キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報掲載・今週のメッセージ)

2003年4月

2003/4/27

(「日岡だより」第69号)

意識革命 来たるか   

一、知 価 革 命      

 神武天皇いらい、日本の土地の値段は下がったことが無かったと言ってもよい。ところが前代未聞、バブルがはじけて以降、土地の値段が下がり始めたのです。土地の値段が下がり始めた頃だったでしょうか、堺屋太一さんが「知価革命」という本を出しました。「地価革命」ではない。「断絶の時代」のドラッカーも同様のことを言いました。「知識社会の到来こそ、もっとも重要な『断絶』である。21世紀に入ると、更にその傾向は強まるであろう」と。

 昔の人でも、労働や経済において知識の付加が生産性を高めることを知っている人はいました。ヤコブがそうです。彼は牧畜に知識を加えて元気の良い羊を産ませることをしました。

 イエス様のタラントの喩えもそうです。1タラントで5タラントを儲けた僕は、その労働力ではなく、その機転の良さ、知識の活用が褒められたのです。タラントを地中に隠して元金のまま持ってきた僕は「なぜ銀行に預けて利息をかせがなかったのか」と叱られています。イエス様の時代に銀行があったとは驚きです。

 ミレーの「種まき」の絵ですが、あんな種まきをする人は日本にはいません。ところがマタイ13章を読みますと、種の撒き方がミレー式です。あたり一面にぱっと撒き散らすのです。だから道端に落ちる種あり、石地に落ちる種あり、茨に落ちる種もありです。日本の農家でそんなことをしたら、叱られるより先に笑われてしまいます。

 日本の農家は勤勉もさることながら、知識が豊富です。箱庭のような稲の苗代から、整然とした田植え作業、まさに緻密な知恵の成果です。麦は条撒き、大豆などは2、3粒づつ埋め込んで行きます。かように、労働においても、経済においても、知識を投入して生産拡大をはかることは、昔からしてきたことです。しかし、

 人類の文明は狩猟時代から、農耕時代へ、そして職人が生まれ、商人や、金融業が生まれ、蒸気機関の発明や印刷機等の発明により産業革命が起こり、また情報も広がり始めます。

 かくて資本主義が爛熟期を迎え、2つの大戦を挟んで、核の運用について人類は殖産と破壊の選択に苦慮し始めます。かつ、情報が拡大して政治も経済もグローバル化しています。

 こうして、社会も個人も、物や金の時代が去って知識の時代が来ることを予見しかけている、それが現代です。文明の基軸変化のテンポは早い。ドラッカーも言います。知的集約の傾向は更に強まると。ならば、「知価革命」の次に何が来るかということです。

二、意 識 革 命      

 次に来たるべき時代を私は仮に予測してみます。それは「意識革命」の時代だろうと思います。そして人類の文明はいよいよ終焉を告げるのではないしょうか。

 「西洋の没落」はシュペングラーでしたが、「世界の没落」は誰が描くでしょうか。神様はパトモス島でヨハネを通して世界の滅亡をお見せ下さいました。今、神様は誰かに改めて新しい幻をお示しにならないでしょうか。

 それは、至福の千年王国でしょうか。神の国の到来でしょうか。神の子たちの出現ですか。サタンとサタンの子らは地獄に追放されますか。栄光の新世界でしょうか。そういう新時代を伺わせる新しい風が、あなたの周辺に既に吹いていませんか。人類の意識が革命される時です。

 人類の意識がキリスト意識に一転する時が来るのではないか。そんなことは夢物語か。でも、それこそ人類が待ちくたびれてきた人類の全き解放のあけぼのではないでしょうか。

三、キリスト意識を求める   

 文明論は閑話休題。私たちクリスチャンの信仰の成長進化について。

 私たちクリスチャンは初め、十字架のイエス様を信じて救われました。それから、引き続いて成長し、変化を重ね、完成へと進まねばなりません。実は、そう容易ではない。

 たばこの習慣のある人がバプテスマを受けようとする時、「たばこを止めなければバプテスマは授けられません」と言うのは福音ではありません。そのような心配する洗礼志願者には、「大丈夫、信仰にはいったら、たばこは自然に止むものです」と安心させるでしょう。たしかに、そういう例は多いのですが、

