キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

2002年6月

2002/6/30

  (「日岡だより」第26号)

 「イエスは勝利者だ」  

       一、悪霊につかれた娘

 1838年7月の末日であるが、一人の青年牧師が、彼は33歳であった、南ドイツのフランス寄り、山岳地帯から傾斜面がくだってライン地溝帯に臨むほとりの一寒村の教会に赴任した。寒村の教会とは言え、その地方一帯では有力な教会であったと言われる。

 その牧師の名はブルームハルト、後に神学者カールバルトに多大の影響を与えた特異な人物である。特異と言っても、気むずかしい人柄ではない、とても快活で、単純で、善意に富む人物であった。

 彼が着任して1年半、1840年2月、教区の信者であるゴットリービンという24歳の独身の娘に異変が起こった。彼女は奇妙な力が自分に及ぶのを感じた。家のなかに不思議なものが見えたり聞こえたりするように思えた。そして、食卓で祈っていると突然、発作に襲われて床の上に倒れてしまったのだ。

 それと同時に、何か物を叩くような、引きずるような物音が聞こえてくる。ついにそれは家中の他の家族たち、独身の兄弟や姉妹たちがいたのだが、彼らにも聞こえはじめた。けっして、彼女だけの異常神経ではなかったのである。

 はじめ、一家の人々は近所の人々の評判を恐れて、それをひた隠しに隠していた。しかし、事態はますますひどくなるのであった。ゴットリービンは翌年の秋になって、とうとう牧師をたずねて訴えた。

 余りにも奇怪なできごとに彼女は耐えることができなかったのである。しかし、ブルームハルトはそれをよく理解できず、また当然のことだが適切な助言も与えることができなかった。

 その後、ゴットリービンの家の奇妙な物音はさらに激しくなる。彼女は2年前に死んだ婦人の幽霊を見るようにさえなった。そして、ついにそれらのことが村中の評判になったのである。

 ブルームハルトは決心した。村長や教会の信頼できる人たちと共に、ゴットリービンの家に調査に出かけた。ところが、ブルームハルトが家に足を踏み入れると同時に騒音が激しく響きわたり、つづいて様々な物音が聞こえた。

 しかも教会の人たちが讃美歌を歌いはじめると、物音は更に激しくなり、ついに椅子が飛びあがり窓が震え、天井から砂が落ちてきた。心霊術家たちの間でよく知られている物理的異常現象である。

        二、「憤 怒」!

 これはもう悪霊である、その事はあきらかであった。ブルームハルトはその時のことをこう書いている。

 「私たちは聖書全体を調べた。聖書が導いてくださる所より先には進むまいと互いに戒めあった。奇蹟を行おうなどという思いは少しも無かった。ただ私たちは、悪魔が今もこのような力を持っていることが、深い悲しみであった。

 私たちは、このゴットリービンだけでなく、悪魔のよこしまな力に苦しめられている多くの人びとについて嘆き、又うめいた。神様が少なくとも、この目前の事件について私たちに勝利を与え、サタンを足の下に踏みつけさせてくださるように祈った」。

 ……さて、事態はなかなか解決しなかった。ある時は、ゴットリービンの激しいけいれんのため、彼女の寝ているベッドの骨組がこわれてしまった。様子を見ていた一人の医師は涙を浮べて、「病人をこのような状態に放置しておくとは。この村には一人の牧師も居ないのかと、人は思うだろう」とつぶやいた。この言葉がブルームハルトの心を刺し貫いた。

 その年、1842年6月26日と言われているそうだが、重要なことが起こる。以下に再びブルームハルトの記録を借用しよう。

 「私はまた彼女のところに行った。私はだまって彼女の恐ろしいけいれんを見ていた。彼女は腕をよじり、頭を脇のほうに曲げ、体を高く上のほうに湾曲させていた。その口からは、泡がたびたび流れ出た。あきらかに悪魔の働きであると思われた。我々がこれを見ながら、何も出来ないということは苦痛であった。

 そのように考えているとき、一種の『憤怒』が私を捉えた。私は飛び出して行って、彼女の硬直した手をつかみ、その指を無理やりに祈るときのように組みあわさせ、意識を失っている(!)彼女の耳に向かって、彼女の名を呼んで大きな声で叫んだ。

 『ゴットリービン、ゴットリービン、こう祈りなさい。主イエス様、私たちはずいぶん長い間、悪魔の仕業を見てきました。今度は、あなたのなさることを見させてください』と。

 すると、それから間もなく彼女は覚醒し、今の祈りを繰り返して口にした。そしてけいれんは止んだ。その場にいた者たちは、私をふくめて非常に驚いた。それは、私を新しくこの問題解決のために抵抗しがたい力で引き入れた、決定的な瞬間であった」。

         三、「イエスは勝利者だ」

 それから又、1年半の時がたった。けっして簡単に問題が解決したわけではなかった。この悪魔は執拗であった。

 1843年のクリスマスの期間のことであった。暗黒の力はますますひどくなり、その攻撃はゴットリービンの兄ゲオルクや姉カタリーナにも及んだ。戦いは「勝利か、死か」というような悪魔との肉薄戦になったと、ブルームハルトは言う。12月27日、兄ゲオルクはようやく正常に戻った。しかし、姉カタリーナはいよいよ悪化した。その夜から28日にかけての経過をふたたび、ブルームハルトに聞こう。

