キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報とともに毎週発行する「日岡だより」)2004年2月
2004/2/29
(「日岡だより」第113号)
2・26事件とオウム真理教
日本人は忘れっぽいという評判である。慰安婦問題などについて、よくそういう批判を聞かされる。もっとも韓国すじの批判は大仰すぎる点もある。戦時中、徴用工として軍事工場などで働かされた人たちは、よく挺身隊と呼ばれた。私もその一員だが、その「挺身」という名称から来る誤解もあるのだろうと思う。
ところで、もう一つ忘れてほしくないものがある。それは2・26事件である。先日の2月26日の新聞を見ると、私の見る限りでは中央紙にも地方紙にも、この2・26事件に関する記事が出ていない。ただし翌日の大分合同新聞の一面の帯コラム「東西南北」には出ていた。これは珍らしい例。この愛する地元紙に敬意を表したい。
新聞は単なるニュース報道紙ではない。新聞にはオピニオン紙としての、意見を世にむかって吐かねばならない使命がある。2・26事件に関する記事を書かないということは、その新聞社の姿勢が、そこにあるわけだ。
毎年の12月8日の真珠湾攻撃のことも最近は記事が小さい。一般読者の関心が小さいから、と弁明するであろうか。新聞社が企業化して、資本の論理と言うか、言うべき事から目をそむけやすい体質になっている? そういうことは、戦前から私の言って来たことである。
唯一の真の神を知らない人は(新聞も)、いざと言う時、世と悪魔の勢力に呑み込まれてしまう。残念ながら、よくあることである。
実は以上を書いたあとの翌日、オウム真理教の麻原某に死刑の判決があった。関連して、またまた大分合同新聞の帯コラムに坂本弁護士のお父さんの述懐が紹介されていた。言わく「オウムにかかわってきた犯人たちは、私たち世代が育ててきたはずです。私たちはいったい何をしてきたのだろう」。これは凄い言葉です。
「今の若いやつらはなっとらん」と年配の人たちが言う。その若いやつらを育てたのは誰ですか。戦前の教育勅語を懐かしむ人は多い。それで育った人たちの終戦後の生き様はどうです。教育勅語では人は本当には育たないということです。(内村先生の井上哲次郎との教育勅語論争を思い出さずにはおれない)。
2・26事件もオウム真理教も、頭が良くて純心で熱血タイプの青年たちが、親父の世代にむかって起こした一種のクーデターではないか。そう解釈すると、なんだかよく分かる。
このクーデターが自分自身に向かうと欝病や分裂症になるのではないかと思う。<く>
天地を造られた神は私たちの父である
〜創世記第1章1〜8節〜
一、天と地を造られた神は私たちの父である
昔、熱血的な伝道者、木村清松という牧師がおられた。この方がアメリカに行ったとき、ナイヤガラの滝を観光されたことがある。あるアメリカ人が木村先生をからかった。
「おい、お前さんの国にはこんなでっかい滝はあるめえ」
先生はすかさず答えた。
「なあに、これはおれの親父のもんだ」
「えッ…、お前さんはインディアンかい?」
このアメリカ人は木村先生がこの付近の土地の持ちぬしであったインディアンの子孫かと思ったらしい。木村先生はもちろん、我らの天の父の造られたこの地球の一造作物であるナイヤガラの滝くらい何程のことやあらん、という意気込みでもあったし、また先生一流のウイットでもある。翌日、近くの教会の伝道会で「今夕の説教者・ナイヤガラの滝の所有者の息子」という看板が立ったなどという話もある。
神はまさしく天と地と、そこにある万物を造られた。太陽や月や星、山や河や空気や海、すべての無機質の物を、あたかも生命あるもののように「わが兄弟、わが姉妹」と呼んだのは聖フランチェスコである。これは西洋人のなかでは異質かもしれないが、われわれ日本人にはよく分かる。そして、これは詩篇などを読むと決して非聖書的ではないと分かる。
かつての拡大宣教学院の公開講座で「小さないのちを守る会」の辻岡健象先生が語られた。
「人間、一人として障害を持たない人はいない。みんな、なんらかの欠陥を持っている。しかし、そうした人間を一人残らず愛して、『わたしの目には、あなたは高価で尊い』(イザヤ43:4)と神様は仰せられるのですよ」
辻岡先生は中絶反対の運動の先頭にたって、日夜奮闘されているわけですが、特に出産後、産みの実母のもとで育てることのできない事情の赤ちゃんを養子に斡旋なさるご奉仕など、大変なご苦労である。その中でも障害のある赤ちゃんは特に大変だ。
