キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

2002年3月

2002/3/31

  (「日岡通信」第13号)

復活の朝ぼらけ   

 ドイツ・ルネサンスの画家グリューネヴァルトが描いたイーゼンハイム祭壇画の中の不朽の名作「復活」の絵がある。マリヤ姉妹会のマザー・バジレアが大好きな祭壇画である。この祭壇画は観音開きになっていて、表は凄惨なまでのキリストの処刑図などであるが、その中央を開くと、この復活図を始め、けんらんたる明るい色彩が広がる。

 暗い星空がバックにあって、その前に赤い太陽のように御頭の栄光が輝き、そして赤い衣のキリストが勝利の両手を挙げておられる。多くあるキリストの復活図の中でも、数少ない図柄だと思う。

 しかも、こういう場面は聖書にはない。だから画家自身によほど強い確信が無いことには、こういう絵は描けないはずだ。

 この絵のすばらしさは、明るく圧倒的な勝利の輝き、暗黒の中における輝きにある。
 なお、この絵ではキリストの下に、開かれた墓と倒れたローマの兵士たちがいる。復活とは全ての束縛、制限、封鎖、監視、敵意、に打ち勝ち、突破して高い次元に駆け昇ることである。

 さて、復活の主にふれるとは、単に幻のキリストを目で見ることでも、幻の御手の傷にふれることでも無い。天上の主より流れくる聖霊にふれ、その聖霊に生かされて、私たち自身も高次元の霊性にまで飛翔することである。全ての制限、束縛から解放されて、あらゆる人間の神の子としての可能性を実らせることである。

 かくして、あなたは新人類になることが出来る。キリストの復活はその朝ぼらけであり、キリスト軍団発進のトランペットの高らかな音色でもある。

 さあ、復活の朝を迎えよう。 (1986.3.30週報)

 


死人からの復活  

 「死人の中からの復活」、あるいはこれに類する言葉はパウロ特愛の言葉であります。

 第二コリント第一五章前半に、イエス様の復活を見た人々のリストがのっています。多いときには五百人もの人が同時にそれを見たし、その中の多くの者が未だに生きていると書いています。

 この文書はイエス様の十字架以後二十年位の時に書かれました。イエス様復活の最古の記録なのです。 世界のあらゆる人物の中でイエス様ほど、その存在を疑われ、その事跡にケチをつけられ、なんとかして歴史上から抹殺されようとしたお方はいません。 しかし、そのようにネチネチあら捜しをされればされる程、その事実がはっきりしてくるのです。

 イエス様の死と復活は、神様が人間の罪の歴史にあらわに愛の御手を突っ込まれた、その厳粛な事実とその刻印です。

 

 パウロは自分がイエス様の復活を見た最後の者であると第一コリント一五章で書いていますが、それは彼がダマスコへ行く道でイエス様の光と声に直撃され、一瞬にしてキリスト者に変えられた、あの有名な体験をさすのでしょう。

 たしかにパウロがこの文書を書いた時には、それが最後のニュースであったかもしれません。

 しかしそれは、その後、キリスト信仰の歴史において、多々輩出する信徒たちの回心体験によく似ています。

 私はあえて言いたいのですが、あのパウロの神秘体験は、それ以後、代々イエス様の復活に触れることの出来た聖徒たちの霊的系譜の最初であったのだと。

 

 しかり、イエス様は各時代に常に生きてくださった方です。それは多くのクリスチャンに体験された事実です。アウグスチヌスがそうです。ジョン・ウェスレーがそうです。フィンニーがそうです。

 内村鑑三がそうです。サンダー・シングなどは特にそのいちじるしい例でした。私の父もそうでした。そして私もそうでした。

 キリストを信じる信仰の特徴は、それが事実に即しているという事です。イエス様の存在と、その十字架と復活も事実。それを見た人々の証言も事実。 それらの人々が今日まで代々に続き、今日の私たちの時代にも及んでいるということも事実です。

 そして今日ここにいる私たちも日々に死んで日々に生きる、日毎に我が内に復活して下さるイエス様を体験する、これも事実なのです。 (1988.4.3.イースター主日礼拝メッセージ)

 


古い古い福音の信仰  

 私たちの信じるキリストを信じる信仰は古い古い昔のままの信仰です。パウロが信じ、アウグスチヌスが信じ、ルターが信じた信仰です。それは原始キリスト教の信仰です。

 上記に載せた二つの文章は一九八六年ならびに一九八八年の週報からの再掲載です。

 このような古い原稿をのせた理由は、私の信仰が昔も今も少しも変わっていないということを、証明したかったからです。

 イエス様の十字架によるあがないの真理、復活の真理、聖霊降臨の真理、そして主が再びこの地上に来られるという聖書の真理、この根本の信仰は私にとって、今も微塵も変わっていません。

 しかし、その中でも十字架によるあがないの真理は、最も基礎的な真理です。どんなに迷った時も、失敗した時も、絶望した時も、罪を犯した時も、この十字架の救いにまで戻って来れば大丈夫、回復の原理が働くのです。

