キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報とともに毎週発行する「日岡だより」)

2003年12月

2003/12/28

(「日岡だより」第104号)

教会はキリストの体、
  私たちはその肢体です

 今年の当教会のクリスマスは当初、華やかだった。何よりもT兄が主になってイルミネーションの飾りつけなど献身的にやってくれた。感謝している。

 道を通る人がみんな教会を振り返ってみる。そして、「クリスマスには教会に行ってみようかしら」という声を聞いたということも聞いた。

 子ども大会は例年のように50人以上来たようだった。みんな喜んで帰って行った。その中の1人が友達を連れて、日曜日のクリスマス礼拝に来たのである。たぶん、子ども大会なみの楽しい会があるのであろうと感違いしてきたのであろう。最後までよく居てくれたものです。

 その日の午後、執事会を開いた時、K兄が言わく、「先生、今日は説教のなかで、たとえ3分でも5分でも、あの子どもたちのために分かりやすいお話をしてやるべきでしたよ」という。私は心の中で「アッ」と言いましたね。

 昔、植村正久先生が礼拝で説教を始めようとしていると、教育の無さそうないわゆる教会には縁のなさそうな人が入って来た。そうすると、植村先生は「今日は説教を変えます」と言って、その新人のための特別説教を始めたそうだ。

 私はこの日、非常に重要な説教を用意していたもので、その2人の子どものことが気にならない訳ではなかったけれど、つい大人用の説教で堰を切ったように話したのである。つい、子どもたちへの配慮を忘れていた。執事会で、こういうことを言われて、私も立つ瀬がなかったが、しかし彼の言うことは尤もだと思った。深く反省したことである。

 クリスマス行事のための一部の兄弟たちの奉仕には感銘した。ポスターの作成も大変だし、それを要所要所に立てて行くのです。これも容易なことではない。こうした奉仕作業は大抵自分から、それと察して進んでやっているので、牧師から頼んだ訳ではない。他の信徒諸君にも、それが誰がしているのやら、はっきりと分からないことが多い。

 私にしても、こういう実際行動には参加しないほうだから、つい彼らの奉仕に対しねぎらいの言葉や、実際的にお茶やラーメンくらいの差し入れをするというような思いやりがない。

 これは全く申し訳ないと思う。本当はもっと大いに感謝し、また時間が遅くなった場合など、休憩時の食事の用意なども考えるべきなのである。

           *

 しかし、彼らに私はこう言いたいのです。「教会のご用に奉仕させて頂いて、身銭をきって材料なども買ったことなど、そうした事を牧師をはじめ誰も分かってくれないかもしれない。けれども自分たちは神様のためにご奉仕させて頂いたのだ、この無償の奉仕の喜びは何物にも替えがたいです」、そう思ってくれたまえと。

 私自身、経験があるが、私の育った教会で、屋根のスレートがアメリカ空軍の爆撃で、みんなずれ落ちてしまった。ちょうど、私が勤めていた会社の空き地に余った古いスレートが山ほどあった。私はそれを社長に断って、教会に運んだ。牧師先生に2人の息子がいて、15、6歳の元気盛りだった。この息子たちが、すぐにも屋根の修理くらいするだろうし、困難であれば、他に依頼する方法もあろうと思っていた。

 ところが、その後、一向に作業をはじめる気配もなく、そして瓦屋を使って、雨の漏らないようにしてしまった。つまり世間知らずの私の独断的行為は牧師にも誰にも認められなかったのである。

 私の牧師に対する不満は次第に昂じてきた。今、考えれば私も礼儀を弁えず、青年らしい一途さで、総会の席上で先生を非難して会場退出してしまった。まるで1933年の国際連盟脱退を演じた松岡洋右みたいだと……、それをカッコ良いことと思いこんでいた所が情けない、

 要するに、自分の奉仕を牧師以下だれも認めてくれないことが口惜しいのである。教会にお仕えすることは、それ自体が恵みである。尊い教会のご用に用いてくださったという恵みを不相応の名誉と受けとめて感謝すべきなのです。

 あたかも、地方から一般市民が皇居の掃除清掃に奉仕におもむく事がある。こういう時、かならず天皇陛下がお出ましになって奉仕者に感謝のお言葉をくださる。

 特に昔の古い日本人たちだったら、それだけで感泣する。大事な仕事も休んで、旅費を自弁して、東京までやって行くのだ。そして天皇様にお目にかかれたことを名誉に思い、誇りに思う。教会のご用にあたれたことも、そのように名誉に、また誇りに思って喜んでほしいのである。

           *

 教会は一つの体である。教会とはもちろん、会堂のことではない。信者が集まっている集団組織をもさすのではない。イエス様の名において、イエス様を信じ、イエス様の聖霊を宿す人々が神様の体の一部である。肢体である。

 だから、目も鼻も手も足も、それぞれ任務が違う。手足や顔や言葉を発する口や舌は目に見える。しかし心臓や骨など外の人には見えない。見えない所で全身に仕えている。誰が褒めてくれなくても、自分の任務を完了できたことを喜び、かつ独りで満足するのである。

 このキリストの福音大分教会にしても、お隣りの日本キリスト教団大分東教会にしても、全霊界挙げてのキリストの体なる教会、それが本体としての教会の、その肢体である。その一部分である。

 その枝の一つ一つが、愛し合い、助け合い、一つとなって伝道の戦いを完遂し、神の国の擬似体を作っている。各教会それぞれは神の国という全体の肢体であり、一部分である。そしてイエス様は頭である。