 「カタリーナの喉から幾度か絶望の叫びが発せられた。そのために家が壊れるのではないかと思われるほどの恐ろしい声であった。朝の2時に、彼女は椅子の背にのけぞっていたが、『サタンとなった天使』と自称する声が人間の喉から出る声とはとうてい思えない声で、吼えるように叫んだ。

 『イエスは勝利者だ、イエスは勝利者だ』。

 その言葉は聞いている者に明瞭に理解され、忘れることのできない印象を与えた。やがて悪霊の力は一瞬ごとに奪われてゆくように見えた。

 悪霊は次第に静かになり、ついにまったく認めることができないまでに消滅してしまった。瀕死の人の生命の光が消えてゆくのに似ていた、ようやく朝の8時ごろであった」。

 ……3年にわたる戦いであった。ゴットリービンは、その後、ブルームハルトのよき助け手となった。特に精神障害に苦しむ人々を扱うとき、欠くことのできない人になったという。

           *

 後に、神学者カールバルトは特にブルームハルトの、あの「憤怒」について共鳴を語っているという。たしかに、きびしい霊的解放においては悪霊に対する神による怒りが必要なのである。

 又、カールバルトはその著書「19世紀のプロテスタント神学」の中のブルームハルトに関する章で「イエスは単に心情の問題ではなく、力の問題を提出されたのだ」と述べているという。

 昭和初年から戦後しばらく、日本においてもカールバルトの名は日本のプロテスタント教界を風靡した。その追随者は山のように多かった。しかし彼らは、この主題については一顧も与えなかったように思えるのが、残念である。(1992・7・13 執事祈祷会及び1992・7・16 木曜午前祈祷会にて奨励)

 


【福音春秋】
今週のリバイバル新聞は圧巻です。ぜひ読んでほしい。予約以外に余分は無いので、今から注文するなり、それぞれ工夫して下さい。(1)北朝鮮伝道は可能、日本人が出来る方法。(2)尾山令仁先生はすでに「聖霊のバプテスマ」を受けておられた。(3)石田吉男先生の証し、「お父さんを許す」。その他、好記事満載。▼早天祈祷会では、毎朝信徒諸兄姉が司会と小説教を分担。ぼつぼつ限界、悲鳴をあげているらしい。しかし、今こそ峠を越えるがんばりどころです。▼その苦労は私も経験ずみです。しろうとの私が一人で集会を始めたのは27歳の時。最初の日は会場を貸してくださった家のご主人が一人いるだけでした。平日は聾学校の助教諭で文部省の指導要領も出来ていない頃。聾教育の指導も受けていない私が最も難しい小学部を担当。数年すると口話教育のベテランになっていました。▼まず生けるキリストに会うことです。主の血潮によるあがないの確信を握ること、次に祈ること、聖書を徹底して勉強することです。当初、私は神癒、悪霊追い出し、聖霊のバプテスマ、すべてまだ未経験でした。そのような未熟なまま、伝道戦線に立ったのですが、そこがその日から私の神学校になりました。[く] 


【雑報】
今日は永井先生の事務所開き感謝会。先生が日南からかつおを取りよせました。江良姉のご主人が捌きました。その他、みなさんの持ちよりで御馳走も揃いました。ご一同で、舌つづみを打ってください。▼永井先生は先週は宮崎の高木先生の教会でのご奉仕。このご奉仕を終わられるや、福岡で英子先生のお姉様のご召天のことがあり、直ちに福岡に回られご葬儀を司式されました。先生のお疲れを癒し、英子先生への主のお慰めを祈りましょう。▼ワールド・カップ伝道。韓国チームのエネルギッシュな奉仕に、当教会の伝道部隊も励まされ、また学ばされました。彼我の皆さんに感謝![く]  

 

2002/6/23

  (「日岡だより」第25号)

「イエスは主である」(2)    

 最近のことですが、教会の周辺約5千戸の各家庭に、韓国から来た若者チームの応援を得て、ワールドカップ関連の伝道トラクトを配りました。そして、その第1日と第2日には、特に「エホバの証人は間違っている」というやや過激なチラシも配りました。

 一般市民の間にも相当波紋を呼んだと思いますが、何よりもエホバの証人の方々に強いショックを与えたことと思います。気の毒に思いましたが、私たちの正統的キリスト教の立場を明らかにするために強行したのです。

 エホバの証人の方々の道徳的まじめさや、伝道の熱心さや、その礼儀ただしい明るい態度には、私は常々尊敬を払っています。しかし、この方々の信仰は、真のキリスト教ではないということを、はっきり宣明したいと思ったからです。

 もちろん、この方々にしてみれば、「自分たちの方こそ、正しいキリスト教信仰である、今ある多くの教会のキリスト教はみな間違っている」と言うでしょう。この事で論争しても水かけ論ですし、互いに論争しても、たぶん結論は出ません。この際ただ、私は私たちの信ずる信仰の、この方々の信仰と異なる点をはっきりしておきたかったのです。

 