 これを基礎として、さらに神の復活の力を拡大して頂き、聖霊の能力の賜物、聖霊による品性の実を完成して頂くのです。

 人生百般、神の復活の力を働かせて頂いて、勝利の生涯を送ってください。ヤベツの祈りではないが、神様に大きな祝福を大胆に求めなさい。     


【福音春秋】

 ◆…実は先週に書かせて頂いた土岐武子姉のご召天の日の前日に、我が家の老猫が息を引きとった。ミューという名だが、二十年は確かに生きて来たおとなしい黒猫である。今も部屋のどこかに居そうで、その鳴き声を聞くような気がする。我が家で話すことであるが、ミューが天国に登る道を、武子姉を振り返り、振り返り、先だって行っているような気がすると…。あたかも今週は復活節、天国を非常に身近に感じることである。

 ◆…先週の日曜日は「しゅろの主日」、礼拝前に会堂前に一同が集い、私がまず先導して会堂にはいる。永井先生以下信徒のみなさんが、手に手にしゅろの葉を持って振りかざしつつ入堂する。会堂の中の講壇の私には、真正面の玄関から、どっと諸兄姉が入ってくるのが見える。それは思いもかけず感激であった。
 会堂内では、永井先生以下みなさんがセンターロードの両脇を通ってくる。センターロードと称したが、この教会で結婚式に使うバージンロード用の白布である。その上にしゅろの葉と用意してあった花びらを撒いた。その花びらの大半は前日の土岐武子姉の召天式に飾られたもの、それも又、ひとしお意義深く感じた。
 教会暦のしゅろの主日を、象徴的な儀式で祝うことは、私どもの教会では初めてことだったが、参加した私たちの楽しさというものは喩えようもなかった。これを提案された永井先生に感謝した。

 ◆…永井先生はもう一つ提案されていた。洗足式である。これは前例のないことではないが、どこの教会でもめったにしないようである。私どもの教会で一回だけしたことがある。その時、私は故林正貴兄の足を洗ったことを覚えている。
 それ以後は、したことはないのだが、今回、先週の木曜日、午前の祈祷会の後、出席者はわずか十三名だったが、永井先生が私の足を、私が木本兄の足をというように次々に足を洗った。感じやすい女性群では涙ぐむ人も多かったと思う。
 私は申しわけないが、ワッハッハハと笑っていた。主イエス様の真似ができることが嬉しくて、つい笑ったのであるが、不謹慎の感じもして困りました。

 ◆…「笑い」と言えば、最近、テレホン番組で「ワッハッハ元気が出る電話」のほうが、先輩の「テレホン聖書」に追いつきつつある。私も「ワッハッハ元気が出る電話」の吹き込みは苦労が少ないし、まして反応がよいとあれば、嬉しいことです。
 もっとも「テレホン聖書」のほうが、より大事な番組と思うので、みなさんご援祷ください。わずか3、4分のメッセージですが、メッセージは短いものほど、むつかしいのです。
 最近、この「テレホン聖書」を聞いてくださった方のお嬢さんの心の病気が、精神科の治療をあちこち受けてもかんばしい効果がなかったそうですが、私の祈りのおかげで、まったく癒されたと、わざわざお母さんがお礼にいらっして下さいました。
 その方にも「笑えば必ず幸福になる」の小冊子を差し上げてありました。「笑い」のほうも実践して下さったのではないかと思います。「笑い」の効果もあったのではないでしょうか。

 ◆…「笑い」も一つの「告白」です。罪の告白ももちろん「告白」ですが、信仰の告白も「告白」です。希望するものを口で言い現わす、これも効果を生む「告白」の一つです。私の親しくしている東京の有名な保育園の園長先生は園児たちに御言葉の宣言告白を教えましたら、遠足などの往き帰り、電車の中で大きな声で無邪気に「告白」しているそうです。
 こうして幼い園児たちに「宣言告白」の習慣がついて、家でも、どこでも、御言葉を「告白」するようになると、遂にはその生涯をとおして「御言葉告白」を持続する大人に成長するかも知れない。
 「I園長先生、すばらしいことをなさいましたね」と、私は称えずに居られません。

 ◆…今年は桜の早咲きに驚きましたね。主よ、この桜のように、みわざを早めてください。地上をお顧みください。 

 

2002/3/24

  (「日岡通信」第12号)

天よりの祝福を受けよ  

 イエス様は、弟子たちを伝道に派遣する時、「金も袋も下着も靴も杖も持つな」と言われました。これは私たちに「無一物、無所有」の貧窮生活をせよとのお言葉なのでしょうか。

 いいえ、これは「神様第一、神様一切」の伝道生活を送るとき、実はいかに「ゆすり入れ、溢れ出る」ばかりの祝福に満たされたものになるかの、神様のお約束の前書きなのでありました。

 後日になって、パウロという人が「私は富に処する道も、貧に処する道も知っている」と言いましたが、彼はイエス様の特選の使徒でありました。彼はよくイエス様の御心を知っていたと言うべきでありましょう。

 

 イエス様の一行は、王家ゆかりの女性さえまじえた奉仕団の献げ物で、なんの不自由もありませんでした。一行には共有の財布さえありましたし、ユダはそれをかすめさえしました。時にはその財布の中に、五千人の食事をまかなう程の余裕があったらしいのです。