しかし、そういう赤ちゃんを養子として貰ってくださるようなご家庭には特別に濃厚な愛が満ちている。あの神様の愛の眼にも似て愛しはぐくまれる養父母とその家族の環境のなかで、その障害を持ったお子さんが素直にいじけず、ひがまず、スクスクと育つのだそうです。そして、そのお子さんを見て産みのお母さんが感動することもさることながら、なによりも彼女の心がすっかり変るのです。
彼女の育った家庭の環境ではまったく考えられないような暖かい家庭。こんな家庭で育ったなら、彼女のかつての荒れ果てた性生活、自棄っぱちな中絶意図も起こるはずはなかったのである。
二、あなたは本当に神様の子どもですか
私は以上のお話を聞いて養子ということについて、まったく観念を転換させられた。日本人は養子ということについて暗い先入観を持っていると思う。私もそうだった。しかし、辻岡先生からこのお話を聞いてまったく、その考えを変えざるを得なかったのである。
愛の家庭に迎えられた養子が、実子とまったく変らない人格の形成と成長を示すということは、私たちがキリストの「斡旋」により神様の養子として受け入れられるという、和解の神学を私に思い出させたのである。
この神様の養子縁組のすばらしさに気づかず、せっかく神様の子とされながら、相変わらず自分の欠陥やハンディキャップに目をとめて、いじけた暗い人生を送っている人にむかって、聖書は「お前は私の本当の子ではないのか。それとも私生児なのか」と問うだろう。(私生児という言葉は申し訳ない比喩ですが、お許しください。この表現はヘブル書12:5〜10より借用しました)。
*
仏教の人ですが大石順教という尼さんがおられた。この方は生まれつきだったか、事故によるのだったか忘れましたが、両方の腕がない人でした。この方のところへ一人の足の不自由な人がやってきた。
「僕はよくころぶんです」
「なぜ、そんなにころぶんです」
と順教尼が言う。その人が憤然として言う。
「あなたは自分も障害者のくせにひどいことを言う。僕はびっこですよ。ころぶのは当然じゃないですか」
「いいえ、あなたは足を人に見せたくなくて隠すようにして歩くからころぶんです」
その人は愕然としたそうです。そしてそれからあまりころばなくなったし、何よりも明るくなったそうです。
天と地を造られた偉大な神様があなたの父であり、あなたはその本当の子どもであるなら、あなたは自分の欠陥のどんなところをも隠して歩く必要はない。明るく堂々と生きられるはずです。
あなたは神様の目には、実に「高価で尊い」存在なのですから。「天と地を造られた神は私の父である」と日毎に口に言い表わしつつ生きようではありませんか。
(1994年5月22日の主日礼拝メッセージの一部を筆記)
2004/2/22
(「日岡だより」第112号)
イエス・キリストはなぜ死なれたのか
イエス様は歴史上ただ一人、死ぬために生まれた方である。死ぬことが、ご生涯の目的であった。言うまでもなく、ゴルゴタの丘の上における十字架上の死である。
聖書を読めば分かるように、ピラトの判決は言い逃れの卑怯な誤審であり、だからイエス様の死は冤罪の死であったと言える。しかし、神様から見れば厳正な当然なる審判である。ピラトは自ら知らずして神様を代理して、イエス様に死刑の判決を宣言したのである。
父なる神の告発はこれである。エデンの園で神はアダムに言われた。「善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬ(創世記2:17)」と。
しかし、アダムはすぐには死ななかった。実に930年も生きて、肉体は死んだ。しかし霊は死ななかった。アダムのみならず、アダム以降、すべての人の霊は陰府に下って行っても、ともかく生きている。地獄には下らない。神様は死の執行を延期して下さっているのです。
だからと言って「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、私たちの主イエス・キリストにおける永遠の命である」(ローマ6:23)とある聖書のみ言葉は永遠の真理である。この神のご意志は、御子イエス様を十字架上に送ることによって、やっと実現したのである。
イエス様の十字架の死は、確かに御子イエス様ご自身のご意志でもあるが、実はもともとは父なる神様の強固なるご意志である。このことを忘れてはいけない。
この事は不可解な矛盾きわまることに思える。しかし、万物を造られた御方、神様にはふさわしい知恵なのであった(ヘブル2:10参照)。
神様の御心にとって、エバ、アダムをだまして神の御心に抵抗させようとした憎むべきサタンを完全に滅ぼす為には、そして人類救済の歴史を貫徹する為には、この十字架の戦略こそ必要な第一の過程だったのである。
*
