キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)2002年9月
2002/9/29
(「日岡だより」第39号)
祈りは聞かれるの巻
もう絶版になっているかも知れませんが、キリスト新聞社から出した新書版?型の「祈りは聴かれる」という本があった。今、私の手元にはないのですが、たしか1955年前後の出版だったと思います。
その頃、私は大分市の大手町にあった大分県町村会館の一室を借りて集会をしていました。ある日曜日の礼拝の説教で、私は前日に郵送されて来たばかりのキリスト新聞を手にかざした。当時、キリスト新聞社の専務であったろうか、とにかく有能な編集長であった武藤富男氏のアッピールが載っていたのを声を張り上げて読んだのです。武藤さんはこう言う。
「最近、アメリカで発行された《祈りは聴かれる》という本を読んで、圧倒された。アメリカのクリスチャンたちの信仰はすごい。同じく《祈りは聴かれる》と言っても、アメリカのそれはダイナミックである。口惜しいが、日本のそれはチマチマして、いじましい。
日本にも、こういうダイナミックな《祈りは聴かれた》式の証しが、結構、埋もれていはしないか。そういう証しを送ってください。それを集めて日本の《祈りは聴かれる》という本を出したいのです」。
そういう趣旨だった。私は講壇からそれを読んで叫んだ。「みなさん、このキリスト新聞のアッピールに応えて、私たちの中からこの求めにふさわしい奇蹟的な証しを神様から頂きましょう。その証しをキリスト新聞社に送ろうではありませんか」。
*
ちょうど、その礼拝に私と聾学校の教師として同僚であった生山先生が来ていた。その生山先生が礼拝が終わって下宿に帰ってみると(当時まだ先生は独身であった)、下宿屋のお父さんが家出して一家が心配している所だった。生山先生は即座に思った。「そうだ、今日聞いたばかりの神様の奇蹟をお願いしよう」。
先生は、その家の娘さんを連れて、私の家に来た。娘さんが言う。「私の父はどちらに行っているか、分からないでしょうか」。なるほど、町の拝み屋さんでは、失せ物や家出人の方角などを占ってみせるそうだったな。たまに、よく当たる霊能者もいるらしいが。
私は言った。「方角はどうでも良いでしょ?。お父さんがお宅に帰ってくれば良いのでしょ?」。
「はい、もちろんです。父は帰って来るでしょうか」
「帰って来ますよ。さあ、全知全能の神様にお祈りしましょう」。私はそのお嬢さんと生山先生を前にして祈った。正直に言って、本当は私はそんな祈りを、それまでに、したことは無かった。今の私たちのように力強く祈れるわけでもなかった、しかし熱心に祈った。そして頼りなげに帰ろうとする娘さんに「大丈夫ですよ」と、やっと言えたのだった。
ところが、翌朝、その娘さんが私の家に駆け込んできた。「先生、先生、父が帰って来ました」。
私はビックリして、彼女に事情を聞いた。
「先生、聞いてください。父は昨日、小倉駅に居たそうです。そうして何となく、そわそわして、『もう、帰ろうかな』と、ふと思って急に家が恋しくなったんだそうです。その時刻を聞いてみると、ちょうど、先生が祈ってくださった、あの時刻なんです」
と身を震わせて訴えるようにして言うのです。
私は上ずった声で言った。「良かったですね」。そして、平伏して神様に感謝の祈りをささげた。
私はこのことを、それほどダイナミックな祈りの応答とは思わなかったけれど、キリスト新聞の記事を読んで、信徒のみなさんに訴えた、その直後にこういう事件が起こったことに感動した。私はこの事件の一部始終を原稿用紙でなく、普通の便箋に書いて武藤編集長に送った。これは、単なる小さな証しなので(私にとっては大きな事件だったけれども)、原稿として送るほどのことではないと思ったのである。
しかし私の手紙にたいして折り返しの返事が来た。私の報告には武藤さんも嬉しかったであろう。「今回発行の《祈りは聴かれる》に早速頂戴します」と。
こうして、他に小原鈴子先生の原稿など、さまざまの立派な原稿にまじって私の下手な原稿も仲間入りし、ついにはアメリカでも翻訳されて英語版が発行されたと聞きました。とにかく、私の文章が本らしきものに組み込まれた最初の経験です。
私は1940年代の末のころ、戦災孤児との共同生活の報告を掌篇小説風に書いてキリスト新聞に寄稿してもらったことがある。そうしたことも併せて武藤さんの目に止まっていたのかもしれない。それが20年ほどして、キリスト新聞の「橄欖(かんらん)」というコラムへの執筆依頼となったらしいのです。
この「橄欖」の記事が永井明先生の目にとまり、先生との主にある長いお交わりのきっかけとなるのですから、不思議な神様のお引き合わせでした。
*
話変わって、最近は主日礼拝のメッセージのタイトルを早くきめています。永井先生のお勧めです。そうすると、先々の説教題を見て、これは「あの人には良さそうだなあ」と、皆さんが感じられることもあるでしょうから、その日の礼拝に、どうぞご友人などお連れして来てください。もし、そんな方々がお見えになったら、私もできるだけ伝道メッセージに切り替えることにします。
