キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報とともに毎週発行する「日岡だより」)2003年6月
2003/6/29
(「日岡だより」第78号)
幸福に生きる秘訣
「幸福に生きる秘訣」は簡単である。自分で「私は幸福である」と思い切ればよいのである。「そんなことは私にはできません」と言う人は多かろうと思う。しかし、戦前「幸福論」を書いて有名だったアランは、確か、こう言った。
「幸福とは感情の問題ではなく、意志の問題である」。しかり、繰り返すが、「私は幸福である」と思い切ればよいのである。
幸福は追い求めているだけでは、やって来ない。これも戦前、女学生諸君が愛誦した詩であるが、カール・ブッセの作。
山のあなたの空遠く
「幸い」住むと人の言う
ああ、われ人と尋(と)めゆきて
涙さしぐみ、かえり来ぬ
山のあなたになお遠く
「幸い」住むと人の言うせっかくの上田敏の名訳だが、用語を少しく戦後風に変えた。ああ、如何に多くの人々が、この詩のように「幸い」を求めて、これを自分のものに出来ず、涙さしぐみ帰ってきたことであろうか。
私も青年時代、人生は悲哀であると思っていた。真実に生きる人は、この不誠実な世界に生きて、悲哀ならざるを得ない、と思っていた。その頃、デンマークの哲学者キェルケゴールの本を読んだ。扉に彼の写真があった。うつむいて、手を外套のふところに入れて歩いている、そこに悲哀の人を私は見た。笑止なことであるが、その頃の私はキェルケゴールを真似て、うつむいて歩いたものだ。
*
多くの人はイエス・キリストも悲哀の人であると思っている。しばしばキリストを描いた絵は十字架上で、うらめしげに天を見上げている。と言うのは言い過ぎかもしれないが、とにかく優しい憐れみに満ちたお顔なら、それは多い。しかし、「ワッハッハ」と哄笑している絵はない。本当のイエス様は筋肉たくましく、行動は敏捷で活発、声は朗々として、幸福そのものであったに相違ないと思う。
聖書の中でイエス様が笑ったという記事は1ヶ所もない。これには高砂教会の手束先生も不審に思ったことがあるという。そして「ハッ」と気がついた。イエス様はいつも笑っておられたからこそ、それが日常的で当たり前のことであった。聖書記者はそれを書くことを忘れてしまったのであると。
聖書にこんな記事がある。72人の弟子たちが伝道旅行を終わって、その成功した伝道の結果を報告をした。その時、イエス様は聖霊によって喜びあふれて、父なる神様を賛美している(ルカ10:21)。
その「喜びあふれる」という言葉が、原語では「アガリオー」「狂喜する、喜び踊る」という意味である。ここでイエス様が狂喜乱舞するお姿を想像するのは、決して不謹慎ではあるまいと私は思う。
〔註〕ここでちょっと聖書研究的に註をはさむと、「聖霊によって」とある個所は写本によって、「エン(中に)」という前置詞を使っている場合と、「聖霊」という言葉を「与格」にしてある場合がある。「与格」は英語で言えば、 to もしくは for の前置詞をつけて読むところです。考えさせられる前置詞です。
この「アガリオー」という言葉が、マタイ5:12では、イエス様の言葉として、イエス様のゆえに人々からののしられ、迫害される時に、あなたがたは「喜び、よろこべ」と仰せられている時に使われているお言葉である。
*
私は最近、「アシュレー」というヘブル語を覚えました。これは埼玉の瀬木久子先生から学んだのです。先生とは一昨年の高砂アシュラム以来仲良くなって以来のメール交換です。先生からの受信で、いつも冒頭の挨拶に「ハレルヤ、アシュレー」と書いて来られる。この「アシュレー」とはどういう意味ですか、と私は恥かしげもなく先生に質問したものです。すぐに先生からご返事が返ってきた。こうです。
「アシュレーという言葉は、たとえば詩篇第1篇1節の冒頭に出てきます。そのヘブライ語は『幸せだ、その人は』という感嘆の叫び声です。『幸せ(アシュレー)』というヘブライ語は、複数になっているそうで、ですからこの幸せは、『もろもろの幸せ』という意味になります。最初の一言で『さいわいだぁ』と溢れるばかりの感動を述べているのだというのです。
主イエス・キリストが『山上の垂訓』の冒頭で『さいわいなるかな、こころの貧しき者』とおっしゃいます。実に『さいわいなるかな(マカリオイ)』と9回も叫ばれたのです。それと同様に『アシュレー(さいわいだぁ)』も、声をあげて信仰の友と喜び合える素晴らしいキリスト者の挨拶言葉だと思うのです。
聖書の新共同訳も新改訳も『心の貧しい人は幸いである』式に『幸い』が説明のように後にくっついていますが、何か間が抜けているような感じです。『しあわせだぁ、さいわいだぁ』とアシュレーの叫びを最初に持って来ますと、自然に天の主に向かって欣喜雀躍する心が如実に表わされているようではありませんか。
新改訳の詩篇1:1では『いかにさいわいなことか……』と訳されていますから、このアシュレーの喜びがあふれていて、私はうれしくなって主を褒め称えるのです。」