 実際には、そう簡単には行かない人も多くいる。なかなか、たばこを止められない。そして信仰の持続、成長について自信がなくなるのである。かように、救われたクリスチャンでありながら、その後、相応しい人格形成が出来なくて苦しんでいる人は多いのです。

 こうしたことで、聖潔派の陣営や、ペンテコステ派の陣営には、それぞれの派らしい助言や励ましがある。それらの助言と奨励によって、かなりの成果をあげたとしても、尚、安心できない人は多いと思われる。

 熱心な人や、まじめな人、自我欲求水準の高い人ほど、その人の意識がキリストの意識にまではなかなか到達できないので、失望する、欲求不満に陥るのです。

 エペソ4:22、23を読みましょう。「あなたがたは、以前の生活に屬する……古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」と。

 これは正しい。秘訣です。この地上において、クリスチャンは意識の深みまで、すっかり変えられて、イエス様が持っておられたような意識に改変されたいと熱望する。それはクリスチャンの意識変革です。

 簡単に言えば、人の意識がキリスト意識に転換変質されることです。それは聖霊様による意識革命の連続によって起こります。

 聖霊様の働きは、人に対して5段階の働きかけがを取ります。まず、(1)「聖霊によって」最初の信仰が与えられます。次に、(2)人は聖霊を受けて信仰による自由感覚、聖潔の秘義を得ます。その次は、(3)聖霊に満たされて、霊的能力の賜物を受けます。まず異言です。神癒等の力です。次は、(4)聖霊に満たされ続けるということ。品性が大いに変化、向上します。次は、(5)聖霊の油注ぎです。主に仕えるそれぞれの働きのため、特別に必要な権威と力を与えられます。

 この聖霊様の働きかけに対して、私たちのほうからの応答も必要です。実は、初め、人間からの何の願いも欲求も無いのに神様のほうから一方的な働きによって、恵みの賜物として力や、必要な準備が備えられることもあります。これは大きな恵みです。

 しかし神様に対して、熱意ある欲求と祈り、また忠実な応答と積極的服従精神、これらの大きな努力によって仕えるならば、もっと大いなる結果を頂けるのです。

 更に、尚もよく祈って、加えて聖書の言葉を告白し続け、また「主よ、来たりませ」(黙示録22:20)と、日毎に賛美をささげて、再び来たり給うイエス様を切に待ち望むことを努めたい。こうしてクリスチャンの意識革命は進むと思う。(2003.4.24.祈祷会にて語る)

 

2003/4/20

(「日岡だより」第68号)

創造主、グレート・ワン   

 夜、天の無数の星を見て、これに無限の神秘と永遠を感じるのは、カントだけではないでしょう。そして、またカントにならって我が内なるものを省察しましょうか。その内在する魂の尊さに畏敬と感嘆を覚えることもさりながら、しかし親鸞のように、蛇蠍のごとき我が心の醜さに絶句する人のほうが多いのではないでしょうか。

 普通、日本人ですと、山や川の自然を見て、「ああ、すばらしい。美しいなあ」と感嘆するのは至極当然です。しかし又、少し考えて、この地球の表面に満ちる不安や恐怖、不条理な悲劇を発見して、「造物主はなぜこんな世界を造ったのか」と憮然とするのも事実です。

 実は、この後者の洞察は聖書にあるパウロの自然観に近いのです。彼は言います。「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを。わたしたちは知っている」(ローマ8:22)と。

 パウロだって山や花の美しさ、天の星の荘厳さを感じないわけではなかったでしょう。聖書はいつも前述のような悲観主義を語っているわけでもありません。詩篇19篇をお読みください。またクリスチャンとしては聖フランシスの太陽賛歌をあげることができましょうか。

 しかし、パウロは天然の美や荘厳さを歌う以上に、彼創造物たる自然の働きの中に、限界、破壊、闘争、慟哭を見たのだろうと思います。この聖書の自然観が、実に冷厳で凄絶であるのは、却って万物の全き救いと、その回復の方法を知って居るからに違いありません。