実は来月の第2週の主日礼拝のメッセージを「聴かれる祈り」としました。この「聴かれる祈り」という主題を意識して、前の文章を少し早めの準備資料として書いたのです。お読みになってください。
「聴かれる祈り」、これはクリスチャンならずとも、多くの人に刺激的な言葉でしょう。
最近、実際体験としての「聴かれる祈り」、いや「聴かれた祈り」の証しを読みました。それは、例の「ヤベツの祈り」関連ですが、北九州リバイバル・チャーチ(岡勝牧師)の週報で読んだのです。ある姉妹は「ヤベツの祈り」を毎日、熱心に真面目に祈る方だそうです。この前も、病気だったか、金だったか、失礼ながら忘れていますが、重大事件で、祈りがかなえられたそうです。そして今回は又、「到底、手にはいる筈のないと思っていた土地が手にはいった」というのでした。リバイバル・チャーチの週報をどこかへ見失いましたので、記憶だけに頼って書きました。(岡先生、ご免なさい)。
土地に関する祈りと言えば、先日、別府万民教会の加藤勳先生からお聞きしました。先生がある信徒の方から、癌の癒しの祈りを求められて熱心に祈られた。そうしたら、即日か短時日だったか聞き漏らしましたが、完全に癒された姉妹がいました。
その方に弟さんがいて、無理難題な法外の土地の要求をしてきて困りきっているというのです。その事を聞いて加藤先生は祈ったそうです。先生は言います。
「私は土地のことなんか、一遍も祈ったことはありません。しかし、仕方なく祈りました。祈ろうとしても、半信半疑ですが、しかし、祈っていると、熱心になって机を叩いて祈らざるを得ませんでした。すると、次の日、電話がありました。『いつもは寄り付きもしない親不孝息子が、どうした風の吹き廻しか、訪ねてきて、そして私の心配を聞いて、〈お母さん、任しときなさい。いっさい大丈夫だよ。僕は今、不動産の仕事してるんだ〉、そう言って、すぐに弁護士など呼んできて解決にとりかかってくれました。とにかく驚いています。感謝ですって、こういうことでした」。
先生自身、驚いていますけれど、不動産問題など、兄弟、親族の間で血みどろの争いになることがあります。こういう時にも、みごとな解決をしてくださるのが神様です。
*
先に書きました「ヤベツの祈り」は本当に力ある祈りの実例だと思います。私は、この「ヤベツの祈り」には一種の霊的サークルが出来ているのだと想像しています。鉄片を電線で巻いて通電すると電圧を生じます。私には一向わかりませんが、少年時代、よくそのようにして模型モーターを造ったものです。
祈り手のサークルができると、聖霊のコイル巻きが出来て、霊圧が生じ、力ある信仰のわざが起きる、とでも言えましょうか。ヤベツの祈りには確かに平野先生がおっしゃるように「実効性があり、即効性があります」。たとえ目に物見せるほど大奇蹟でなくても、「ウンこれだな」と納得出来る反応を感じるものです。平野耕一先生の「ヤベツの祈り」(プリズム社発行、945円)をお読みになってください。
2002/9/22
(「日岡だより」第38号)
光はやみの中に輝く
一、日朝首脳会談について
今回の日朝首脳会談は成功だったと思う。「小泉さん、よくやった」と褒めてあげたい。
新聞の論調は手放しで褒めていないどころか、いろいろ文句をつけているようである。しかし、外交上の成果で、100点ではなかったとしても、まず長年の閉塞状態の壁が打ち破られたとすれば、それだけでも合格点はやってよいと思う。まして、一応の金正日総書記の公的謝罪が得られたのではないか。もって「これでおおよそ、良し」とすべきである。
私は今回の首脳会談の予報を聞いた最初の時から言ってきた。「この会談はやってみるだけでよい。まったく失敗しても、日本に何の損もない。少しでも良い収穫があれば、それだけでも得である」と。
もちろん、私はこうした外交問題にはしろうとである。水面下の交渉もあり。私たちの知らない条件も多いだろうから、簡単には論評は下せない。
しかし、最初っから冷たい予評で危ながるのは、新聞の悪い癖である。これは日本人の癖でもあろうが、何につけても自分の国の総理大臣には点が辛い。(その点、前の森さんは気の毒だった。もっと理解をもって書いてほしかった。彼の発言がしばしば庶民的で愛嬌があり、それが批評の種になっていたと思う)。
*
拉致者の死亡報告について、その家族の悲嘆は見るに耐えない。だが、それによって国民の世論がいきなり過熱し、憎悪と怨恨が沸騰するのは不安である。
これまでの、やりきれないと思っていた韓国や北鮮国民の日本に対する怨嗟の強固さ、執念深さが、今度は日本人に乗り移ってくるのではないかと心配だ。こうした国民感情が、冷静なるべき国際外交面に無用なごたごたを起こしやすい。「日本人よ、落ちつけ」と私は言いたい。
(また、外務省のいらざる報告の手控え等が批判を呼んでいる。尤もだが、外務省にはもともと「相手も味方をも、だまさねばならない」ことも多かろう。その上、機密費が多いから「金の使い方も公私混同」しやすい。その他、秘密の多いのも本質的性格であろう。「宣戦の通告を遅らせた」のは真珠湾だけではない。日清戦争でもやっている。後日の非難を承知の上での涙ぐましい故意の遅延であったかもしれない)。
