キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

2002年7月

2002/7/28

 (「日岡だより」第30号)

み言葉を口ずさもう  

 神の人モーセが死んで、その後を継いだヨシュアは神様の声を聞きました。神様は、言わば人生成功の秘訣を語られたのです。ヨシュアが聞いたこの言葉は、私たちクリスチャンすべてのものが全身を耳にして聞くべき言葉です。旧約聖書のヨシュア記1章2節から9節までです。一応の説明をします。

 第一。それは2節から4節までです。ヨシュアが今後なすべき行動目標を具体的に神様は示します。あるアメリカの成功哲学実践講座の第一課が「人生成功の秘訣は目標設定にある」とありますが、それはもともと、聖書の教えです。

 第二は5節です。「あなたはこの人生において絶対勝利するはずだ。私はあなたを見捨てない」という神様の2つの約束です。神様から、その約束の言葉を聞いた者には絶対に「勝利、達成、成功の確信」が湧いてきます。これは経験のある人は、知っています。

 第三は6節の「強く、雄々しくあれ」という神様の励ましです。特に指導者には「強く、雄々しい」勇気が必要なのです。これは部下を持つ指導者に絶対必要なナポレオン風の勇気です。

 第四は7節、もう一つの「強く、雄々しい」勇気です。それは、神の言葉(道徳律)に従って、右にも左に曲がらず、正しい行動をとれる力です。真理に従う絶対的勇気、ガンジー流の勇気です。大臣や国家の要人たち、社会的責任のある指導者たちに欠けてはならないものです。鈴木某や田中真紀子さんなどを見ていると、この勇気が全く欠落していることが分かります。

 第五は8節です。これは新改訳が良いです。(私は一体に日本聖書協会の文語訳が好きです。訳もさして誤りはなく、第一歯切れが良い、名文であります。同じく日本聖書協会の口語訳も新共同訳も良いのですが、委員会訳らしく野趣味がありません。)

 新改訳のことですが、これは「信仰によって義とする」と「信仰によって義と認める」の訳を区別していないのを嫌って、いまだ私は新改訳を教会では用いないのですが、このヨシュア1:8は新改訳のほうが良いのです(同じ理由で、詩篇1:2なども良いです)。この八節を今回は、大いに称揚しようと思います。

 第六、最後の9節の言葉は、もう一度「勇気を出せ、恐れてはならない」という締めくくりの言葉です。

 

 そこで、以下に8節のみ言葉について詳述します。まず、初め今回の標題である「み言葉を口ずさむ」ということについてです。新改訳はここを「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない」とあります。

 ここの「口ずさむ」という言葉を、口語訳では「思う」と訳してあります。どちらも誤訳ではありませんが、新改訳の「口ずさむ」のほうが適切です。この言葉のヘブル原語は「ハーガー」です。詩篇1:2、63:5、6、77:12、などにも出ます。口語訳でも時には「深く思う」と訳されており、いずれも瞑想をさしている感じです。「ハーガー」とは、そういう言葉なのです。少なくとも、口語訳の翻訳者たちはそのように理解しているようで、それは正しいと思います。

 しかし新改訳が、それを「口ずさむ」と訳すのは、この翻訳者たちが、ヘブル語やキリスト教の世界では、瞑想とは座禅やヨガの瞑想のような沈思黙考型ではなくて、聖書のお言葉や、その他の有徳の言葉を口で言い続けることと理解していたからではなかったかと私は思うのです。事実、この言葉は鳩などの鳴き声の描写としてよく使われているようですから(イザヤ38:14参照)。

 聖書で「口ずさむ」と語っている描写から、私たちはテレビなどで時おり見かける、エルサレムの神殿跡の嘆きの壁でユダヤ人たちが特有の帽子や衣服をまとい、前かがみになって体を前後にゆらしリズムをとって聖書を読み、あるいは暗誦している、ああいう姿を思い出すのです。あの姿から昔のユダヤ人たちの様子が伺えます。あのようにしてユダヤ人たちは聖書を読み、また聖書を暗誦したのでしょう。