 イエス様はしばしば寝る所さえ無いこともありました。しかし、イエス様の着ていた着物は縫い目なしの、当時で言えば、高級品でありました。

 必要の時は悠然と格好の部屋を要求をなさり、食事の時はよく飲み、よく食べ、よく歌ったのであります。

 イエス様は決してぜいたくはなさらず、野卑な陽気さはお持ち合わせではなかったでしょうが、かと言って、貧乏たらしい生活でも無く、また悲しげなる人物でもなかったのであります。

 

 私たちは、このイエス様より十分にご祝福を受けることが出来るのですから、貧しい、物や金に不足する、面倒な人生を予測してはなりません。

「あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束されたもろもろの良いことで、一つも欠けたものはなかった。みなあなたがたに臨んで、一つも欠けたものはなかった」(ヨシュヤ23:14)。

 この約束は、イエス・キリストの血によってあがない出された私どもすべての者の上に、今日も成就されるべきであります。

 このせっかくのご祝福を信ずることをせず、かたくなにこれを拒否するのは、傲慢無礼なる不信仰の態度であります。

 へりくだって、全心全霊、イエス様を信じて、神様の祝福を受入れましょう。すでに信仰をお持ちの方も、「初めの愛に帰れ」とあります通り、今ひとたび、イエス様の御前に帰り、ご約束の祝福を受入れて信仰の喜びを皆さんと分かち合いましょう。

 

 イエス様は私たちに生命を与え、しかも豊かに与えてくださる方です(ヨハネ10:10参照)。魂において、肉体において、またすべてのことにおいて、つまり家庭的に、経済的に、社会的に、教養的に、一切のことに恵まれる方です。

 最近、「ヤベツの祈り」という本がクリスチャンの間で評判です。ヤベツという人は神様に呼ばわって言いました。まずその第一が「私を大いに祝福してください」という祈りでした。父なる神はまさにこのような率直な祈りを喜ばれるのです。 

 

 

土岐武子姉を送る  

 この3月22日未明、土岐武子姉を天に送った。教会の早天祈祷会のさなかに、夫君土岐賢治兄よりの電話で、その連絡を受けて、私は驚きもし、また残念でもあり、そして「しかし、よかった」と矛盾する感懷に打たれたのである。

 最近の武子姉の病状では、いつ天に召されても致し方はないという状況であったことは事実である。だから、残念ではあるが、致し方はないな、という思いも湧く。

 しかし、やはり本当に残念であった。私の親しい主であるイエス様には不足さえ言いたかった。いや、最近の2、3週間は、私はしばしばイエス様に訴えもした。「主よ、どうして、私の祈りを聞いてくださらないのですか」と。

 私はしばしば祈った。「主よ、この姉妹を一時でもよいですから、意識を回復させてください。そして、あの山手のお宅に帰して、ご主人と一緒にお茶でも飲む、やすらぎの時を与えて下さい」と。

 しかし、最近は、たまらなくなっていた。「イエス様、どうして私の祈りを聞いてくださらないのですか」。私はいささか腹をたてていた。「イエス様、はやく土岐武子さんの意識を戻して下さい。何時まで待たねばならないのですか」と。

 

 ところが3月21日、春分の日、この日は教会では午前中、祈祷会です。私は午後、N君とK君と一緒に病院に行った。いつもベッドのそばに居られる土岐兄の姿は無い。私はN君とK君がそばにいるのも忘れて、一人で祈った。いつものように大きな声を上げず、小さく、つぶやくように祈った。

 その時、私の祈りの放射線が姉妹の表面意識ではなく、姉妹の深層意識に染みとおって行くのを感じた。そして、実は今このことを書くのを恥じるけれども、主が私に言われたように感じた。「子よ、6か月待ちなさい。私はこの女の病を癒す」と。

 私は感謝して、「はい、6か月待ちます」と、答えた。私は昔から、こういうタイプの主の言葉を受けることに慣れていたのである。

 ところが、この朝、土岐兄から電話なのだ。「先生、今朝、妻が息を引き取りました」。私は最初に書いたとおり、驚き、残念。しかし、「よかったね」と思ったのであった。驚いたというのは、前日、病床を訪ねた時、彼女の息は整っていたし、体調も平穏だったので、ちょっと安心していたからである。 しかし、彼女の癒しについて、「はい、6か月待ちます」と、期待していたので「残念」だった。がっかりした。そして、あの時、私の祈りの放射線が、姉妹の深層意識に染みとおって行くのを感じたくらいだったが、「ああ、あの時はもう、天に帰られる時だったのだな」と納得できたのである。だから、「よかったね」と言わざるを得なかったのである。

 

 22日の夜、武子姉の前夜式(一般にいうお通夜のこと)で、私は20分ほどの説教をした。

 その後、土岐兄が武子奥さんのことについて思い出を語った。彼女はお琴が好きだった。まだ、戦争中のことだが、東京に出て、宮城道雄氏に入門し、故郷に帰って、お弟子を取ったのだという。

 こうした夫君のお話のなかで、故武子さんがどんなにかお琴を愛し、お琴に精進したか分かった。私の知らなかった武子さんの姿である。更に、

 前夜式を終わった後、ご子息の光さんから聞いた。お母さんの、つまり武子さんの意外な資質である。「母は非常に意欲や感情に激しい面があり、また冷静で優しい性格を持っていた」と言う。私がただ。いつもニコニコ、温和な方だったと、晩年の印象を語ることに、光さんは違和感を覚えたらしい。私に正確なお母さんの姿を伝えたかったのであろう。

