸もそのままであるということです。今もこの艦を訪ねる人たちは皆、黙祷を献げている。「えひめ丸引き上げ」とあまりに声高にアメリカに要求するのは気がひける、というのは私だけであろうか。

 ところで、話を元に戻すが、軍人の冗談話をネタに日本の新聞記者が作り上げた百人斬り競争、これを理由によく調べもせず無実の罪で死刑にしてしまった中国側に多少の視線を向けはしても、この二人の将校の死を弔い、その遺族の悲痛な叫びを慰めようとすることだけに論調をとどめている産経新聞の姿勢を私は評価できる。

 しかし、ここでよくよく考えて置きたいことがある。それは、こういう嘘報を作りたくなるし、又、それを読んで喝采する当時の日本人一般の空気というものを。この二人も軽い気分で冗談として語っただろうし、新聞記者は新聞記者でこういう物語を内地の本社に送れば喜んで貰えると思っただろうし、事実、本社のみならず、日本国民の殆どが手を打って喜んだのである。

 こうした当時の日本中の精神構造こそ問題なのだ。このことが如何に中国の民衆を軽蔑し見下した唾棄すべき精神だったことか。当時の日本人の中国人や、その他韓国人、東南アジアの人々に対する共通気分であったことを、今でも年配の人々は思い出せるだろうと思うのだ。

 南京三十万虐殺とか、韓国女性の慰安婦問題とか、そういう事件が本当にあったのか、どうか。そうした事を取り上げて、日本には責任が無かったなどと理屈で弁解するのは無用なことです。日本人はかつてそうした傲慢な思いで大陸をのし歩いていた事、それを今、私たちはクリスチャンとして心から詫びなければなりません。

 日本はかつて、あの戦争を東洋平和のための「聖戦」と称した。でも当時の日本の一般民衆の本心は、「この戦争に勝てば石油や砂糖がどっさり入って来て贅沢ができるぞ。うまく行けば我々は世界をも征服できる」とさえ一時は思ったのですよ。この偽善と貪欲と高慢の罪を日本のクリスチャンは神様の前に悔い改めなくてはなりません。なぜ? 「先祖の罪の責任は、今の時代の私たちが負うべきである」と聖書は告げているからです。 

 

2001/6/17

「ワッハッハ」 で、夢が変わります 

 私は毎朝、目が醒めたらベッドの上で「イエス様、ワッハッハハ」と大きな声で笑います。起きてからもおなかに手をあてて笑います。夜、寝る時もベッドの上で「イエス様、ワッハッハハ」と大きな声で笑います。笑いながら眠ることにしています。

 手にカウンターを持って数えながら笑いつつ眠ったこともあります。早い時は5、6六回笑って寝入っているようです。長い時では30回以上笑っていたこともあります。もちろん、その笑いの数を調べるのは翌朝目をさました時です。

 眠る前に笑うのは、眠っている間も潜在意識で常に楽しくイエス様と共に愉快に過ごすためです。いつも眠る前に笑う習慣をつけると、しだいに眠っている間の意識がイエス様と共にある平安にひたるようになります。何よりも、夢が変わって来ます。

 イエス様を信じる私たちは、毎日良い夢を見たいものです。時にはイエス様がお姿をもって出てくださるような夢も見たいものです。それなら、こうしましょう。毎夜ベッドに入って眠りに入る前に自分の心に夢を描くと良いのです。

 あなたの子ども時代に帰って、草原の上でイエス様からいただいたパンと魚をキャッキャッと笑って喜んで食べている自分の姿を思い浮かべてみましょう。そのような習慣をつけていると、いつか必ず、あなたも同じような夢を見ることになるでしょう。そして、あなた自身の日常の生活が明るく勢いのよい生活に変わっているはずです。

 「ワッハッハ」と笑いましょうと私がお勧めする時、最初の「ワッ」というのは「さぁ、笑うぞ」と自分で笑おうと意志を起こして頂くことを狙っているのです。一日に何回か、自ら意識して、時には自分で自分に「さぁ、笑いなさい」と命令して、笑い始めるということなのです。ここに大きな意義があります。

 少し理屈を書きます。人間は意志的存在です。人間は自分で自分の意識を励ますことが出来ます。今ごろ、ソ連共産党の哲学教科書でもないでしょうが、その唯物論哲学の最後のところで「意志は意識を励ますことができる」とありました。だから、意志によって自分を励ましたのです。そして、きびしい弾圧時代に共産主義者たちは、彼らの共産主義を信じ、共産主義を大胆に唱えることができたのです。