 こうして聖書の言葉の暗記と暗誦に励んだ結果、これがユダヤ人の抜群の記憶力を生み、そして多くの天才を生み出す母胎になったのだと、多くの学者が言っています。

 

 考える力は記憶の豊富さによります。記憶の基礎は言葉とイメージです。かつて田中角栄氏が文部省の役人に「今の教育は丸暗記を奨励しないそうだね」と聞いた。「はい、まず理解すること大事だと言われています。丸暗記は頭の理解力を劣化させるからです」。「はあて、私は経験上、まず丸暗記が大事だと思うんだがねえ」、「はあ?…」という問答があったらしい。

 聞くところによれば田中角栄さんは少年時代ひどい吃音(どもり)でした、これを直すために浪花節がよいことに気がついたのです。「どもりの歌上手」と言って、別にどもりだから歌が上手であるわけはないですが、歌う時にはどんなひどい吃音の人も吃らない。そして、歌う時だけは自由感があり、嬉しい。それで盛んに歌っている内に、ますます歌が上手になる。

 そんなわけで田中角さんも浪花節が上手になったことであろう。浪花節は歌の一種であり、特に言葉が多くて、節でなくて語りのところも一種のリズムがあるから、吃らない。その上、浪花節には物語があって背景に映画のようなイメージの展開があるから、角さんは吃りの辛さを忘れて、浪花節に熱中するうちに、話上手、説得上手、政談演説もってこいの人物に出来上がったのではないか。と私は思っている。

 何よりもリズム感とイメージで覚えると、原稿などすぐ記憶出来る。それどころか、事実、頭がよくなったように感じるものです。土建屋時代に工事の説明をしろうとに分かるように話すコツは早くより掴んでいたのではないか。「はあて、私は経験上、まず丸暗記が大事だと思うんだがねえ」と文部省の役人に言うはずです。

 良い頭を作るには「簡単な算数計算問題を解くこと、そして文章の音読。これが一番よい」。これは最近の研究結果である。このことは数年前から一部で伝えられていたが、ついに昨年、慶応大学の斎藤教授が「声を出して読む日本語」という本を出してから、これが極めつけになった。以後、続々と類書が出版されている。私がひさしく聖書を音読しよう。できれば文語訳で詩篇やイザヤ書、山上の説教等、音読しようではないかと言ってきた主張が、今やっと世間に認められつつあるのである。

 こうした一般文化論はともかくとして、今日は私たちクリスチャンのための有効な信仰成長強化法の一環として聖書(聖句)暗誦瞑想法を提案したいのです。あるいはその効果だけでも提唱したいのです。

 短い聖句の暗記法だったら、異端問題権威のウイリアム・ウッド先生の簡単な秘法があるのですが、それは次の機会に詳述します。長い文章でも案外かんたんに覚えられます。暗記の秘訣は長い文章の所々をつまみ食いするのでなくて、最初から少しずつキチンと覚えてゆく。出来るだけその文章にふさわしいイメージを脳裏に作って文章を口ずさむ。黙って頭の中だけで記憶しようとするのは非常に非能率。口を開き、はっきり大きな声を出して読む、それだけでも思いもかけず、案外早く覚えます。

 そしてもう一つ、たった一句でも覚えたら、「しめしめ、私は覚えが早いぞ。よしよし、よう覚えた。お前さんは頭がいいぞ」と自分で自分を褒めるのです。そして、ひととおりの文章を覚えたら、ご褒美に買っておいたチョコレートでも食べるのです。こうして食べるチョコレートは単なる貰ったチョコレートと違い、特別な味がするものです。

 

 最後に、私たちクリスチャンとして大事だと思うことをつけ加えます。「主の祈り」や「詩篇23篇」、あるいは「十戒」等の重要聖句を暗記し、できたら、これを暗誦しましょう。そしてそのみ言葉を10回も20回も50回も繰り返して暗誦するのです。祈り心をもって、敬虔の思いを持って、み言葉の意味も思い浮かべて、なんべんも繰り返し、み言葉を唱えるのです。私はこれを「リピート聖句法」と呼びます。

