キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報とともに毎週発行する「日岡だより」)

2003年9月

2003/9/28

(「日岡だより」第91号)

欝(うつ)から抜け出すには    

 欝病という病気がある。人によっては欝病は病気ではないと言う。とにかく、医者にかかっても治りにくい病気である。

 最近、私の周辺に欝病の人が多くなった。気分が重い。いらいらする。不安、心配。人をねたみ、あるいは呪う、そういう自分を責める。自分の親や子どもさえ「死んでしまえ」思う。「いけない、いけない」、と思いつつ、又その思いをいだいている。そういう人たちが増えてきた感じがする。

 ある人は「電車で長いトンネルにはいったような気持ち」という。「いずれ出口が来ますよ、明るくなりますよ」と、医師は言ってくれるが、「いつになったら、この暗い気分が晴れるのか、分からない」。その不安で一杯なのである。

 どうしたら、この不安から解放されるか、エネルギーを全く喪失した感じ。人から「大丈夫だよ」と励まされると、かえってますます無力感に襲われる。そう言って励ましてくれる人がうとましい。その人に反感さえ覚える。

*    

 私は医者ではありません。又、カウンセリングの専門家でもありません。一介の牧師です。神学校を出ていません。しろうと牧師です。それでも少しづつ分かってきたことは、人間は言葉を持っている存在だということです。他の動物と、はなはだしく異なった特徴です。言葉が人間の自意識を作っているのだと分かってきました。

 私は若い時、聾学校の教員をしていました。耳の聞こえない子どもに、なぜむりやり言葉を教えるのか?「言葉が無ければ人間らしい思想を持つことが出来ない。正に人間失格になるのです」、そのことを聾学校の教員なりたての頃、先輩の教頭先生から教えられてびっくりしたものです。

 そんなことは考えた事もありませんでした。これは、後にキリスト教の伝道者になってから、つくづく良いことを教わったと思いました。聖書にもあります、「初めに言葉があった。この言葉は神と共にあった。この言葉は神であった」(ヨハネ1・1)。「この言葉が肉体となり、私たちの中に宿った」(ヨハネ1・14)。これはイエス様のことですけれども、私たち「人間そのものの意識や存在の不思議さ」を考えるときの良い参考になります。

*    

 聖書に従って、人間の存在様式を図式化すると、@中心に霊、Aそのまわりに精神あるいは心、魂。Bその又、周辺に感覚、肉体、この3つの同心円になります。日本語では霊と魂はほぼ同じもので、霊魂といっしょにしますが、聖書でははっきり区別します。霊は自分の霊であっても自分で判然としません。魂や心は自覚出来ますし、自分で自分を見ているところがあります。この自分で自分を見る能力が、自分自身が嫌になる傾向を作り、反対に自惚れや誇大妄想を作るとも言えます。

 自分で自分を見る力、これを私は意識の2重構造と呼びます。これは非常に大事な能力です。私はこれを20年ほど前に発見しました。聖書に「わが魂よ、主をほめよ」というような、これに類した言葉が詩篇に何度か出てきます。この言葉を見て、「私が私の魂に命令している」ことを発見したのです。

 そこで、私は自分が気落ちした時に「我が魂よ、明るくなれ」と命令することを体得したのです。それは偶然というか、ともかくその必要があって思わず試みたのでした。

 私がある難病の人から「すぐ来て下さい。苦しくて、たまりません」と電話がはいり、いつも無理を言って困らせる人でしたから、私もしぶしぶ出かけた時のことでした。

 私の心は憂鬱になっていました。私は今でもその場所を覚えていますが、ある菓子店の前でした、自分で自分の魂に単純に命令したのです。「私の魂よ、明るくなれ」。それは車の中でした。

 ここからが大切なのですが、私はその言葉を言い放して、忘れました。5分ほどゆくと、民放のOBSがありました。その前あたりで、車の前を小さな犬がヒョコヒョコと歩いて通りました。その犬の姿が、大変可笑しいという程のことではなかったのに、私は腹を抱えて笑ったのです。私は助手席にいましたが、そばの運転するN兄を困らせるほど、彼の肩をたたいて笑いました。いつの間にか私は暗い心から明るい心に変わっていたのです。この5分ほど無為に待っているのが、私の得意技になりました。

*    

 これは言葉の力です。催眠術でも言葉を使いますが、言葉は人の心に暗示を与えます。暗示は人の心に変化を与え、その心の変化は人の肉体にすら変化をあたえます。だから信仰による癒しなどを暗示や催眠術で解釈できるとして、得たり賢しと、万事を呑み込んだ気でいる人もいます。

 たしかに私が言葉をかけて、脚を伸ばしたり、後ろに倒したりしているのを見て、「あれは催眠術だよ」と批評している言葉を聞いて、ちょっと返事に困ったこともありましたが、私は言いました。「催眠術だとしてもいいじゃない?」。