 彼らはイエスが死なれたのは十字架ではなくて杭であったと主張します。私たちにとっては「イエス様の死」そのものが大切なのであって、イエス様に対して用いられた当時の死刑用具が十字架であったのか、杭であったのか、それは問題ではないのです。ただし、十字架のデザインをただの飾りのペンダントにしたり、十字架をシンボルとして礼拝するような偶像扱いは私も反対です。

 また、「血は命であるから、輸血に反対」という主張は、相当社会的に批判も浴びて居るようですが、私はそれを極端な意見だとは思っても、反対する気にはなりません。却って人々の善意に甘えて、安易に病者に輸血する現代医学に対する警鐘だと評価します。もっと早く、病者自身の血液を利用する方法はなかったのかと、その点を考究しなかった近代医学者の怠惰さを反省すべきだと思います。

 要するに十字架か杭か、輸血の是非、これらは枝葉末節のことであります。最も大事なことは「イエスは主である」とその方々が信じているか、どうかが問題なのです。ところが、この方々は「なぜ、そんなことをいうのですか。私たちはイエス様を救い主と信じていますよ」と言うでしょう。

 私は、その「救い主」という言葉に注意したいと思います。聖書に出てくる「救い主」という言葉は厳密には「救済者」と訳すべき言葉です。「主」という言葉は尊崇のあまりにつけ加えたのです。英語ではちゃんと Savior と訳しています。上述のように「救済者」とか、また「救い手」としたのでは、どうも神聖さを欠く、そこで躊躇したのでしょう。日本語では明治の最初から翻訳者たちは「救い主」と訳したのです。

 ここで微妙な誤解が生じます。エホバの証人の方々が「救い主イエス」と言う時、実はイエス様を天使級の霊者、堕落以前の完全人間のアダムに等しい人なのだと理解しているのです。このことは彼らの「あなたは地上の楽園で永遠に生きられますか」というテキストの中にもちゃんと書いてあります。

 これとは反対に、私たちはイエス様を父なる神と同等の方、まさしく「主」なのだと信じているのです。本紙22号で述べたとおり、主とは旧約聖書ではエホバのことをさします。そして新約聖書にはエホバという言葉は一切出ません。イエス様は「主」なのです。

 旧約聖書的に言えば、イエス様はエホバです。こう言えば、一般のクリスチャンでもビックリするかもしません。正直に言えば、この主張は極端すぎると言って正統派の教会の牧師さん方からも批判されるかも知れません。この問題は後日にまわします。

 

 さて、マタイ1:21によれば、イエス様のお名前は父なる神様から天使を通してヨセフに与えられたお名前です。イエス様ご自身も、そのお名前が「聖なる父から頂いた」という言い方をしています(ヨハネ17:11一参照)。そして、この「御名によって彼ら(弟子たち)を守り、また保護してまいりました」(ヨハネ17:12)」とも、父なる神様に向かって祈って居られます。まさしく、この御名には力がありました。

 たとえば、イエス様ご自身が言われます。「わたしの名によって求めなさい、そうすれば与えられます」(ヨハネ16:23、24)。あるいは復活されたイエス様は昇天の間際に「私を信じるものは、私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびを掴み、毒を飲むとも害を受けず、病人に手をおけば癒される」(マルコ16:17、18)とも。このイエス様のお約束は、使徒行伝によれば使徒たちの数々の奇蹟によって実現しました。

 あの足の立てない男の癒しについてペテロは宣言しました。「この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに……ナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。私たちを救い得る名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒4:10、12)と。

 

 イエス様は言われました。「わたしは人々に御名をあらわしました」(ヨハネ17:6)。また「わたしは彼らに御名を知らせました」(ヨハネ17:26)等々。この御名というのはイエスというお名前だと私は信じています。実は当時、ユダヤではイエスという名は珍しい名ではありませんでした。使徒行伝では、クプロ島の魔術師バルイエスという男の名が出ています。イエスの子とう意味です。パウロの手紙では「ユストと呼ばれているイエス」(コロサイ書4:11)という信徒の名が出てきます。もっと驚かされるのは、新共同訳によると、あのイエス様の代わりに命が助かったバラバを、総督ピラトは「バラバ・イエス」と呼んでいるのです(マタイ27:17参照)。

 

 このため、使徒たちは、イエス様のお名前をはっきり区別するため、「ナザレのイエス」と呼んだのです。使徒行伝2:22、3:6、4:10ほか多数参照。

 ある人が三郎という人を恋人に持ったならば、三郎という名前の人が世間にどれほどたくさんいても、その人が「三郎さん」と呼ぶのはただ一人の特定の人です。そのように、クリスチャンが「イエス様」とお呼びする方は、あの「ナザレのイエス」、十字架にかけられたイエス様のことです。

 この方以外に私たちのイエス様はいないのです。このイエス様こそ、私たちの「主」です。この「日岡だより」22号にも書きましたが、「イエスは主です」と信じることは人間の知性では不可能です。このことは神の聖霊様による以外、出来ません。(このことは、いわゆる「三位一体」論に通じる問題になりますが、これについては次の機会にゆずります)。