 聖書に「神よ、わが魂よ、さめよ」(詩篇108:1)というみ言葉がります。私は冗談ではなく本当に、このみ言葉で目が醒めたのです。この詩では自分で自身の魂を励まし命令さえしています。私は聖書に「いつも喜びなさい」とある時、私は「わが魂よ、笑いなさい」と自分に命令するのです。

 喜ぶ時に人は笑います。逆に笑うと、人は喜びを感じるのです。ウイリアムーゼームスの原理です。そこで私は「ワッハッハ」と笑うことを始めました。これが私の笑いのトレーニングの始まりです。誰でもワッハッハッハと笑えば楽しくなり、元気が出ます。信仰がさらに生き生きとしてきます。あなたの信仰生活を強化、拡大、成長させる道であります。 (リバイバル新聞2001.3.18.「ワッハッハ元気の出るコラム」転載)

 

 −教育を誰が担うのか−

 今週のリバイバル新聞に出ている私のコラム「ワッハッハ元気の出る…」の原稿を送る時、同時に私は編集長の谷口さんに私信を送りました。▼それは、教育を文部省から取り戻して家庭学校や教会学校で真の教育をしよう、という文面でした。池田小学校事件のような場合、友だちをかばって、暴漢に向かって「おじちゃん、おじちゃんは神様に愛されているんだよ。僕もおじちゃんが好きなんだ」と言えるような子どもたちを育てたい、などと書きました。▼教育を政府から奪還せよ、というのは三十年前、Z革命で一時有名になった山岸会で言ったことでしたが、昨今はキリスト教界でも「チャーチスクール、ホームスクール」の声が聞こえ始めました。そういう時代が近づいているのでしょうか。▼私はかつて、放浪しつつ子どもを連れ、川岸で、山で、野原で、駅や、波止場で、自分流の教育したいと念願しましたが、空想に終りました。残念でした。▼今は多くの父母は高等教育を受けていますから、特にお母さんがたはパートをやめさえすれば自分の子どもの教育は出来るはずです。現代は行き過ぎた分業のおかげで市民生活は潤沢、便利になったけれど、心の生活は破壊されつつある時代です。▼分業体制は近代を作ったのでしょうけれど、その末路が見えてきました。原則として仕事と家族生活(つまり教育、健康管理、老人の世話等)、すべてを家庭で包括的にすべきだと憶うのです。▼これに対し、谷口さんから次のような返事が来ました。霊的・精神的教育は「父親」が行うべし(お母さんではない!)、他は他人に任すべし。道徳や平和教育は父親、他は学校が引き受けるというように領分を明確に分け、互いに補い合うのがよい、と言う意見でした。さーすが、谷口さんのほうが、実現性がある。私のは空想的過ぎるですね。ともあれ、抜本的な教育改革論が出る時代になったようです。 

 

2001/6/10

あなたなら、どうする?

 私の好きな人物像の一人に布袋(ほてい)さんがいる。十世紀に中国に生きた実在の人物らしい。七福人の一人として、かなり伝説化しているが、その自在で出世間的愉快な生き方は事実でしょう。おなかを丸出しで、笹をかかえて、「ワッハッハ」と笑いながら踊るように歩いている、私の好きな人物である。(しばしば禅画の主題になっているが、特に梁楷や狩野正信の絵が有名です)。

 さて、一昨日の大阪の池田市の小学校に起こった教師を含めて児童たち八名の刺殺事件、どう考えてもても腹立たしい事件である。子どもたちも、その親たちも無意味な死で、可哀そうである。この事件の対策を考えると名案が無い。日本全国、評論家たちも、学校の先生方も、教育委員会も絶句するであろう。

 さらに深く考えれば、この凶行をやった男、心の病気である。何度か自殺しようとしたけれど、死ねなかった、そこで思いあまってのこの事件だと言う。

 「冗談でない。自分で勝手に死んだらいいじゃないか。自殺出来なかったからといって、幼い子どもたちを道連れに殺すなんて」と非難はしてみても、ひどい心の病気だったとすれば、同情もせざるを得ない。