 聖霊が働いて、そこに肉体的に変化が起こったとする、その生理現象を暗示現象として分析できるとしても、信仰治療家として、何も閉口しない。名説教を聞いて、信仰が湧き、人格的に大転換した人の実話がよくある。「それは催眠術だよ」と合理的に解釈なされても、本人は「そうではない」と反駁するでしょう。その合理主義者がいくら「でも、これは催眠術だ」と言いはっても、笑っておだやかに「違います。聖霊の働きです」と答えることでしょう。

*    

 言葉には力があります。聖書は言います。「御言葉には人の魂を救う力がある」(ヤコブ1・21下)と。神の言葉には神の力があり、人の言葉には人の力があり、悪魔の言葉には悪魔の力があるのです。同じ人の言葉でも、悪い言葉には悪い力があり、善い言葉には善い力があるのです。そのことを同じくヤコブの手紙の第3章2節から10節までを読むと、舌と口は如何にも人間の御しにくいものだ。しかし、馬を扱うには口にくつわをはめ、大きな船も小さなかじ一つで運転できる。同じように人の舌や口は小さなものだが、人間を善にも悪にもあやつる力がある、ということを書いてあります。

 あなたの言葉を正しく使いなさい。あなたは正しく人生を送ることが出来る。こう書くと、大変かたくるしい道徳訓を聞いたように思って顔をそむける人もあろう。しかし規制的道徳訓というより、もっと実用的提案なのです。

 今、あなたが「悲しい。不安だ。私の人生は暗い」と思えて仕方がない時、あなたは自分に向かってこう言いなさい、「あなたは神さまに愛されている。神さまはあなたを高価で尊い存在だと言われる。あなたには必ず嬉しくてたまらない時が来ます。あなたの人生は安心です。あなたの人生は真昼のように明るくなる」と。大きな声で言いなさい、1語、1語、区切って言うとよい。何度も、何度も叫ぶように言いなさい。100回も、1000回も、1万回でも、言いなさい。あなたは明るくなります。

 人の幸福を見て、「ねたましい。あの人を見ると、口惜しい」と思う。その言葉があなたの心をよぎる。そして「ああ、私は情けない人間だ、こんなに人をねたむ。私は悪い人間だ」と自分を責める。そういう思い、行き過ぎた自責の念は、サタンがあなたをだます言葉です。サタンは人の目に見えない存在ですが、そうした思いが私たちの心に影を落とす時、それはサタンの影だと悟りなさい。

 イエス様だってサタンの言葉を聞きました。サタンがあなたの心の泉に悪い思いのしずくを落とす時、そのしずくがあなたの心の表面に広がって、あなたの心全体に影を作り、あなたは自分を許せなくなる。特にすでにイエス様の血によって許されたクリスチャンほど、純粋な反省心で、そう思って苦しみやすいのです。

 あなたは自分にこう言いなさい、「いいえ、私は大丈夫、私はすでにイエス様によって神の子とされている。たとえ、悪い思いを一時持ったとしても、私はその過ちを主に告白します。神様は私を許してくれますし。私を2度と同じ悪意を抱かないように清めて下さいます」。この言葉を繰り返して口にしてください。はっきり言ってください。

 「悪魔よ、私はお前にだまされない。私はイエス様の血によって、かねてのアダムの罪は消されている。また先ほど犯した私の心の罪、口と舌の罪も、一切を許してくださる。それらは、一切無かったかのように認めてくださる。今後、同じ悪や罪を犯さないように神様は私の心を守って清めてくださるのだ」。これらの宣言はヨハネの第一の手紙1章9節がテキストです、この1章9節をなんども口にして声を出して読んで下さい。あなたは許され、清められます。

*    

 9月20日、旅に出立する直前、この文章を作りました、ほとんど推敲する時間も、校正する時間もありませんでした。ヘンな文章や、回りくどい文章や、誤った語句や聖句の引照もあるかと思いますが、一応、未完成な文章だとご理解しご寛恕ください。

 ともかく、欝の状態にある方の気の毒な電話を頂くと、どう答えてよいか分からず、困りきる事がありますが、大切なことは、次のことです。あなたが既にイエス様によって救われていることを断固として告白してください。

 19世紀、ドイツの田舎牧師ブルーム・ハルトは、教区内の狂いわめく娘ゴッド・リービンに困惑しました。家の中の家具が騒然と音を立てて荒れ動く、心霊学ではよく聞く霊現象まで起こりました。ブルーム・ハルトは娘に「キリストは勝利者」と叫ばせました。そしてついに可笑しいことに、悪霊までが「キリストは勝利者」と叫び、そして出て行ったのです。この田舎牧師ブルーム・ハルトに若き日の神学者カール・バルトは、しばしば訪れては学んだそうであります。井上良雄著「ブルーム・ハルト伝」参照。