 私は宮城道雄氏の筝曲のレコードを少年時代に聞いたことがある。有名な「六段」や「春の海」などだが。こうした名曲の中にあった、なごやかな曲や激しい曲調を思い出して、それに似た気分や意識と感情や意欲の落差の激しさが想像できた。私の知らなかった若い時の武子さんを想ったことである。

 

 私は「知っているつもり」の武子さんの、知らなかった意外な一面、非常に大事な武子さんの一面を初めて知って驚いたわけです。

 さて、本日(3月24日)の夜、日本テレビ放送の「知ってるつもり」が最終回で、『イエス・キリストの生涯』を放映するらしいです。ご覧になってください。時々挿入画面に、おなじみの映画『JESUS』の場面を使うそうです。

 ここで実は私の考えた事は、私たちクリスチャンは「知ってるつもり」のイエス様をどれほど知っているか、ということです。

 本日、3月24日は教会暦でしゅろの日曜日です。イエス様がエルサレムに入場された日です。この日から、受難週が始まりますが、イエス様についてご受難の印象が強いものですから、ついイエス様をみじめな印象で私たちは捕らえやすい、しかし、ここにも、「知ってるつもり」のイエス様とは全然違うイエス様を発見します。

 エルサレムに入場されるイエス様は凱旋将軍のように意気揚々として城の門をくぐるのです。

 同じように、天に召される聖徒たちも又、イエス様と同じように凱旋するのです。

 武子さん、あなたは土で作られた肉体は土に返し、霊において天使たちに導かれて天に凱旋します。私たちはそのあなたを、誇りをもって「ハレルヤ、ホサナ」と叫んで、今日お見送りするのです。 

 

     ………………………………………………………

【あとがき】

土岐武子さんは1920年(大正9年)2月12日に生まれ、1993年(平成5年)7月4日にバプテスマを受けられ、2002年3月22日に天に召されました。地上にご主人賢治兄と、ご子息光さん、お孫さんお2人を残されました。3月23日に召天式を行いましたが、前日の前夜式も当日の召天式も予測を越えて多数の会集者がご出席になり、当事者を慌てさせました。▼ご夫妻で別府に別荘を設けて、移住後、それほど年数もたっていませんのに、この多数のお集まりをいただいたのは、賢治兄の当市における交わりの広さ、深さを物語るものです。特に召天式で追祷合唱をしてくださった合唱団の方々に御礼申し上げます。▼前夜式、召天式、共に、式典の進行については永井先生が全般のお世話をしてくださり、また信徒の諸兄姉のご奉仕も行き届いて、小生(釘宮)は説教だけに専念できて感謝でした。▼来週は復活節主日礼拝です。 

 

2002/3/17

  (「日岡通信」第11号)

牢獄で叫べ   

 病気をしてみると、この肉体は牢獄のようなものだったと気づきます。熱心に神様を信じようとする魂も、弱い肉体の牢獄に閉じ込められて、自由に飛翔出来ないのです。

 聖書の見方に従えば、病気は悪魔のしわざであります。そして、イエス様はすでに悪魔に対して勝利を得られているのですから、私たちは主イエス様の御名によって祈りさえすれば、病気は即座にいやされるはずであります。

 ところが、実際はそれほど簡単にまいりません。

 ある時、私は軽い風邪のつもりでしたが、なかなか治りません、十年ぶりにひどい喘息の発作さえ出る始末、遂に私は自分にも悪魔にも腹がたって、思わず叫びました。

 「悪魔よ。出て来い。キリストの御名によって宣戦布告するぞ。勝負だ。出て来い。」

 と、むきになって怒鳴りつけると、しぶとい奴もやっと出てきて退散したものです。

 

 マルコによる福音書5:1〜20を読むと、イエス様の前でレギオンという悪霊集団は、あれこれ文句をならべて、なかなか出て行こうとしなかったようであります。

 墓場で凶暴に叫びまわっていたその霊は、遂に行きがけの駄賃に豚3千匹を共連れにしてやっと出て行きました。

 その他、イエス様のご命令に一気に出て行かぬ図太い霊どもも、たまにはいたようであります。

 これは、あまりに急激に悪霊を追い出すと、その憑かれていたご本人の肉体の方が失神状態を起こして、危険になることもあるからでありましょう。

 そこで、悪霊を緩やかに出してやるというイエス様のほうのご事情もあったかもしれません。

 ともあれ、肉体を一時不法占拠した悪霊が牢名主のごとく、私たちの心(魂)をはがい締めにすることがあるのです。

 