 そうするうちに、尊いみ言葉の力が、あなたの魂の底に浸透するでしょう。通奏低音のように生活の流れのなかで、一日中、み言葉が心の底に流れているようになります。これは、確かに聖化の丘にたどる一つの小道だろうと思います。試みてください。

 

 

2002/7/21

 (「日岡だより」第29号)

虹を目ざして   

 堀江謙一さん、今回、40年ぶりに第2回のヨット太平洋単独航海を達成、すでに白髪になっている。

 第1回の時は23歳だった。世界最初の快挙だった。金門橋(ゴールデンゲート・ブリッジ)をくぐってサンフランシスコ市にはいった。当時の堀江さんはパスポートを持っていなかったそうだ。しかしサンフランシスコ市長は彼の肩をだいて迎えた。

 今回はもちろん、パスポートは持っていただろうし、大歓迎の中を上陸したことであろう。ところで、

 私たちも又、実は全員、人生の海を渡っているわけである。私たちの旅の最後の門は天国の金の門(ゴールデンゲート)である。そこをくぐって天国の市民として迎え入れられたいのです。

 そこに使徒ペテロが立っていて、「ようこそ、天国へ。パスポートをお持ちですか」と言う。「はい、ここに……」と言って、ポケットやハンドバッグから出して見せる。「おや、これはなんでしょう。受洗証明書。やあ、お若いときにバプテスマをお受けになったのですね。おめでとう。……しかし、これでは天国には、はいれませんよ」。

 「えっ」、あわてて「30年間の献金袋や特別高額献金の領収書です。これなら大丈夫でしょう」、「いいえ。たしかに立派な信仰生涯の証書ですよ。でも、これでは天国にははいれないのです」。そこで、使徒ペテロはその人の胸の中をのぞき込みます。「ああ、あなたはイエス様を信じてらっしゃるじゃありませんか。なぜ、その信仰をお見せにならないんです。これで、大丈夫です。どうぞ、おはいり下さい」。

 天国にはいるということは、こんな戯画化されるようなものではないでしょう。あなたが確かにイエス様を信じておられるならば、もっと胸をはって、しかし謙遜に、そして大喜びで、イエス様を賛美しつつ、天国の門をはいれる筈です。

 

 堀江さんの新聞記者とのインタビューを読むと、前回の太平洋横断と今回のとで何が一番違うか、それは外の世界との交信の豊かさだったという。家の人とは毎日、衛星電話で話し合った。飼っているチワワ犬が堀江さんの声を聞いて電話機を舐めに来たそうだ。

 

 私たちの人生の航海では、同船者が多いから別に淋しくは無いようだが、実は孤独である。人生苦、宇宙的悲哀、虚無感に襲われると、これを癒すものはない。肉的世界の外にある霊的癒しの声を聞かなければ平安はない。衛星電話ならぬ霊界電話が必要である。人生の深い寂寥を慰めるのは聖霊様だけである。

 また40年前にくらべて、今回の航海で驚いたのは海上の汚染だったそうだ。人間の地上生活から出てくるプラスチックの浮遊物が大半だったそうだ。

 が、それ以上に私たちの精神的な霊的な世界では汚物が垂れ流しである。イエス様はおっしゃった、「人の口から出るコトバが人をけがす」、テレビ、ゲーム、映画、演劇、音楽、マンガ、週刊雑誌。路上や電車や公衆電話の看板、広告、チラシ、あらゆる所で悪魔の誘惑が無抵抗の魂を襲っているのです。

 

 堀江さんはもう63歳だそうだが、まだ夢を追うのであろうか。「ぼくは水平線の果てまで虹を追いかけて行く」と言う。このコトバは実は堀江さんが彼の友人から聞いたたコトバにちなむのだそうだ。その友人という人、タクシーに乗っていて、虹を見たのだ。彼は思わず叫んだ。「運転手さん、あの虹の下まで行って」。

 私たちも、しかり、天国のゴールデンゲートを覆う神の約束の虹を目指して人生を歩みたい。これは孤独な旅ではない。「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)。