〔あとがき〕
 9月20日、大分を発って、まず埼玉県の岩しみずクリスチャン・センターでのメル・ボンド師の聖会に参加しました。神癒伝道者の良い手本を見たように思いました。私は重要な学びをしたことを感謝します。中沢イサク先生、市川の野村姉にお会いできて感謝でした。途中、会場を抜け出して、八王子の野上夫妻を訪問。夫人の右手の肘の骨折のため祈りましたが、数日後、病院に行ってレントゲンを取ったら、その骨折はすっかり治っていたそうです、ハレルヤ!。▼秋川の赤坂家に一泊、翌日東京品川で一泊、大阪に新幹線で行き、大阪駅ホテルで一泊、中の島公会堂の第3回世界宣教大会に参加。長男えりや夫婦も共に参加、私は3日目の朝の聖会でステージにあがって代表祈祷、晴れがましかった。手束先生、永井信義先生、その他、諸先生がたにお目にかかる。講師はケーシー・トリート先生、30人の教会を20年で6千人の教会に成長させたそうだ。万代栄嗣先生の通訳も力強く、異言指導には自ら乗り出している様子で、好ましかった。<く> 

 

2003/9/21

(「日岡だより」第90号)

長寿の人々   

 先週の9月15日は敬老の日でした。この日のテレビでは百歳の方々を招いて、「長寿や健康の秘訣を聞く」というような番組が多かったようです。この「長寿や健康」のことを聖書的に、また信仰的に学んでみましょう。

 人間の寿命は本来、900歳前後であったらしいことは、旧約聖書の創世記の初めのほうを読むと分かります。

 ところが、ノアの洪水以後、人の寿命はだんだん減り始めて、ついには神様が「人の年は120年であろう」と言われる時がきます。

 学者の中には「上空の水蒸気が減って、太陽からくる人間への加害線が増えたのではないか」と考える人もいます。

 その後、モーセは120歳で死にます。その後も、ずっと120歳の人間の寿命は安定しているようです。もっとも、人の個人的寿命はそれぞれ人によって神様に定められているように私は思います。第一、イエス様は33歳で死なれました。

 使徒ヤコブはヘロデの手で早く殉教し、兄弟のヨハネは百歳を越えるまで生きたようです。彼はパトモス島に流され、そこでイエス様の啓示を受けて「ヨハネの黙示録」を書きました。

 その後又、解放されてエペソに行って牧会したという説もある。あの迫害のひどいローマ治政下にあって、これは信じがたいことです。

 とにかく、神に愛されている人は、各自、神様の定められた寿命一杯に生きるのです。

         *

 カトリックで正式に聖人と呼ばれるためにはずいぶん厳しい規定があるそうです。まず死後50年をへなければ、列聖されません。ところが、フランスの小テレジアと言われる人は、死後30年に満たずして列聖されました。

 彼女は生後2歳の時、すでに修道女になりたいと思ったと言います。13歳の時には、「天国の小さい兄たちの取次ぎにより、小心から解放された」とも伝えられています。この世にあって純真な魂はしばしば小心です。テレジアはそういう人であったのでありましょう。

 彼女は24歳で天に帰りました。伝記では「愛の脱魂のうちに息を引き取る」とあるのです。脱魂とはエクスタシーのことですが、エクスタシーのうちに息を引き取るとは、どういうことでしょう、ちょっと想像できません。

 彼女の伝記では、「彼女は死ぬまで子どもであり、生涯の間、人に知られず、世間のことも余り知りませんでした」とあります。

 もう一人のカトリックの人物がいます。この人は死後150年して列聖されました。カトリック教会で、それが普通なのです。上記のテレジアの方が異常なのです。

 この人物は、オーストリアの貴族の子で、スタニスラスという名です。彼は生来、気持ちのいい気性、溌溂とした精神を持っていました。

 14歳の時、神様の声を聞いて旅に出ます。お金を2人の乞食に与え、貧しい身なりになって、まだ未開のヨーロッパの野を歩いて旅しました。イエズス会というカトリックの修道会に入りたいという誓願を持っての旅でした。

 その後のことを詳しく書く紙面がありませんが、とにかく彼は17歳で天に召されました。死の直前、彼は天からの声に耳を傾けていました。神様の声に答えるかのように小声で何かをつぶやきつつ、彼の目は喜びで輝いていました。そして微笑みつつ息を引き取ったのです。

 プロテスタントには、こうした例をあまり聞きません。修道院がなかったからかもしれません。しかし、時々、4歳とか、6歳とかいうような幼年の子どもたちが、天使のような明るさと敬虔さを持って、早く召されていった例を時々聞きます。そうした文献にはしばしば、こう書いてあります。

「ああ、地は彼らをこれ以上置くに耐えなかった。また神も彼らをこれ以上、この世に置くに忍びなかったに相違ない」と。

         *

 かのリジューのテレサや、また少年スタラスニラス、そして天使のようだった幼い子どもたち、こういう人たちは皆、神様のくださった寿命を精一杯生きた人たちだったと思います。

 とは言うものの、やはり100歳までも生きた人々は、まさに天寿を全うされた人たちに相違ありません。

 先日のテレビに出ていた100歳老人の人たちの特徴は、どなたを見てもよく笑うことですね。同じ「笑う」といっても、なんとも屈託のない、そして遠慮のない大きな笑い声、これは私の小冊子の「笑えば幸福になる」の証明にぴたりです。あの小冊子に、あの方々の顔写真を貼り付けたいほどです。