ともあれ、後日の情報漏れで、小泉さんも知らなかったような資料を知って、それで小泉さんを批判するような面も見受けられるが、それは酷というものである。基本的に今回の交渉に合格点を与えたいと思うのは、前述の通りである。
ともあれ、日朝関係の暗闇の中に、一条の光が見え出したことは事実である。喜ぶべきである。アメリカのイラク先制攻撃の威嚇が、今回の金総書記の決断を生んだのであろうか。このアメリカのブッシュ大統領の小国にたいする驕慢さは大いに不愉快であるが。
金正日さんが、発狂状態になって日本と無理心中をしようとミサイル発射をやってくれなかっただけでも、彼の理性の正常さを喜びたい。
どんな時にも、小さな光でもよい、これを発見して将来に希望を持ちたい。
二、今回の旅の祝福さて、閑話(でもないが)休題して、私のこの度の旅のことだが、これはもう素晴らしかった。一部の方々に送った「はがき通信」の拙文を以下に転載する。
このたび、旅に出ました。9月10日から17日までです。東北・宮城県の一角、ゴスペルタウンの拡大宣教学院と、秋田市の日本海の浜べ、名物の風車が10基並び立つ所、秋田キリスト教会である。
私はもともと美味不感症、おいしいのは牛肉と卵焼きとバナナだけである。それが今回は拡大宣教学院の入学式後のレセプションでは何という料理か知らないが、酢にひたした玉ねぎなどの料理がおいしかった、のです。ビックリしました。
秋田キリスト教会の中野渡先生の牧師館では「栗ごはん」がおいしかったのです。味付けが絶妙。私は思わず声をあげた。「おいしいーッ」、こんな声をあげるのは、私としては初めてのことです。
この「はがき通信」の前号に書いた永井先生の「おいしい、おいしい」連発を、私が真似した効果でしょうか。その連鎖効果? 私は何事にも「すばらしい、すばらしい」と心の中で口走るようになった。すると、万事について私はルンルン気分で元気がいいのです。
そこで、私は何をする時も自分に声をかけることを始めました。「さあ、見るんだよ」、「やってみよう」、「活発に歩こう」、「彼を訪ねよう」などと自分に語りかけながら行動を起こす。そうすると、体がサッと動く。気分がいい。楽しくて喜びと元気が溢れるのです。
三、人生の不条理テーマが急変するが、良い信仰をお持ちだったある姉妹が、今、苦境に陥っている。
信仰によって、何でも好転する、祝福される、と講壇から私は言いつづけ、また皆さんも信じてきた。その信仰とは何であったか。せっかくの信仰も、いざと言うとき、役立たないようでは、信仰する意味がない、という疑問も出てこよう。「いざと言うとき、役立たないような信仰では駄目だ」と言ったのは黒住教の教祖だが、こう言われても返す言葉がないではない。
しかし、キリストを信じる信仰には2つの「ご利益」がある。第一は永遠の生命である。これは大いなる抜群のご利益である。他のどの宗教にも無いご利益である。(ここでは比較宗教学はしないことにする)。
第二はこれである。現世におけるイエスを信じる者の、その人の人格の清さ、喜び、力の充実である。
旧約のヨブ記を読むと、当時の最高の義人であった、その人に過酷な艱難、苦難がやってくる。義人に善い報いがあり悪人に悪い報いがあるという、通常の道徳論は通用しない場面が出て来る。「この世に不条理な不幸、苦難があるということは、人類の歴史の最古の問題である」と言ったのは確かカントであったが。
しかし、私たちはこの世界悪に勝つことができると信じる。聖書はこう教える。「アダムにより、罪は世に入り、罪は死をこの世に引きずりこんだ。だれもこの死の条理から免れる者はいない。しかし、ただ一人主イエス・キリストがこの死に打ち勝って下さった。主は私たちの罪を、ご自身の身に背負って死にたまい、私たちを地獄の運命から救い出して下さった。私たちはイエス様を信じることにより、死から永遠の生命に居所を移し替えられる。この信仰により、魂の平安を得、また人生の勝利を与えられる」。
ところで、イエス様が地上にこられる御業を聖書はこのように表現する。
「光はやみの中に輝いている。
そして、やみはこれに勝たなかった」。
(ヨハネによる福音書第1章5節)
四、光はやみのなかに輝く地上は戦争や、その噂、国家間の謀略や民族の傲慢や不信で荒れ果てる。人は病気や貧しさや不和や失望や呪いで苦しむ。こうした世界の闇は人類の罪のゆえであると、前節で書いた。
しかし、人類を憐れむ神の愛が現われた。それが世の光、イエス・キリストである。主は言われた。
「我は世の光なり。我に従う者は、暗きうちを歩まず、命の光を得べし」(ヨハネ8:12)
この命の光を得て、あなたの内に光を点ぜよ。この光をあなたの内に輝かせ、充満させ、活動させよ。
不条理、不安、死だけが人生ではない。それらを打ち破って、命の光があなたの人生を満たすのである。
それが、あなたにうまく行かないとすれば、内なる光の法則を、あなたの外なる面に応用しないからである。