 神はかつてノアに言われた。「すなわち、わたしは雲の中に、虹をおく。これがわたしと地との間の契約のしるしである」(創世記9:13)。

 虹とは光が雲の中で起こすプリスム効果である。神様からの光は人の心に差し込んで虹となる。それは人を活かす。希望を与える。夢を生み出す。一人の人生を神の子の栄光に変化させる蝕発光線である。 

 

父と母に捨てられて   

 最近、リバイバル新聞に連載されているが、札幌で牧師をしておられる石田吉男先生の「私の献身の証」が載っている。これは凄い。読んでください。

 その第2回目、リバイバル新聞2002年6月23日号に掲載されていた「戸籍がない」、という話、そんな事ってあるのかと驚きますね。

 もちろん不法入国の外国人ではない。れっきとした日本人である。(昔は母子手帳が無かったから、産婆さんの手で産まれた赤ちゃんを、それきり野放しにしてもとがめる制度は無きに等しかった。だから昔の人は、本当に産まれた日と戸籍上の生年月日が違う人はいくらでもいたのである)。

 実は本当の父も母も行方不明で、無責任な両親は戸籍のことどころか、扶養の責任も放り出して、家を出てしまっていた、ただ幸いに信仰をもった祖母がいた。石田先生は、この祖母を実の母と思いこんでいた。

 どうしたことか、現在なら考えられない事だが、小学校、中学校は無事入学もし、卒業もしたのですが、高校入学でつまづいた。試験に失敗したのではない。戸籍謄本がないと入学事務が取れない事が分かった。たぶん、高校の入学願書には戸籍謄本の添付が必要だったのでありましょう。

 

 こういうことで、進学をあきらめ、就職します。ところが、実の父母が生きていることを知り、希望を抱くことになります。そしてついに連絡がついて、文通も始まり、どこかの駅で再会する段取りになりました。青年期に達した先生でしたが、どんなに希望に胸を膨らませて、お父さんを待ったことでしょう。

 ところで降りてきたお父さんを見ると、ボロボロの姿で、無表情で立っているだけ。親身な会話は何もできないままです。別れる時に、「おい、北海道に帰るんだから金を貸せ」と言う始末。

 どれほど失望したことか、しかし気を取り直して、北海道は寒いだろうからと、着ていた上着やオーバーなど、それにありったけの金も渡して別れました。

 家に帰って、部屋に入るなり「神様! あなたは本当に愛なのですか。なぜこんな戸籍もない情けなさ、高校に行けなかった残念さ、なぜこんな経験を私だけがしなくてはならないのですか。最後にこのみじめな父との対面。神様、なぜです、この有様は一体なんですか」と、泣き崩れました。心の底から込み上げてくる悲しみと怒りに、思わず愛用の聖書をわし掴みにして壁に叩きつけ、一晩中泣きあかしたのです。

 

 ところが、ふと彼は我に帰りました。両手はなんと、あの聖書をしっかり握りしめていました。涙で濡れた聖書にそっと目をそそぐと、ちょうど、次のみ言葉があったのです。

 「しかしシオンは言った。『主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた』と。『女がその乳飲み子を忘れて、その腹の子をあわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしはあなたを忘れることはない。見よ、わたしは手のひらに、あなたを刻んだ』」(イザヤ49:14〜16)。

 この言葉が彼に迫りました。神様の声が聞こえました。「お前の本当の父は、あなたを創造した私だよ。私はあなたをけっして捨てない」。

 吉田先生はこの時、不思議にこの言葉を素直に受け止めることができました。熱い涙がこみあげました。こうして先生は信仰の関所を抜けたのです。

 先生はその時、「もし私が父母に世間並に育てられたとしたら、今、神を信頼する人間になっていただろうか。私が神を信じ、救われるために、神様はあのような苦しみが計画されたのかも知れない」と思い至ったのです。その時、東の空が明けそめていました。