イエス様の十字架の死について、イエス様の裂かれた肉、したたる血、茨の冠、イエス様の嘆きの御顔、そうした修飾語でイエス様の悲しみ、苦しみを、痛ましさを語ってくれる敬虔な言葉は多い。しかし、この時の父なる神の「痛み」を語る神学や説教やエッセイは少ない。
これは西欧神学の盲点であったろうか。戦後に日本から発信された北森嘉蔵教授の「神の痛みの神学」は多分西欧の神学者にとって大きな衝撃だっただろうと思う。
最近、少年犯罪で子どもを殺された親の苦しみや痛みについて、マスコミで声高い言説を聞く。ここで考えてほしい。イエス様の死を最も悲しまれた方は父なる神ではなかったかと。
逆に、こういう見かたも無いことはない。「神様の人類救済計画には最初からイエス様の復活も仕組まれていたはずだ、だから神様はイエス様のあの十字架の死を『細工は流流、仕上げを御覧じろ』と、笑って見ていたであろう」と。「そんなことはない」と北森先生は言う。
そんなことなら、「太陽は光を失い、全地は暗くなる(ルカ23:44)」というような大天変地異も起こるほどのことはない。実は神様こそ、イエス様の死を深く深く嘆かれたのである。私が回心した直後、聖霊は私に示された。
「主の十字架は神の宇宙を杯にしても飲み干すことのできない大きな悲劇であった。誤解を恐れずに言えば、これは三位一体の神の自殺行為ではないか。さすがの神様も、こうでもしなければ人類の罪は救えなかったのである」と。
イエス様は最後の晩餐の席で言われた、「私と父とは一つである」(ヨハネ17:22参照)と。この天的一体性を強調されたイエス様が十字架の上で、なんと、こう叫ばれたとは。
「わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひし」(マタイ27:46文語訳)。
日蓮宗の人々は言うでしょう。日蓮聖人は首斬り役人の刀を閃光と共に断ち折らせたではないか。それに比べてキリストさんは、実に情けないと。私たちも読むに耐えがたい場面です。
(この聖句が長い時代、写本の繰り返しの中で削除されずに済んだことは、現行聖書を世々守ってきた教会の誠実性を立証するに十分です。クリスチャンにとって、できればこの聖句ほど削除したくなる聖句はありません。これをキチンと残した写本家たちを称賛しよう。)
ここはさすがの内村先生も、「ちょうど、当時のユダヤ人たちの、その日の聖書日課が詩篇22章だったのである。そこをイエス様は朗々と朗誦しようとされたのである」などと、やや詭弁めいた言い訳をしていますが。しかし、
私は言う、ここほど有り難い聖書個所はない。主が私たちのために、私どもの罪を背負って神に呪われるものとなった、というのであるから。ここにこそイエス様の本当の死が見える。
イエス様は父を見失って死を目前にしている、それを見て父なる神も厳しい霊の痛みを負われたことであろう、すなわち「神の痛み」である。こう書くと、多くのクリスチャン方の非難を受けるかもしれない。しかし、人間の罪を赦すための神様のがわの困難さは、それほどの事なのだと私は言いたいのです。
*
こうした手段を尽くして、神様は私たち人類に和解の手を伸べて下さる。和解とは両方の者が手を伸べて和解の握手をすることだと例えようか。しかし、ここでは神様のほうから一方的に手を差し伸べて下さるのである。
ここで既に和解の準備は完了している。ただ、人が信仰の手を伸べさえすれば、ただちに人は神様の前に恥じることなく、立つことができる特権を与えられる、それが「義と認められる」という事である。
その「和解」の申し出を神様に代わって、人が手を伸ばす、それが伝道者の務めである。それが、第二コリント5:18、19にある「和解の神学」である。
(この「和解」の言葉をイエス様の弟子である私たちは、多くの土地を巡って宣言しよう。又、特に霊的傷を負っている土地に接したならば、厳しくサタンどもを追い払おう。こうして地域を癒すなら、その土地は非常に御言葉を受け入れやすい適地となる。効果的伝道の前提である。これがヘンリー・グルーバー先生の「歩行祈り」の神学です。昨年、先生から聞いたばかりの教訓ですが、ともあれ、これらの事はすべて、信仰義認を頂いての救いの確信に支えられてのことです。「行いによらず、信仰によりて義と認められる」(エペソ2:8〜10参照)という、この真理については、昨年11月2日号の第1頁をお読みになってください)。<く>
2004/2/15
(「日岡だより」第111号)
なんじの国籍は天にあり
木南真佐子
明後日(10月23日)が私の回心記念日、イエス様が個人的に私にふれて下さった日です。