            *

 こういう事件の現場に布袋和尚をつれて来てみたい。やはり、「ワッハッハ」と笑っているだけだろうか。かなり難問です。でも私は空想する。布袋和尚だったら、「こらっ、何をする。やめんかい」と一発怒鳴ったことであろうか。先日の貴乃花のように「鬼の形相」で怒ってみせるかも知れない。そして、男が気を呑まれてキョトンとして包丁を手から落す。その瞬間、

 「そうかい、そうかい、良かった、良かった。ワッハッハハ、ワッハッハハ」と笑うのではないかと思う。布袋さんのような人は気分の転換が速い。

 これは自在の精神性というものです。いつも笑う訓練をしておくと、いざと言うとき、こうした気分の転換が速く淡々とした人物になれます。気分の転換ということで、参考にエペソ人への手紙4:26を読みましょう。

 「怒れ。そして罪を犯すな」とあります。「怒れ」という言葉は命令形なのです。怒るべき時があるのです。しかも罪を犯さない人であれよという勧めです。(実はほとんどの邦語訳聖書は「怒ることがあっても、罪を犯してはならない」などと訳しています。誤訳です)。

 怒るべき時には怒りなさいという命令です。特に悪魔や悪霊に対しては憎しみをもって怒るべきなのです。それから又、指導者たるものは時には配下の者を叱ってよいのです。しかし、怒りの気分には罪を犯しやすい危険があります。そこで怒りの気分を引きづらないようにして、「罪を犯すな」と注意するのです。

 (それにくらべれば喜びの感情には、まず危険がありません。ですからパウロはピリピ3:1で「喜びなさい、このように勧めるのは私には煩わしくはなく、あなたがたには安全なことです」と言うのです)。

            *

 池田市の小学校に起きたように、いきなり心の狂った人が入り込んできて刃物を振るうとしたら、あなたはどうしますか。現にこの学校では、ちょうど外で花壇の世話をしていた教師が、子どもたちの悲鳴を聞いて教室に飛び込んで子どもの盾となり、傷を負ったという記事がありました。尊い行為ですね。前述の布袋さんのような明るい底抜けの振舞は困難であるにしても、普通の人でもこのくらいの事は出来るのですね。

 この先生の美点は、教師としての使命感、あるいは義務感を忘れずにいたことです。これは平素の覚悟というものです。せんだっての新大久保駅でプラットホームから転落した人を救おうとして命を捨てた人、こういう人にも平素の覚悟があったと思うのです。これを「心構え」とも言います。よい人生を送るためには、平素「良い心構え」を持っておく必要があります。

 この小学校の事件の場合、イエス様だったらどうでしょう。イエス様が近づいて「愛する兄弟よ、心を沈めよう」とおっしゃるだけで、男は静まったことでしょう。 イエス様はまた、十字架の上から、ご自身を死刑にしようとしている人たちを見ながら「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、分からずにいるのです」とおっしゃいました。このイエス様の心を私たちに頂きたいですね。イエス様の無限の愛です。

 かのガンジーも自分の暗殺者に対して赦しのしるしに手を額にあてて死んで行ったと言います。私たちも、どんな人をも赦せる無限の愛をイエス様から頂きましょう。かつ今の時代はあの加害者のように、心が病み傷つけられずには居られないような狂気の時代です。このことに私たちは決して無関係ではあり得ない。時代に対する取り成しの祈りと、実践的奉仕の道を捜しましょう。 

 

2001/6/3

父なる神とイエス様

 ある方から以下のような質問がありました。

 「まだ、私にはイエスの言う天の父ということがピンときません。またイエスという方とブッダの違い等について疑問がいっぱいです。こんなことで私はクリスチャンと言えるのでしょうか。これも疑問です。」

 私は次のように返事しました。

              *

 おはがき拝承。ご質問の件、もっともです。分からないことを分からないというのは、大変よいことです。さて、ご返事、

 父なる神はイエス様の所に行かなければ分かりません。ヨハネによる福音書14:8以下を読むと、そこにピリポという弟子がイエス様に「主よ、私たちに父を示してください」と言っています。そこで、イエス様がなんと答えているか、聖書にこうあります。

 イエス様は「私を見たものは父を見たのである」と言っています。またヨハネ福音書17:26には「私(イエス様)は彼ら(弟子たち)に御名(神の本質)を知らせました」とあります。そして「またこれからも知らせましょう」とあります。「これからも」と言われるのは、当の弟子たちを初め、後々の時代の私たちにも……、ということだと、私は思っています(ヨハネ福音書17:20参照)。