以上、瀬木先生の説明ですが、なるほど詩篇1:1にしても、山上の説教のイエス様の第一声(マタイ5:5)にしても、「幸いなるかな」は原文では、その冒頭にきます。現代文に直せば、「幸いだよう!」という呼び声、あるいはシュプレヒコール、また宣言であるのです。
この言葉をあなたの声で、あなたの耳に言い聞かせてごらんなさい。その言葉が「種」となって、あなたの心の畑に降ります。その時、イエス様のマタイ13章の喩えで言うなら、あなたの心を道ばたや石地やいばら地ではなく、あなたの心を良い地にしましょう。すると、その「幸いだよう!」という言葉が多くの実を結ぶでしょう。だから、
もっと多くの種を撒きましょう。もっと多くの実を結びます。「幸いだよう!」と、なんべんも、それこそ斎藤一人さんではないが、千回も言ってみたらどうです。あなたは本当に「幸いな人」になるのです。
*
そこで、言います。もう一度、最初の文章にもどって下さい。アランは言いましたね。「幸福とは感情の問題ではなく、意志の問題である」と。そこで、お奨めする。
まず聖書を手にしてください。聖書は幸福を約束する本です。イエス様の教えは「福音」です。福音とは「幸福の音ずれ」です。「幸福の訪れ」です。「幸いだよう!」という言葉を聞くだけで、ゾクゾクするような幸福がやってくるのです。
さあ、この音ずれに耳を傾けましょう。そして私は幸福になるんだ、と意志を決めてください。幸福になってやるんだと腹をきめるんです。そして幸福そうな顔をしてください。幸福人らしくはりきって歩いてください。何時も笑ってください。神様の偉大な約束です、「あなたは幸福人間なのです。」<く>
〔あとがき〕
先週の平野耕一先生による「ヤベツの祈り聖会」は、非常に恵まれました。さほど「ヤベツの祈り」にこだわらないメッセージ、今の私どもの教会に最も適切なメッセージや歓談の時を持ってくださいました。メッセージの梗概も、後日、この「日岡だより」に載せたいと思っていますが、お待ちください。テープのお申込みを受け付けます。
2003/6/22
(「日岡だより」第77号)
日本よ、変貌せよ
〔心機一転〕 この月は、1日が主日でしたから、月の初めから礼拝を持つことができる幸いな月でした。その第一聖日の朝、早天祈祷会で心にひらめくものがありました、「夕拝と読書会を始めなさい」と。私にはどうもこれは主から示されたことだと思えてなりませんでした。
そこで、この日の礼拝に出席した諸兄姉はご存じのように、その日から夕拝や、また火曜日の読書会を始めたのです。このことは3月の執事会で、来年度から始めようと決められていたことですが、しかし、私は4月になり、新年度になっても、どうも夕拝も読書会も始める意気込みが起りません。ぐずぐずして何もしないまま、日をすごしてきました。
それが前記のように、6月1日の早天で心にひらめくものがあり、そのように迫りくる力を私は感じて、いきなりその日の夕拝から始めることにしたのですが、信徒のみなさんに唐突すぎて申し訳ないと思いました。しかし、私としてはやめることができなかったのです。
以上のいきさつを、その礼拝の当日に出席していなかった兄姉がたにあてて、翌日、小さい手紙を書いたものです。突然、各集会を始める、そのお詫びの気持ちもあります。その時の見出しに「心機一転」と書いたのでしたが、私の当時の心境を表現したつもりでありました。
*
〔日本よ、変貌せよ〕 先々週の金曜日、6月13日の夜でした。橋本先生のカルバリチャーチの特別集会に行きました。それは、ルーマニアに宣教師として行っている川井勝太郎先生の報告会でありました。実は失礼ながら、私はあまり期待していませんでした。橋本先生へのお義理のような気持ちも無いとは言えません。
川井先生は35歳の若さです。先生は若さに似ず、しっかりやっているのに驚きました、と書けば、却って月並みの文章になります。いいえ、先生は自分のことはほとんど何も話しませんでした。ただルーマニアのリバイバルについて語りました。
名前は忘れましたが、共産主義時代にも信仰を守り、迫害を受けつつ、そのような時にも大胆に来たるべきリバイバルを信じて語りつづけてきたルーマニアの先輩先生がたのことを語ってくれました。
そして、その先生がたが大きく用いられて、今ものすごいバイバルがルーマニア全土に起っているということ。これを聞いて私は本当に驚き、また興奮しました。
特にルーマニアは貧しいですから、若い人たちは近隣の外国に出稼ぎにゆきます。たとえば、イタリアやスイスなどに。その行った先々でクリスチャンの若者たちが、集まり、伝道し、集会所を地元の教会から借りて、そして講師に川井先生などを招いたりする。
地元の教会は、「あれよ、あれよ」とビックリするほど、それら既存の教会の教勢をはるかに越えて人々が集まる。歌声がカリスマ風に威勢がいい。地元のクリスチャンを圧倒する。と言ったような、証しをいくつも聞いたのです。
よく分かりませんが、どうもこれまでのアルゼンチンやトロントやペンサコーラとは様子が違うように感じる。