20数年程前、その頃の私は主人に対しても、両親に対しても子供に対しても、そして店(衣料品店をしていました)の経営に対しても、更に私自身の良心に対しても、うまい具合に行かないので、毎日泣いてばかりいました。
その時、釘宮先生にお会いしました。少しでも神様のお話を聞いたら心が安まるだろうと思ったからです。
ところが、聖書を教えられ、聖書を読んでいくと「自分が罪深いものである」ということが分るばかりで何の救いもなかったのです。とうとう聖書を捨ててしまったこともあります。
しかし神様は遂に私に個人的に語って下さいました。
「愛する真佐子よ。私はお前の罪をさばかない。お前の国籍は天にある」
とおっしゃって下さるのです。その瞬間より、私はすっかり嬉しくなってしまいました。今までの苦痛、患難、何もかも忘れてしまいました。
そして気がついてみると、見るものすべて何もかも、ほほえんでいる、光り輝いている、世界の色が全然これまでと違うのです。
お風呂にいる時も、お便所にいる時も、お店番している時も「神様ァ、神様ァ」と祈りました。すると神様はいつも答えて下さいました。
特にその時見せて下さったのは天国の色です。天国には全然影が無いんです。黄金をもっと何百倍も輝かしたような、光沢のある色なのです。
その日から、今に至るまで、境遇が悪くなっても、行きづまるように見える時にも、神様は私を御聖霊と御言で守って下さいました。
ご聖霊に満たされて喜んでいる人を見ると、「あれは本当かいなァ、アホウみたいやなァ」と思う人もいるかもしれないけれど、あれは本当なのです。心の底から嬉しいのです。
そこで皆さん、おすすめ致します。御聖霊を求めましょう。本当に、御聖霊様は実在するのです。そして神様は私を意識して下さって、私を救って下さるのです。
キリストわが内に生くるなり
相良佐枝子
昭和34年の今日(10月21日)、私は当時、大分交通につとめていて、バス通勤していました。
その日も、1日の勤めをおえて、現在の10号線大分大学のあたりを通っていました。客が多くて、私は運転席の後ろの柱にもたれてぼんやりしていたのです。
その時フト気がつくと、同乗の見知らぬ乗客の一人一人がいとおしくいとおしくてたまらない自分なのです。
かき抱きたいような愛の感情がわきおこってくるのです。どうしてこういう心になるんだろうと私は非常にいぶかりました。すると突然、
「我キリストと共に十字架につけられたり。もはや我生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今われ肉体に在りて生くるは、我を愛して我がために己が身を捨て給ひし神の子を信ずるに由りて生くるなり。」 (ガラテヤ2:20)
この御言葉が、私の全身全霊を全く占領してしまいました。その時、私の足もとに私の古い死骸が黒々と横たわっているのがありありと見えました。そして私を愛するキリストのうるんだ愛の御眸をまざまざと感じたのでした。
このあと、バスを降りてからどうして家に帰ったのか何一つ覚えていなかったくらいです。
その後、神様は仕事や家事の中で一瞬一瞬教えて下さいました。これまでは限りある世界に生きていましたけれど、その時より永遠という感覚によって生きるようになりました。
今まで、この目で見ていたものはすべて影であり、今こそ真実の栄光を見ているのだと分らせて頂きました。
それより20年、御恩寵に引きくらべてあまりに怠惰にすごしてきたと反省しています。悔い改めて益々御言葉に従い生きたく存じます。
最後に、私の特愛の聖句を載せさせていただきます。
「神もし我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや」(ロマ書8:31)
「2羽の雀は1銭にて売るにあらずや、然るに汝らの父の許しなくば、その1羽も地に落つることなからん」(マタイ伝10:30)
「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた」(ロマ書4:17)
「あなたがたの会った試練で世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、のがれる道も備えて下さるのである」(第一コリント11:13)***
以上は2編とも、1979.10.21日曜礼拝での証詞の筆記を当時の週報から再掲載したものです。この両姉が証している時代、私も若かったです。木南姉には夜半12時を過ぎて、歩いて家に帰らせた事がある。彼女は後日、「有難うございました。ずっと祈りとおして帰りました」と感謝していました。相良姉には、もっと硬教育でした。しかし、お2人とも謙遜で従順でした。今、思い出しても涙が出ます。私の手元での回心第一号は故大石美恵子姉です。彼女も明確な回心でした。彼女は私の命令一下、長谷川保先生の聖隷保養園の看護学校に行きましたが、無銭旅行なども恐れずに若い伝道者の私の言うことを聞いてくれました。これ又、涙。<く>