 もう一つ、あげたい特徴は目的をめざして熱意ある人生を生き抜く人たちです。よい例をクリスチャンではないかも知れないですが、一人の女性に見い出しました。

 戦前のベルリン・オリンピックを覚えている人は、多分あのヒットラー治下の威勢のいい競技場の万端を写した映画「民族の祭典」をも覚えているのではないでしょうか。

 あの映画を作ったのはリーフエンシュタールという女性でした。ナチス・ヒットラーに重用されたということもあって、戦後とかく冷遇されがちだったでしょうが、しかし彼女の際だった能力と意志の強さは、いつの間にか世界をあっと言わせる人にしてしまいます。

 彼女のつくった映画が今、東京で上映されています。「原色の海(ワンダー・アンダー・ウォーター)」という題名です。その上映されている最中の今月8日に、彼女は亡くなりました。享年101歳。その彼女は昨年1年かかって上記の映画の編集していたそうですが、それだけでもびっくりします。しかし、

 その前年まで、10年はかかったらしいですが、彼女自身アシスタントの助けもなしに、カメラをかかえてインド洋の海にもぐり(つまりダイビング)、映画のフィルムを回したのです。そのダイビングが何と2000回に及ぶそうです。驚嘆です!。並の驚嘆では済みません。

 彼女がダイビングのライセンスを取ろうと、受験の出願をした時、年齢を51歳と偽ったそうです。実は71歳だった由。合格してライセンスを受け取ってから、年齢を公表したら周囲から歓声があがったそうです。

 彼女はまさに100歳女性の女王でしょうね。

         *

 リーフエンシュタールはクリスチャンかどうか分からないので、あまり良い引用でもなかったのですが、ちょうど東京で映画上映中というのがタイムリー、使わせてもらった次第。

 私は10十年ほど前、私に残された年を神様にお聞きしたことがあります。すると「お前にはヒゼキヤの年(イザヤ36:5参照)を与える」と私の舌に答えがありました(箴言16:1参照)。

 ヒゼキヤの年とは15年に違いありません。後日、私はこの15年が私の命の寿命のことなのか、私の伝道者としての残りの年なのか、分からなくなりました。その頃、小島武先生が来られて預言集会をしてくださった。

 私はさっそくこの疑問をお聞きしたら、先生はちょと小首をかしげて「先生、それはミニストリーの年限です」と言われた。私の体のほうはもっと寿命があるらしいのです、呵々。

 私は今、81歳、こう言うと、たいてい跳ね返ってくる言葉が、「モーセは80歳で立ちましたね」。「はい、そして120歳まで生きました」と私が答えることです。

 私もモーセにならって、今から新しい目標を主にいただきたいと思っています。実は昨年、それまで20年間生やしていた髭を剃ったのも、そういう気持ちからです。

 ともあれ、私は死ぬことに異和感はない。60歳の時、心筋梗塞をおこした。ちょうど主日礼拝の説教後の祈りの時、私は激しく祈っていて、肺から吐きだされる息に混じって肺臓の組織が千々に散って飛んでゆくように思えた。急に呼吸困難と胸の痛みが起こり、講壇の後ろにあった和室にやっと這って行ったのである。

 信徒諸君は何も知らない。大きな声で祈っていて誰も私の異常に気がつかない。しばらくして牧師不在に気づいてあわてて私を捜し、和室に寝ている私を発見して大騒ぎになったのである。幸い信徒の方に看護婦さんがいた。

 「先生、心筋梗塞のようです」。私も自己判断でそうだろうと思っていた。そういう中で、私には平安があった。もっとも、「天国が近いのだから、もっと喜んでいいのに」と思いもした。いや、実はしばらく家族や信仰の友とお別れかと、寂しく思ったものです。

 死の時が近づいても、案外恐ろしくもなく、悲しくもなかった。その経験を今、思い出して、この事だけは信徒の皆さんに知ってほしいと思ったことです。<く>

 

2003/9/14

(「日岡だより」第89号)

祈りの力は世界を変える   


第一〔アメリカよ、聖書に帰れ〕

 この9月11日は一昨年の同時テロ2周年。当時、ブッシュ大統領は言った。「これは戦争だ。我々は復讐する」。

 アメリカは世界周知のキリスト教国だ。大統領は就任式に聖書に手をおいて宣誓する国です。ブッシュ大統領自身、彼の信仰深さを口にする。毎朝、聖書を読み、祈る。そして毎週、教会の礼拝に出席するというのだが。

 聖書に、なんと書いてあるか、「なんじの敵を愛せよ。悪に対して復讐するな」と。私は言いたい、「アメリカよ、聖書に帰れ」と。

 第二〔宅間守君のために祈ろう〕

 池田付小事件の宅間守君の死刑判決に対し、本人は「早く死刑にしてくれ」とうそぶいているが、弁護団は控訴をきめたという。この弁護団の姿勢を批判し、不思議に思う人は多いだろう。