それはともあれ、私は日本のことを思いました。「日本よ、日本民族よ、リバイバルにより、変貌せよ」、と、心に叫ばずにはいられませんでした。ルーマニアのことはよく分からないままに、祈りました、「このルーマニア型のリバイバルよ、日本に起れ」と。
私は今回の「ヤベツの祈り聖会」のために、ずっと祈ってきました。特に「イスラエルの神よ、私を大いに祝福してください。私の地境を広げてください」というヤベツの祈りの前半の祈りに意識が集中していました。ところが、その日から、あらためて「あなたの御手が私と共にありますように」と第3の祈りを祈らざるを得なくなりました。つまり聖霊様の傾注を祈る祈りです。今回の「ヤベツの祈り聖会」を機として、私たちの教会に新しいリバイバルが起りますように、祈りましょう。
*
〔永井先生から〕 みなさんに、はがきが来ていると思います。こんな文面でした。
「今朝、私は新薬の小引き出しから、3包みの良薬を取り出しました。この薬は副作用がありません。それどころか、霊、心、体をリフレッシュし、活気を満たします。
それは「いつも喜んでいなさい。」「絶えず祈りなさい。」「すべての事に感謝しなさい。」の3包みです(第一テサロニケ5:16〜18)。
毎朝、洗顔されたら、鏡に映っているあなたに向かって応答してください。
「いつも喜びます。」「絶えず祈ります。」「すべての事に感謝します。」最低10回、そして3ヶ月間続けて下さい。最後に釘宮流「ワハハハッ」と呵々大笑いすると、もっと効果が得られるでしょうね。とあります。
私は翌朝、顔を洗った時、思わず叫んだことです。「いつも喜びます。」「絶えず祈ります。」「すべての事に感謝します。」
不思議に気分が良くなるのに驚きます。私はこうした「告白」のことは、よく知っていたはずです。それでも、永井先生から以上のような、お勧めがないと、この洗顔の時のような「告白」はしなかったでしょうね。
こうした「告白」の価値を「僕は知っている、知っている」、と分かったつもりで、実践しなかったから、何も起りません。この小さなことについて素直に実践することが大事なのです。
誇るわけではないですが、私もこの時の素直な実践がよかったと思っています。もっとも、この時は、私がすなおだと言うよりも、永井先生のはがきに打ったワープロのお奨めの言葉に力があって、なんとなく翌朝の私の潜在意識に快く働きかけてくれていたようにも思います。
さて、こういう時の「告白」ですが、これは今では私の十八番のようになっています。でも私は長い間この真理については理解不足でした。実はこのすばらしさは永井先生に習ったのです。あとで、これはT・L・オズボーンが源だったこと、又、その前にも先達者が多くいたらしいことを永井先生に教えて頂きましたが、とにかくこれは、日々の生活の中で信仰の力を発揮するために必須であることを後に悟りました。
私はこの秘訣を聖書的には大阪国際福音の西原先生から申命記30章14節をとおして学んでいたのですが、その活用法については永井先生に教えてもらいました。先年、「恵みの雨」誌上に「告白の力」と題して連載しましたが、その恩恵はみな永井先生にあります。
ところで、最近、斎藤一人さんという方の本、「千回の法則」を皆さんにお奨めしました。この方も言っていますが、日本人は昔から「言霊(ことだま)」と言っている、言葉には力があるんですと、言うのです。ただ悪人がこれを使えば、悪い人間が更に強い強い悪人になります。ヒットラーやスターリンなどは、自分で知らずして、この自己強化法を使っていたと思います。多分、ナポレオンや毛沢東もそうです。
しかし、聖書の言葉は神の言葉です。この言葉はイエス様ご自身の力を持っています。聖書の言葉をあなたの「自己宣言」に使ってください。あなたは「聖書の人」になるのです。
2003/6/15
(「日岡だより」第76号)
世の終わりが近い
本日の礼拝説教題は、最初「世の終わりは来る」だったと思う。しかし、これは拙いなと思って、「世の終わりが来る」に替えたのだった。どこが違うか、注意して見てください。この題は奥山実先生が書かれた本と全く同じ題です。(ちなみに 奥山先生の「世の終わりが来る」は名著ですし、分かりやすい。マルコーシュ・パブリケーション発行1700円、読んでください)。
その後、相良姉から、「教会の前に立てる看板に書きます。説教題を教えてください」、と言われて、私はその時、「『世の終わりが来る』です」と答えたはずだった。
ところが、同姉が大きな用紙に書いてきたのを見ると(彼女は太い文字がうまい)、「世の終わりが近い」とある。私は心に「ウン?」といぶかったが、「なるほど、このほうがよい」。私が初めから、そう言い誤っていたのか、彼女がうっかり書き違えたのか分からない。ともかく「世の終わりが近い」、このほうが良いと安心したことです。
最初、私の考えでは「世の終わりは来る」であった。それが「世の終わりが来る」に変わった、そして遂に「世の終わりが近い」にきまった。これは良い。私はいささか興奮した。