【雑報】

石田先生の証は次々にすばらしいあかしが連載されています。どうぞ、リバイバル新聞をお読み下さい。教会用にとじ込みもしていますが、各自予約されて読了後も保存してください。7月14日号には永井信義先生の論文が「風知一筆」(社説)欄に載っていました。現在、田崎敏明先生と私も月1回のコラムを受け持っていますから、イエス・キリスト福音の群の関係から3人の執筆者が用いられているわけで、並々ならぬ事です。感謝してリバイバル新聞を応援祈祷、予約購読してください。▼永井先生は約1ヶ月、各地を訪問奉仕されます。暑いさなかです、心身共にご疲労されないよう祈ってください。遠藤姉も福岡までお供して行きました。昨日、恵まれて、帰分しました。私も先週宮崎福音教会でご奉仕、主日礼拝に会堂に入ったら、15分まえ、既に祈りの熱い霊気がワーッと吹き付けてきました。御堂一杯の信徒のかたがたの熱い祈りに圧倒されました。(く)

 

2002/7/14

 (「日岡だより」第28号)

熱心は神の属性である   

 神様は全能なる方だから、なんでも簡単にヒョイヒョイと造られるだろうか。とんでもない。ライオンはうさぎ一匹を捕まえるにも全力を尽くすというではありませんか。神様が天地万物を造り、人間を造られた時、熱意をもって、全力を尽くし、造られたと私は信じるのです。

 もちろん、そばで見ている人がいれば、簡単なお仕事に見えるかも知れません。しかし、神様は熱心になってすべてを造られたのです。熱心さは神様の属性であります。聖書は言います、「万軍の主の熱心がこれをなされるのである」(イザヤ9:7下)。

 

 さて、あるサルの研究者が止むをえないテーマのため、2匹のサル、母と子を引き離したことがあるそうだ。そうすると、母猿は悲しんで落ち込んでしまった。そして研究に非常に非協力になった。しまいには、その研究者に憎しみをさえ持っているように見えた。

 その研究者は、その母猿の所に行った。そして懇々と語った。熱心に語った。この研究をせざるを得ないわけ。この研究を完成させたら、どんなに素晴らしいことになるか。涙を流さんばかりに、母猿に向かって話した。

 すると、驚くなかれ、その母猿は納得して「分かった、分かった」と、うなずいたようにさえ見えたという。少なくとも、その研究者には、そのように見えた。そして母猿は落ち着き、研究者に対しても再び協力的になった。

 

 かつて私たちの家庭では、幼い子どもを一人家において外出しなければならないことがあった。伝道者の家庭にはそういうことがしばしば起こるのです。そういう時、幼い子どもに、どう言って説明し、説得したらよいか。

 ただただ、やさしく子どもを抱きしめて、できるだけ分かりやすく、しかし子どもに分からない言葉でも仕方ない。まっとうに説明するほかはない。決して高飛車に無理をいうのではない。厳しく押しつけるのでもない。大人の用語でも仕方ないが、語調はやわらかく、ひたすら熱心に、正直に、頼むのです。

 そうすると、不思議に子どもは親の話を聞いてくれます。そしておとなしく、一人で親たちの帰りを待っていてくれます。

 そのような経験を思い出して、私たちの子どもも、あんな様子だったなあ、同じようにサルでも人間の言葉を聞いてくれるのかなあ、と感動しました。

 サルに人間の難しい言語が分かるとは思えませんが、人の熱心な言葉はサルの心を動かすのですね。そして、本当は人間の言葉が、その時、サルに分かっているのではないか、とさえ思えるのです。

 私たちが時々(ある方々はしばしば)、神様のお声を聞けるのも、同じなのかもしれません。私たちよりも、神様のほうが、熱心にお語りになっているのかもしれません。あらためて神様に感謝したことです。

 

ある結婚披露宴にて   

 ある御夫人から、「『テレホン聖書』と『ワッハッハ元気が出る電話』を聞かせていただき、心身共に神様の元気をいただいています。ところで、テレホン聖書の中で、ある結婚披露宴で先生が10分間のお話をされたそうですが、その内容を聞かせてください」とFAXがあった。

 そうですね、こういうことです。延岡の甲斐兄と田口姉の結婚式を、この4月、大分の当教会で行いました。そして、日程をずらして5月に、延岡市のホテルで結婚披露宴を開きました。その披露宴の冒頭に、いわゆる祝辞ではなく、牧師としてのメッセージを頼まれました。私は喜んで、快諾したものです。そこで、こんなことを話したように思います。