主イエス様をお迎えしよう
使徒行伝第9章14節や、また同じ章の21節に「御名をとなえる者」という言葉が出てきます。
ここの個所を簡単に「クリスチャン」と訳してある邦訳聖書もありますが、ここは「御名をとなえる者」と訳すのが正しいでしょう。聖書は分かりやすく平易に訳すべきだという説は正しいのですが、しかし出来るだけ原文の意図にかなうように正確に訳してほしい。これは本当にむつかしいのです。翻訳というのは、厳密には解釈なのです。語学も大切ですが、翻訳者の信仰が大事です。(奥山実先生が聖霊様の働きを信じる者としての新しい翻訳を準備中です。期待しましょう)。
さて、前述の「御名をとなえる者」という語句の中の「となえる」ですが、調べてみると、エピカレオーという言葉です。これは「名を呼ぶ」という言葉です。特にここでは文法的に現在形ですから、ギリシャ語では繰り返し、継続、習慣化をさします。
ですから、使徒行伝第7章でステパノが石打ちの刑で殉教する最後の場面、「ステパノは祈りつづけて言った。主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」という場面ですが、この「祈りつづける」という所は原語はエピカレオーです。ですから「ステパノは(御名を)呼びつづけて言った」と訳すべきでしょう。新改訳はこれに近いです。
エピカレオーは合成語でして、分解すればエピ+カレオーです。カレオーという言葉を辞典で引いてみて分かったことは、「呼ぶ」でよろしいのですが、遠くにいる人に呼びかけるというような意味のほかに、夕食にお呼びする、家にお招きする、という意味があるのです。
金田福一先生がよく。こんな風に信仰の導きをされていました。「あなたの目の前にイエス様がおられると思ってください。そしてイエス様に『どうぞ私の心の中におはいりください』と言ってください。主はかならず、あなたの心の中におはいりになって下さいます」と。私は「金田先生よくやるなあ」と嘆声を発したものです。これはまさしく、上述のエピカレオーです。
しかも取税人ザアカイではありませんが、ましてイエス様のほうから「今夜はお前さんの家に泊まりたい」とおっしゃって下さるのですから、「どうぞ、どうぞ。私どもの家にお出で下さい」とお迎え申し上げるのは当然ではないでしょうか。「主よ、どうぞお出で下さい」と主をお招きしましょう。(2004年2月12日、祈祷会でのメッセージ要約) <く>
2004/2/8
(「日岡だより」第110号)
信仰の基礎とその後の進歩
キリスト教の信仰の第一番は「イエス様があなたを救ってくださる」ということです。
人はだれでも罪ととがを犯しています。しかしイエス様を信じた者は、だれでも赦され、救われています。
ですから、もうその人は過去の罪や悪いことを、思い出して苦にする必要はないのです。
いいえ、苦にしてはいけないのです。それは不信仰です。
ただ今日一日を感謝し、喜んで生きましょう。明日を期待して生きましょう。未来にロマンを期待しましょう。
*
それでも、長い習慣から、私たちはとかく罪を犯し、悪いことをしたり、考えたり、言葉にしたりします。そして、悲しんだり、淋しがったり、腹をたてたりします。
それは悪魔の差し金、悪魔の誘惑です。悪魔はすべての悪しきことの根源です。
そんな時、心を神様に向けましょう。それが悔い改めということです。
*
救いということの第一番は「あなたの罪や汚れからあなたを救い出され、あなたは神の前に正しい人として認められる」ということです。
不吉なことを言うようですが、あなたが今もし、心臓が止まり、息も絶えて死んでしまったとしても、安心です。
神様のそばの「命の書」にはあなたの名前がちゃんと載っており、あなたは確実に天国にはいれるのです。
「そーんな、死んでから先の不確かなことで、私をおどさないでください」と、言う人もありましょう。しかし、まず人が死ぬことは私たちに決まっています。だれ一人、これから逃れることはできません。
そして、もう一つ、死んでから後、キリストの前で裁かれることも本当なのです。
聖書に、「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」とあります。(ヘブル人への手紙9:27)
*
キリスト教の神様は万物を造り主、唯一の愛と正義の清い神です。
この神様の前に出ると、誰一人「私は正しい人間だ」と言って立っておれる人は地球上に一人もいません。