 人を批判したり、不満を抱いたり、妬んだり、恨んだり、攻撃したり、そういう心の働きは、すべて相手を霊的に束縛し、不自由にし、相手を活かさず、殺してしまう思いである。

 心の世界では、この思いのエネルギーだけで相手の心を責め、世間の雰囲気を殺し、神様の働きを無力化してしまう。これを大げさに言えば、殺人行為という。イエス様が「人を憎むだけで殺人だ」とおっしゃるのが、その事である。

 だから、マルコ11章22節以下で信仰の段階的実践マニュアルをイエス様が語る時、その付則として、「誰かに対して恨むことがあるならば、相手を許しなさい」と言うのがそれである、つまり、恨むとは人を責める心である。人を責める時、あなたの自我の吐き出す呪いの糸が、相手の心を締めつけているのです。「許す」とは、その相手にたいする責める心の縄を「ほどく」ということである。

 一切のこだわり、締め付け、束縛をほどく時、人間本来の心のありかたを悟れる。その「ほどける」ことを「ほとけ」という。仏教の「ブッダ」、あるいは「佛」、これは「ホトケ」なのです。

 自力で相手の罪を許せなくても、みずから人々の罪を背負って十字架の上で死なれたイエス様の血が。私の罪の免疫細胞の働きをする血清として作用する、それを神学で「贖罪」という。イエス様を信じるものの罪を清め、罪の汚染力から救い、罪のゆえの死と病を追い出し、生きる力と、悪魔にたいする勝利の力、あらゆる人生の祝福を得る秘訣を与えられるのです。

         *

 来年は、世界と、この国と、あなたの家族、あなた自身の運命は如何に進展するでしょうか。勝利の教会に結びついているものは、イエス様の勝利のエネルギー、パワー、あなたの人格改造のDNA、それらが一時に開花爛漫して、本人と環境を一変する。人格革命です。

 人間のDNAは単なる秩序や法則にとどまらず、人格です。宇宙の無秩序と人の罪や病と苦難を放逐し、人を変革する人格力です。

 ここに書いた私のDNA論は、私の非学問的直感です。DNAの宇宙論的解釈については、例の村上和雄教授のサムシング・グレートの説が魅惑的です。これを私は更に、サムワン・グレートと推論したいし、グレート・ワンと究極的に追い詰めたいのです。<く>

2003/12/21

(「日岡だより」第103号)

    祝クリスマス!
        併せて新年のお祝いを申しあげます

 皆さん、お元気でお過ごしでしょうか。神様の豊かなご祝福を祈ります。

 今年は拉致問題もさることながら、イラク紛争が世論を沸かせています。

 イエス様は「世の終わりには戦争の噂を聞くことだろう」とおっしゃいましたが、なるほど世界は狭くなって外国の戦争の情報もインターネットで政府やメディアのみならず、個人ネットでも行き交う時代です。

 しかし、あのクリスマスの夜、天使たちをとおして語られた神様のメッセージ、「天には神に栄光、地には人々に平和があるように」との宣言が、今こそ世界のクリスチャンに確信をもって受けとめられますように祈っています。

 「世界人類が平和でありますように」、これは某宗教団体が匿名で全国各地に貼り廻らしている祈りの言葉ですが、感心しています。でも祈る対象がはっきりせず、ただ祈るだけでは実現は難しいでしょう。この世の君サタンの悪念は、この程度の祈りには閉口しないでしょう。

 しかし、私は信じます。日本民族総福音化が実現し、世界のクリスチャンが大糾合して主を待ち望む時、「天には神様の栄光が高められ、人々の平和が全地を覆う時」が来ることを。

 その日は近いと信じます。あのベツレヘム郊外での天使大合唱の景観が地球規模で見られますように……。信じつつご挨拶を送ります。

   2003年12月21日             
       キリストの福音大分教会     
           牧師 釘 宮 義 人   


本当のクリスマス   

   一、世俗化されたクリスマス

 先日、東京に行った時、ある方から、その人の属する教会ではクリスマスの行事を全然しないということを聞いたのです。異端の教会ならば、いざ知らず、一応キリスト教会と名のつく教会で、クリスマスを否定する教派があるとは信じられなかった。びっくりして「なぜですか」と聞いたのでした。すると、

 「うちの牧師先生は『クリスマスという式典のことについては聖書は何も書いてない。だから僕はクリスマスはしないことにしている』とおっしゃるんです」ということだった。

 この牧師先生は、私がよくカリスマ派の集会でお会いもし、挨拶も交わす仲である。私はその理由を聞いて、なるほどと思った。なんとなく分かるような気もしたのである。

 実は私が若い時、大いに影響を受けた熱心なクリスチャンだった伯父が、「クリスマスは世間で大いに賑やかにやってくれるから、私たちは静かにやろう。サイレント・ナイトだよ。その代わり、復活節を盛大に祝おう」などと言ったものです。そして復活節では「復活」と文字を入れた高級菓子を菓子屋さんに作らせて、みんなに配ってくれたものです。

 当時はまだ昭和一桁の頃ですが、すでにデパートなどではクリスマス・セールが派手に始まっていました。戦後(伯父はすでに亡くなっていたが)、世間ではデパートのみならずキャバレーやバーなどでもクリスマスが花盛り。ある人が「今日は教会でクリスマスや」と言ったら、ホステスさんが「あら、教会でもクリスマスをするの」と、本当にそういう返事があったという笑い話が聞かれたものです。