 かつてNHKの特集で、インド独立の秘話を見聞したことがあります。それは、旧英領インド軍の三将校が反逆罪で訴えられていたのですが、その三将校が軍事法廷で叫びます。

 彼らの祖国を愛する熱情、軍事裁判の非合法を訴える整然たる弁論、死をとした毅然たる態度が、全インド人の共感を呼びました。

 それは、遂にインド兵の反乱を誘発します。イギリスはやむなくインドを手放さざるを得なくなったという解説がついていました。

 牢獄に捕らえられて、三将校の身は不自由でした。明日の命も分かりません。しかし、彼らの精神は燃えていました。

 石の壁も、鉄条網も、彼らの意気を阻喪させませんでした、彼らの舌端は火を吹きました。軍事法廷は顔色をなくし、総督は狼狽しました。

 インド独立には、ガンジーのような人の功績が大きかったことはもちろんですが、またこういう隠れた人物の一事件がインド独立の引き金になったことも忘れてはならないことでしょう。

 

 私の心は当時、このNHKの放送に大変捉えられたものです。病気で苦しんでいるときの私の内面の魂は、このインド国軍の三将校に喩えることが出来ます。熱と咳の肉体に閉じ込められた私は、見る目にも哀れです。

 しかし、私は意気阻喪しない。出て行くべきは病気の霊どもであります。私は勇気を出して大声叱咤すべきなのです。

 「私は病人ではない。病気の霊よ。出て行け。」 肉体は抑えられていても、魂は弱りかけても、内なる霊は自由です。

 霊で雄叫びし、ついで魂が息づき、遂には肉体の健康も回復するのであります。

 


 

ワッハッハの電話、打ち明け話  

 私の行っているテレホン・サービスの「ワッハッハ元気が出る電話」は伝道用というよりは、最近の流行語で言えば「癒し系」の電話番組です。

 

 むやみやたらと笑っている電話番組です、気分の落ち込んだ時など、一度かけてみてください。

 そして一緒に電話機をにぎったまま「ワッハッハ」と笑ってください。

 悲しい心。憂欝な心、怒っている心、淋しい心が。癒されますよ。

 いや、時には体の病気も癒されるようです。

 

 スピーカー付きの電話でしたら、一家こぞって皆さんで、お聞きください。みんなで声を揃えて笑うとよいでしょうね。一家団欒、みんな仲良し、平和な家が生まれるでしょう。

 

 私がこの番組を吹き込んでいるところを、ご想像ください。かなりこっけいです。

 誰ひとりいない部屋のマイクの前で、まず「ワッハッハ」と大きな口をあけて、声を張りあげて「ワッハッハ」と笑うのです。

 時には、体もゆすって、手足を振りながら、笑います。そしておしゃべりを始めます。

 

 時には目の前に娘がいまして、パソコンなどをいじっています。少々気がひけたり(?)、いや時には自慢げ(!)に、吹き込みをします。

 そうして、3分間の「お笑いスピーチ」をテープに吹き込むと、今度はそれを留守番電話機のほうにセットするのです。

 その時、モニターで自分のスピーチが私の耳に入るのです。セットを終わると、電話でテストします。もう一度私のスピーチを電話で聞くことになるのです。

 

 可笑しいのは、その時、少しでも出来のいいお話ですと、私自身、私の声に誘われて自分で「ワッハッハ」と笑ってしまうのです。

 案外、この電話番組で心を癒されている一番の愛聴者は私かも知れません、ハハハハハ。

 

 格別、直接的伝道の意図は持っていませんが、それでも必ず関連する聖句を盛り込みます。おや、こんな聖句からも笑いのメッセージを聞けるのかと驚かれることもありましょう。こんな風にです。

 創世記1:31に、「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった」とあります。

 子どもは誰でも工作を喜びます。自分の作品をしげしげと見て、喜んでいます。神様もご同様に、ご自分の造られた天地をご覧になって、ご自分で大変喜ばれたのではないでしょうか。

 神様は天地をゆるがせて大いに「ワッハッハ」と笑ったに違いありません。

 

 そのことに気がついたら、私たちも天地万物を見回して神様と一緒に「ワッハッハ」と笑おうではありませんか。

 「神様! あなたの造られた天地万物、みなすばらいし、すばらしい。ワッハッハハ、ワッハッハハ」 私たちの信仰規模が宇宙大に拡大されるに違いありません。(笑) 

     ………………………………………………………

【あとがき】

2番目の記事はリバイバル新聞の昨年11月28日、30号に載せた「ワッハッハ元気の出るコラム」37の拙文です。月一回、第3日曜日の号に連載されています。▼この記事に関連して私の小冊子「笑えば必ず幸福になる」を自薦させて頂きます。どう ぞお読みください。私の「笑いの演習」実践学であります。お希望のかたは100円切手を同封のうえ送付先をお知らせください。さっそくお送りします。▼先週この欄でふれた、もう一つの私の小冊子「だれでも出来る『心の強化法』」も同様、上記のようにお申し越しあり次第、お送りします。▼私どもの僚友牧師・金本友孝先生の処女作「明日はどっちだ」(いのちのことば社刊1575円)「むかしロックギタリスト、いま牧師」金本先生の自伝です。在日三世の自分探しの半生の記録、重そうに見えるこの主題も明るく書かれて軽快、大衆小説かと見まがう金本先生の筆力に感嘆、何しろ、面白い、読ませます。 

 

2002/3/10

  (「日岡通信」第10号)