人を殺したり、金を盗んだりはしていないでしょうが、しかし心の罪や、人の目に隠れた小さい罪はいっぱい背負っています。
実は、本当に清く正しい人ほど、自分は清くない、罪や汚れを持っていると思っているものなのです。自分には罪はないという人はこう言います。
「自分だって少しは悪いこともするが、こんなことはみんなもしているじゃないか。だいたい悪いのは社会だ、教育だ。政府が悪いんだ」と、罪や悪を人のせいにします。
でも、一人じっと考えていますと、自分の罪や汚れははっきりと分かってきます。それがほんとうに正直な人です。
日本の一番信徒の多い宗派である真宗の開祖、親鸞上人もそんな人でした。「私の心は蛇やさそりのようにきたない」と嘆いています。
親鸞上人の時代にキリスト教が日本に入っていたならば、親鸞上人は一番にイエス様を信じただろうと思います。
イエス様こそ、私たち人類の罪や汚れをまったく赦して清めて、私たちを救ってくださる方だからです。
イエス様は私たちのために身代わりとなって神様からの刑罰を受けてくださった。そのおかげで私たちは赦され、正しい人として認められ、天国に行ける人になるのです。
*
もう一度、先に書いた言葉を繰り返します。
人はだれでも罪ととがを犯しています。しかしイエス様を信じた者は、だれでも赦され、救われています。
ですから、もうその人は過去の罪や悪いことを、思い出して苦にする必要はないのです。
いいえ、苦にしてはいけないのです。それは不信仰です。
ただ今日一日を感謝し、喜んで生きましょう。明日を期待して生きましょう。未来にロマンを期待しましょう。
それでも、長い習慣から、私たちはとかく罪を犯し、悪いことをしたり、考えたり、言葉にしたりします。
そして、悲しんだり、淋しがったり、腹をたてたりします。
それは悪魔の差し金、悪魔の誘惑です。悪魔はすべての悪しきことの根源です。
そんな時、心を神様に向けましょう。それが悔い改め(*)ということです。*悔い改めという言葉の原語はメタノイアでして、その意味は「心の転換」ということです。メソメソ泣いて罪意識に悶えて、苦しむことではありません。特に、クリスチャンになって以降の悔い改めは、神様に向かって自分の気のつく罪の数々と、主にあって赦される回復の信仰を「告白」することだと言ってよいのです。(第一ヨハネ1:9参照)。
*
そして、「ワッハッハ」と笑いましょう。悪魔はクリスチャンのワッハッハの笑い声の前に立って居れないのです。はだしで逃げ出します。
聖書に「主にあって喜びをなせ、主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37:4)とあります。
神様はあなたの罪を赦し、心に平安と喜びを与えてくれます。そして生きる勇気と知恵を与えてくれます。しかし、しばしば忘れるのです。
まさに、神様はクリスチャンに「喜び」を与えてくれます。でも又、クリスチャンは自分で「喜び」を生み出すことも出来るのです。
聖書を見ると、「あなたがたは喜びなさい」という言葉は命令形です。そして信仰の基礎であるイエス様からの救いを頂いている人は自分で「喜びをなす」力もあるのです。
他の平安や、霊的能力や、信仰の進歩、強化、拡大、深化に関することも、すべて可能なのです。信仰の基礎を掴んだならば、さっそく、次の段階、信仰の進歩を図ることに心を尽くしてください。
それが信仰の第二番です。まず礼拝やその他の集会にできるだけ出席することです。礼拝に参加すると、その中で聖書、祈り、賛美、奉仕、伝道について教えられ、また信仰も進歩するのです。
更に深いディボーション、瞑想、常に神との交わり等々、高い深い境地もありましょう。
しかし、まずお奨めしたいのは前号にも書きましたし、この稿でも先ほどちょっと触れましたように「笑う」ことです。
特に福音派の方々が、せっかく聖霊の充満、第二次体験をされても、しばらくすると堅苦しい律法主義に陥りやすいのは、「笑い」の練習をしないからですよ。
聖霊派の信者さんも(我が教会の如き)、せっかく異言体験にめぐまれても、その後どうも恵まれない、ぐずぐずしている方たちは、どうぞ思い切って笑ってみてください。笑えば、自分で喜びを生み出せるのです。
普通は、嬉しいことや楽しい情景を見たり聞いたりして、その刺激で受け身で喜ぶのです。
しかし、感情が嬉しくなくても、楽しくなくても、自発的に笑って、自ら喜びを作り出す。
……これは積極的な喜びの生産技術です。これを体得しましょう、そうすれば、いつも幸福感を得ますし、いつもニコニコ喜んでいる微笑の人になります。本紙前号の「笑えば天に報いあり」をお読みください。また小生の小冊子、「笑えば必ず幸福になる」をお読み下さい。又、電話「ワッハッハ元気が出る電話」097−551−4154をお聞き下さい。<く>