 そういう風潮を嫌って「僕の教会ではクリスマスをするのは嫌いや」と言うこともあろうかと思います。私にも多少、その気分が分かります。でも、こんなことを言うのは、少しつむじまがりかも知れませんね。
  

   二、クリスマスの原形

 イエス様がお生まれになった時、聖書によれば(ルカ2:8)、羊飼いたちは野宿していたという。地図を見ると、イエス様がお生まれになったユダヤは、私たちの住んで居る九州と、ほぼ同じく北緯33度あたりです。

 この北緯33度の付近では12月の下旬はもう相当寒いですね。とても羊飼いたちが野宿できるような季節ではありません。ということから推論して、クリスマスを12月に設定するにはちょっと無理があると、これまでも学者の間では言われて来たことです。

 さて、12月25日がクリスマスの日になった事情は、こういうことだろうと言われています。この日頃はちょうど今の暦で冬至に近いのですが、イエス様の当時ローマ社会では、この日に冬至祭のお祭りを営む習慣があったそうです。その風習が教会のクリスマスと結合したのだと言うのです。

 確かに、一番長い夜の期間が終わって、明日から1日1日昼の時間が長くなる。期待を抱けます。「夜が更けて日が近づいている」(ローマ13:12参照)というみ言葉にも符節が合います。クリスマスにぴったりです。

 こういう訳で、教会暦や式典を決めるのに、当時の異教的、地縁的祭典の要素を混交させたという指摘もあり、カトリック教会の世俗化の一つだと一部に批判は元々あったのです。

         *

 考えてみると本当のクリスマスと言うか、イエス様のご誕生は、貧しい汚い馬小屋の中、悪臭たちこめて、壮麗なオルガン演奏や賛美歌などがあるわけでない。イエス様は餌箱の中に寝かされ、その夜、お祝いにやってきたのは貧しい羊飼いたちだけであった。

 しかし、少し遅れて、東方の国から占星学者たちが来た。これは異常なことです。この占星学者たちはイランやイラクなどの国政に係る顧問官というか、名誉ある人たちです。旧約聖書で言えばイザヤなどに似ています。

 こうした今で言えばニューエイジの学者みたいな人たちがユダヤの王となるべき赤ちゃんのイエス様に謁見を乞う、という舞台が出来上がっているのですが、純粋な信仰家から見れば、変にウサンくさい舞台だなあ、と疑問を呈する観点もあっていいと思います。これが実際のイエス様ご誕生の様子でした。

   三、本当のクリスマス

 世俗化された賑やかな一種喧騒なクリスマスを避けて、あのみなさん大好きな「聖夜」で歌うように「聖なる静かな夜」を迎えたい、と望まれる方も多いでしょう。

 しかし、適当に楽しみたい。つまり子どもたちのために楽しいメルヘンチックなクリスマスも悪くはない。というのも私の個人的意見です。

 なお又、聖夜の瞑想に浸って、静かな夜、サイレント・ナイトを過ごすのも良いなあ、と思う人も多いでしょう。クリスマス・イブの礼拝で音を低めて、蝋燭の火影ゆらぐキャンドル・サービスの時を持ちますのは、その故です。

 貧しい羊飼いのような人たちも、豪華な贈り物を持ってきた東の国の博士たちのような異国の人、異文化の人、異宗教の人たち、みんな共に集ってイエス様を拝する、そんな礼拝ができるのもクリスマス礼拝の意義、特徴でしょう。

 2千年たった今日、イスラエルとアラブとの対立、アメリカとイラクとの紛争。北朝鮮の対日怨念と拉致問題、こういう不穏な世界情勢の中にも、クリスマスの平和と喜び、希望を発見できないか。今日の主日礼拝、24日のイブ礼拝を感謝と期待をもって迎えたいのです。<く>

 

2003/12/14

(「日岡だより」第102号)

クリスマスを待つ人々   

   一、シメオンとアンナ

 イエス様が生まれて40日たった時、当時の宗教的規定にしたがって、両親はイエス様のために犠牲をささげるためエルサレムの神殿に来た。その時、驚くべきことが起こる。

 シメオンという老人とアンナという老婦人がいて、かねてより聖霊によって救い主の生まれることを知り、待ち望んでいた。2人とも別々に啓示を受けていたらしく、2人は互いに知っている様子はない。初めシメオンが聖霊に感じて神殿に入り、両親と幼児のイエス様を迎え、そして「今こそ私は地上を去ることが出来ます。私は神がつかわす救い主を見るまでは死ぬことがないと聖霊様に示されていましたから」と言ってイエス様を祝福されるのです。

 シメオンの言葉の中で、イエス様は「異邦人を照らす啓示の光、イスラエルの民の栄光であります」と言っています。

 又、アンナもちょうどその時、「近寄って来て、神に感謝し、エルサレムの救いを待ち望んでいるすべての人々に、このイエス様のことを語り聞かせた」と言います(ルカ2:25〜38参照)。

 ここで分かることは、シメオンとアンナはイエス様が生まれる前から、イエス様の誕生を聖霊によって知っていたし、また当時のユダヤ人たちも救い主が地上に来られることを待ち望んでいたということです。

 シメオンはイエス様をイスラエルの栄光であるだけでなく。異邦人の光であると言っています。ユダヤ人だけの救いでなく、全人類を目に入れた広角度の救いの到来を告げているのです。