ノストトラダムスの1999年予言や、その先年の韓国の少年の再臨預言など、世間でもちょっと騒がれたことは記憶に新しい。こうして騒がれては消えて行く人の噂に、この重大なテーマも似ている面がある。だから教会の講壇で語るにはよほど考えねばいけないと、牧師の私も今日の説教は少々慎重です。
*
かつて大正の頃だったか、「再臨運動」がキリスト教界で活発だった。今にも、キリストのご再臨がある、と言う雰囲気であった。ある人々はキリストは富士山頂に再臨なさるに違いないと言って、全財産を投げ捨てて富士山に登ったとかいう評判を聞いた。これは反対派のデマだったかもしれないが、とにかく落ち着かない、騒々しい信者もいたのである。
こうしたことで、「再臨」とか「世の終わり」とかいう言葉に、今もアレルギーを起す古い信者さんたちが、昔「再臨運動」で華々しかった教会ほど、多く居るのである。
初代教会でも、そうだったらしい。パウロがテサロニケの教会にあてて書いた手紙に、「主の(再臨の)日がすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。……聞くところによると、あなたがたのうちのある者は怠惰な生活を送り、ただいたずらに動きまわっているとのことである。……あなたがたは、静かに働いて自分で得たパンを食べるように」などと、なかなか常識的な勧告です。現代にも通じます。
ところで、「世の終わりが近い」という不安や焦燥は、現代では世間一般にも反映しているように思える。クリスチャンでなくても、「ひょっとしたら、世界の終わりは近いのではないか」と心配する人たちは、一般の人々の中にもかなり居るのではないか。環境問題に関心を持つ真面目な人々など。
こうした中で一番気遣われるのは原子力発電の「核」であろう。この問題では奥山先生の「世の終わりが来る」を読んでください。非常に参考になります。奥山先生も書いているが、こういう時に新聞やテレビのウサンくさい報道にだまされないことです。奥山先生がよく調べて書いてありますよ(この点、あとがきで…)。
原子力発電は一番身近な「核」です。大分県では松下竜一さんが、辛抱強くこの運動をやっている。尊敬します。
「核」が最も極大に世界崩壊へと影響するのは、「核戦争」でしょう。かつての石原莞爾の予言、「軍事技術の究極的進歩により世界最終戦争が起る」という警告が真近に迫ってきたという感じである。
昔、子どもたちが遊んだものだ。鉄道のレールに耳をあてると機関車の近づくのが分かる。同じように、今、耳をさとくすると「世の終わりが近い」と感じるのである。
*
さて、ここで私は語調を変えたい。私は単なる世紀末を語って、皆さんを一種異様な恐怖感に落とし入れようとするのではない。私は子どものころ、伯父たちが話し合っていた「再臨」問題を聞いていて、今にも自分の座っている場所や周囲の景観が一挙に壊滅するのかと思って震えが止まらなかったことを思いだすのだが。
私は今、私たち一人一人の「わが世の終わり」について考えたい。「私」という人間に対して周囲から、この世の影響が空気のように包みこみ、光のように注ぎこみ、そして私を世の人にしてしまう。私の肉体がこの世のものであるように、私の思いもこの世にスッポリのめりこみ、あるいはこの世に染みこんでしまって、この世から離れられない。
こうした私を取り巻き、私をとりこにしている「この世」が終わりを告げる時がきているのではないか、と私は思うのである。
聖書的に言えば万物は神のものである。またイエス様のものです(ヨハネ13:3参照)。しかし、今や世のすべては皆、サタンによって簒奪(さんだつ・奪い取られる)されているように見える。サタンはイエス様に言った、「この世界の国々の権威と栄華とは、みんな私に任されています。だれでも好きな人に、これをあげてよいのです」(ルカ4:5、6参照)。サタンは生まれながらのウソつきです(ヨハネ8:44参照)。「これらはみな私のものだ」と言う。
パウロはサタンを「空中に権を持つ君」(エペソ2:2)と言っているが、この空中という言葉は古代ギリシャ語では高い空ではなくて、人の棲む低い空気の世界です。サタンはこの低い空気世界を縄張として、獅子のように獲物を捜して徘徊しているのです(第一ペテロ5:8参照)。
このサタンの支配する世界が諸兄姉よ、あなたがたから追放し、あなたがたに本来与えられている神の王国を奪還せよと言いたい。
これがあなたにとっての「世の終わり」です。サタンから簒奪された世界を奪い返す、それがあなたの「世の終わり」です。
つまり、私の申し上げたいことは、事実としてのこの地球の「世の終わり」は、まさしく近い。しかし、問題はその前に、あなたがこの世を主にあって追い出し、あなたの世界をまったく神様のものとすることです。イエス・キリストをあなたの心の中にお迎えしなさい。聖霊に満たされなさい。聖霊の充満するところ、そこに神の王国があるのです。