 しかし、私はこの弁護団の姿勢を評価する。その訳は本紙87号(8月31日)の2頁以下を読んで下されば、私の意図はお分かりになるだろう。この超ニヒリズムと意地っ張りを掛け合わせたような宅間君の救いのために、祈りましょう。こうは言っても、「実際そんなことは可能であろうか」と、疑問に思う人は多いと思いますが。

 第三〔奇蹟の人メル・ボンド師来たる〕

 インディアンの血を引いていると言われるメル・ボンド師(今50歳をちょっと越えたくらいの方かと推測するが)のことですが、この方の聖会の模様を読むと、肝をつぶすような話だ。聖会では、だいたい90%の人々が癒されるという。生まれつき、眼球の無い少年に視力が与えられたとか、欠損していた脚が生えてきたとか、又1973年以来、これまで七回にわたって主ご自身が目の前に現れてくださったとか、こうした証しには驚かされる。

 更にすばらしいのは、この賜物を積極的に求める人に分け与えようとしておられることだ。その為のテキストも用意してあるし、主が直接教えてくださった祈りの実践方法も公開なさるそうである。

 その日程は今月、20日から23日まで。場所は埼玉県飯能市岩清水クリスチャン・センター。くわしくは「ハーザー」誌10月号に載っています。ご覧あれ。

 第四〔主がメル・ボンド師に示されたの祈りの方法の一つ〕

 メル・ボンド師の聖会について主催者に照会したとき、返事のなかで次のような注目すべき言葉がありました。

 メル・ボンド師が1984年にイエス様からの幻で、祈る時に全き心で(一つの思いに集中して)祈るように教えられて以来、祈った人の90%に癒しの結果が出るようになった。それ以前は、聖霊のバプテスマを受け、癒しを信じて多くの人に祈ってきたが、5%しか結果を得ていなかったという。

 同師の著作に「奇蹟のためのしるしと不思議の7つのレッスン」というのがあるそうです。それが、今回、用いられるテキストかどうかは不明ですが。とにかく、期待できます。

 第五〔村上和雄名誉教授「祈りの治癒効果が証明された」〕

 産経新聞の「正論」というコラムは石原慎太郎さんなどが毎月寄稿する産経らしい、いわゆる右派にして硬派の論壇であるが、9月10日のこの欄には筑波大学の村上和雄名誉教授の一文が出ていた。これは非常に私たちの伝道や牧会に役立つ新しい資料だと思う。こう言っている。

 最近アメリカでは医学・医療分野において西洋医学だけに基づく医療が、今や50%を割ろうとしている。米国政府が大がかりな調査を行った結果、西洋医学を50%に追い込んだのは東洋医学、薬草、漢方薬、鍼灸、瞑想、音楽、信仰などであったことが分かったという。

 「病は気から」というが、その実証としては、昔から医学界ではプラセボ効果と言って知られている暗示効果があげられる。全く有効成分の入っていない偽薬を「これは非常によく効く新薬だ」と言って飲ませると、3人に1人くらいは効果があるのである。

 だから牧師が確信を持って大きな声で祈ってあげると、その暗示効果で癒される人もあるだろうとは、私自身もひそかに思っていた。しかし、村上博士は言う。

 アメリカの実験では、心臓病患者393人の内、他人に祈られた患者は、そうでない患者よりも、薬物や治療器械の使用率が少なかったことが分かった。しかも西海岸地方の病院の患者たちで調べたことであったが、祈ったグループが西海岸の人たちであろうと、遠い東海岸の人たちであろうと変わりはなかったという。

 しかも、これらの患者たちは、自分たちが祈られていることは知らなかったのである!

 人類は数千年にわたり、すべての民族の多くの人々が真摯に祈りをささげてきた、それは目には見えないが、確かに自然の中に存在する不思議な力に向かって祈る祈りではなかったか。村上名誉教授は、こう言って、この力をサムシング・グレートと呼んでいる。

 先生はクリスチャンではないし、科学者である。だからこの神仏のごとき存在をサムシング・グレートと呼びたいと言うのであるが、ここだけが私の不満な点で、私ならグレート・ワンと呼びたいと常々言って居ることです。

 先生は遺伝子の研究から、ここまで進んで来たらしいのですが、十数年まえ、偶然先生の講演テープを聞いて驚嘆しましたことでした。それ以来、そこかしこで引用させてもらっているのです。

 先生は産経に載せた今回の論文で、最後にこう結んでおられた。

 「祈りが神に通じる深い聖なる部分については、おそらく科学だけでは永久に分からないかもしれない」と。ニュートンなどが言ったという神の世界への謙虚なる発言に通じるこの言葉に、私は心から尊敬の念を禁じ得ないのです。