 

   二、旧約聖書の預言

 生まれたばかりのイエス様を馬小屋に訪ねてきた東の国の博士たちの物語はよく知られています。東の国と言えば今紛争地のイラクかイランあたりでしょう。そこの国の占星術の尊敬された学者たちだろうと推察されています。この人たちが当時のユダヤの王であるヘロデに謁見を乞うて言いました。「私たちは東の国で星を見て、ユダヤ人の王(キリストのこと)がお生まれになったことを知りました。その方はどこに居られるでしょうか」。ヘロデ王が学者たちに聞きますと、学者たちは答えます。「それはベツレヘムの町です」と聖書にちゃんと預言されている町の名を返事することが出来ました。

 キリストはダビデ王の子孫として生まれるということ、旧約聖書に何度か出てきます。

 また、イエス様はろばに乗ってエルサレムに入場される日を旧約聖書のダニエル書9章25節に預言されています。計算すると、それは紀元32年4月6日になります。

「ろばに乗ってこられる」ことは旧約聖書ゼカリヤ書九章九節に預言されています。

 信仰の面で最も大事な教義、「キリストが全人類のために身代わりとなって死なれる」ということは旧約聖書イザヤ書53章5、6節に預言されています。

 なおイエス様が十字架にかけられる時、釘を打たれたことも、「突き刺された」という言葉でゼカリヤ書12章10(新改訳)に預言されています。

 こういう小さい言葉を選び出せば、それは350個所もあると学者は言います。その聖書の最初に出る言葉は旧約聖書創世記3章15節です。「エバの子孫(原文で単数です)がサタンの頭をくだく」と言うのです。イエス様が十字架に一旦死んだように見えて一度はサタンの勝利のようですが、3日後にイエス様は復活される、それはサタンにたいする逆転的勝利であった。そのことを創世記3章15節は預言しているのです。

 こうして旧約聖書では数千年にわたって、イエス様のことが預言されているのです。

 

   三、預言のとおりに生まれてきた方

 以上、ながながと書いてきましたが、私はこれまで、これらの事をこんなに詳しく書いたことはありません。イエス様が旧約聖書において代々預言され、また預言者や一般庶民にも待望されて来たということ、これは異常なことだと私は気がついたのです。

 世界の4大宗教とか3大宗教とか呼ばれ、その開祖と言われる人たちは当然、人格においても、生涯においても聖別され、奇蹟的力量においても他に抜きんじておられた方々です。しかし、このイエス様のような比類ない預言を背負っていた人はいません。

 千年もの長い間、イエス様はその誕生を待たれた人です。シメオンや、アンナたち。またベツレヘムの郊外の羊飼いたち、また遠い遠い異国の博士たちを含めて。

 当時はローマ帝国の爛熟期、道徳は退廃し、文明の死期がなんとなく匂っていた時です。

 現代もしかり。実に人類は今、救世主を待望しています。民族を救い、国を数うのはイエス様です。

 今日は、待降節(アドベント)と称して、クリスマスを待ち望む第3週目の日曜日です。日曜学校の子どもたちは楽しいクリスマスを待ち焦がれています。またクリスマスプレゼントをどんなに期待して胸を踊らせていることでしょうか。私も幼い頃、サンタクロースが煙突から降りてきて、私の枕元にクリスマスプレゼントを置いてくれる夢を見て興奮していました。

 イエス様のご降誕は神様から人類へのクリスマスプレゼントです。そして歴史的事実です。誰もイエス様の歴史的存在を疑い得ません。

 

   四、イエス様は唯一、無比なる方

 イエス様は以上の幾多の予言を負って生まれて来られた、人類史上希有な方です。イエス様は「自分は神と一つである」と自ら証言されました。この言葉が神を汚す涜神的な言葉だとして死刑の判決を受ける理由になりました。

 あるいは又、パリサイ人たちに「あなたがたは、この私に罪があると発見出来るか」と挑戦された事があります。また「私はアブラハム以前から生きている」とか、「私を信じる者は死んでも死なない」とか、「私は道である。真理である。命ある」などと断言されたものです。

 人間で、こういうことを言う人があったら、まずその人は大ペテン師か大ウソつきです。そうでなければ、気が狂っていると言うほかはありません。そうでなければ、事実、そのようにおっしゃるままの神に等しい方、いいえ、神様その方と言うほかはありません。

 お釈迦さんは「私は法を悟った者である」と言いました。けっして「私が法(真理)である」とは言いませんでした。多くの聖人たちは、修業し、苦行し、自己訓練し、座禅などして、聖人となり開祖となりました。しかし、イエス様は40日の断食と時おりのお祈りだけで、他にはほとんど修業など、何もしておられません。

 イエス様は生まれながらに聖者です。いいえ、それ以上の方です。つまり、神のひとり子です。

 このイエス様を私たちの心にお迎えする。これが私たちのクリスマスです。世界のすべての人々に、「みなさんクリスマスを迎えましょう」と、声を限りに告げたいのです。<く>

 

2003/12/7

(「日岡だより」第101号)

自然治癒力か、自己治癒力か、神の治癒力か


   一、自 然 治 癒 力

 初め、神様が天と地を造られました。第1日から第6日までに、光や空や植物や太陽や月や、そして海や地上の多くの生物を造られました。最後に人を造られました。そこで神様は、すべてのものを見て、「はなはだ良かった」と仰せになったと聖書にあります。続いて、聖書の記事には、「神様は第7日目には創造のわざをやめ、休まれた」とあります。