 預言者の時代、既に「すべて主の名を呼ぶ者は救われる」(ヨエル2:32)と言われています。この時の主のお名前はエホバであったと思います。以後、4百年間お名前が忘れられる時代が来ます。そして新約の時代です。先に述べたとおり、イエス様ご自身、ご自分のお名前の権威について保証され、またペンテコステの日がきます。

 ペテロが先ほどのヨエルの預言を引用します。「そのとき、主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう」(使徒2:21)。パウロも言います。「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」(ローマ10:13)と。この時の主のお名前は、実にイエスでありました。((ローマ10:19参照)。私たちもパウロに続いて、告白するのです。「イエスは主である」と。

 


【福音春秋】
 先週のクリスチャン新聞に「ヤベツの祈り」についての特別寄稿があった。それほど酷な批判ではなかったが、少々斜めに構えた冷たい文章に思えた。たしかに「自己中心」に見えるこの祈りの方法に首をかたむける気持ちは分かる。心理学的積極肯定法に傾き過ぎはしないか、こういう疑いも持たれるであろう。しかし、この寄稿者の問題点は、この「ヤベツの祈り」を本気で祈ってみなかったのではないか、ということだ。やってみれば分かる。たしかに「ヤベツの祈り」には、即座な実効的効果がある。平野耕一著「ヤベツの祈り」を参照されたい。同著者による「ヤベツの祈り」2は、ややむつかしいでしょうが、ぜひお読みください。


【雑報】
 本文にも書きましたが、EHCからの委託で韓国の若者たちがトラクトとカセットテープ「イエスの物語」の配布に10日間奉仕してくださった。彼らのエネルギーには驚嘆した。この機会に日韓両国のクリスチャンたちの交流の大事さ、また世界伝道の意識が拡大されたことは感謝でした。トラクト費用十数万円の献金も、間もなく満たされるでしょう。感謝します。 

 

2002/6/16

  (「日岡だより」第24号)

わが友、荒巻保行  

 今回は、私的感情に満ちた私の文章を勘弁してください。

 先日、突然、ある人から部厚い郵便が届きました。それは私の死んだ旧友荒巻君が、その弟の俊彦君にあてた手紙やはがきの書簡集でありました。時期は昭和16年の4月から7月までの正味40日に足らぬ文集です。それを俊彦君がまとめてワープロで清書して送ってくれたのです。上記に「死んだ旧友」と書きましたが、その死は自死でありました。

 

 かの日、昭和16年7月12日の翌日、彼からの遺書ともいうべき黒表紙の手帳が届きました。私はそれを読んで、あまりにも清純な一途な死への直線思考に圧倒されて、その夜、大分川のほとりで泣き明かしました。

「ああ、今はなき友よ、今どこに居るのだ」、私は宙に向かって叫びました。その日を期して私はかつての文学少年、映画少年ではなくなりました。

 まず私は死んだ荒巻君の真似をしてしばらく哲学を勉強しましたが、私の頭脳ではカント、ヘーゲル、ニーチェは歯が立ちませんでした。そして父や伯父や母の信仰に帰るのです。いわば、荒巻君の死は私を聖書と聖霊に導かれてキリスト信仰にたどる道への門を開いたのです。

 西洋伝来のキリスト教は、もちろん自死を罪と断じ、その魂は地獄に行くと言います。それが本当なら荒巻は地獄行きです。そんなことがあろうか。しかし、それが本当なら、自分も荒巻を追っ掛けて地獄に行きたい、そんな風に思う私でした。

 

 さて、弟さんの送ってくれた荒巻君の書簡集ですが、読んで驚きました。これが、当時の旧制大分商業学校というマイナーな学校を出たばかりの19歳の青年(まだ少年と呼んだほうがよいくらい)の書いた手紙だろうか、又、これを読む弟の俊彦君は当時天下に知られていた京都の三高の学生です。

 当時の旧制高校は知的で情熱と正義感に燃えた青年たちの発酵場所でした。その中でも、京都学派の京大を控えて三高の学生はたぶん哲学的思考にかけては頭脳がたけていたと思います。この兄貴の手紙に対して、俊彦君も十分に答えていたのでしょう。

 私は実は、今回、荒巻君の「遺簡集」を読んで、彼の思索がこんなに深かったとは思いも寄りませんでした。鮒には鯉の思いは分からない。私は何も知らず、彼と私なりの浅い言葉で接していたのです。たとえば、彼の自死の少し前でした。彼が言った。

「僕は死の哲学を完成させたいと思う」。私はすぐ答えた。「君なあ、本当に死の哲学を完成する人が出たら、その人は死の哲学なんか書く暇はないと思うなあ。あっさり、その場で死んでしまうよ」。

 私は気取って、したり顔で言ったと思う。それから、すぐに君は死んだ。私の言葉に答えるかのように。私はひそかに彼の死に責任を感じた。私の言葉に誘発されて彼は自死を選んだのではなかったか。

 この疑問は、私を改めて彼の思考に挑戦しつつ、私も自死の誘惑を感じつつ、聖書に解決を求めざるを得ない道へと私を導いたのである。

 