先の第2節にのせた私の通信文の最後の個所をもう一度読んでほしい。こうである。「何事にも『すばらしい、すばらしい』と心の中で口走ろう。何をする時も、自分に声をかけよう」と。
*
ヨシュア記第1章5〜9節を熟読して下さい。ここの聖書個所の肝心な所は、「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない」(新改訳、詩篇1:2も参照)という言葉です。
聖書の言葉は勿論ですが、いわゆるプラスの言葉、よい言葉、これをつねに自分自身に語りかけなさい。必ずあなたの心を元気づけ、憂欝や不安や無気力から救います。
「すべて善きこと、称賛すべきことを心に刻み、これを口で告白し、常に口ずさむ」(ピリピ4:8、9参照)、この習慣をつけると良いのです。これが秘訣です。(02.9.19.祈祷会)
2002/9/15
(「日岡だより」第37号)
信仰生活の勘どころ&コツ
田中信生先生の「子育ての勘どころ」という、よく知られたテープがある。「勘どころ」という言葉は時おり聞く。ある先生から「教会成長の勘どころ」とう言葉を聞いたことがある。私も聞き耳を立てた。
「勘どころ」と言う言葉の語源は、三味線など弦のポジションをさす言葉だろうか。「勘=カン」の良い悪いは生れつきだろうが、「カン」が悪くても。師匠や先輩から手をとって教えてもらうと、灸のツボのように、どうにか分かる。
「子育ての勘」や、「教会成長の勘」は、それぞれ先輩の先生方や、信仰の先達者たちが、みずから苦心し、努力の末、獲得したものか。あるいは奇蹟的にハッと体得した、やや神秘の感じさえする勘でもあろう。
それを前述のように手を取って教えてくれると、そのツボが分かる。「勘どころ」である。ある程度、楽に真似ができるのである。
*
私の若い時、ある牧師先生が「信仰とは、どこかカンみたいな所があるねえ」と言うのを聞いた。その時、私は信仰というものが努力だけでは掴めない、雲を掴むようなボウヨウ(芒洋)たるものに思えたことを覚えている。私は、後に直感的悟りにも似た聖霊経験によって信仰を得ることになる。なるほど、一種のカンである。まさしく、よく聞く「ただ神様の一方的恩寵によって与えられました」と言うべき恩寵経験であった。
青年時代の私の信仰を求める姿勢は本当に真剣だった。長い苦悶と不安の果て、突如、聖霊の光によって信仰を与えられ歓喜した。それだけに戦後の、マニュアル式伝道法、街角で気軽にアイスクリームでも売っているよう信仰の奨めには、大いに不満であった。
たとえば、「四つの法則」。あの伝道方式で救われる経過が、どうしても信じられなかった。ああいう信仰ではすぐに信仰を失ってしまうに違いないと思っていた。
ところが案外そうでもない。なかなかすぐれた信者さんが生まれているのに気がついて、不思議に思っていた。
*
ところが、私自身、いい体験をしたのである。20年ほど前のことだが、ある家を訪問した時、田舎のおばさんたちが集まっていた。私が牧師だと知ると、「ねえ、ねえ、キリスト教でどんなものか、教えて」と膝をすすめてきた。興味半分、本気半分のように見えたが、とにかく、面白い、一つ、「四つの法則」でやってみるかと、例の小冊子は手もとに無かったが、覚えていたマニュアルどおりに説明を進めて、最後の決心の所に来た。
すると、なんと全員が信仰の決心をした。その人たちは遠くの人たちだったので、洗礼教育する時間がない。あとの事は主に任せようと大胆になった。水をどんぶりに入れて、滴礼のバプテスマをさずけたものである。
このことは私に非常な自信を与えた。私にとり一つの「伝道の勘どころ」になった。マニュアル化された伝道法を、簡単に自分のものにできた気持ちは、正直のところ、ややくすぐったい思いでもあった。
*
「勘どころ」とは別に、「コツ」というものがある。コツは、人のすることを見たり、教えてもらったりすれば、すぐ、その場で、応用できる。
たとえば、人前であくびが出そうになって困ることがある。お嬢さんが見合いに席上であくびが出そうにになった時などである。
解決法は簡単で、自分の舌先を上唇に近づけようとするだけでよい。それだけで、出ようとしていたあくびはヒョイと消える。誰がしても、失敗はない。
もう一つの例をあげよう。しゃっくりである。これがなかなか止まらないと、心配で、案外苦しいものである。こういう時、茶碗に水を入れて、口を茶碗の向う側の縁(ふち)につけて水を飲む。それだけで、しゃっくりは、すぐ止まる。こういうことを私はコツと言うのです。
コツとは誰でも、即座に真似すれば出来る、これが特徴です。「勘どころ」よりも簡単に自分のものに出来ます。最近、「あなたの悩みは一瞬に消える」という本の新聞広告があり、面白そうだと思って注文してみました。大したことは書いてないが、愉快で、かつ実行可能なことを書いてある。たしかに大概の「なやみは一瞬に消える」だろうと思った。
こう言うのです。嫌なことがあったら口で、「嫌なことは無くなる、無くなる。必ず無くなる。大丈夫だ」と、言いなさい。悩みはすぐに無くなる、というのです。