2004/2/1
(「日岡だより」第109号)
笑えば天に報いあり
誰と誰とだったか、「海馬」という対談の本があった。海馬とは脳のなかで記憶の配分をつかさどる所だが、ついでに「側坐核」という小さい部位の話題が出ていて、そこは「やる気」を起こすところだということだった。
その側坐核が刺激を受けると、早速「やる気」が起こる。その上、自己刺激する特徴があって、ますますやる気を起こすのだという。奥さんがたが、夜おそくテレビを見てふと台所の片付けをしたくなり、始めたら興に乗って未明の朝まで冷蔵庫や棚をひっくり返していたなどということが起こる所以であろう。ところで、
先日、東京の娘よりメールがあって、「側坐核」の別の情報を送ってきた。あるメルマガに載っていたらしいのだが、側坐核に「笑い」の刺激がはいると、「報われた」とか「得をした」というような幸福感を感じるらしい。
ともかく、笑うと、それだけで幸福を感じるという機構があること。注意してほしい、幸福を感じたから笑うのではない。笑うから幸福を感じるのである。私もいつも言っていることだが、これが脳生理学的に実証されたわけだ。
この娘からのメールを読んだ後で、偶然マタイ5:11,12を読んで、あっと驚いた。次のように読めるではないか。
「たとえ艱難が来、迫害に遭うとも、それは良いことである。心配や不安、憂欝、それらを吹き飛ばすために、喜んで『ワッハッハハ』と笑いなさい。大喜びをすれば、天において私たちは大きい報いを受けることになるのだから。」
人間は他の動物と違って、自発的に笑うことが出来る。笑う能力は人間だけにある。かつ、自分で自分の心に命じて、その意識を起動させることができる、これも人間だけです。
だから、人間は自分の意志で「笑って喜ぶこと」が出来るということになる。私がいつも言っていることですが、これは凄いです。
さあ、自分で自分の心に「喜ぼう」と意志をもって命じてください。また続けて「笑いなさい」と自分に命じてください。そうすると、あなたは笑いはじめ、そして喜びを感じます。少しでも喜びの波動を心に感じたら。「うれしい、うれしい」と言って、「もっともっと喜ぼう」と、笑って喜ぶことを、いやが上にも期待しましょう。小さい達成を、繰り返し体験して、その成功感を積み重ねると、しだいに大きな達成感、成功感、自信、確信、大きな信仰に到達するのです。
「喜びは天に大きな報いをもたらす」、これはイエス様の凄い約束です。大きな祝福です。<く>
病気を癒す力(二)
前号で「自然治癒力」と「自己治癒力」について述べました。今回は「神癒」について書きます。「神癒」と言いますが、本当は「キリスト様による癒し」と言うべきでしょう。
〔旧約の時代〕旧約聖書の時代にはエリヤ、エリシャ等、すぐれた「預言者たちによって」見事な癒しが行われました。それはエホバの神による癒しでありました。キリスト様はまだ地上にお出でになっていない時代です。神の力による癒しは、まだ弱い信徒たちには開かれていませんでした。癒しの奇蹟は偉大な預言者級に限られていたのです。
(エホバという神名は学者たちの言うようにヤハウェでも良いのですが、出来れば文語訳聖書で明治以来唱え慣れたエホバのお名前のほうが良いと思います。これを聖書協会が口語訳で「主」と普通名詞に替えたのは、エホバの証人を意識してのことでしょうか、腰が引けているように思えます)。
〔イエス様の時代〕イエス様が地上に来られてからは、12弟子たち、また72人の弟子たちが、「悪霊を追い出し、病人を癒す権威と力」を与えられて、イエス様の代理行為が出来ました。
そして、復活されたイエス様は、イエス様を信じる者すべてに、つまり使徒であるとか、そういう高級信者でなくてもよい、すべての者にこの力が与えられる事を約束されました(マルコ16:17,18参照)。
〔使徒以後〕つまり、使徒行伝の時代以降、癒しの行為はクリスチャン全員に対するイエス様の尊い約束なのです。このイエス様の約束を私たちに可能ならしめるのは、前号にも書きましたが、聖霊様の働きです。
癒しの原動力はイエス様の撃たれた傷と十字架における血潮です。しかし、その御力をあなたのものとし、あなたがキリストの癒しを体験するためには、あなたの信仰が必要です。
ところが人間というものは、そう簡単には信仰が持てないものです。信じたいと願っても信仰が湧かないのが通常の人間です。例えば、この私は22歳の青年の時、刑務所の中で、その「信じることが出来ない」私自身に苦しんで、絶望しました。その絶望のドン底に聖霊様が臨んで私の魂に信仰が湧いたのでした。