 ところで、彼の思索は私が当時軽く答えたような、そんなヤワなものではなかった。今回、弟さんから「遺簡集」をもらって、読んでみてよく分かった。

 彼がある日本人のヘーゲル哲学徒の論文を読んで感動している一文が、今回のこの「遺簡集」に載っている。彼はこう言う。

「彼の烈々たる愛国の情熱に大いに感動している。哲学が決して学者の閑事業でないことが分かる。いたずらな文学者みたいな、やくざ的なところがない。実際、今日の文学者の書くものに「時局便乗的」な臭いを感じないわけには行かない。彼らはいつも思想をペン先から作りあげるのだ。だから戦争が始まれば、すぐ戦争文学を書ける。平和になれば、その同じペンから平和文学がすぐ書ける。馬鹿々々しいよりも彼らの悲惨さに目をそむけたくなる、それにくらべれば、日本の哲学者は感心だ。彼らを大いにほめておこう」。

 これがあの思想統制の激しかった戦時中に、19歳の若者が言ったことだろうか。また、「日本の哲学者は感心だ。彼らを大いにほめておこう」などという彼の大人ぶりにも一驚する。

 その頃から、2年もすると、同じようなことを私が自分のノートに書き始める。そして、その後の私の人生に《非戦主義と自殺と刑務所行き》というコースが待っているわけだが、彼の見通していたコース上を私は走っていたことになる。

 何よりも、彼は生来の詩人だった。気質も繊細、字もきれいで、小詩篇を書いて寄越した。私はその詩心の深さにため息をついたものだ。ところがそれどころではない、こんな頑丈な哲学者としての資質を持っていたのかと、呆れるのである。私は全く見誤っていた。私はかの「死の哲学」問答の時、「その時には、本人はその場でさっさと死んでしまうよ」と一家言を呈して彼に一発食らわせたつもりでいたが、どっこい彼は先刻承知、その時、彼は「僕も釘宮の言うことに大賛成だ」というようなことを弟さんに書いている。私はお釈迦さんの手のひらの上で暴れ回っていた孫悟空のような気がした。

 

 さて前述した日本人のヘーゲル哲学徒の論文から引用して、かつ彼の感想を述べている。

「宗教はどこまでも我々の自己が自己たるところに絶望するところ、絶対の死に直面し絶望の悲哀になくところから始まる。更に神を、かく説いている。

 神は罪悪なき天上の調和的世界に見出されるのでなくて、むしろ罪悪に汚され、矛盾に満ちた地下室の底にいるのである。神は愛であるというも、ただ憎悪のない非現実的世界にのみ神の愛が見られるのではない。金貸婆を殺して脱走したラスコーリニコフの悪の底にも、フョードルの汚れた血を受けて人倫の世界から背き去ったカラマーゾフの兄弟ドミートリーの罪の底にも、燦として輝いているのである。

 俺は実に感激した。後者の神の愛について、これほどの考えは持っていなかった。神の愛をかかるものとして説いた人が又とあろうか。俺は感激の余り涙さえ流した」。

 

 彼が読みあさった本は、当時すでに本は出版飢饉の時代、弟さんは代わって京都の古本屋さんで捜しまわったのではなかろうか。読んだらしい本の名をあげるとドストイエフスキー、トーマス・マン、阿部次郎の「三太郎の日記」、ニーチェ、カント、ヘーゲル、ショーペンハウエル、スピノザ、西田幾多郎、田辺元、等々。なにも彼がペダンチックにこれらの名前をあげているわけではない。ただ弟さんへの手紙の中で散見した本の中から挙げたにすぎない。

 なお、その名は出ていないけれど、「行為的世界」という本がある。これは彼に非常に影響を与えた本だっただろうと思う。この本は私も彼から勧められて読んだが、彼ほどには感激も感心もしなかった、著者は柳田謙十郎のはずである。

 

 さて「ハーザー」7月号に「死後に救いのチャンスはあるのか」という特集が出ている。これは私の古くからの問題であったし、実は叙上の荒巻君の自死のことがあったので、私には切実な問題であったのである。このことは又、他日述べる。

 彼は「地下室の底に燦として輝く」神の愛に感激しているが、今、荒巻よ、どこにいるのか、地下にあって君は「イエスは主なり」(ピリピ2:11)と告白の声をあげているでしょうか。地の下から賛美の声(黙示録5:13)をあげているでしょうか。(ご参考に「ハーザー」7月号、久保有政師の論文をお読みください)。

 ともあれ、わが友・荒巻保行よ、本当に60年ぶりに君に会えたのだ。俊彦君に感謝!  

 


【雑報】

先週の13日に本文の古後俊彦氏から、旧友荒巻君の「遺簡集」が送られて来ました。ちょうど教会の外の問題で非常な困難を感じている時でしたが、私には気分一掃の良薬になりました。▼この「遺簡集」が欲しい方には古後氏にお願いしてコピー印刷して差し上げられると思います。▼何よりも驚くのは、私の文体がどうも当時の荒巻君の文体に似ていると思えることです。不思議です。もうすぐ7月12日「はなずおう忌」(彼の日)がやってくる。 

 

2002/6/9

  (「日岡だより」第23号)

信仰の確かさ  

 救いの確かさとは何か。これまで、私がよく語ってきたのは、ほとんど私たちの入信体験の確かさをさしていました。それは人間のがわで心理的に確かめ得る信仰の確かさでした。ですから、たいてい瞬間的体験としての回心のことだったと思います。