 第六〔神よりの啓示と、必要に応じて立つ人間の意志と〕

*この第六から第八まで、9月7日のリバイバル新聞第一面記事から三つのテーマを選んだのです。

 まず第一面のトップ記事、「一人の行動が変化生む」という大見出し、ニューヨークのスラム街で2万2千人以上の子どもたちが集まる教会学校を作り上げたビル・ウイルソン牧師の記事です。同牧師をそのような大きなプロジェクトに駆り立てたものは何であったか。その召命はどのようにして、同師に与えられたか。これらの記事の中で、私が最も大いに驚き、感銘し、また考えさせられた所を次に転記したい。

 壇上に駆け上がって上着を脱ぎ捨てたウイルソン師は、まず言った。「本物の変化は外側の要因からもたらされるものではない。内側から起ります」。そして声を上げた。「新しい行動を起しましょう」と。更に、

 「人が本当に変えられる体験をしようとするならば、人生そのものを思い切って変化させる覚悟が必要だ」とチャレンジした。そして、「神からの召しを、超自然的な啓示や語りかけの中にだけ見出そうとして、結局ずるずると何もしないまま生涯を見送ってしまう恐れがある」と、鋭く語った。

 同師はアモス書3章12節を引用し、自身の召命について淡々と語った。「私は、消防士が火事場に飛び込むように、切迫したスラム街の事態を目の前にして、クリスチャンとしての本能に突き動かされたのでした。ちょうど獅子の口から羊を取り戻そうとする羊飼いの心と同じです」。

 同師が「神の召しとは、必要とされることだ」と定義することに、私はうなずけました。(私、釘宮が戦後の大分駅で海外引き揚げ者を出迎えて疎開した家族の家を捜し道案内をする奉仕を始めた時、また焼け跡の防空壕で戦災孤児たちと共同生活を始めた時、このウイルソン師と全く同じ心境だったと思います。これを「神様からの召し」だと同師が言ってくれるのを知って、私は本当に嬉しくて涙が出ました。あの時、私には何の生活の保証はなかった。母一人を家において、当初は毎夜大分駅で子どもと一緒に寝た。当時、だれの援助も受けませんでした。)

 私は最近、よく「神様からお声を頂くと、絶対の確信が起るんだ。だから、まず神様のお声を求めよう」、というメッセージをします。それは、それで厳粛な真実です。本当です。しかし、ここでウイルソン師が言うように、「必要がある、その現場を見て、居ても立ってもおられない。何の保証も後ろだてもなくても、ただ神様を信じ、命をかけて、現場に飛び込む」。これも召命です。この経験は自分自身を勇気づけます。人の助け無く、神様だけを見上げて、飛び込み、前進し、周囲の無視や誤解や批判や罵りと、戦う勇気です。

 ですから、今、私に分かったのは、「神からの召命とは第一には神からの御声です。しかし又、現実の必要に呼び寄せられて、主を仰いで立ち上がり駈けよって行く、これです」。

 あなたの立ち上がりを求める現実がそこにあるのに、「いや、神様の召命を待っているのです」、そう言って坐りこんでいる人たちに、ウイルソン先生は警告しているのです。

 さてこのウイルソン師によるセミナーを京都で開いたそうです。定員を越えて270名が集まり、ほとんど全員が献身の招きに応じたそうです。すばらしい。ハレルヤ!

 第七〔職業人の献身〕

 9月7日のリバイバル新聞の第一面の左辺にFGBの50周年世界大会の模様が報じられていました。この団体名はくわしく書くと、フルゴスペル・ビジネスメン・フェローシップ・インターナショナル、訳せば全福音実業人親交会でしょうか。

 この団体のことを説明するには紙面が足りませんが、とにかくビジネスマン・クリスチャンたちが強力なイエス・キリスト様の証人として、互いにその証しと励ましと再献身を誓い合う会と言いましょうか。

 アルメニアから信仰のゆえにアメリカに移住してきた祖父たち以来のペンテコステ的の信仰の持ち主、かつて「地上最大の成功者」という衝撃的本を出した人、デモス・シャカリアンが創立者で、かつ会長です。

 この会員たちが、ビジネスマンとしての環境と条件の中で、大胆にキリストを宣べ伝えている姿勢はすばらしいです。日本でもカネボー薬品元社長の三谷康人さん。資生堂をV字回復させた池田守男社長さん、将棋盤のめぐみ堂の西本誠一郎さん等々、こういう方々が一杯いますよ。私の推奨する大好きな人物は便利屋の元祖、右近勝吉さんです。

 第八「アメリカのクリスチャン精神、健在なり」

 同じく、リバイバル新聞の9月7日号の第一面から。以上、2つの大きな紙面に囲まれて。「米裁判所庁舎内の『十戒』石碑を撤去」という小さい記事があります。

 これを読んで驚き、また感動しました。米アラバマ州裁判所内に「十戒」の石碑が置かれていたそうですが、アメリカでも「政教分離」の政治的法律ができていて、その実施を求める勢力もあるのでしょうね、この石碑の撤去の命令が連邦最高裁判所から出たというのです。