*
まさに永井先生の言う「告白」の信仰の世俗版です。これは、馬鹿にしないで実行すれば、かならず効果があるはずです。世間の知恵者でさえ、こういうことを言っているのです。クリスチャンは遠慮せず、もっと実生活でも活用すべきです。体験してみましょう。
たとえば、トラクト伝道に小心で苦手な人。こう口で言いましょう。「私は今日、トラクトを50枚配布する。各、家の人に一言、教会の案内をする。私は必ず出来る」と、口を開いて大きな声で50遍ほど言うのです。必ず、うまくやれます。
このことは「口を広く開けよ。私はそれを満たそう」(詩篇81:9c)というみ言葉の諧謔的適用です。これこそ、コツと言っていいものです。「苦手なことでも、すぐやれる秘訣、コツ」です。
*
私は実は、信仰の成長、強化、拡大、深化について、確実に助けとなる実技的なことを書きたかったのです。信仰の本質的なことに係わる、大切なことではない。だから軽視されやすい。もしくは見捨てられやすい、信仰生活上のほんのちょっとした実技的アイデアです。しかし、こういう真理が聖書にはたくさん隠されていることを、多くの方に知ってほしいのです。
たとえば「主を呼び求める者は救われる」、このお言葉だって気負わず、神学的理屈を立てず、すなおに「イエス様ぁー!」と口で叫ぶと、それだけで救われる人が起こるです。聖霊様が働かれるのです。
「クリスチャンらしからぬ罪を犯してしまった、ああ、なんて私は駄目なんだ」と苦しまれる方は、ヨハネの第一の手紙1:9を読んで、実行してください。
あなたの罪を(個々の罪を、具体的に一つづつ)、神様に告白しなさい。あなたの罪は一つ一つ、赦されます。これは確実なことです。聖潔への秘訣の近道でもあります。(マグニファイ9月号掲載)
世の終わりが来る!
「世の終わりが来る!」、奥山実先生の近著である。私が小学校3、4年だった、中田先生と内村先生の共同戦線で「再臨運動」が始まった頃だ。伯父の無教会の集会で大人の人たちが夢中になってしている「世界の最後がくる」という話に、私は怖くなって体中が震えたものである。
同じような経験を「声石」主筆の小石豊先生が語っている。森か林の中だったらしい、フッとお父さんとお兄さんが見えなくなった。「アッ、お父さんたち、携挙で天に上ったんだ。僕ひとり残されたか」、ゾッとしたそうだ。小石先生にくらべると、私はよほど幼稚だった。
「世界の終わりが、いつかは来る」、多くクリスチャンは知っている。しかし、本当はそれは、どんな風に来るのか。どんな用意が必要なのか、惑うであろう。本気でシェルターを買う人もいるというのだが。
一昨年、奥山先生はパトモス島ツアーの一行に同伴しました。そこは、地中海の孤島、ヨハネが神様からの啓示を受けて黙示録を書いたところです。
そのツアーの日程の中で一週間、先生はヨハネ黙示録をご自分の試訳により、講解の時間を持ったそうです。その講義内容を本にしたのが、この「世の終わりが来る!」です。ヨハネ黙示録の講解は並の牧師ではできません。私など、到底できません。
今、世界(地球)は核や化学兵器の恐怖、文明の過剰からくる悲観的環境問題に、地震増加の地球自体の問題、そして地球上に住む人類の異常な道徳的頽廃、すべてに末期的症状を呈しています。この時、奥山先生の新しい、この本を求めて読んでください。マルコーシュ・パブリケーション発行、1700円+税。
2002/9/8
(「日岡だより」第36号)
聖徒の死は神の御前に尊い
一、入口ヒサ子姉の召天
1990年ごろだったと思う。そのころ、毎夜のように通って祈ってあげる3人の人がいた。相良忠義兄とN兄と、K君であった。それぞれ難病であった。
毎夜スタッフの中野君に運転して貰って、私は座席に横になって寝て、祈っていた。当時、ゆっくり休めるのは、その時の車の中だけであったので、そのようにして祈りながら通ったのである。
相良兄は舌癌であったかと覚えているが、しばしば発作性の呼吸困難を起こしていた。私は玄関に立つなり、同兄の息づかいがわかる。急いで部屋にはいり、手をあてて祈る。気合をいれてウッと祈るたび、同兄の発作がググーッと引いてゆく。
それをよく、姉さんにあたる入口さんが見ているのであった。祈り終わると「ありがとうございます」と入口さんは手をあわせて私に拝むように礼をする。入口さんにしてみれば、私が奇蹟の大先生に見えていたかも知れない。
相良兄はついに終わりの頃は、祈っている私の背後にイエス様を感じるようになった、もっと何とかすれば、イエス様のお顔を見えはしないかと思えるらしく、私の背後を覗きこむような視線で私のほうを見据えているのだった。そうしているうちに、ついにイエス様を信じた。しばらくして、相良兄は天に召された。
この時の一種神秘な病床の状況を、上記のN兄が記事にして地元の新聞にかなり大きいスペースで載せ、話題になった。