しかし、別のタイプの信仰獲得法があります。それは「み言葉を口にする」方法です。「み言葉には人の魂を救う力がある」(ヤコブ1:27)からです。
癒しの真理は聖書に書かれています。聖書は神の霊感によって書かれています。この聖書の中の特に癒しの個所を繰り返し音読してください、「声を出して読む日本語」という本が一昨年末からベストセラーですが、聖書を声に出して読みましょう。み言葉には奇蹟を生み出す神の霊力があります。
癒しのみ言葉を宣言しなさい。そうすると、私たちに「キリスト様による癒し」の信仰が湧いてきます。もう一歩進んで、み言葉によって「病気よ、出て行け」と命じると病気が出て行くのです。そのことが起こり始めると、いかなる愚かな人にも神癒の信仰が少しずつ、しかし確実に定着します。
本当はイエス様から、彼の信仰、イエス様の持って居られる信仰(*)を頂くのが一番よいのです。しかも実は、その自分の熱心さで掴んだ信仰と思っている信仰もイエス様の恵みにより頂いた信仰なのだということが分かってきます。すべては聖霊の働きによるのです。
(*)ガラテヤ2:16の「キリスト・イエスを信じる信仰」と訳してある言葉は、本当は「イエス・キリストの(所有している)信仰」と訳すべき個所なのです。
「奇蹟を期待する祈り」はマルコ11:22〜24の祈りです。マルコ11:22の邦訳で「神を信じなさい」とあるところは、英訳聖書ではたいてい"Have The Faith of God"なのです。これこそ「神の(持って居られる)信仰なのです。そのほうが原語に忠実です。この信仰は神様が天と地を作られ、無から有を生み出された時の神様の使われた信仰です。この信仰で天と地を作られたのです。すなわち、「山にたいして海の中にはいれ」と言われる信仰です。
「病気の癒しの祈り」にはイエス様の模範があります。マタイ8:16です。そこにはこうあります。「イエスは@み言葉をもって、A悪霊を追い出し、B病人をことごとくおいやしになった」。ここにイエス様が大衆を癒す時の一般的方法があります。この順番を重要視することです。まずみ言葉、次に悪霊を追い出す。その次に病人を癒すのです。
病気を癒すというより病人自身を癒す、これは気づきにくい小さな言葉ですが、驚いてよい言葉です。病気を癒すのではなく、病人自身を根底から癒すのだという、イエス様の主眼が病気を癒すことよりも、病人本人を癒すことにある! これは大事な点です。
さて、イエス様は特別の場合、しばしば按手して癒されています。これらのイエス様の祈を私たちも真似しましょう。そうです。信仰とは真似です。イエス様を真似し、使徒たちや、先輩の信仰実践を真似し、それがうまくゆくと、小さな成功。小さな成功が生まれ、そのことを感謝し、喜んで、成功を記憶するのです。
成功記憶の法則というものがあるのです。水泳を練習する間、最初のうちは下手な水泳、失敗の連続、しかしいくら失敗を繰り返しても、一度うまくやれて成功すると、その小成功を体は覚えて、それまでの失敗は忘れてしまいます。これを「成功の記憶の法則」と私は言うのです。
私たちが祈る時は、イエス様の真似をすることです。それにはまず「イエス様のお名前を唱えること」が必要です。改めて、マルコ16:17を唱えることをお奨めします。
尚、マタイ8:2,3をお読みください。ここは原文ではハンセン氏病の男がイエス様に「自分の病を癒してくれるよう」イエス様の「意志」を求めていますし、またイエス様もおっしゃいます。「私は意志する。癒されよ」と。
ここでイエス様は人の病気を癒すことは「私の意志」だと言っているのです。ときおり、病人のところに行って、「御心ならば癒し給え」と祈る先生もいますが。これは信仰のたりない卑怯な祈りです。万一、癒されないとき恥をかくまいと思って安全弁を設けているのだと非難されても仕方がありません。
もう一つは、癒しの祈りは、実は懇願の祈りではなくて、イエス様の模範に従うならば、それは「命令」であるべきです。あるいは「あなたの病は癒されます」と「宣言」しましょう。それは「告白の信仰」の始まりです。
なお、癒しのみならず一般の祈りにおいて「呼ばわって祈る」ことを体得して下さい。最近、認識されはじめたヤベツの祈りでも、彼はイスラエルの神に呼ばわって願っています。呼ばわる祈りは詩篇に何度も出て来ますよ。もちろん、心に深く沈潜して祈る祈りもあります。しかし、慣れない人には呼ばわる雄叫びの祈りのほうが余程やさしいのです。<く>
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