〔あとがき〕○…「ウサンくさい新聞記事やテレビ」ということについて。こういう点は却って、暴露記事をよく書く、低俗な週刊雑誌のほうが大胆に本当のこと書くものです。もちろんいい加減な記事も多いのだが。良識的なマスコミは世間に無用(?)な心配をさせないためだろう、不安な記事を引っ込める。大分で言うと、地元の新聞は新日鉄工場が周辺にまき散らす粉塵のことを書かない。工場周辺の奥さんがたが洗濯物が毎日粉塵で汚れて怨嗟する、そのことを書かない。書くのは「赤旗」だけである。新聞は真実を書くのだそうだが、書くべき真実を書かないことがあるのである。
○…「現代の不安」について。第二次大戦後、実存主義哲学が現れて、「人生は不安で不条理だ」と言った。しかし、現代はあのとき以上に、物理的にも不安と恐怖が地球にあらわだ。不条理の死が最近は日常的になった、更に不条理の戦争や戦闘が各国、各民族を襲う。戦争の噂と新型肺炎の噂が世界を覆うのである。不安がグローバルに広がる。
○… 今の時にこそ、リバイバル! さる13日夜、カルバリ・チャーチでルーマニア宣教師の川井勝太郎先生による聖会。ルーマニアのすばらしいリバイバルのことを聞いて感動。本日の「世の終わりが近い」の説教も、川井先生から多大に影響を受けて、だいぶ最初の準備とは変わりました、呵々。<く>
2003/6/8
(「日岡だより」第75号)
今は聖霊の時代
今は聖霊の時代です。と、言うよりペンテコステの時代です。今日はペンテコステ記念礼拝と言ってもよいのですが「記念」という言葉を外しました。「ペンテコステは今日だけじゃないぞ」という気分からです。あの120人の弟子たちが最初の聖霊の降臨を受けて以来、教会はずーっとペンテコステの時代に居るのです。
各時代を瞥見してみましょう。まずイエス様以前の時代です、年号で言えばBC。BCの時代は無律法と律法の時代に分かれますが、いずれも父なる神様の憐れみによって、世界は支えられてきました。もっともヘブル人と、ヘブル以外の異邦人たちとは、やや違いますが。
ヘブル人たちは厳しく叱られるにせよ、加護されるにせよ、近くに寄って見守ってくださる神様でした。その点、異邦人にとっては、2階の窓から運動場の園児たちを見守ってくれる保母さんのように、神様は居るか居ないか、彼らには、はっきりしなかったかもしれません。
そこで、木や金の神様を作って拝むことになります。それでも、時には孔子さんやソクラテスさんのような賢人が出て、正しい道を教えてくれます。また仏教やイスラム教のような高度な宗教もできます。このことは亦、別の時に書きます。
イエス様以後がADの時代ですね。(ADはラテン語 Anno Domini で、キリスト以後の意味。前出のBCは英語 before Christ でキリスト以前の意味です)。
ADの時代はイエス・キリスト様が地上に居られた時代です。わずか3年半ほどですが、それと、以後2千年つづく現在までの時代とに分かれます。ですから、第一世代が父なる神の時代、第二世代が御子キリストの時代、第三世代は聖霊の時代です。今はまさに聖霊の時代です。その聖霊の時代の幕開けを、はっきり示したのが、ペンテコステの事件でした。
今日6月8日は、そのペンテコステの日の記念日です。イエス様が天に帰られ、お約束のとおりに当時ユダヤ教でペンテコステの祭日と呼ばれた日、エルサレムのたぶんマルコの家の2階座敷に集まって祈っていた、120人ほどの弟子たちの上に聖霊が下ったのです。
それ以後、クリスチャンの群に聖霊様が顕著に下り始めたのです。この日から今日に至るまで、聖霊の時代は続いているのです。
*
あの最初の聖霊降臨の日より、教会が始まったという言い方もありますが、それは正しいのですが、あの日にローマ・カトリック教会のような大伽藍教会が起ったような感じがするので、やや誤解されやすいのですね。
最初の教会は会堂もなければ、牧師も、長老も、執事も、賛美リーダーも居ない。規則や組織もない。言わば、烏合の衆のような信者ばかりでした。
しかし、イエス様に直接従っていた弟子たち、つまりペテロやヨハネ、ヤコブたちが、最初の指導者であったのは間違いない(後に使徒と呼ばれるようになりましたが)ことです。
そして、後になると、いわゆる使徒としては破格の出しゃばり者(と言ってはヘンですが)パウロが異邦の各地で伝道しました。短期間で教会の基礎を作っては、現地を離れることが多かったのです。そうした時、責任者として長老を立ててしっかり教会を守らせたようとしたのでした。パウロは有能な組織者でありました。
教会は、その最初から迫害に遭いました。しかし、教会はそれに負けなかった。当初から平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ、聖霊に励まされて歩み。次第に信徒の数を増して行った、と使徒行伝9:31にもあるのです。
ただ、まだ家の教会でした。つまり会堂などなかった。信者の家で礼拝もし、他の集会も守ったのでした(ローマ16:5参照)。
*
本年度の第一目標に「まことの礼拝の確立」を上げました。イエス様はかつて、スカルの井戸のほとりで仰せられました、「今こそ霊と真をもって父を礼拝する時がきた」と。