 それは、造られたもののすべてが完全であると神様は認められたということです。そうして被造物のすべては自律的に自分で存在することが出来る。彼らはすべて自分で活動し、種の範囲において進化もする、そういう自動装置を神様はお授けになった、それが神がお休みになるということだと、私は思うのです。

 ですから、生物のすべては傷や病気を受けたとき、自分のなかにある自律システムで治癒を行うことができるのです。これが自然治癒力です。(人間が造る宇宙航行機もそうあってほしいと、昔のイギリスの科学雑誌にありましたよ。)

 この力は生物全部に備わっています。もちろん人間にも十分に備わっています。昔から、賢い医者は言ったものです。「怪我や病気を治すのは皆さんの体の中にある自然治癒力ですよ。私たち医者はその加勢をするにすぎません」などと。

 この力は万人に平等に働きます。善人にも悪人にも平等です。ちょうど太陽の光と熱が、また雨や風が、善人にも悪人にも、平等に与えられるように(マタイ5:45参照)。

 しかし、ちょっと注意を要するのは、一般の動物と違って、人間の各々には、どうもその自然治癒力の働きかたに差があるということです。その人間たちの互いの品性や行為の善悪の差には関係はあまりありません。しかも、人によって自然治癒力の働きの実際の現われには差があるのです。

 なぜでしょうか。要因は、その人の思考の傾向、態度、心構え、そういったものによるようです。気分の明るい人、積極思考の人は、病気が早く治り、神経質な人、消極的な人、愚痴の多い人は治りは遅い。こういう傾向はありますね。


   二、自 己 治 癒 力

 前記にあげた人間だけに起る治癒力の不平等のことですが、それは人間の意識の持ち方しだいで病気は早く治りもするし、その逆もあるということです。ここに目を留めたのが、かつての「脳内革命」や「快癒力」等の本です。

 ノーマン・カズンズというアメリカの著名な編集者が頑固な膠原病になったとき、寄席や喜劇のビデオを買い込んでベッドに持ちこみました。そして朝から晩まで見て腹を抱えて笑ったそうです。そうしたら、その膠原病が医師の見通しの3分の1の期間で治癒したといいます。20年程前の話です。

 生長の家の信者さんで、癌にかかった人がいました。その人が生長の家の教えにしたがって、すべてのことに「感謝します。感謝します」、と生活しているうちに、その癌がいっぺんに治ってしまったという事実がありました。この事例を、心療内科創始者の池見酉次郎先生がしばしば取り上げたものです。私が「笑いましょう、笑いましょう」とずっと言い続けているのも、こうした事例の跡を追っているにすぎません。こうしたことは、みな私の書いた小冊子「笑えば必ず幸福になる」をお読みください。

 ここで分かるのは、自分で、自分の心を働かせて、自然治癒力を倍増させることが出来るということです。「脳内革命」の春山さんに従えば、エンドルフィンをたくさん放出させればよいのです。私たちの意識を明るく楽しい方向に変えて行こう、ということです。人間が自らの意識変革によって自然治癒力を倍増させることは必ず出来るのです。

 私は先年、東急百貨店の書籍売場で、キャロル・ハーシュバという人と、マーク・イーアン・バリシュという人の共著の「癌が消えた」という本を見つけて買いました。いい本です。この本のサブ・タイトルに「驚くべき自己治癒力」とありました。実は私はこの時はじめて、自己治癒力という言葉にお目にかかりました。良い言葉だと思いました。

 自然治癒力ではない。人間の自己の力で思考の方向をきめ、何事かを為し、心構えを変える事によって、病が治癒に向かうと言うのです。これは実は、理屈はともかく、宗教的な、また修養的指導者たちが様々に、これまでもずっと奨励してきた方法ではありませんか。


   三、心を変える方法について

 前記で、「思考の方向をきめ、心構えを変える」などと書きましたが、これが多くの人にとってたいへん難しい、と誤解されています。固い決心や、きびしい修業や、神秘的回心経験を経て、やっと可能なのだと思われています。

 キリスト教でも徹夜の祈りとか、断食祈祷とかが奨励されます。たしかに徹夜の祈りや断食祈祷はすばらしいことです。良いことです。しかし、これが病気の癒しのためのマニュアル化することについては私はやや懸念します。

 「心の方向転換」の方法自体にはもっと容易な道があると思います。病気の癒しだけに限りません。他のことの為にも、たとえば、子どもの登校拒否をなおす、夫婦関係の危機を癒す、憎らしい人を赦す、性格を変える、経営を繁栄させる、落選議員さんの元気回復。大統領再選を失敗してもカーターさんのように平和構築に国際的手腕を発揮する人もある。こういうくじけない心構えをどうしたら獲得できるか。

 やはり信仰の力です。主の十字架のあがないによるキリスト教の中心信仰を与えられたら、さっそく次には自己強化の信仰、力の信仰を持ってほしいのです。この力の信仰を得るには「告白」による方法が一番よいと、私は思います。私の経験では最も多くの人が体験できる普遍的方法ですから。

 ここで「告白」というは、罪の懺悔告白のことではありません。積極的、前向きな、自分を励ます、聖書の言葉をはっきり口に出して言うことです。詳しくは私の小冊子「だれでも出来る『心の強化法』」を読んでください」