 なんと、その「十戒」の石碑を設置したのは、そのアラバマ州の最高裁長官ロイ・ムーアさんだったというのですから面白い、驚きます。勿論、ムーア長官は石碑撤去に絶対反対です。上級機関は、その姿勢が変わらなければ職務停止の処分(つまりクビです)をすると、既に決まっているそうです。

 ムーアさんはそういう中でアラバマ州議会の前に集まった支持者数千人の前で語っています。「私はやがて死ぬ。政治家も牧師も皆死ぬ。しかし神の掟は永遠に保たれる。問題はこの国と法律が拠って立つ神を認めるか、どうかということだ。今や、キリスト者が立つ時だ」と結んだそうです。愉快です。アメリカのクリスチャン精神は今尚、健在です。アメリカが変わると世界が変わります。私たち日本人クリスチャンの遠くからの祈りも必ずアメリカを変えるでしょう。(2003年9月11日の祈祷会にて。)<く>


【あとがき】以上の説教は異例な構成です。すべて先週中に見かけたハーザー10月号や、私の照会への返信や、一般新聞、またリバイバル新聞で知ったことを参考にして、先週の祈祷会でお話したことです。詰めて書きましたので、読みにくい点、お許しください。▼さて、現在の私の予定では、今週20日に埼玉県飯能市の岩清水クリスチャンセンターに行きます。メル・ボンド師の聖会に参加し、途中、退出して大阪に向かい、大阪の中ノ島公会堂で行われる第3回世界宣教大会に参加します。23日(火)に大分に帰ります。▼10月24日(金)から26日(日)の3日間、ビッグ・アイでエホバの証人の全国大会(或は九州部会)が開かれる。彼らを真の福音に立ち返らせようとクリスチャン一斉行動、9月18日、執り成しの歩行祈祷でビッグ・アイを一周する予定。▼締切り間際になって、夕刊が来た。トップ記事に「イスラエル、アラファト議長を追放」とある。大分の新聞の豆コラム言わく、「イスラエル横暴」。私は同感です。一体にキリスト教世界はイスラエルびいき、それは分かるけれども、こういうことまで容認してはいけない。1948年のイスラエル建国自体、無理だったと私は思っている、もっと神の摂理の時を待つべきだったと。<く>

 

2003/9/7

(「日岡だより」第88号)

言葉に力あり   

 言葉には力がある。昔の日本人は知っていた。言葉には霊的力がある。言霊(ことだま)と言った。言葉の使い方によっては、その内容をそのまま実現できると信じていたのです。

 何も霊能者が霊的な信念や、妖しき呪文を発したりして、何事かをやらかすという、そんな特殊なことでなくてもよい、一般市民の日常の生活の中で、毎日起っているのです。

 いつもブツブツ不平や不安を口にしている人は、そのとおりの憂鬱な毎日を送っているし、いつも「俺は運が悪い。運が悪い」と言っている人は、本当に運の悪い人生を送っている。

 「口癖があなたの運命を変える」という本が今、出ている。この本のお先棒をかつぐわけではないが、これは本当です。口癖を変えなさい、あなたの運命が変わる。

 とは言え、人はついうっかり「心配」や「不安」を口にしやすい。それは人生には危険が一杯だからである。無理もない。事実、これまで、危険を用心することによって、危険を回避し、人生の安全を守ってきたのです。これは人類のこれまでの経験と知恵の結果である。

 この危険予測が恐怖を生み、心配や不安を生む。そして暗い用語を生む。「怖い、怖い」だの、「また何が起るか分からない」だの、「病気、貧乏、いじめられそう」等の言葉が、連発され、これが口癖になるのである。

 実は、そういう時、次のような言葉を口で言うと心配、不安が消えて行く。いや、心の中で思うだけでも良い。「危険がやってきても、どんなことが起っても、私は大丈夫。うまく解決でき、もっと良いことが起る」と。ところが、

 人はなかなか、こうは言えない、思うことは更に難しい。こういう言葉を吐ける人は、よほどこれまで運が良かった人か、もしくはよほどの大胆、前向き、積極思考の人であろう。

 さもなくば、クリスチャンに違いない。それも、以下のような御言葉をしっかり信仰じているクリスチャンであろう。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを(相共に)働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)。

【このローマ8:28の言葉は新改訳が良い。日本聖書協会の文語訳、口語訳、新共同訳、みな駄目です。私は一体に口語訳が好きなのだが、ここだけは口語訳も駄目。良いと言えば、尾山令仁先生の現代訳「聖書」が一番良いです。上記にあげた引用文でも、(相共に)と挿入したのは私の補訳です。尾山先生はちゃんと、この「ともに」を訳しておられる。聖句暗証なさる時は、特にこの辺にご注意して下さい。】

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 以上の文章でお気づきかと思いますが、人の語る言葉は(読む言葉でも力がないわけではないが、特に人の語る言葉は)、その語る人自身に、その力を跳ね返すのである。善い言葉は善い影響力を本人に及ぼし、悪い言葉は悪い影響力を本人に及ぼす。この法則は絶対です。