聖霊によって導かれる礼拝。それは、時には秩序正しく(第二コリント14:26以下参照)、行われ、また時には爆発的(使徒2:13参照)に行われるでしょうが、そのいずれも重んじたいものです。
その要点は聖霊です。私たちは真実心をもって、聖霊に満たされて、主を仰ぎ、まことの礼拝を守りたいのであります。<く>
今は不安の時代
生後、何か月くらいか、這い這いを覚えた赤ちゃんと、這い這いの出来ない赤ちゃんとの脳の働きをしらべると、その差が見受けられるそうです。たとえば縁(えん)やベンチの端に来て下を見おろした際、這い這いのできる赤ちゃんは恐れか不安を感じるらしく、歩みを止めて後ずさりさえする子もいるのに、這い這いのできない赤ちゃんは、そのまま這い這いして先に行こうとしてお母さんを心配させるのだそうです。
進化論的に言えば、人間は早い時期より、地形や天候や動物たちの変化、様相に恐れ、不安をいだいて用心した結果、生き残ってきた、という面もあるでしょう。ただ強い者だけが残ったという単純なものではない。
人間の脳にはそうした不安を感じて、用心をする記憶遺伝がちゃんとある。だから、すべて恐れや不安が悪いとは言えないのです。道の十字路に立って左右前方の自動車類に注意して渡ることは当然です。無闇に大胆にわたって車に跳ねられたというのでは自慢にならない。単純な「積極・大胆・前向き思考」が善なのではない、ということです。
イエス様も不安という感情を知っておられたかと思う。イエス様がゲッセマネにおいて「悩みはじめられた」という聖書の表現には些か、それを感じます。実存主義者ならずとも、人生も時代も不安を底に隠していることは、ちょっとでも物を考える人には理解できる。あの這い這いできる赤ちゃんが崖(がけ)の怖さを認知するように。
*
昭和初年、賀川豊彦先生の「禁酒の歌」というのがあって母によく歌わされたものです。「ああ、玉杯に花うけて」の節で歌うのですが、私の覚えているのはたった一句、「ローマは滅び、バビロンも……滅びゆき」というような歌詞です。
私はまだ小学校を出たばかりの少年でしたが、国家や民族が滅びゆく運命を持っているのだという不安を感じたものです。ギボンの「ローマ帝国衰亡史」は有名ですが、如何なる国も文明も衰亡、もしくは衰退は避けられないのでしょうか。
イギリスは一時は地球上に、ユニオンジャックの旗、つまりの英国の国旗のひるがえらない所はないというほどに繁栄しました。今のアメリカなど以上に世界を圧倒する強さだったと思います。しかしこの繁栄は百年で消えてゆきました。チャーチルは対独戦争には勝ったけれども、大英帝国を支えることは出来ませんでした。しかし、イギリスは衰退した国家と民族が曲がりなりにも回復できるという珍しい先例を作ってくれました。鉄の女サッチャーさんのおかげです。
近代の特徴はこうした歴史の起伏の波の幅が短くなったということだと、ある学者は言います。歴史はある意味でくりかえします。人間や社会の心理の傾向は変わらないからです。ただし文明の進歩(?)により変換速度が速くなるのですね。ローマの最盛期を五百年としましょうか、イギリスは百年でした。アメリカは今経過中です。日本は……?
日本はバブルで世界最盛の経済を一時誇ったですが、今やすでに衰退期に向かって急いでいるのではないかという人がいる。しかし、イギリスに習って再生期を迎えるよう努力すべきだ。一度落ち込んで、また回復する、この型が、近代的先進国のモデルである、と言うのです。それはともかく、
今や全世界が破滅期に来ているのではないか、と思えるふしがあります。実は埼玉の瀬木先生から教えられて、去る5月29日の夜のテレビで「聖書〜秘められた暗号〜」という番組を見ました。一週間して延岡から甲斐兄が来て「聖書の暗号2」という本を貸してくれました。先日のテレビに登場していたマイクル・ドロズニンさんが書いた本です。思わず、読んでしまいました。なんと「世界の終わりが間もなく来る」というメッセージ、まさに今や、聖書的よき不安の時代なのか。
聖書の暗号を解くと、イスラエルのラビン首相の暗殺や日本の阪神大震災や、あのアメリカの同時テロなども出てきたと言う。黙殺はできません。信仰をもって聞くべきです。<く>
2003/6/1
(「日岡だより」第74号)
信仰生活の勘どころ、コツ
田中信生先生の「子育ての勘どころ」のテープは、よく知られています。田中信生先生の名品です。この「勘どころ」というネーミングがよかったですね。そう言えば最近では、手束正昭先生の「教会成長の勘どころ」です。
「勘どころ」と言う言葉の語源は、三味線などの音のポジションをさす言葉でしょうか。肝心なことは、その「カン」です。私が初めてヴァイオリンの練習を始めた時、その弦のポジションを正確に抑えるのは神業に思えました。私は、いっぺんにあきらめて、鍵盤楽器に転向しました。鍵盤楽器なら誰でもCをおさえれば、Cの音が出ますから。
三味線は特に覚えるのがむつかしいそうです。カンがにぶいといつまでで覚えられない。カンのいい子はすぐ覚えます。カンというものは自得するものであって、人に教わることができない。だが、なんとかその「場所」のあたりを教えることはできる。そこを「カンどころ」というわけです。