   四、神 の 治 癒 力

 「病気の癒し」だけにしぼって述べてみましょう。

 実は自然治癒力も、自己治癒力も、すべて神の治癒力に属する宇宙間の普遍的な力です。しかし、つぎの秩序を知ってください。神の治癒力があって、その下に他の自然治癒力や、自己治癒力が成り立っているのです。

 最近、人気のあるヨガの中村天風さん。この方はインドの聖者のところに行って覚醒したそうですが、そのとき以来、この方は「造物主」という言葉を覚えられたようです。これはすばらしいことです。日本の八百万の神様と言うより余程良い。しかし、その後にも、「自然治癒力、自然治癒力」と言っておられた。これが残念です。

 どう見ても、中村天風さんのいう造物主とは、宇宙の意志、天地の法則というのと、さして違いません。村上和雄教授のいうサムシング・グレートと同じです。この宇宙の意志、天地の法則に従って、私たちの中に自己革命を起すとと、自然治癒力が豊かになるというのです。これはキリスト教圏外の教えのようですが、私たちクリスチャンにとって学ぶべきものが沢山あります。

 私たちクリスチャンも天風さんに似た方法で、自分の努力しだいで自己の意思を変え、心構えを変え、神様の生命法則ないし神様の御心に従って、私たち自身に、私たちの周りに奇蹟を起すことができるのです、この事をあまりにも多くのクリスチャンが知りません。知っていても、それを実行しません。

 こうした奇蹟的なことは、チョウ・ヨンギ先生やベニー・ヒン先生でないと出来ないことだと思っている人がいる。いや、もっと別の考え方があって、奇蹟を期待するなんて、新興宗教なみの卑賎な宗教だ、我々はそんな下等な信仰は軽蔑しますと言う人もいる。その気持ちは私にも分かります。

 人の救われるのは行為によらず信仰による、という十字架による義認の純粋信仰に閉じこもると、行いと努力による信仰の生き方は恩寵の領域を犯してゆくように思えて、信仰増幅の教育課程をうとましく感じる人もいます。私もそうでした。(義認信仰はキリスト信仰の中心であり、全体をささえます。これがなければキリスト信仰はあり得ません。)


   五、告白することの大事さ

 先に告白のことをちょっと書きましたが、もう一度書きます。「いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあってはあなたがたの労苦がむだになることはない」と聖書にあります。人間の自力行為の肯定です。からし種一粒ほどの信仰でよい、その信仰を用いて小さい自力で全力を尽くすというのです。これを継続すれば更に驚くべきことが起ります。

 「行いによらず、ただ信仰によって救われる」という言葉によって行為的努力を卑しめる傾向がキリスト教界の一部にあります。しかし、実行のない信仰は死んだ信仰です。実行をはげむと信仰が生き生きした信仰に生まれ変わるのです。

 たとえばイエス様のお言葉を引用すると、「この山に向かって海に入れ」(マルコ11:23参照)と言うだけでよいのです。ここで「言う」という言葉が言語のギリシャ語では繰り返し、継続、習慣化を表わす文法形になっています。ある人は「口癖が人生を変える」という本を書いていますが、言葉の習慣は口癖になります。善い口癖を身につけましょう。この告白の継続は信仰を生みます。口と舌と呼吸だけで行う人間の小さな行為ですがね。この口の行いが心に浸透し、人の心を変え、そして実践力をさえ与えるのです。実践的信仰生活の秘訣であります。(申命記30:14参照)

 マリーン・キャロザース先生の「賛美」も告白です。言葉による賛美も、歌による賛美も、すべて告白です。その他、信仰の進歩向上のためのご参考には、かつて信仰雑誌「恵みの雨」に連載した私の「告白の力」があります。(抜粋してコピー印刷しました、1冊100円でお頒けします。)

 この「告白」だけを取り上げて強調すれば、いわゆるアファーメイションという奴です。これだけでも自分の心構えを変えることが出来ます。ビジネスマンの成功の秘訣セミナーなどでやっています。

 初めのほうに書きましたが、「笑い」も一つの告白です。喜びの告白なのです。詩篇37:4(口語訳)では、「喜びをなせ」と命じています。「なせ」とあるでしょ、だから行為を求めているのです。私は言う、「さあ、だから喜ぶために、まず笑いましょう」と。こうして大きく笑って神様から喜びの力を与えられる。この「笑い」こそ、これも告白ではありませんか。(1997.7.26.週報掲載。今回、加筆修正した。)


イラク問題と拉致問題   

 今、日本ではイラク問題と拉致問題とが大問題なんです。イラク問題については、多くの識者が国益を土台に意見を語りますが、信義を基にして語る人が少ない。

 信義を問うとすれば、アメリカは石油等の国益的視点から、イラクへの先制攻撃を始めたのだ。先にブッシュがしきりに公言したイラクの大量兵器も核兵器も未だに発見出来ないではないか、アメリカのどこに大義が見受けられるか、どこに信義が見受けられるか、と問うことが出来ます。これは多くの人が納得するでしょう。

 ところで、日本はアメリカとの間に安保条約を結んでいる。またこの安保関係を確認して今回のイラク戦後処理には出来る限り助力しますよと、小泉さんはたぶんブッシュ大統領と口約束(?)をしているでしょう。この二重の約束を果たすべく信義を守ろうではないか、こういう意見も出てくるでしょう。産経新聞あたりでは、こうした主張は毎日のことである。