 

 結婚生活の秘訣。それはいつも機嫌よくすることです。あのマザー・テレサは、彼女の宣教会の奉仕者を求めるとき、次のような条件をつけたそうです。

 「第一に、この奉仕に対する神様の召命を受けていること。第二に、ご両親の許可を得ていること。第三に、健康なこと。第四に世界各地に派遣されてもよいように英語ができること。そして第五に、いつも上機嫌な人であること」。

 上機嫌な人はつねに動作も会話も軽快です。たとえ体に障碍があっても、星野富弘さんのような方は描く絵も、書く言葉も軽快です。夫婦の間にも、このような軽快な会話が必要なのです。

 その基礎となるのは、信仰と愛、そして希望です。イエス様を信じる信仰が徹底しておれば、そこから湧き出る愛と希望で夫婦生活は明るくなります。

 

 これにもう一つつけ加えれば、相手をよく理解することです。如何に愛されていても、ご機嫌でも、こちらの気持ちや事情を理解してくれない夫や妻は、どうも噛み合わない、歯がゆい存在になりやすいのです。

 近年のカウンセリング学の祖と言ってよいでしょうか、カール・ロジャースはその友人の比類ない言葉を紹介しています。それは、「愛とは理解することである。そして理解するとは、理解しようとすることである」と言うのです。

 人の心を完全に理解することは、長年の夫婦でも、親子の仲でも、どんな親友でもむつかしいことです。

 しかし、「理解しよう」とする態度が案外、心を打ちます。「どうしたのですか、私にはあなたはひどく淋しそうにみえます。なにか問題がありましたか」。

 こういうふうに聞いてみください。理解しようとする言葉は、相手には「愛」として感じるものです。

 

 しかし、如何に理想的な夫妻でも、どうかすると、真面目すぎて、頑固だったり、相手を責めたり。自己呵責や自己憐憫に陥ったりします。その結果、クリスチャンとは言え、淋しい、厳しい、つらい、夫婦生活を送らざるを得ないという事も起こります。

 理屈が分かっているのだけれども、実際生活の忙しさや、事情の行き違いや、感情の思いもよらぬ起伏、そうした中で、人は失敗します。分かっていても、実行できない。実行を阻害する感情の復舷力が必要なのです。復舷とは傾いた船を元に戻すことです。

 傾いた感情を元に戻すのは、実は非常に簡単なのです。自分の意志で、自分の感情を動かせばよいのです。

 とは言え、「さあ、自分の感情じゃありませんか。ご自分の心でしょ。自分で遠慮なく動かしなさいよ」と、いくら勧められてもそう簡単には自分の感情が自分の思うようにならないのです、ここが問題です。

 これは、世の多くの小説の生まれる原因です。愛してはいけないものを愛し、愛すべきものを愛せない。理性では分かっている、しかし自分の感情を動かせない。江戸の芝居はみなこれです。義理と人情の板挟み劇なのです。

 

 「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制である」(ガラテヤ5:22、23)と聖書で言われている九つの徳性の、最後の「自制」が実際生活の上では最も大切です。この自制力を気軽に働かせるには精神機能の潤滑油が必要です。

 それが笑いです。「笑いましょう」。この提言は阿呆らしく見えます。しかし、大笑いする、体をゆすって笑う。手や足を振って笑う。声を上げて笑う。そうすると、少しでも愉快な気分が起こるのです。

 ウイリアム・ゼームスが言ったように、悲しいから泣くのだが、泣いていると悲しくなる。同様に嬉しい時、楽しい時、愉快な時、可笑しくってたまらない時、ころげまわるほどに笑う。それなら、もっと笑おう。転げまわるほどに手を振って、体をゆすって笑おう。

 そうすれば、楽しく愉快になるはずである。そうすれば、自分の思いを自分の自由に変えられる人になります。作り笑いでもよい、笑ってごらんなさい、次第に自分が変わってくるのが分かります。すぐ分からなくても……。保証します、その内に分かります。

 可笑しくもないのに笑うのは偽善ではないでしょうか、こんな質問も出ますが、人をごまかすために作り笑いをするのは偽善ですが、自分が変わりたいための訓練に笑ってみるのは偽善ではなく善いことです。