カンそのものでなく、カンどころを教えるのは、やや簡単である。灸のツボなどもそうだろうと思う。一人でツボを捜しあてた人は天才だったと思いますが、その天才なる人からツボの「場所」を教えて貰うのは、少しはやさしい。それでも不器用な人には、むつかしい筈です。私のように。
「子育ての勘」や、「教会成長の勘」は、それぞれ先輩の先生方が、みずから苦心し、努力の末、ハタと体得した勘なのでしょう。それを分かりやすく手を取って教えてくれる人(田中先生や手束先生のような)から、その「勘どころ」やツボを教えて貰えれば、ある程度は楽に覚えられる筈です。
私の若い時、ある牧師先生が「そうねえ、信仰を掴むということは、どこかカンみたいな所があるねえ」と言うのだった。それを聞いて私はヴァイオリンをあきらめた時のように、信仰というものが霧か霞を掴むようなものに思えた。私は信仰を知性や努力で掴もうとすることを全くあきらめたのです。
私は後になって、そのカンのような直感的悟りとも言うべき回心を得て信仰に入るのだが、それはまさしくクリスチャンたちがよく言うよう「ただ一方的恩寵によって」信仰を与えられたように思えた。この言い廻しは熱心に求道中の人たちを非常にあこがれさせ、また失望させるかとも思うのだが、また私のほうから言えば教えるのも、又非常に難しい。
*
私は戦時中、キリスト教が国民の間に非常に人気の悪い時だったが、私は信仰を飢え乾いて求めた。本当に真剣そのものだったし、長い苦悶と不安の時を過ごした。ある日、突然、聖霊の光によって信仰を掴んだのだった。そのゆえに、街角で気軽にアイスクリームでも買うように信仰に入る人を見ると、どうしてもその信仰を信用出来なかった。
たとえば、ビリーグラハムの伝道会や、4つの法則による伝道法などを見て、その伝道の成果を疑わしく思ったものです。ああして信仰に簡単に導かれた人たちは、すぐに信仰を無くしてしまうに違いないと思っていたのです。ところが案外そうでもない。なかなか善い強固な信者も出る事がわかって奇妙に思ったものです。
だいぶ前の事ですが、ある家を訪問した時。田舎のおばさんたちが「ねえ、ねえ、キリスト教て、どんなものか、教えて」と言うのだった。集団で興味半分に言い寄ってきた感じもしたが、また本気のようにも見えた。とにかく、面白い。一つ「4つの法則」でやってみようかと、例の冊子は持っていないので、覚えているマニュアルどおりに説明して、最後の決心の所に追い込んだら、全員が信仰の決心をした。その人たちは遠方の人たちだったので、私は慌ててどんぶりを借りてきて水を入れ、滴礼のバプテスマを授けたのである。
このことは私に非常な自信を与えた。これは私にとり「伝道の勘どころ」の把握であった。その頃、刈り取り伝道がはやった時代で、私はそれを受入れ、前記の「4つの法則」で得た自信を土台に、何人かのメンバーでチームを作らせて街頭に立たせて刈り取り伝道を実施した。皆さんも燃えて張りきってよく町に出て行った。E君など、その時の実である。
街頭に出て行って、トラクトを配るだけでも気が引ける人がある。そういう人たちには「告白の力」で自信をつけてやったものです。「告白の力」とは? 良い例があります。
鹿児島の佐多洋明先生の息子さんが小学校4年生ぐらいくらいの時だったか、魚が嫌い。匂うのも嫌いである。ある夕食の時、おかずが魚だった。息子さんはしぶっている。佐多先生が「おい、『魚はおいしい。魚はおいしい。魚はおいしい』と、何べんも口で言ってごらん」と、きつく命じた。息子さんは観念して、やけっぱちになって、息を呑みこんで叫んだ。「魚はおいしい。魚はおいしい。魚はおいしいッ」。何度も言っていたが、そのうち皿の魚にむしゃぶりついて、そして食べてしまったそうです。それ以来、魚が全然好きになってしまったという。これは「告白の力」の生活習慣改善への見事な適用例ですね。
(この佐多先生にはお2人のお子さんがいて、現役で東大に合格したのです。勉強は学校と自宅だけだったというので有名になりました、今、鹿児島県教育委員会から依嘱されて佐多先生は「子育て講習会」の講師をしています)。
最近、「あなたの悩みは一瞬に消える」という題名の本の広告があり、注文してみたら、佐多先生の場合と全く同じです。嫌なことがあったら、「この悩みは無くなる、この悩みは無くなる。大丈夫、大丈夫」、と声を出して言い続けなさい、とありました。まさに「告白の力」の世俗版です。こうしたことは、馬鹿にしないでやってみましょう。やってみる価値は十分にあります。愉快に実行できる方法です。こうして「悩みは一瞬に消える」ならば、嬉しいじゃないですか。
たとえば、気の小さい人が初めてトラクト配布に出て行こうとする。次のように口で言うのです。「私は今日、トラクトを50枚配布する。私は今日、トラクトを50枚配布する」と100回繰り返して言う。見事にトラクト配布を完了します。
実は最近、商売の名人、愉快な金儲け日本一の斎藤一人という人が、「良い言葉を千回言うと、良いことが起こるよ」と言うわけで「千回の法則」という本を出しました。やさしい、万事達成するコツというべきものです。