 私は青年期、原田美実という純日本人にして快男児のような人、この方の個人雑誌のある号で「救いの確かさ」という言葉を初めて知りました。その号では表紙から裏表紙の広告に至るまで、全面キリストにある救いの確かさについて語っていました。

 私は圧倒されました。私はそれを熱烈に求め、それを福岡の刑務所で体験しました。私の22歳の晩秋でした。1944年11月23日でした。

 しかし、そうではない人も多数います。いや、その人々のほうが多いのかと思います。大阪の泉大津のCTC(クリスチャン・トレイニング・センター)の古林先生から聞きましたが、先生ご自身、自分がいつクリスチャンとしての確信を持てたのか、それが分からなくて、ご自分の「証し」を書くのに困ったと言います。

 先生は全国を回って信徒教育の講習をしておられる方です。その講習会で「入信の証しを書きましょう」などと指導される方なのですから、そのことをお聞きした時、可笑しくって笑ってしまいました。

 不謹慎でしたが、こういうこともあるのだということで私たちは古林先生に感謝したことです。

 この状況は、朝明けに似ています。いつ夜が明けたのか、東の空を見ても、その瞬間は実は、はっきりしない。特に曇りの日ではそうです。しかし確かに朝は来て、もう昼になっている。そのように、いつイエス様を信じるようになったのか、日時ははっきりしなくても、「回心」の時はあったはずです。

 このように瞬間的回心はなかったけれど、しかもしっかりした確信を持ちつづけて来られた方、そういう方の「確信を形成して来られた経過」をくわしく書いて下さらないでしょうか、ぜひ願いします。

 そうした「証し」は、ご自分の信仰に疑いを持っている方々に非常に参考になり、励ましになります。ご自分の信仰の吟味をするということは大切です。信仰の確かさ、救いの確かさを、あらためて確かめることは大切です。

 以上が、言わば、人間のがわにおける救いの確かさです。これを経験主義と言って非難する方もいますが、しかしこうした内面的経験の無い信仰というものは私には想像しにくいのです。いささかでも何らかの内面的経験の証しがほしいのですね。

          *

 ところで、それと矛盾するようですが、「救いの確かさ」は、神のがわにあるという「信仰の確かさ」でもあります。真理と重要度から言えば、このほうが第一です。人間のがわの確かさは第二です。

 神様が私を選んで掴えてくださり、絶対に離すことはないという確かさが第一です。神のがわから見る客観的な確かさです。

 「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めてくださった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには。更に栄光を与えてくださった」(ローマ8:29〜30)。これです。

 では神様はいつから私たちを知っていてくださったのか。預言者エレミヤはこう述懐します。「主の言葉がわたしに臨んで言う、『わたしはあなたを母の胎につくらない先に、あなたを知り』云々」(エレミヤ1:4、5)。

 その「先に」とは、どこまで遡るのでしょうか。「神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、……、天地の造られる前から、キリストにあって私たちを選び……」(エペソ1:3、4)、これです。

 つまり、私たちの存在は天地の創造以前から神様に知られ、祝福され、選ばれていたということです。なんと驚くべき思想ではありませんか。神の啓示以外に誰がこんなことを思い付きましょうか。ですから、神様が「私の目にはあなたがたは高価で尊い存在である」(イザヤ書43:4参照)と仰せられるのも、本当にそうなんだなあ、と納得できるのです。

 この創造主なる神が私たちの罪を赦し私たちに全き救いを与えるため、御子イエス様を地上に送り、十字架につけ、全人類の罪をこれに負わせて断罪なさることを「良し」とされたたのです。

 主イエス様は父なる神の救いのご計画に全く従順に従われました、そしてそれを成就されました。イエス様が十字架上で「われ完成せり」(ヨハネ19:30)と叫ばれた、この一語こそ勝利の喚声です。ここに私たちの救いの確かさがあるのです。

 だれも、この十字架のみわざを無効にすることはできません。悪魔もこれを破壊出来ません。だから悪魔は憤って、この救いの真理を覆い隠そうとし、「ほかにも救いの道がある」とか、十字架を否定する教議を言い広めようとするのであります。

          *

 救いの確かさの続きは「成長の確かさ」です。それは又「聖化の確かさ」でもあります。クリスチャンが天に帰る日まで成長しつづけて、そのクリスチャンとしての姿が、主のみ姿に完全に似せられるまでに成長する「成長の確かさ」です。

 パウロの言葉を読むと、しばしば「救い」という言葉が入信当時の赦しのことではなくて、天に凱旋して天の体を着せられる、そういう希望を指していることがあります(ローマ8:23等参照)。そうした「希望の確実さ」を確信せしめるのは、単なる夢のようなロマンチックな天国への期待でなくて、事実クリスチャンとして現に成長しつつある自分の現実に感激せざるを得ない「成長の確かさ」からくる喜びです。

 私の若い時でした。ある先生が来られて聖書講義をしてくれました。その時、いきなり黒板にチョークで「信仰とは神と人との協力事業である」と書きました。私はビックリしてしまいました。