気分を変えよう  

 私はしろうとだから、自信をもっては言えないが、前世紀に、アメリカあたりから発生したらしい楽天的な大衆的実践心理学というものがある。

 こう書くと何だか難しく感じるが、つまり「成功の秘訣」などというたぐいの思想である。もっとも広く大衆に知られているのがジョセフ・マーフィーの「眠りながら成功する」一連の本であろう。

 こうした考えかたの発端はエマーソン(1803〜82)かもしれない。「あなたがいつも考えていること、それがあなただ」という有名な命題がある。

 いつも何かを習慣的に考えていること、それがあなたを形成する、ということだが、そこからおびただしい近代のポップス心理学が登場する。

 

 生長の家の創始者・谷口雅春氏は前半生、極度に敬虔主義的な禁欲的な厳粛主義者であったらしい。その自叙伝を読むと分かる。

 氏が郷里の神戸市の古本屋でふと「心の創造活動の法則」という英文の本を見つけた。ホームズという人の書いた本であった。これが現代きっての民衆宗教「生長の家」を生み出された端著である。

 ホームズは個性的な神を信じないで、「神とは趙個性的な創造の法則である」と言う。これは最近船井幸雄氏がしばしば取り上げ、筑波大学の村上和雄教授が創唱する「サムシング・グレート」ということと全く同じである。

 キリスト教は違う。聖書の神は「グレート・ワン」である。最高に個性的な、絶頂的な人間性を持った方、その方が人間の目にも見える形で地上に表れて下さった、それがイエス様である。

 さて、ホームズの「心の創造活動の法則」では、こう書いてあったと谷口氏は言う。「善人にせよ、悪人にせよ、自己の不幸を心に描いて、それを心から離すことの出来ないものは不幸に陥らずにはいられない。その不幸は自分の心が呼ぶのである。宇宙の法則は心の呼ぶところのものを造り出してくれるのである」と。

 これが現今、書店に行ってみると山ほどある「成功の法則」「万事うまく行く考え方」等々の源流である。戦後すぐ出たがブリストルの「信念の魔術」、牧師の書いた本ではノーマン・ヴィンセント・ピールの「積極的考え方の力」、その類書はダイヤモンド社あたりから次々に出た。

 異色で一部のカウンセラーなどに非常な影響を与えたのが、マクスウェル・マルツの「自我像・セルフイメージ」の説である。この本は東京オリンピック以降の日本のスポーツ界を席巻するイメージ・トレーニングの流行を生んだと思われる。

 

 20年ほど前、天城山荘で韓国のチョウ・ヨンギ先生が「三拍子の福音」と称して、ヨハネの第3の手紙の2節「愛する者よ、あなたがたの魂がいつも恵まれていると同じように、あなたが全てのことに恵まれ、また健康であるようにと、私は祈っている」という聖句に立って、祝福の福音を述べた時、聞いている牧師連は唖然とした。

 私のように「信念の魔術」や「積極的考え方の力」を熟知している者(少数であったと思うが)も、そんなことを知らなかった者も大いに驚いた。

 私が心配したのはチョウ・ヨンギ先生が積極心理学の面を強力に唱導するので、信仰の面がおざなりになりはしないかと言うことであった。数年後、大阪の聖会で先生の十字架の血潮の説教を聞いて、私は先生に安心した。その後、なんべんもソウルの先生の世界一の教会を訪問したものである。

 

 ところで、これら「信念の本」や「成功哲学」、「あなたは億万長者になれる」式の本に欠けるものが一つある。気分を盛り上げる秘訣を書いてないのである。目標を設定し、これを目ざし、積極、前向き、肯定的に努力して目標を達成、獲得はしても、

 もちろん。それだけで良いようなものだが、あまりに超人的にがんばるものだから、家庭を顧みず、奥さんからうとまれたりで、大変に気分が顔が暗いのだ。そういった人が案外多い。なんとすべきか。

気分を転換させるノウハウが必要なのである。

 そこで、私は思い出した。四十年も前にアメリカのデューク大学から出された研究発表だが、「気分転換法」というのがあったのだ。ユニークな研究はだが、その後、顧みられなかったらしい。いつしか、これらの文献は見られなくなった。

 私は古い書庫を捜して、やっと見つけ出した。そこにはまず「気分測定表(ムードメーター)」があった。実はこの表を用いて先週の祈祷会の時、出席者全員に対して記入をお願いしたのです。

 その一例を左辺に載せます。(HPでは下方に概略を載せています) プラスが15枠、マイナスが15枠あります。左側の説明句にしたがって、自分の実感にあてはまる所にチェックをします。その最高点と最低点を下のほうの、その欄に記入します。そして、その合計(相殺)の数字の上欄の該当する枠に丸を入れます。左にあげた例図では3月18日PM4:30の縦欄の合計がマイナス3です。

 その結果をみて、あらためて自分で気分転換法を試みます。その後、もう一度この気分表に自分の気分を記入します。それが初めに記入した欄の右脇の3月18日PM4:45の欄です。

 そこで合計結果はプラス8と出ます。このように、わずかの間に自分の気分が11点も上昇していることを表で見る(自覚する)ことができる。これが、デューク大学方式の良いところでです。