 反対に、仏教哲学などには、あきらめの哲学があります。「どうせ、自然は強食弱肉の世界、人間の力ではどうにもならない天地の運行、人生の運命というもの、すべては「諸行無常」と悟るしかないのです。これが日本人の自然観、人生観です。春に咲き誇る桜の花も、数日で散ってゆくはかない宿命、それこそ「敷島の大和心」と、そこに耽溺する風情すらある、日本人らしい感覚だろうと思います。

 しかし、聖書の自然観には特徴があります。これらを造られた原始の神様の創造のご意志と力、そこに神様の愛と夢を見ます。そして、その後、ずっと破壊されつづける世界であるけれども、これを再創造したもう神様への信頼を語るのも、聖書なのす。

           *

 もともと、世界の一切の悪はサタンの誘惑よりエバやアダムの罪に陥る所から始まります。ミルトンの「失楽園」によると、エバが最初の知恵の実を口にした瞬間、「全宇宙に沈欝などよめきと悲痛な声があがった」と有るそうです。人類の罪が世界の本質的崩壊を産んだのです。世界の本質的な崩壊! それがエントロピーです。

 本来、神の造り給いしものは完全なはずです。失速や衝突や崩壊や、そして病気や負傷や死が訪れるはずは無いのです。聖書は言います。「被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではない。ただ人類の罪のゆえに万物も滅びの縄目を受けてしまい、今に至るまで、人類の救いを切なる思いで待ち望んでいる」のだと。

 聖書の、この壮大なる「被造物の虚無とその救済」を論じるところ、ローマ人への手紙8:10〜23に見られる聖書自然観は圧巻です。「罪の支払う報酬は死です」(ローマ6:23)と言いますが、まさしく、人類の罪と死の連鎖性が自然万物に及んでいるのです。

 蛇が蛙を呑み、縞馬がライオンに倒され、イワシの大群が鯨に呑み込まれ、鯨は人間の捕鯨船の甲板上でむなしく八つ裂きにされます。生物の最後の勝利者は人間でしょうか。しかし、人間はウイルスに倒れ、また互いに殺し合う。彼らは神と正義の名において戦争をする。その戦争の拡大を、人間自身の知恵ではどうにも止められそうにないのです。

           *

 さて、今日は復活節です。キリストのご復活について考えてみましょう。イエス様の、あの復活は2千年前のエルサレムで起こった事件であると言うだけでなく、神様の全世界における救済の大事業の中心点でなかったか、と言いたいのです。

 キリストは十字架の死に至るまで、父なる神様のご意志に忠実であられた。イエス様の死は単なる肉を裂かれ、骨を砕かれ、血を流されたという肉体の死に終わるのではない。

 「わが神、わが神、どうして私をお見捨てなるのですか」と言われるまでに、主は死の体験をなめられたのです。だから肉体が死んで、その内なる霊は陰府にまで行かれた。そこで、しかも、主は地上における時と同じく福音を宣べられたと聖書にあります。

 そこには救われる霊がたくさん居たかも知れませんし、また少なくともアブラハムやラザロ、そしてイスラエルの族長たちや義人たちが、多くいました。そして、主は彼らをいわば捕虜のような外見ですが、抱えるようにして共に天に連れて帰られたのであります。

 聖書に「彼(キリスト)は高いところに上った時、とりこを捕えて曳き引き、人々に賜物をわけ与えた」(エペソ4:8)と、あるのがそれです。更に聖書は言います。このキリストなる方は、「あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで、上られたかたなのである」と。

 最後に参考として書き添え、いいえ、大きな声で言いたいのです。「イエス・キリストはもろもろの天に満ち満ちる力を持っておいででした(エペソ1:23参照)。この力こそ復活の力です。イエス様を信じるものには、本来、この力が与えられ、また充満させて下さるはずであるのです)と。

 使徒行伝3:6〜8見られるペテロによる足のきかない男の癒し、これに引きつづく使徒行伝たちの多くの奇蹟、これらはすべてこのイエス様の復活を産みだした力と同じ力であります。