 私はそれまで、「私は無力です。私は何も出来ません。ただ神様にお委ねして生きるのみです」と告白し、祈り、公言し続けてきた信仰生活でした。

 それが謙遜な信仰的な姿勢だと思っていました。ですから、この先生の言葉を聞いた時、唖然としてしまいました。本当だろうかと疑いも起きました。

 しかしこの言葉がけっして傲慢ではなく、真実な響きを持っていることを、その先生の姿から感じました。そういう人格を全身ににじませていました。私は、そういう信仰の姿勢に降参したのです。

 もちろん、行き詰まって行き詰まって、その土壇場で「神様、もう私は何もできません。私は無力で、愚かです。主よ、万事をあなたにお任せします」。

 そう祈って難所を切り抜けた経験を多くの信仰の勇者たちあ経験しているでしょう。私もそうでしたし、その尊さを否定する気は毛頭ありません。

 しかし、そうした急所難所を何度も経験し、そうした一連の経験を積んで来ると、どういう場面でも、乗り切って行く信仰のカンどころが分かってくるものです。そうです、魂の力の働かせるコツと言っていいものです。

 以下は、結論と言ってもよい文章ですが、どうもこなれない文章で恐縮です、辛抱して読んで下さい。 聖書によれば、「聖霊によってのみ、イエスを主と呼ぶことが出来る」(第一コリント12:3参照)とあります。つまり、信仰は霊の領域で始まります。

 にもかかわらず、聖書は別のところで「口で告白し、心で信じて救われる」(ローマ10:9、10参照)とも言ってます。信仰は「霊」の領域というより、口と言葉という「肉」や「心(魂)」の領域で始まると言っているように聞こえます。これはどうしたことでしょう。

 「心(魂)」は「霊」の外延ですが、霊ではありません。教会では余り聞かれないことですが、「口と心の相関作用」で信仰が育成され、強化され、成長するのだと言っているのです。先の「信仰とは神と人との協力事業である」ということです。

 これがパウロのいう「信心の訓練」であり、「目標を目指して進む」ことなのです。これが「成長の確かさ」の足場であると思います。 

 

2002/6/2

  (「日岡だより」第22号)

「イエスは主である」  

 「イエスは主である」という言葉は2千年前のクリスチャンにとっては、信仰の「踏み絵」であった。今では、クリスチャンであっても気がつかないことと思うが、イエス様を「主」と呼ぶことは当時、命がけのことであった。

 その一つは当時のローマ帝国の皇帝崇拝にかかわる。その時代、ローマにおいて「主」と呼ぶことのできるのはローマ皇帝だけであった。イエス様の十字架の上にかかげられた罪状書きには「ユダヤ人の王」と書いてあったという。イエス様は「ユダヤ人の王」と称したというので、国家反逆罪の判決を受けたのである。

 イエス様は言わば、田舎の一小宗教家に過ぎなかった、その男を「主」と呼ぶことは、それだけで謀反(むほん)罪。当時のクリスチャンたちが無実の罪で殉教の死を遂げたという見方は、現代の視点では間違いない。しかし当時の法律によればちゃんとした合法的「皇帝冒涜罪」の判決だったのである。

 ローマ法は今にいたるも世界の法律体系の土台である。ローマは確固たる法治国家であった。使徒行伝25:23〜27を見ると、パウロを扱う法廷の形式的規律の正しさがよく分かる。その他、使徒行伝を開くと、軍隊の百卒長、監獄の看守、地方の長官たち、それぞれ一様に法社会に訓練されたしっかり者たちであることが分かる。イエス様を裁いたピラトを見ても、彼は簡単に批判され、あざけられるほど気の弱い総督ではない。今回の瀋陽の領事館員たちの方がよほど可笑しい。

 クリスチャンは第一ペテロ2:13、14にあるように国家や地方自治体のどんな制度にも忠実に従うべきです。ただし、神様の前に罪であることには従わないのです。当時のクリスチャンたちはすべてどんな過酷な法律にも従いました。奴隷たちも敢えて解放を求めませんでした。しかしイエス様を「主」と呼ぶことだけは敢然として、何をも恐れず公然として行ったのです。日本の戦時中のクリスチャンで、これを聞いて恥ずかしく思う人は多いはずです。

 

 さて、もう一つ重大な場面があります。それはユダヤ人クリスチャンの場合です。ユダヤ人にとって「主」とは神様のことです。「イエスは主である」という言葉はユダヤ人にとって「イエスは神である」と言うのと同じなのです。あるいは「イエスはエホバである」と言っているのと同じなのです。これはユダヤ人にとって絶対許すべからざる冒涜です。ユダヤ人クリスチャンが同じユダヤ人たちに殺されても止むを得ないのです。いや、当然なのです。

 ヱホバという神名は古いクリスチャンには懐かしい言葉です。昭和30年(1955年)に日本聖書協会が口語訳聖書を発刊した時、旧約聖書にあるヱホバという神名を全部「主」という言葉に替えてしまいました。決して誤訳とは言えませんが、どうも不明確で困ることがあります。

たとえば、「主はわが主に仰せになった」(マタイ22:44、その引用元は詩篇110:1参照)という聖句です。誰が誰に言っているのか分かりません。文語訳の旧約詩篇を読むと分かります。「ヱホバわが主に宣(のたま)ふ」となっていますからね。