 さて、この気分転換法について簡単に説明します。まずリラックスします。私はリラックス法として複式呼吸法か、白隠和尚のナンソ鴨卵の法を使います。 その他の誘導法もありますが、自分一人でやるには柔らかい春の日のような景色の中でうたた寝しているようなイーメジを脳裏に描いて、「私はリラックスする。私はリラックスする」と自分自身に語りかけるがよいのです。その上で、「楽しい」とか、「明るくなれ」とか、「元気を出すんだ」とか、言葉を吐く。自分に向かって声を出して言うのです。

 この辺のことは、私の作った小冊子「だれでも出来る『心の強化法』」を参考にしてください。特にその一番に書いておいた私の旧友に電話で教えてあげている個所などが参考になりましょう。また「自己命令法」つまりセルフ・コマンドが有効です。

 実はデューク大学の「気分転換法」を読んでいたら、私たちの中に、「指導する自我」あるいは「命令する自我」があること、そして自分で自分を説得したり命令したりすることが大切だと書いてありましたから、私は驚きました。

 人間の意識に二重性があって内部で自己対話できること、また私が私に命令する可能性、このことは私の発見だと思っていました。もちろん、これは私は聖書から発見したのです。聖書には三千年の昔から書いてあったことです。その方法が私の古い書庫に眠っていた本の中にあったのを知って驚きました。 ともかく、クリスチャンの霊的生活を整えるために、聖書の基準を当てはめて自分で努力するだけでは律法的になりやすい。気分を変えるという、このコツを捕まえなければ無駄骨になりやすい、そのことを思って急ぎ拙文を書いてみました。 

  ………………………………………………………………

【あとがき】

ある先生が「だれでも出来る『心の強化法』」を誉めてくださったので、元気が出てこの本文を書いてしまいました。時間が無かったので粗末な文章になりました。お許し下さい。こうしたことは体を使って実習しなければ効果は表れません。そのうち実習用のテープを作りましょう。 

 

デューク大学草案

気 分 測 定 表

2002年 3/18 3/18
時 刻 pm4:30 pm4:45
+15 得意の絶頂    
+14 意気揚々    
+13 喜色満面    
+12 得意    
+11 嬉しい  
+10 楽しい    
+9 快活  
+8 明るい  
+7 幸福  
+6 愉快    
+5 満足  
+4 勇気づく  
+3 晴々しい    
+2 意欲的  
+1 決然とした    
     
−1 不安  
−2 心配  
−3 淋しい
−4 不満  
−5 狼狽    
−6 幻滅    
−7 気がふさぐ    
−8 憂鬱  
−9 気が滅入る    
−10 失意    
−11 自己嫌悪    
−12 消沈    
−13 自暴自棄    
−14 絶望    
−15 悲惨    
(+) 最高値 11
(−) 最低値
合計 −3 +8

〈昭和34年ダイヤモンド社発行「気分転換法」より〉

 

2002/3/3

  (「日岡通信」第9号)

強固な信仰と祈り   

 最近、ある大きな問題をかかえて苦闘しておられる方のために、お励ましの手紙を書いているうちに、思わず確信的祈りについての教科書的な文章を書いてしまいました。あるいはみなさんのご参考になるかと思い、以下に載せます。

 聖書により、「信仰の持ちかた」を学びましょう。聖書個所はマルコ福音書11:22下〜25です。

 マルコ11:22の「神を信じなさい」は原文を直訳すると、「神の信仰を持て!」であります。「神の信仰」とは、神様が教えてくださる信仰、神様が期待される信仰の持ちかたということです。神様がもし私だったら、私はこういうふうに信じるはずだ、という信じ方です。イエス様は「よく聞きなさい」と言って説明を始められます。(原文を直訳すれば、「まことに(=アーメン)あなたがたに言う」という言葉です)。

 第一に気がつくことは、イエス様の仰せられる祈りの姿勢の特徴は、「大胆かつ積極的な姿勢」です。つまり「山を海に移そう」と期待するほどの信仰者のタイプです。(これは戦後、一世を風靡したノーマン・ヴィンセント・ピールの「積極的考え方」の神学です。ノーマン・ヴィンセント・ピールの特愛の聖句は「私を強くしてくださる方によって私は何事でもすることができる」でした。)

 第二は、その山のように大きな問題から、目をそらしたり、脇道に逃げたり、後ろに退いたりしない態度です。それは「山に向かって」という言葉に表れていると思います。人生の難関に処して人はしばしば卑怯な態度を取ります。クリスチャンはこういう時、勇気ある態度で主を信じる決心をしましょう。「難関よ、来たれよ、来たれ」と難関に真正面に向かうのです。

 第三は、今、立ちはだかっている問題が、解決されてゆく過程を動態的イメージで心の目で見ているということです。これは「動き出して海の中に……」という言葉から読み取れます。これは、動きのあるイメージは記憶しやすいという原理にもかなっています。祈りの目標の達成予測が意識内の記憶層に強くとどまっているということ、これは脳の意識野において信仰が定着する大切な順序です。

 第四の重要点は「海の中にはいれ」というお言葉です。ここでは「問題」の解決ゴール点を予測して、よく見据えています。神様の御手はどのように働き(第三のように)、どのような結果(ここでは「海の中」)をもたらすか。それをよく知っているのです。