 産経新聞と言えば(私はこの新聞の愛読者です)この原稿を書いている今日、12月6日の産経紙面に韓国のチョウ・ヨンギ先生のエッセイが出ている。紙面を横断する一段組であるが、かなり長文である。今回は「愛の本質・与えることの奥深さ」という題、「奪うよりも与えるが本当の勝利」という結論が出そうなサブ・タイトルである。この言葉を小泉さんに読ませると、うまく利用されそうな感じもする。

 さて、そのチョウ・ヨンギ先生の文章の上に曾野綾子さんのエッセイが出ている。曾野綾子さんの文章はいつも面白いが今回も抜群である。その内容を私なりに簡略に紹介する。

 「日本の外交官がイラクで殉職した後も、日本の総理や閣僚は『派兵は状況を見極めて』などと発言する。『死傷者が出たらどうするか』などと言う新聞記者たちの質問もどうかしている。死傷者が出ないほど安全なら、そもそも自衛隊が行く必要が無い。自衛隊の将兵たちは大義を信じ国を愛して殉じようという人々であってほしい。そのためには、日本の青年たちは『死の哲学』を学んでほしい。ニーチエではないが、『死すべき時には死ね』という覚悟を持とう。とは言え、今回のブッシュ政権の信じられないほどの対アラブ認識の不足、そして自己中心的(西欧的)世界観の押しつけに、黙って日本の青年たちの血を流させるのが、『日米協力』という旗じるしの『日本の国家大戦略』であるのか。」

 とこう言うのである。そして、最後の5行の「とは言え」という所から始まる文章は、それまでの文章の流れと逆方向だから、困ったのであろう、曾野女史はこう最後をくくる。「ただ卑怯にも私は50%の運命論者である。人が別れ際に「幸運を祈る」と言うのは、実に運命に謙虚で人間的な言葉なのだ。今は日本の国家的幸運を祈るほかはない。」

 (私はこれまで曾野さんをクリスチャンと思っていたが、この最後の文章を見て、信じられなくなった。私は神様のご摂理を信じる。運命などという言葉は悪魔の造語だ。だから、別れ際の言葉は英語では「グッドバイ」、神があなたと共にいますように、という意味だ。しかし、今のアメリカ人の多くは、「グッドラック」と言うらしい。曾野さんの言うようにまさしく「幸運を祈る」だ。もっともアメリカ人でも宣教師たちは私たちに、「ゴッド・ブレス・ユー」と言ってくれる。「神様の祝福を祈る」である。私は「ハレルヤ」と言って別れるが。)

          *

 拉致の問題について考えてみたい。日本側の拉致非難にたいして、北朝鮮はすぐ戦前の日本の朝鮮にたいする非人道的圧政、略奪行為、慰安譜問題等を持ち出して声高々と日本の過去を攻撃する。この非難には韓国の人たちも心情的には同調するだろうと思う。こういう時の口吻の激しさは朝鮮の人の特徴と言えるが、それに対して応答する日本がわはしどろもどろで迫力がないのです。日本の問題点は、日本に真の謙遜と悔い改めがないということです。

 日本人はもともと、中国や朝鮮・韓国に対してそれほど悪いことをしたという認識を持っていないのです。非難を受ければ、礼儀上しゃちこばって頭をさげお詫びを言うけれど、「それでも善いことも大分したんだぞ」と腹の底で思っているのです。そのそぶりがつい出てくる。それが、半島の人々をいらだたせるのだと私は考えるのです。それがこの島国の国人には分からない。(半島という言葉、島国という言葉には両国民にとり複雑な感情があると聞いたことがあります。)

 深層意識の問題ですが、朝鮮の人々に対する日本人の最も大きな罪は、かつての私たち日本人のすべてが持っていた国民的侮蔑心だと思います。「チョウセン」と呼んで、あの人々に投げかけたあざけりの言葉、見おろした態度を、当時の朝鮮の人々は忘れることはないでしょう。それを口にするだけでも残念でしょう。

 農村の無知な農民から土地を借地といつわって、実は「売買契約書」を作成して、広大な土地を巻き上げ、それを戦後日本に帰ってからも自慢話にしていた例を私は知っています。私の伯父・釘宮徳太郎はよく「朝鮮で海賊をした、海賊をした」と懺悔話をしましたが、それも、どこか自慢話しに聞こえる所がありました。

 それは中国においても、やや似ていました。少なくとも、中国の人々を「チャンコロ」と呼んで馬鹿にしたのは、彼らには耐えがたい恥辱だったでしょう。人はどんな非難、搾取、暴力よりも、与えられた恥辱ほど耐えがたいものはありません。

 中国に対しては、その戦争目的そのものが近衛内閣によって「膺懲支那」と喧伝されました。膺懲(ようちょう)は「討ってこらしめる」と言う意味です。今のブッシュ大統領がフセイン政権に吐いた言葉と同じ響きを持っています。なんと傲慢な言葉でしょうか、これでは戦後処理はできません。

 ちょっと話題を換えます。アメリカという国が、ベトナムでも大失敗をしたのに、性懲りもなく、イラクでも「民主政府を作ってやる」などと言う自信はどこからくるのでしょうか。私は日本占領政策の成功にあると思います。