 以上のイエス様の言葉をまず信じましょう。イエス様を信じるとは、イエス様の言葉を真実だと信じることですから。でもそれは、簡単ではありませんね。「信じる」ということについては、又あとで申し上げます。

              *

 お釈迦様と、イエス様とは、どう違うのですか、というご質問、よい質問です。はっきり答えれば、次の通りです。

 イエス様は神様です。それに比べると、お釈迦様は人間です。そうは言っても、もちろんお釈迦様は第一級の悟った人です。もともとブッダとは「悟った人」という意味なのです。

 「でも、悟った人というなら、イエス様だってそうでしょ」と言う人もいるでしょうね。しかし、あくまでもお釈迦様は悟りを開いた「人間」であって、たとえ天国(一応、極楽も天国も同じ所だと仮定しましょう)に行ったとしても天使どまりです。

 しかし、イエス様は父なる神とは一体であり、かつ神様の右に座して居られるのです。この言い方は論理的に矛盾していますが、それを承知で、そのように言わざるを得ないのです。しかし、理屈っぽい比喩を用いると、極端ですが私は人間の脳に喩(たと)えます。

 イエス様は父なる神様の右脳に居られるのです。そこは神様のイメージの場です。そこに行けばイエス様はイメージとして、お姿で見えます。このイエス様を神様の左脳に訪ねますと、そこでは御言(おコトバ)として居られるのです。聖書の御言をとおして理解させてくれます(ヨハネ福音書5:39参照)。この御言が地上におりて肉体の姿となって下さるのです(ヨハネ福音書1:14参照)。

 実に尊く美わしい説明をサンダーシングは聞きました。彼が天界に行った時、父なる神様は見えませんでした。天使がそばにきて説明しました。天界においても父なる神様は見えないのですよ。見える神はイエス様だけですと。なるほど天界に行ったサンダーシングはどこを向いても真っ正面に栄光のイエス様を拝するだけでした。

 創世記1:26を英訳で読むと「神は『われわれのイメージに似せて人を造ろう』と言われた」とあります。人間は神様のイメージに似せて造られたのですが、イエス様は神様のイメージそのものの形をとって地上に宿られたのです。イエス様は神様によって造られたのではなく、神様より生まれた方なのであります。

              *

 今、あなたはイエス様を神様と信じることは困難かもしれません。当然なことです。イエス様は神様であるなどと、そんなべらぼうなことは信じられないのが当たり前です。

 第一、聖霊が働かなければ、そんなことは普通の人間には到底信じられません。イエス様が処女マリアから生まれたなどということも信じられません。しかしイエス様が神様だと信じたからには、イエス様が処女マリアから生まれたなどということも、当然なこととして信じられます。心に留めて下さい。信仰はまず聖霊の働きによって起こるのです。(第一コリント12:3、ローマ8:15参照)

 第二はイエス様の語られた言葉や、なさった行為を子細に検討するとわかってきます。イエス様は「私と父は一つである」と言いました。イエス様はまた「あなたがたは私に罪があるとみとめることができるか」とも言いました。また「私は道である。真理である。命である」と言いました。このような人間離れの自己宣言をする人は、次の三つのうちのいずれかに該当すると思います。

  この人はウソつきである。そんな人間がこの世に居るはずがないからである。イエスがそう言ったとすれば、イエスという男は希代のペテン師に違いない。

  この人は頭がいかれているのだ。たぶん誇大妄想狂であろう。そう言ったのがイエスだとすれば、彼は完全な狂人に違いない。

  この人は、信じがたいことだが、まさしくこの方が語られたとおりの人であろう。この方が嘘を語るはずもなく、気狂いであったとも思われない。

 ですから、イエス様の語ったことを割引して信じるわけにはいかないのです。「イエス様の言ったことは幾分は真実だろうが、全部は信じられない」、という人は彼を全然信じていないのと同じことなのです。

              *

 ここまで来たら何はともあれ、「えいっ」とばかり「百尺竿頭一歩を進め」(禅の言葉)、イエス様をあなたの主と信じましょう。

 幾分、信じにくいと思えても、雑念を打ち消して「はい、イエス様を信じます。イエス様を信じます」と極力告白し、強く主張し、自分に言い聞かせ、言いつづけましょう。主を仰ぎつつ、真実の言葉を強く「主張」するとき、信仰は堅く強固に成長するものです。(テトスの第二の手紙3:8参照)。  (2001.6.3.)

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