 そして、善い言葉の影響力よりも悪い言葉の影響力のほうが、その力が強い。これは人が神のご命令に背いて罪を犯して以来、人の心は悪しき言葉、消極的言葉、暗い言葉に影響を受けやすくなっているからです。

 自己暗示的に自分を強化しようとする場合、明朗積極型言葉を多く使います。すると、そうした言葉に対し、暗い潜在意識がねっとりと逆らうのです。余程しっかりした強い語調で何度も繰り返し口にしないと効果がないのです。

 昨年でしたか、私は佐々木先生の教会でトータル・カウンセリングの渡辺裕子先生の「大丈夫感覚を養え」という講演を聞いて感動しました。私はさっそく家に帰ると、その日から「大丈夫、大丈夫」と声を出して、口で言いました。20分も唱えると、千回を越えます。

【千回を越えることを確かめるには、手に握って人数などを調べる小さな器械、カウンターが良いです。千回と言えば、キリスト教の本ではないですが、「千回の法則」という本があります。ここ10年個人では日本最高の所得税(累積で)を納めた銀座のお店の主人・斎藤一人さんの実践体験の本です。】

 人の言葉に比べ、悪魔の言葉は更に強い影響を人間に与えます。だから、悪魔の声に耳を傾けないことです。積極的に悪魔の声を聞いているのは、霊媒の人などです。また、すでに悪霊に魅入られている人は、いやいやながら、つい悪魔の声を聞いてしまうのです。そういう人ははっきり悪魔に向かって「お前の言う事は聞かない、お前は嘘つきだ。お前はあっちへ行け」と大きな声で命令することです。

 しかし、多くの場合、悪霊の声は人の耳には聞こえません、だから、また悪霊など居るものかと、悪霊の存在を否定する人もいるのです。

 しかし、しょっちゅう気分が重い、暗い、寂しい、恐怖感が心にあふれている。ねたみ、怒り、姦淫の心、これらの思いを人の心に注ぎこんでくるのが悪魔であり、悪霊なのです。

 イエス様ですら、40日の断食で徹底的空腹感を味わったとき、ヨルダン川の岸辺の石を見て、「この石をパンにしたらいいじゃないか」という思いを悪魔から聞きました、

 私たちはこの言葉では誘惑を感じません。私たちは石をパンに変えることなど不可能だからです。しかし5つのパンを5千個にふやせるイエス様は石をパンにすることくらい何でもない。これはイエスにとっては盗みではない、道徳的になんでもない、ただ食欲をそそられやすい、そこで、イエス様は聖書の御言葉によって、この悪魔の誘惑を拒絶したのです。

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 最後に言います。神の言葉には絶対の力があります。人の言葉には善と悪のそれぞれの力があります、悪魔の言葉には善は無く、完全に悪だけです。彼の言葉には強力な力があります。そして神様の言葉には全き善、強き善い力があります。神の言葉は聖書の言葉です。もう一つ、聖書だけでなく、信仰の人に、その魂に語りかけて来る神様からの言葉、それを私は「預言」と言いたいのです。この御言葉をいただくと、本当に奇蹟的確信や能力が与えられます。

【「主は言われます」と声をあげて、一般事象や社会の変化、教会のこと、世界のこと等に対する預言、あるいは個人に対して預言するなど、ペンテコステ派では多く認められています。私は信徒自身に対して内面的に語りかけて下さる聖霊の言葉を、聖霊の賜物の一つの預言として熱心に求めるのは良いことだと思うのです。(第一コリント14:1参照)。】

 神の御言葉、これを以上の括弧内で書いたように全く主から来る場合と、人間のがわから御言葉を唱えて、また心において信じぬいて、信仰の勝利を得る場合があります。

 この後者のことについて、せんだって、平野耕一先生に来て頂いて講義してもらった「ヤベツの祈り」もそれです。

 最近、実は永井先生からもすばらしい証しを聞きました。この前、永井先生が秋田教会に行ったそうです。あの教会にS兄という熱心な教会献身の青年がいます。今回、先生が会って驚いた。以前とどこか違う。一段と良くなっている。雰囲気がなんとも佳い。「君、どうしたの?」と聞くと、「先生、あれですよ」と答える。「えっ?」と問いただすと、

 「あれ」とは、3ヶ月ほど前に各地の教会の信徒諸兄姉に送られた永井先生の「はがき通信」のことでした。その「はがき通信」には、「『いつも喜びます。絶えず祈ります。すべてのことについて感謝します』、この言葉を毎日、鏡の前で、繰り返し告白しなさい。人生、幸福の秘訣です」と先生のお勧めがありました。これをS兄は毎日忠実に実行したと言います。「先生のおっしゃるとおり、なんだか明るい生き生きした私に変わってしまったのです」と答えたそうです。

 この永井先生のお勧めは、第一テサロニケ5:16〜18の御言葉を用いた積極的肯定的な告白です。

 御言葉の力は凄いですね。私は思わず、叫んだことです。「ハレルヤ! 御言葉に力あり」<く>

 

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