 日本は戦争に負けて、木端微塵に破壊され(大分市でも、大分駅の前に立つと全市丸焼け、向こうに別府湾が見えたほどでしたからね)、この国はどうなることかと心配でした。それがこの復興ぶりです。まず、アメリカ軍人の明るい気質が日本人を本当に安心させました。また、日本が戦後処理として朝鮮のように2分割されなかったことも、国際情勢としての米ソの冷戦状態等、また、例の朝鮮戦争で日本が連合軍基地として、また戦略物資供給地として機能したことで日本も儲けた。あれやこれやで日本占領政策の大成功でした、

 しかし、私のもう一つ考えることは、日本人のトータルな深層意識ではアメリカ人に対する怨念がない、恐怖心も怒りもない。どこか憬れと安心感がある。これは維新前、ペリーが浦賀に来たときは多少恐怖心があったでしょうが、それよりも好奇心が更に一杯で迎えたのではなかったか。

 吉田松蔭がアメリカ渡航を計り、新島譲も国外脱出をはかった。明治になってから、つぎつぎと幼い少女たちまでアメリカに渡った。そしてアメリカ文化が入ってきても、それは日本人の多くに好感を与えたように思える。

 乳幼児が育成の時代、虐待をうけると、それは次の世代に受け継がれて行く。その連鎖を断ち切らねばならないと、最近の新聞に出ていたが、私は日本人がどこかアメリカをあこがれた文明幼児体験を持っていて、これが敗戦後の日本人が案外すなおに占領軍のマッカーサー支配に従った原因ではなかったかと思っている。アメリカにたいする日本人の深層意識がはなはだ良かったのだ私は思うのである。

 戦時中の東條内閣の「鬼畜米英」という合言葉、或は映画館の前にアメリカ国旗を敷いて入場者の足で踏ませて、アメリカ憎しと洗脳工作するなどしたけれど、その効果は無かったように思う。その映画館の現場の覚えが私にある。

 映画などで、作為のない群衆写真を見る時、どうもアメリカ人の顔はどこかいい。そういう印象が私たちのDNAに刻み込まれているように思う。これが日本人にたいする占領政策が成功した原因だろうと思う。

 ともあれ、アメリカにとってこの占領政策の成功は思いもかけない奇蹟的なものでなかったか。しかし、これが彼らに過分の自信を与えた。この記憶がついイラクにおいても、うまく指導すれば日本のように民主国家を成立し、石油も安定して供給できるだろう、などと考えさせたのではなかったか。

 現在は、もうそれどころではない、危機感を十分にいだいていると思うけれど。

 さて日本はどうすべきでしょうか。私はまったくの門外漢ですし、しろうとです。小児的理想論でかたづけられる問題ではありません。曾野さんではあリませんが、「幸運を祈る」という言葉は魅力ある言葉です。しかし私はやはり全知全能の神様に祈ります。「世界の歴史を取り仕切られる神様、この日本に善い将来を与えてください」と。

 しかし、その上で、「神様、この国に、私どもの日本の国に幸運を与えてください。」こう本気で祈ってみると。意外に愛国心が満たされるので、私も驚きました。

          *

 さて、拉致の問題ですが、日本と朝鮮との間は、特に以上に書いた幼児体験の心の傷という民族心理から覗いて見る時、きりのない北朝鮮などの感情的応酬が分かるように思うのです。日韓併合という時点で、かなりの日本人が利益を求めて、朝鮮に渡って行った。それ以来、起っている反感気分は、日本人が感じている100倍もの嫌らしさで朝鮮の人たちは抱いていることであろう。敗戦直後の時代、アメリカの兵士たちを迎えた日本人の受けた印象とはまったく違うのである。

 今、私たち日本人の朝鮮や韓国にたいする外交、経済援助、文化交流、特に教会においての信徒の群の交わり等、特に向こうの年をとった方々には十分な配慮が必要である。同じイエス様の信者同士とだというので安易に付き合っていると、案外に辛い思い出を起させて居るのかも知れない。そんなことを心に踏まえつつ、悔い改めの思いをもって過去の日本の罪を意識し、お詫びの心をもって交わってほしいのです。

 「あれは昔のことです。あれは昔の兵隊がしたことです。今の私には関係ありません。私には貴国に対する罪はありません」などと夢にも思わないことです。ネヘミヤやエズラが神様の前に先祖たちの罪を悔い改めているように、私たちは先祖の罪を背に負って神の前に出て行く気持ちで、韓国や中国に行くとき、特にそこで教会を訪ねる時、その思いを忘れないようにしたいのです。<く>

 

〔あとがき〕
 いよいよクリスマス月に入ります。皆さん、会うたびごとに、互いに「メリー・クリスマス!」と挨拶を交わしましょう。私の小冊子「告白の力」に挨拶こそ身近な信仰告白であると書いておきましたが、挨拶は用心しないと、心の通わぬ冷たい口癖になってしまう恐れがあります。反対に、少しでも気をつければ、良い口癖になって私たちの交わりを聖め、喜びに満たし、そして私たち自身を変えてくれるのです。
 さて、先週の4日はグランシアタで西沢恵さんが主宰するゴスペルコワイヤの公演でした。盛会でした、みんな客席も立ち上がって手を挙げ、ハレルヤと叫び、また歌いました。このグレイスのメンバーは、ステージで自分たちがまず一番にのってしまうところがあり、客席ものせられます。ゴスペルの良さを胸一杯満たしてもらった一夜でした。いい気分でした。西沢さんのお父さんの広田牧師先生にも「おめでとう」と言ったことです。引き続き、ご活躍を祈りましょう。

 

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