 私はその披露宴場でワッハッハハと笑って見せました。私はまず笑いのデモンストレーター、言わば見せものです。そして皆さんにワッハッハハと笑ってもらいました。訓練です。私は笑いのトレーナー、訓練士です。みなさんと一緒に大笑いしたことです。(く)

 

2002/7/7

 (「日岡だより」第27号)

不老不死の信仰

 このたび、手束正昭先生の新著「輝かしい季節の始まり」という本が出た。特に老年に向かう人たちに読んでほしい本です。先生の「ヨシュア記連続説教」第2巻です。私はキリスト新聞の書評に「これはヨシュア記説教として極めつけの本」とまで書きました。

 申命記の最後の章に、モーセの死を伝える言葉があります。「モーセは死んだ時、120歳であったが、目はかすまず、気力も衰えていなかった」と。そして後を継ぐヨシュアに神様は命じます。「私のしもべモーセは死んだ。それゆえ、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい」。

 この時、ヨシュアは90歳を越えていたが、彼はこうは言わなかった。「神様、とんでもない。私はもう90歳を越えました。ヨルダンを渡ってカナンの土地に乗り込むなど、とてもできません」。

 彼もモーセと同様、目はかすまず、気力も衰えていなかったことでしょう。彼と同輩のカレプもそうだったでしょう。そして同行の民のすべては彼らより20歳は若かったはずです。その理由のくわしいことは民数記第13章と14章を読むとわかります。特にその14章29、30節に目をとめてください。

 

 神に従うことを喜びとし、神の示したもう目的に向かって大胆に進んで行く者には、成功がある、奇蹟がある。祝福がある。だから常に若々しい、声に張りがある。動作が活発です。

 一昨日、辻本友子さんが挨拶に見えられた。帰国の挨拶である。どこに行っていたのか、イスラエルである。あの民族憎悪、自爆テロ頻発のパレスチナである。この4月、「先生、イスラエルに行ってきます。3か月間です」。私は「そりゃぁ、いいねえ」と答えたが、もちろんパレスチナの緊迫した情勢を私も知らぬはずはない。そうだからこそ、かの地でよい経験をするはずだと思ったのである。(少々無責任な発言だなあと思わないではなかったですが)。

 その彼女、ちょうど3か月して無事に元気で帰って来られた。どこに行っても問題はなかったという。エルサレムのホテルはどこもガラ空き、歓迎された。キブツを捜すと35歳以下でないと入れて貰えないらしいけれど、彼女は歓迎された。彼女は若く見えたのである。「各国からきた若者たち、あんがい顔にしわが見えるのよ」。彼女にはしわがないのである。

 私の聞いたある韓国のパレスチナ宣教師はエルサレムのバスに乗っていて、交差点でなんとなく胸騒ぎを覚えた。ちょうど赤信号だったので、運転手に頼んでドアをあけて降ろしてもらった。すぐ信号は青になった。バスが向いの通りにはいった、とたんにドカーンと爆発音、自爆テロだ。バスの中の人たちが死んだ。

 こういうことが日常しばしば起こっているイスラエルである。しかし、辻本さんは滞在中3か月間、そんな目にあうことも無ければ、見ることもなかった。

 ある日、聖誕教会に行った。せんだってアラブ人たちが立ちこもってイスラエルの兵士たちとにらみ合った教会である。そこに行って神父さんに扉を開けてもらって、御堂でしばらく祈って帰ったそうである。

 たった一つあったトラブルは入出国の税関だったという。「なんであんたは女ひとりで、この物騒なところに来るのか。なんの魂胆があって来たのか。お前はまさか女スパイではあるまいな」。入国の時、写真機を取上げられてしまって、出る時には、何故かフィルムがだめになっていたそうである。

 まさしく、この時期、女ひとりで、いや男でも、ひとりでイスラエルに行こうなどとは、常識のある人間のすることではない。しかし、常識はずれの人が、まだまだ居るということに私は感動する。この辻本さんのレポートはもっとくわしく、聞きたいですね。