葬儀はもちろん、教会でしたが、それは非常によい信仰のあかしになった。その場に、大分駅周辺で私が戦災孤児や浮浪者たちの親分をしていた当時、同じような保護関係でよく新聞記事になった相棒の釘宮謙司氏が葬儀に見えて、私を見てびっくりした。「あっ、あなたは牧師さんになってましたか」。昭和20年代、急に福祉関係から姿を消した私が、ここにいることを発見して、隠れんぼの鬼を捜し当てたような顔をした。
*
さて、入口さんは相良姉にしたがって教会に来始めた。もう数年まえ、ご主人を亡くしていた。ご主人は大分交通の重役をしていて、重厚な感じのする方だった。私はかつて印刷屋をしていたが、大分交通も常得意の一つであったから、よく出入りした。そして深々と挨拶したものである。
ご主人は、あの面持ちが重厚な感じのする方には似会わず、奥さんのヒサ子さんには優しい人だったらしい。そのようなご主人を亡くしてさすがに愚痴の多い人になった、週報の巻頭短言に書いたとおりです。
その後、相良姉に誘われて、教会に来るようになった。見る見る人が変わった。いつも微笑みを絶やさない。特に目が合うと「ありがとうございます」とにっこりと、笑って挨拶する。
そして、毎晩、相良姉と電話で笑いの交歓が始まった、それも巻頭短言に書いたとおりである。
姉妹はときおり、病を得て、入院することがあった。女婿が赤十字病院の医師であるので、病状が軽くても気軽に入院するのであろう。私はそう思っていた。なぜなら、私が病室を訪ねて祈って差し上げると、簡単に病気が軽くなり、そして早々に退院するのであった。
しかし、次第にそうではなくなった。どうも肝臓が悪いらしい。時々、黄疸が出る。ともあれ、入退院をここ数年、何度も繰り返した。その度に、同姉は容易に病状を軽くクリアして、自宅に帰り、また教会に出席されるのであった。
とは言え、今回は少々不安を感じた。何度かベッド脇を訪ねて祈りました。その都度、祈ると、そのたびに「少しは良くなりました。楽になりました」と、相良姉から報告を受けるけれど、今回はどうも病気に引きぎわがよくない。
そして先週の初めになった。いつも病室に行き、また付き添っていた相良姉から「どうも危ない」と聞いた。それは9月4日の夜、「危篤」の電話があり、あわてて私は妻と次女を連れ病院に向かった。病室に入ると、一瞬遅かった。私はベッドに近づき、入口姉の耳もとに口を寄せた。
*
「入口ヒサ子さん、あなたは神様に愛されています。あなたは、今、肉体を離れて天国に近づいています。もうすぐ、あなたの愛したイエス様にお会いできますよ。天使様が迎えにきます。天使様に導かれて、輝やく天国の門に近づきましょう。イエス様が両手を広げてあなたを迎えてくれます」と、あたかも生きている人に言うように、私は話しかけるのでる。
無用な好奇心を避けるため、これ以上詳しくは書かないが、私は姉妹を天へとお見送りしたのである。私は「主の聖徒の死はそのみ前において尊い」(詩篇116:15)」というみ言葉を思い出す。私は姉妹を確信と喜びをもって天にお見送りした。こうしたことを、私はカトリックの神父さんから学んだのである。
二、クリスチャンの霊は天に、肉体は地にかつて大分市明野にあるカトリック教会にいたヨキエル神父は私に非常に親しくしてくれた。カリスマの信仰を持っていたからでもあるが、相性もよかった。この神父さんが、ある時、私に言った。
「私の国のポーランドの田舎では信者が死ぬと、教区の神父が行って、その死んだ信徒の耳を両手で押し開くようにして『おおい。お前さん、きっと天国に行くんだぞぉー』と叫ぶんです」。私は良いことを学んだと思った。旧約聖書の伝道の書第12章6、7節に、こういう言葉がある。これは人が死ぬときに何が起こるかを説明してある聖書の希有な場所である。
「その後、銀のひもは切れ、金の皿は砕け、水がめは泉のかたわらに砕ける。ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」。
銀の鎖に吊るされた金の燭火皿、その下に水がめがいてある。人間の象徴である。人の体の70%が水である。言わば、人間の体は水がめである。その水がめが砕けると水はこぼれ落ちて地上の泉に帰る。
銀の鎖はいのちの紐であり、これは命と人間の意識を結ぶ目に見えない。この銀の紐が切れると人は死ぬ。金の皿は頭蓋骨の象徴。その中身は魂である、
銀の紐。戦前の賛美歌の533番に「しろかねのひもの、たゆる日はありなん」、とあるのがそれである。英語でシルバーコード、(戦後版では518番「いのちのきずなの、絶たるる日はあらん」とある)。
そして「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」。ちりはヘブル語では最も小さいもの、原子か分子かをさすと考えてよい、つまり人間の体を構成しているものは土に帰る。これは誰でもよく分かる。しかし、人の霊は人の目には見えないが、自分で自分の内側を深く見ろうとすれば、見えないにしても、想像はつく。何か、自分の一番奥底にありそうなもの、それが人の霊だ。その霊は清浄無垢な霊なれば、霊の主なる神に帰る。汚れた霊は天に帰れない。彼らは悪魔の支配する陰府に行かざるを得ない。
*