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以上、相当長い文章をだらだらと書いてきましたが、実は、信仰の成長、強化、拡大、深化について、お助けできる実技的なことを書きたかったのです。信仰の本質的なことに係わる重要事項を書こうとしたのではありません。軽視されやすい、うとんじられやすい、信仰生活上のちょっとした実技的アイデアと試みをお奨めしたかったのです。
たとえば、今、私が最も盛んに言っているのは、「笑いの効果」ですね。無理にでも笑おう。作り笑いでもよい。笑いましょう。笑うと心が明るくなるからです。これを利用して落ち込みやすい精神、緊張しやすい魂を柔らげ、信仰を保ち、信仰を活発にするために、この笑いの実行は非常に役立つのです。このことは数年来、言って来たことです。
さて、「笑う」ということは小さなことです。神学上の大問題ではありません。しかし、実際の生活上に信仰を運用するためには、非常に役立つ小技(こわざ)であります。これを私は「コツ」と呼ぼうとしているのです。
機械や生産現場でのちょっとしたテクニックの開発が産業界の重要な転換をもたらす事があります。日本の末端技術、経験工学と呼んでいる人もあるが、東京や大阪の場末の小企業の職人さんたちの技術が、世界の工業に革命を起している事実があるのです。ITの開発では一女性のアイデアが世界の社会変革をもたらしている事実もあるのです。太古の時代、最初に火を作る方法を発見した人は、人類の発達史上、最大の貢献をしたことに似ています。
実際の現場での祈りのコツというものが多々あります。私は信徒の方々を指導し、励ます時、祈りの実践上、彼らに役立つであろう、小さな実技をいろいろ提案します。ネヘミヤがアルタシャスタ王の不審そうな質問に答えた時ですが、その場で「天の神に祈った」と聖書にある。こういう、とっさの時、ネヘミヤはどういう心構えで、どういう姿勢で、どういう言葉で祈ったのであろうか。
とっさの時、自爆テロで自分の乗っている飛行機があわやという危険の時など、同様でしょう。たぶんまず自然に出てくる祈りは小さな叫びでしょうね。それを定式化すればカトリックでいう「射祷」ということでしょうね。短い言葉を瞬時に発するのです。(「レッツ・ロール」を参照)。
祈りの時、悪魔の誘惑や雑念に悩まされる事がある。私は「エイッ」と短刀で切り払うように手刀を振って悪魔を追い払う、児戯に類することのようですけれど、実際上たいへん役立ちます。これが「コツ」です。このような実践的奨めは信徒の方には大いに助けになると私は信じています。
これは大教理や、人生問題のかなめを語るのと違い、枝葉末節に見えます。しかし大切です。これが「勘どころ」です、「コツ」なのです。もっと重要視すべきことです。
戦後、日本にはいってきたノーマン・V・ピールの「積極神学」はアメリカのニューソートの焼き直しにすぎない。というわけで毛嫌いした方も多かったのですが、ノーマン・V・ピールを更に発展させて大胆な祝福神学を達成したのがチョウ・ヨンギ先生だったと思います。後発のロバート・シューラーに比べても、チョウ・ヨンギ先生のほうが手強いし、かつその救贖神学もより健全です。
シカゴの整形外科医のマックスウェル・マルツの「セルフイメージ」理論は、田中先生に採用されて日本キリスト教界のカウンセリングを豊かに成長させました。言わば、ちょっとした「勘どころ」ですが、そこから大変革が起こるのです。
経済学ではテクノロジー(新技術)の累積がイノベーション(新機軸)を生み出し、産業界に革命を起すことが指摘されている。キリスト教の世界でも、案外、こうした小技の新機軸が、リバイバルを引き起こす引き金になるかもしれない、と私は思っているのです。<く>
〔あとがき〕日本の詩歌のメロディーが国際的にも一部の音楽家に受け入れられて来ていることを最近聞きました。もっと耳をそば立てるニュースは、日本の鉄腕アトムとかキティと言ったようなキャラクターがアメリカの人たちに愛され始めているということです。▼また「千と千尋の神隠し」の受賞が決して特別な事例ではなく、日本のTVアニメが今、アメリカを席巻していると言うことが知らされて来ました。日本の文化がアメリカの一般家庭に滲出(?)し始めているという事態を、私はクリスチャンとして重要事項として把握したいのです。▼日本人の受容したキリストの福音をアメリカ、並びに白人国家に逆宣教する時代が来つつあるのではなかろうか。その思いを熱くするのです。▼かつて、新渡戸先生が「武士道」を書き、内村先生が「余は如何にして基督信徒なりし乎」を書いて、欧米人に感銘を与えた。また戦後には北森教授の「神の痛みの神学」が出て、深みのある日本人の福音理解を示し得た。更に又今後、日本から新しい波紋を世界の教会に発信する時代が来ることを期待したい。<く>
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