 第五番目に学びたい所は、「……海の中にはいれ」の「はいれ」という言葉です。この言葉は「命令形」です。このように、何物かを求め、期待する祈りはしばしば断言命令であります。イエス様がお癒しをなさり、奇蹟を起される際の言葉は常に断言命令でありました。「サタンよ、出て行け」「立って床を取り上げ、家に帰れ」「エパタ(開け)」「見えるようになれ」「手を伸ばせ」等々。

 あるいは、またイエス様のその時の態度に注意しましょう。ペテロの義母の病気の時、聖書はイエス様が「熱を責めた」と書いてあります。どんな様子だったでしょう。新改訳聖書では「熱を叱りつけた」と訳しています。現代の教会でも神癒担当者はイエス様を模範として病気を叱りつけるような権威ある強い態度を取ることは良いことだと思います。

 第六に分かることは、その命令の言葉を「口に出して言う」ことです。自分の声を自分の耳で聞く時、私たちの信仰は強固になります。卑近な例では、口に出して繰り返し言う言葉は早く暗記できることが分かっています。最近はこの機能を利用してキオークマンという記憶促進の器械も通信販売されていますよ。記憶の大切なことは第三で申し上げました。

 第七は、その命令の言葉を言い続けることです。「その言ったことは、必ず成る……」という聖句の中の「言った」という言葉は、原文では文法的に「繰り返し、継続し、習慣になるまで」一定の行動をつづける語法になっています。この語法のように信仰の言葉を口で語りつづけていると、「必ず成ると心に疑わないで信じる」ことができるようになるのです。これは「確信を得る秘訣」です。ロバート・シューラーの言う「可能性の信仰」です。「その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう」と主が約束されるとおりです。

 第八は、結論です。「そこで(結論として)、あなたがたに言うが」、とイエス様は仰せられるのです。すなわちイエス様は言葉を続けます。
「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすればそのとおりになるであろう。」

 これはチョウ・ヨンギ先生の「既得感覚の信仰」です。言い替えれば、イメージ祈祷法です。祈る対象のイメージが祈る人の脳裏に暖められ、具体化し、生きた絵になり、忘れることのできない確実で輝かしい実在感で迫ってきます。ある指導者はそれをクリスタル化(結晶化)と言いました。

 チョウ・ヨンギ先生の有名な証しでは、先生が開拓伝道の初期、自転車と机と椅子を与えられるよう祈った。そして前述のような「既に得たり」という確信を得た。そこで先生は「私はもう、神様から自転車をもらった。机と椅子をもらった」と公言する。信者たちが「先生、その自転車と机と椅子はどこにあるのですか」と問う。その時、チョウ・ヨンギ先生はいささかも慌てず、「うん。今、私のおなかのなかに宿って(妊娠して)いる」と言ったそうで、その後「妊娠した牧師さん」と好意ながら、しきりに、からかわれたらしい。

 第九。そして最後にイエス様は、ただ一つ念を押された。あなたがたが、「立って祈る時、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるして下さるであろう。 心に恨みをいだきながら祈る祈りは聞かれないのだと、主はご注意を与えられた。
 「求めよ、そうすれば与えられるであろう」。これは山上の教えの中でイエス様が語られた有名な言葉です。この言葉を私たちの信仰生活に実現させて頂くために必要な「信仰と祈りの秘訣」を以上に述べさせて頂いたつもりです。

 第十。最後に申し添えたい大事なことは「熱心」です。「主の熱心これを成したまわん」というお言葉もあるとおり、神様でさえ事を成しとげるためには熱心であられるということです。建設業者が大地に基礎のコンクリート杭を打ち込むように、大工さんが金づちで釘を木材に打ち込むように、意気を込めて、熱心に、継続して、祈りの鉄塔を打ち込んでゆく。特に大きな問題、課題、難関、阻害、悪魔の攻撃、戦陣、要塞に対して戦う時、以上のような祈りがいります。けっして、以上のように、順序過程が整う必要はありません。熱意をもって武者振るいして祈祷をささげる時、実は夢中です。しばしばこういう念の入った過程を踏むことなく、いきなり神様の介入があるものです。聖霊様が働きます。かくて問題は一挙に奇蹟的に解決します。勝利します。バンザイ、ハレルヤ!

 主に感謝、賛美をささげましょう

 

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【あとがき】

マグニファイ3月号が来ています。私の「マンガで福音を語れないか」が、載っています。私はベルリン国際映画祭受賞のことを書いておりますが、私はけっして「千と千尋の神隠し」の物語を喜んでいるのではないことをお察し下さったでしょうか。▼今日のリバイバル新聞を読んでください。第1頁の帯欄の「後の雨」と第4頁全頁にわたって、主筆や諸先生によって「ハリー・ポッター」や「千と千尋の神隠し」についてのクリスチャンから見た批判が載せられています。ぜひ読んでください。▼超自然的な世界や見えない霊的世界について、多くの人の目が開かれ、興味を持たれ始めたのは、1970年頃からではなかったでしょうか。一般のキリスト教界でも霊的世界がやっと注目されはじめた頃です。主の日の近いことを思わせられます。▼先週の「26周年記念礼拝」は豊かに恵まれた礼拝となり、参加者も多く、愛餐会の食卓も御馳走が一杯、楽しく、愉快でした。 

 

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