 復活節は単に2千年前のイエス様のご復活を記念し、お祝いするためだけでなく。現代においても私たちの病気、痛み、不安、不幸、失敗、貧乏、苦痛、争い、一切を取り除き、回復させ、命を与え、平安を満たし、強力な勢力をもって悪魔を追い出す力です。このことを再確認させ、また宣言する日が今日ではなかったでしょうか。

           *

 ほんの数日前、新聞に出ていた記事ですが、「ヒトゲノムが全部解読された」そうでう。ゲノムとは遺伝子の暗号1文字のこと。これがヒトの場合、百科事典700冊分あるという。前述の村上先生がこの人のゲノムを研究された。そして「この百科事典700冊分30億の文字によって人間の体は造られているんだな」と、考えました。そして、「その文字をつかって設計したのは誰でしょうか。これは不思議だ」と考えられた。

 この複雑な人間の体を造ったのは、30億の文字を駆使して設計監督した存在者がいるはず。偶然ではこれは絶対できないとだれでも分かる。これはたしかに意志と知性を持った一つの存在者でなければできない。この神とも仏とも言いたい存在を、村上先生はそれは科学者としてちょっと恥ずかしかったのか、「サムシング・グレート」と名付けた。「偉大な或るもの」と訳しましょうか。

 私はこれをはっきり、神と言いたいのです。そのほうがスッキリすると思う。単なる宇宙の意志とか。宇宙の秩序とかいう、そういう無人格の存在者では無いのです。しっかりした意志と想像力がなければ出来ない事なのです。

 もしも英語で「サムシング・グレート」流に名付けたければ、私は「グレート・ワン」と呼びたい。偉大なる唯一つの方」、創造者なる「グレート・ワン」です。

 あるキリスト教雑誌で、この村上先生の「サムシング・グレート」でキリスト教の神を説明できるとして喜んでいましたが、私は「これは危険」と心配しました。キリスト教のためには非常に危ないニューエイジ的説明になってしまいやすいですから。

 村上先生は非常に善意で、この真理を開いてくださったのですから、私は感謝しているのですが、しかし、大変あいまいな神観に横すべりしやすいことを恐れている訳です。(く)

〔図書紹介〕手束正昭先生の「ヨシュア記説教集<3>あなたはやり直すことができる」。先の<1><2>に比べて更に私たちの信仰生活に役立つ示唆に富んだ内容です。ライフセンターでお求めください。▼久保有政先生著「ゲマトリア数秘術」これは又、こうした本に慣れない方々にはビックリ仰天する本だろうと思います。聖書のなかの数についての秘密を開いてくれます。あちこちから批判が出そうな感じします。久保先生は敢えてこういう本を出して偉いですね。私は驚きませんが。▼斎藤孝さんの「からだを揺さぶる英語入門」、キリスト教の本ではないですが、目の付け所が良い、聖句の暗唱と告白などの応用に、お奨め出来ます。(く)

 

2003/4/13

(「日岡だより」第67号)

主の前に歩みて全かれ   

一、信仰の父アブラハム     

 「信仰の父」と言われるアブラハムは紀元前約2千年の人、ヘブル民族の祖、そして新約聖書によればすべてのクリスチャンの信仰の父である。神様は彼に言われた。

 「我は全能の神なり。なんじ我が前に歩みて
  全かれよ。」(創世記17:1下)

 時には失敗もあったけれど、まさしく彼の生涯は完全に向っての歩みにほかならなかった。

 アブラハムの生涯を概観しよう。年代的な記述は省略します。

 (1)父と死別し親族と故郷を離れ、漂泊の中で甥のロトと別れ、妾のハガルとその子イシマエルと別れ、最愛の息子イサクをも一度は神に捧げる決意をする。
 晩年になって(それだけに寂しかったであろう)妻サラをも失う。アブラハムの生涯には常に離別と孤独の影がつきまとう。