私の30歳のころ、私の集会に来ていた、求道中の婦人がいた。その方の家を訪問して、その方が倒れているのを発見した。他に家人は誰も居なかった。私が手を胸におくと、すでに鼓動はなかった。私は驚いて、額に手をおいて祈った。「主よ、彼女の霊を受けとってください。彼女は少しでも真理の言葉を耳にしています。このみ言葉の記憶をよすがにして彼女を天に迎えてください」と祈った。私が激しく祈る時、聖霊の流れが私の腕をとおって死んだ彼女の体に注がれてゆくのが分かった。しばらくして、私ははっと我に帰って、また家族をさがして連絡を取ったのである。
その夜は、いわゆるお通夜。お寺の僧侶が来ている。私は彼女の額に手をあてた。石のように固い。あの生きていた体は、命の無い物質になっていた。霊の力が流れて行かない。彼女の銀の紐は切れてしまっている。明日の葬儀も仏式でしますと、遺族や親族は言う。
その時、「死人を葬ることは、死人に任せよう」(ルカ9:60参照)とのイエス様のお言葉を思い出した。私は安心して彼女を天に見送ろうと思ったのであった。(く)
【あとがき】
私たちの愛する入口ヒサ子姉は去る9月4日午後11時5分に神様のお恵みのもとに天に召されました。残された遺族のかたがたの上に、神様の憐れみと御慰めが豊かにありますように。葬儀はご遺族の意志で仏式で行われましたが、教会よりは信徒数名が参列いたしました。入口姉の天におけるご祝福を祈りつつ……。(く)
2002/9/1
(「日岡だより」第35号)
挫折を越えて再挑戦せよ
一、神殿再建の仕事、なぜ頓挫するのか
先週の祈祷会(8月29日)では、旧約聖書ハガイ書第2章4節によってメッセージをしました。聞く人には講義風に感じたらしいですが。
預言者ハガイ、日本語の感覚から言うと、なんだか歯がゆがっている感じの名前の人である。大分県の方言では、「はがいい」と言いますからね。たしかに、ハガイはエルサレムの神殿再建の建築が遅れているので歯がゆがっているのです。
世界に比を見ないソロモンの大神殿は、バビロンの王ネブカデネザルの軍によって紀元前586年に破壊されました。この神殿の破壊される以前の輝かしい姿をハガイは、その目で見て脳裏に覚えていたことであろうと、ある学者は言います。
ハガイの名のことですが、ヘブル語では「祝祭」という意味の言葉から来ています。彼はたぶんユダヤの三大祭儀のいずれかの時、その期間中に生まれたのではないか、という学者もいます。学者はいろいろ考えてくれますが、もっと踏み込んで読めば、彼は祭司の家系であっただろうかとも、想像もできます。
彼は、あのソロモンの神殿の祭の日には、荘厳な儀式に列していた思い出があるのかも知れません。彼が神殿再建の希望に燃える気持ちも分かるようです。
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神殿が破壊されて、ちょうど50年、紀元前536年に、神殿の基礎が据えられます。その時の様子がエズラ書第3章10節以下に載っています。大声で泣く声と、喜び叫ぶ声が入り乱れたとあります。
老人たちは昔のソロモンの神殿の大なることを覚えていて、今回の神殿の基礎があまりに小さいのに悲しんだのです。昔の神殿の大きさを知らない若い人たちは、新しい神殿の基礎を見ただけで希望に燃えて喜んだのでありましょう。
私の解釈ですが、この老人たちの懐古的な悲しみの現象が、若い人々の素直な喜びに水をかけたのではなかったでしょうか。彼らの神殿再建の意志は見る見るしぼんでしまいました。せっかくの基礎ができているのに、その後の工事が休止状態です。周辺の反感を持つ民族の撹乱と扇動もあったし、彼ら自身の財政的不安も原因であったかも知れません。
この章で語られる有名な預言、「万国民の財宝は、はいって来て、わたしは栄光をこの家(神殿)に満たす……。銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる」と。この言葉は、彼らの財政的不安と無関係ではないでしょう。
「この民は、主の家(神殿)を建てる時は、まだこないと言っている。わたしの家は荒れ果てているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている」と、ハガイを通して主は告げられます。彼らは貧乏根性で忙しく働いているのです。こうも言われます。「あなたがたは、自分のなすべきことを考えるがよい。山に上り、木を持ってきて、主の家を建てよ」と。くわしくはハガイ書第一章を読んでください。彼らの労働が期待するほどの生産をあげず、希望のない貧しさに苦しんでいるのは、神殿再建を怠っているからではないかと、言うのです。
この主の言葉に、ゼルバベルやヨシュアとすべての民は心を動かされました。さっそく振るいたって作業にとりかかったのです。
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しかるに、それから1ヶ月ほどたって、あの時、心勇んで作業を始めたはずの民たちが、どうしたことか、意気阻喪して仕事をやめてしまっているのです。