 旧約聖書の「ヱホバ」は一種の記号でして、本当の神様の名前は分からなくなっているのです。もともとの神様のお名前はあの出エジプトの民族指導者モーセに神様が教えられた「我は有りて在る者なり」(出エジプト記3:14)というお名前ですが、これは内容の意味を表しており、実際にお呼びするには他に簡明なお名前があったに違いないと思います。それがヱホバの元の言葉だったのだと思います。

 可笑しいことに、ユダヤ人たちは十戒の「主の名を、みだりに唱えてはならない」(出エジプト20:7)という戒めを忠実に守って、長年の間、そのお名前を口にしなかったため、その名前を忘れてしまったというのです。そのわけはこうです。

 ユダヤ人の使うヘブル語の表記には昔は母音がありませんでした。使い慣れると母音抜きでも適宜に読めるのですね、日本語でも格助詞の「は」や「へ」は、実際に読む時には「わ」、また「え」と読みますね。英語などにも読まないことにしている文字があります。私が旧制商業学校2年生の時、Islandをイズランドと読んで先生から笑われました、この際、Sが無声化することを知らなかったのです。とは言え、ヘブル語で母音は書かないというのは極端ですが、それぞれ民族の習慣ですね。

 そういうわけで、とうとう神様のお名前が文字の上で子音だけが残って本当の読みが分からなくなった。昔のユダヤ人たちは聖書を読む時、神様のお名前が出て来ると彼らは澄まして「アドナイ」と読んだのです。このアドナイの意味が「主」なのです。

 そこで、遂にはヘブル語で聖書を写本する時、神様のお名前が出て来ると、お名前の子音文字の間にアドナイの母音をはめこむことにしたのです。それを連結して読むと「ヱホバ」になるのです。これが「ヱホバ」というお名前が一種の記号だと言う理由です。しかし記号だからと言って軽んじてはなりません。長い間、みんなで神様のお名前として尊んできたこのお名前を軽んじるわけには行きませんね。

 なお戦後になって、ヱホバはエホバと表記されるようになりました。さて、私はユダヤ人が、ヱホバの元の名を忘れてしまったことに深い意義を感じます。出エジプト記3:14の所を読めますと、モーセは「他民族はそれぞれの神の名を持っているのに、イスラエルの民はあなたのお名前を知らされていません」と神様に不平顔(?)に訴えています。こうして与えられた「ヱホバ」という神名には民族神の匂いがあります。イスラエルの守護神という感じです。

 「そういう私の名は忘れてしまって結構だよ。お前たちに、新しい神の名を与えよう」と神様はおっしゃるのでしょうか、それが「イエス」というお名前ではなかったか。と私は言ってみたいのです。

 「イエス」というお名前は神がヨセフに告げた名前です。そのお名前の意味は「その民をもろもろの罪から救う者」と言うことです。このお名前の霊的意味は「インマヌエル」、すなわち「神われらと共にいます」ということです(マタイ1:31〜23参照)。神様が私たちの救世主に与えられたお名前が「イエス」でした。このことは重大です。

 なぜなら、このお名前から、「イエスは主である」という信仰が生じたからです。聖書で「主」と呼ばれる方はもともとは「エホバ」ご自身でした。詩篇83:18に「主という名をおもちになるあなたのみ、全地をしろしめすいと高き者である」とあります。イエス様こそ、この「主」なのです。

 「イエスは主である」、然り、ここで、何よりイエス様ご自身が仰せられた「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)というお言葉を思い出します。イエス様は父なる神と一体である。だから「イエス様は神である」、と言ってよいのです。

これは人間の知性では理解できません。三位一体説の一部をなす所ですが、反対する方は「そんなことは知性に反する」と言います。たしかに知性では説明できません。

 しかし、聖書は言います。「聖霊によらなければイエスは主であると言うことは出来ない」(第一コリント12:3)と。これが聖書の答えです。

 こうした「イエス様が主である」という信仰を表白すれば、当時のユダヤ人社会からクリスチャンたちが忌み嫌われ、迫害されたのも、なるほどと分かります。ローマの皇帝崇拝以上にイスラエルの神、ヱホバの神を尊崇するユダヤ人たちからクリスチャンが疫病のように嫌われるのは当然でありました。「イエスは主である」という信仰は前述したようにローマ社会にも適応しないし、またユダヤ人社会にも絶対適応しない信仰だったのです。キリスト教で最も他者と戦った教理は「イエスは主である」という信仰であったと言えましょう。 


【雑報】
本号は「エホバの証人」の人たちに応対する時、知っておくべき私たちの信仰の立場を述べました。未完です。次号以降に続きます。▼ある兄弟から来信あり、「昨年の11月11日、聖日礼拝でしたが。ちょうどR子ちゃんの召天記念日でした。その時、聖書通読のお勧めを頂き、以来一日も欠かさず、毎日続けています。まるでRちゃんと約束したみたいに実践しています」。▼大分県は西日本唯一のワールドカップの会場県です。熱気に燃えています。県下の教会も、今、伝道の熱気が燃えています。韓国から応援の若者も来ます。 

 

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