 (2)しかし彼は決して人間嫌いの孤独漢ではなく、まして悪徳ゆえに社会から排斥されたのでもない。彼は神への従順の故にこの世から分離し、財産についても無欲、独り子のイサクをさえ惜しまなかったのである。

 (3)もっともアブラハムは天使でもなく、いわゆる聖人でもなかった。私たちが充分に理解でき、かつよく共感もできる欠点と弱さをもっていた。
 最初の旅に出発の時、神様が「親族より離れよ」と命じられたのにもかかわらず、甥のロトを同行した。これは後で紛争の原因になる。
 エジプトやネゲブの地では妻サラの貞操を軽んじ彼女を危険な目にあわせる。
 あるいはまた、その妻サラの愚かな提案に乗って神様の約束の日を待てずに後継ぎの子を得るためにハガルという女を召しいれる。神様は必ず後継ぎを与えると約束してくれているのに、一時はハガルに生まれたイシマエルや使用人のエリエゼルをさえ後継者ではないかと早合点したふしもある。
 こういう失敗や欠点が多々あるにもかかわらず……、

 (4)アブラハムという人物の生涯には(司馬遼太郎風に言えば)「壮大な風景」がある。それは神との対話である。神は時には天の星を指差してもの言う。この荒野を見わたせ、と言う。
 ある時には、友のように語る。ある時には、アブラハムの方がしたたかな政治家のように神に頼みこむ。いずれも舞台が広い。話題が大きい。

 (5)初め神のアブラハムに対する約束はいささか漠然としている。しかしそれは次第に具体的になり、且つ拡大していく。「彼は多くの国民の父となり、彼の子孫は天の星のごとく殖えひろがる」のだと言う。それにつれてアブラハムの信仰も大きくなり、またしっかりしてくる。

 (6)アブラハムの生涯は、最後に平和がおとずれる。その何よりの象徴はイサクの誕生である。イサクとは「笑う」という意味の言葉である。

 (7)妻のサラは127歳で死ぬ。アブラハムは妻のための墓地として寄留地カナンに少しばかりの土地を買う。
 この世に何の望みも持たない。ただ僅かの墓地を買い、いつの日か妻とともに葬らるることを望んでいるだけに見える。彼の望みの保証は、ただ子孫に対する神の約束だけにある。

 (8)さてその後、アブラハムは息子イサクに嫁をとる。このイサクの嫁選びの物語は物語としても一級品である。
 アブラハムは現地カナンの女ではなく、遠い親族の中より嫁を選ぼうとする。その選択権を忠実な老僕に委ねて旅立たせるのだが、その老僕のやりかたが実に生一本で、しかも信仰的で麗しい。くわしくは創世記第24章を読んで下さい。

二、信仰の成長     

 アブラハムは決して完全な人ではなかった、時に失敗もした。しかし彼は神様に従順であった。彼の信仰はしだいに強化され、拡大する。このことは多くのクリスチャンにとり模範であり、また希望である。この意味でも彼はたしかに「信仰の父」である。

 小さな私の体験を例にしたい。私は昭和19年の秋、福岡刑務所の独房で回心した。それは石原兵永の「回心記」(新教出版社刊)そっくりの新生体験といってもよい。

 ところで多くのクリスチャンはここで終る。この新生体験はたいていの場合、教義的には義認の信仰であるが、そこだけに留まって先に進もうとしない人が多い。(もっとも信仰の世界の不思議さは、そこで留まって徹底すると清妙な信仰の境地に達する。日本では親鸞の信仰の型がそれに似ていて、そのせいか日本のクリスチャンの信仰が、どうかすると、この親鸞型義認信仰になる)。

 私は少年時代、原田美実という先生にふれて上記の信仰の確かさ(義認の信仰)を学び、それを泣いて求めて遂に恵まれたのだ。その原田先生がその後、川合信水翁に入門師事されて過去の信仰から更に大飛躍なさった。

 それはクリスチャンの完全を求め、それに至ろうとする信仰であり、修養なのである。これを律法主義という人もあろう。しかし聖書に従って聖書の示す標準にたどり着こうとすると、人は努力せざるを得ない。人の努力を神様は無駄にしたまうことはない。