 

 実は今回、書きたいことの一つは「喜んで年をとろう」ということです。ヨシュアもカレプも、右の辻本さんも、いつまでも年をとらない。目的をもって、たのしんで、元気よく、へこたれない、大胆、積極的、くよくよしない。「ワッハッハハ、ワッハッハハ」と難局突破、これが長生きの秘訣です。

 不老不死の仙薬を求めて除福は日本に来たが、彼は求めたものを得たでしょうか。たぶん、何も得なかったでしょう。最大の不老不死の心当たりは聖書にあります。イエス様の下記の言葉です。

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」(ヨハネ11:25、26)。

 これは容易ならぬ言葉です。最後に「あなたはこれを信じるか」とあります。これは事実としてはベタニヤ村でイエス様が死んだラザロの姉のマルタに仰せられた言葉です。第一言の「わたしはよみがえりであり、命である」、これはクリスチャンだったら誰でも信じています。第二言の「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」。これも死後における天国での復活をさしています。クリスチャンだったら誰でも信じています。しかし、問題は第三言の「生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」、これです。この言葉を、このまま信じて居る人がいるでしょうか。

 イエス様が特に「あなたはこれを信じるか」と言われたのは、この言葉についてであったろうと私は思います。それはあまりに信じにくい言葉だからです。そしてなんとか、理屈をつけて言い逃れしたいところです。事実、キリスト教の歴史で、ひとたび信じたのちは、ついに死を迎えなかったという人はいません。この時、イエス様によって復活したラザロも死にました。ペテロもパウロも死にました。ヨハネは死ぬことはないという噂はあったらしいですが(ヨハネ21:23参照)、そのヨハネも高齢になって死にました。

 さあて、ここでイエス様の「不老不死」の宣言がなされているのだと、解釈するのは乱暴でしょうか。

 

 この「生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」という言葉を、原文のギリシャ語から直訳するとこうなります。

「すべて、私の中へと、生きつづけ、信じつづける人は、決して、永遠に、死ぬことはない」。

 ギリシャ語のしろうとの私のたどたどしい翻訳文です。お許しください。

 「生きつづけ、信じつづける……」というのは原文が現在分詞なので.こう訳したのですが、つまり私にはこう感じられるのです。生き生きと生きぬき、生き続け、信じ抜いて生きるクリスチャンには、その死を味わうことはさせないよ。この世において「死」を見ないまま、死の関門を生き貫いて神のみもとに直行してしまうんだよ。というのではないでしょうか。

 ともあれ、「主を喜ぶことは私たちの力です」(ネヘミヤ8:10)。その喜びの信仰によって最後まで信じ抜き、死の関門を見ることなく通り抜けるのです。

 

 最近、医学界で抗加齢医学という部門が出てきました。「年をとる。老人になる。なぜ老いるのか。その研究をしよう。そして元気で老いる。ご機嫌で老いる。楽しく老いる。その方法を研究しよう」。そういう医学です。まだ始まったばかりです。英語で、アンタイエージングと言います。

 その目標は、「第一、早く死なない工夫。第二は病気をしない工夫。第三、愉快で前向き積極的に生きる工夫」だそうです。第一も第二も、これは医者まかせでよい。体が酸化するのをふせぐビタミン剤はすでに多数分かっています。遺伝的な老化メカニズムを防ぐHGHという薬も発見されているそうです。もっか研究論文が発表されて世界的に注目を浴びているようです。老人の三大死病は癌、脳血管疾病、心臓病です。これらは多く、生活習慣病です。食物、酒、煙草、睡眠、適度の運動、知識欲を満たす等々のライフスタイルを整える。一番大事なことは魂の平安です。私の書いた小冊子「だれでも出来る『心の強化法』」を学んでください。そして究極は万事を統括する真理、宇宙の根源、神様の聖霊の力にふれることです。イエス様をじかに信じることです。

 聖書を読みましょう。聖書の言葉には魂(精神活動)を活かす力があります。イエス様を信じましょう、祈りましょう。あなたは変わります。聖霊を受け、聖霊に満たされましょう。あなたは老いて益々盛んな人になります。

 

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