指導者であり、監督者である、ゼルバベルとヨシュアの2人は負いかねる責任の前に無力感に打ちひしがれていたことでしょう。どうしたらよいか。この民は途中で、すぐ挫折してしまう。
その時、主はあらためて預言者ハガイをとおして、ゼルバベルとヨシュアに語られたのです。
「ゼルバベルよ、勇気を出せ。大祭司ヨシュアよ、勇気を出せ。働け。わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる」(ハガイ2:4)。
前述の傍線の「働け」というところ、新改訳では「仕事に取りかかれ」と訳してあります。いい訳であります。しかし他のどの翻訳にも、こんな丁寧な訳はありません。英語でもただ一語の "work" です。原語を見ても、とにかくただ一語です。
どうも、「仕事に取りかかれ」は新改訳特有の意訳らしい。しかし、いい訳です。
二、やる気が起こらない症候群
話題をグーンと変えます。私たちはしばしば挫折する者です。私は伝道でも少なくとも2回挫折しました。
リンカーンはこの点、有名でして、新しい仕事や地位に挑戦して13回のうち、成功したのはたった2回か、もしくは3回だけです。1回は上院議員、最後に大統領です。後はみな失敗、落選、しかし、リンカーンは諦めませんでした。再挑戦しました。挫折も、やる気を起こす者には、反作用を起こします。負け戦の恥ずかしさは、却ってエネルギー源です。しかし、
その反対に、一度やる気を無くすと、どうしても二度とやる気は起こらない、そういう人が多いのです。
カール・ヒルテイという人は、最近はご存じ上智大学の渡部昇一教授が推奨する100年ほど前に76歳で亡くなったスイスの碩学です。法律家であり、大学教授であり、軍人であり、宗教家、思想家であり、たしか国際連盟の事務局長もしました。
この方の「幸福論」や「眠られぬ夜のために」は、戦前、旧制高校の学生たちに熱読されたものである。この方は学者とは言え、具体的処世術にたけていた。
たとえば、「やる気が起こらなくて、どうしようもないで、困っている」、そんな時は、昔はよくあった机上の海綿皿、それはいつも水に浸してある、「それでインクのさびついたペン先を拭うといい」と言うのである。ボールペンなどの無い時代、文字はたいていペンをインクにつけて書いた。しばしばペンにインクがさびつく。そのペン先を洗いなさい、というのである。なぜか、そうした小さな仕草で、仕事を始めるふんぎりがつくからである。
女性たちが家事にうんで、何もする気になれない。やっと体を起こして不承不承、仕事にとりかかったが、やっているうちに、のめりこんでしまって、ついに夜半まで飯も食べずにやってしまった。残業を終わって帰ってきた亭主に呆れられた、などという話がよくある。こういうことをヒルテイは知っていたのみならず、それを法則としてご自分の書斎生活に取り入れたということである。何でも法則化すると力になる。
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ある本によると、側坐核という部位が脳の左右に一つづつあるらしい。リンゴの種ほどの大きさだという。なんとこの側坐核が脳の中にあって「やる気を起こす」部位なのだと言う、これは耳寄りな話です。
その側坐核はほうっておくといつまでのそのまま、何も起こらない。しかし、ある程度の刺激が与えられると、どんどんやる気を起こす。一度、やる気が起こると、それからは自己興奮を起こしてなかなか収まらない。家事にのめり込んで「とまらない、とまらないのカッパエビセン」になる脳生理学的根拠である。
まさしくヒルテイは正しい。そして、先にあげたハガイが語った主の言葉、「仕事にとりかかれ」、これもまったく正しい方策です。「まごまごしているユダヤの民よ、気分が少しも起こらなくても結構、とにかく仕事に手をつけよ。そのうち仕事が好きになる!」。
ですから、勉強に気のりしない学生諸君には、こう言いたい、「ともかく気分がのらないまま、鉛筆を削りなさい。そのうちイヤな数学のノートに手もとどいて、計算をはじめるようになるから」と。
私の「笑いましょう」という提言も、これに似ています。「笑えば、健康になります。ナチュラル・キラー細胞が増えます。笑えば幸福になります」。「それは分かっていますよ。しかし一向に面白くも可笑しくもないのに、どうして笑えますか」。「いえ、いえ、それでよろしゅうおます、ただ笑いまひょ、そのうち次第に笑えます」、漫才師なら言うでしょう。(く)
【あとがき】
上述の側坐核の活動のことですが、ただ一つ問題は風邪薬を飲むと、シュンと興奮が静まることです。だから風邪の時は薬を飲んだら、もうやる気を起こすことは諦めて、ひたすら静かに横になっていることです。その他、鼻炎と下痢の薬も同様ですって。▼ヒルティに関する本、渡部昇一著「ヒルティに学ぶ心術」致知出版発行1600円。側坐核の本は池谷・糸井両氏著の「海馬・脳は疲れない」朝日出版社発行1700円(く)
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