 私は回心以後、ホーリネスの人のいう聖潔経験をもとめた。あるいは又、神癒とか異言、預言など霊的信仰の世界にとびこんだ。実業界にはいって世俗的成功の法則をも探求してみた。

 このようにして信仰は成長・発展・拡大・強化して行くものだ。尚また、性格はさらに陶冶されてキリストの品性に近づくのだ。もちろんパウロの言うように、それをすでに得ていると言うのではない。

 しかしそれを大胆に目標とする。そして努力もする。それは、決して無駄に終わらない(第一コリント15:58参照)。私たちは更に向上して主の前に全き歩みをしたいのである。

(1985年3月3日の主日礼拝説教梗概)


【あとがき】

創世記によってアブラハムの生涯を学ぶ時、顕著な特色の一つは彼は流浪の旅の先々でよく祭壇を築いたことである。祭壇を築いて燔祭をささげ。今の言葉でいえば、礼拝を行ったのである。▼また、しばしば神はアブラハムに個人的に現れて、彼の名を呼び、約束の言葉を語られた。行事的な礼拝と、個人的な神との接触、これがアブラハムの信仰を強め、拡大し、深め高めた理由だったと、私は思うのである。そして彼は信仰をもって、従順に、大胆不敵に、生きとおした。正に英雄である。▼私たちはアブラハムの教訓をとおして、まことの礼拝を神様にささげたい。教会(原意・神に召された者の集り)にて一同の礼拝。個人的には家もしくは隠れたところにて聖書拝読と、祈りと賛美。そこに常に神と共にある生涯が生まれてくる。▼「私の臨在があなたと共に行くであろう」(出エジプト記33:14)、「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)、「生きているのは、もはや、私ではない。キリストが私のうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2:20)。このようにキリストと共に歩む生涯を求めようではありませんか。▼「私は常にわが前に主を置く。主は私の右の手を取られる」(詩篇16:8私訳)。これはダビデの述懐です。「いつも主の前に居ましょう」、これは17世紀のフランスのカトリックの修道士ラウレンシオの奨励です。彼の「神の現存の体験」(ドンポスコ社発行)」をお読み下さい。▼さて話題を変えましょう。大日本帝国憲法は明治22年に発布されました。この旧憲法による日本の政治体制は「立憲君主国」であります。一応、民主的共和国らしい見かけの政体ではあるが、いざという時は天皇の主権が働く。▼さて「神の国」は英訳で「キングダム・オブ・ゴッド」、「王国」です。ですから、教会の政治体制も出来るかぎり「民主的共和制」をとりますが、いざという時には「キングダム(王国)」の体制を取ります。今日の礼拝後、定時総会です。何よりも聖霊様が真の進行係となり、議事進行して下さるよう、祈りまた、お委ねしましょう。(く) 

 

2003/4/6

(「日岡だより」第66号)

確信をもたらす「回心」   

 先週の本紙では、見開きにキリスト新聞の囲み記事や社説を転載した。戦争と平和の問題については、さすがに賀川先生創立の新聞だけあって、立場が鮮明である。とは言え、2月第一週の記事で米国首都での教会会議報道の見出しに「戦争は貧しき者たちへの敵である」とある。私は失笑した。間違いではないが、底が浅い。

 同じキリスト新聞の4月5日号の第一面の見出しに、アジアキリスト教協議会の決議で「戦争は人道への罪」とある。失笑とは言わないまでも、残念な気がした。

 戦争は「貧しき者たちへの敵」や「人道への罪」どころではない。神への敵である。「キリスト新聞、しっかりせえ」と言いたかった。

 でも、創刊以来50(?)年、「平和憲法を護れ、再軍備絶対反対」と叫び続けている同紙を褒めてあげたい。

 「平和憲法はアメリカの押しつけである。当時の腰抜け代議士どもが、『しゃあない。どうせ敗戦国じゃないか。マッカーサーの言うとおりになっておこう』とやけくそ決議した結果だ、情けない」、という声を聞きます。

 しかし、また一部の人たちの間に、こんな噂もあります。あの憲法草案に第九条の平和箇条を入れたのは、当時の首相幣原喜重郎である。

 この試案を昭和天皇に見せて、「これでいいんです。こうしておけばどこの誰も文句言えません」と言ったという。この草案をマッカーサーに見せた時、マッカーサーは非常に驚き、また感激して涙を流したというのである。

 私はこの話を何かで読んだのだが、その載っていた本だか、雑誌だか。その名を忘れている。本当は私にも真偽のほどは分からないが本当なら幣原は凄いと思う。

            *

 ともあれ、この平和憲法の悪いのはあの前文です。「我らは諸国民の公正と信義に信頼して安全と生存を保持しよう(つまり軍備はいらない)」と言います。(阿呆な……!)

 私の言う非戦主義は、それとは違う。「我らは正義の神、全智全能の神の御護りを信じて、非武装を絶対に貫く」のである。

 一般の信者さんたちには信じられないことでしょう。

 奇蹟をもって私たちを護り給う全能の神を信じるならば、こうした信仰は分かる。真に回心したクリスチャンでなければ、ここまでは信じられない。第二次大戦でナチスに抵抗したハレスビーや、彼の指導者であったハウゲを見ると、そのような強い確実な信仰があるのを感じる。

 別紙に、そのハウゲという人の純粋な福音信仰の記事をのせた。彼は会堂を持たず、「家の教会」式伝道をした。彼は明確な回心をしていた。その影響を受けたハレスビーもそうだった。単に、異教を捨ててキリスト教の信仰を受け入れることを回心と呼ぶこともあるが、ここでは特別な厳然たる霊的体験を回心と呼ぶのである。

 私がはじめて、そういう型の回心を知ったのは、戦前、内村鑑三によって導かれた石原兵永という人の「回心記」によってであった。

 石原さんは当時(大正の中期?)、中学校の英語の教師あった。今で言えば、高等学校だが、その中学校は英語の研究室などを構えていたらしい。たとえば結構ぜいたくなミッション・スクールだっただろうか。そういう英語研究室で、彼は苦しみつつ聖書をこっそり読んだという。

 石原さんは金持ちでなかったが、経済的に問題はなかった。体も人並に健康であったし、別に恋愛もせず、失恋もしなかった。

 しかし、彼は苦しんでいた。その苦悩は、内村鑑三がかつて有島武郎の自殺に関して言ったような「有島は宇宙的悲哀によって死んだのだ」という、そういう苦悩であった。

 「生きていること自体が罪である」。これは私の親友A君が弱冠19歳で自死した原因である。私は彼の自死によって背骨をどやされた幼児のように飛び上がって人生の確かさを求め始めた。「宇宙的悲哀」の一端に触れたのである。

 これをもっと神学的に言うと「神の前における罪責感」である。これから逃れる道はキリストの死と血によるあがないの力しにかない。これをガツンと心魂に徹して悟らされるには、聖霊による照明しかない。これは俗語で言えば神業である。

           *

 これを得るには残念ながら自力が効かない。それかと言って、「求めよ、与えられん」、求めないわけにはいかない。ここは自力が尽きて神の恩寵が働きかけてくる切点である。

 禅語ではいう。「父子不伝」、塚本虎二さんが言った「親知らず子知らず」の難所である。これを通過しないと「救い」は分からない。また、禅語で「千聖不伝」と言う。千人の聖人が居ても教えてやることは出来ない、ということだ。

 ある一瞬、聖霊が働いてくださる時がくる。まさしく「神のなさることは彼の時にかなって美しい」(伝道3:11)。この恵みにあずかる人は幸いである。私はこれを22歳の晩秋、刑務所の独房の中で体験した。

 これを「回心」という。もちろん、一般でいう「悔い改めてキリスト教に入信する」ことを「回心」ということもある。しかし、内村鑑三が言い、石原兵永が求めたのは、その前者である。これが無くても、クリスチャンである人は沢山いる。

 しかし、その人がこれと似た聖霊体験をすると、それはジョン・ウェスレーが経験したあの「聖潔」体験になるのである。(く)

 

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