キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(週報とともに毎週発行する「日岡だより」)

2004年3月

2004/3/28

(「日岡だより」第117号)

熊が出る町   

 東北は宮城県に拡大宣教学院を時々訪ねる。ある時、近在の村で「熊が出没しています。お気をつけください」と、アナウンスが拡声器から流れてきて、九州人の私をびっくりさせた。

 昨年は信州か北陸でしたか、森か林か覚えていないが、あるおじさんが熊に会って、取っ組んで、これを負かしたという新聞記事があった。その熊はスタコラ逃げて行ったそうだ。なんだかのんびりした話である。

 ロシアのシベリアではそんなものではない。熊が町に出てきて人を襲って食い殺したという話がある。最近のことだという。そのあたりの熊は体重600キロ、走るのも早い。100メートルを4、5秒で走って襲ってくる、逃げおおせるものではない。しかも10センチ近い鋭利な爪を5本もつけた丸太ん棒のような手で人間の顔を一撃するのだ。ひとたまりもない。これがシベリアの熊である。

 しかし、この恐怖の熊は用心すれば、なんとか避けられる。しかしこのシベリアで避けられないのが貧困である。北朝鮮やアフリカなどの貧困と比べても、度を超していると思う。働こうにも仕事がない。地域経済そのものが極度に貧しい。病気をしても救済制度もなく、官僚は非能率、人民は怠惰で、酒と麻薬とセックスに暮れる。

 その上、魔術的宗教で民衆の良心は闇に落ち込んでいる。社会全体が滅びに近づくソモラ、ゴモラのような、霊的にも零下なん十度と言えそうな地域である。

 こうした報告を「地の果てまで」という雑誌で私は読んだのです。発行はキリスト福音宣教会という一見ありふれた名前の団体です。しかし、実際におこなっている活動には驚嘆させられます。まさに「地の果て」です。どこの伝道地よりもひどいと思って私は胸が痛くなった。

 以上の報告を綿密に感動的に書いてくださっているのはH・M先生ですが、先年このH・M先生一行に連れて行ってもらったカナダのトロントでは、このH・M先生とご一緒に呑気に草むらに寝そべっている写真も私の手元にあるほど、楽しい旅行であったが、どうしてどうして先生のシベリア伝道は、そんなのんびりしたものではない。私は息を呑んで先生のペンになる記事を読んだことです。

          *

 先日、広田先生のチャペル・ノアで韓国釜山の水営路教会の金先生による聖会に出ましたが、その最後の聖会で先生が「教会成長のための心がけ」の5つの項目を語られた。それは、

 第一、教会の大きなヴィジョンを持つこと。
 第二、よく祈ること。
 第三、小さなことからコツコツ始めること。
 第四、海外宣教に力を尽くすこと。
 第五、什一献金を励行すること。

 私は聞いていて、特に第四の「海外宣教に力を尽くすこと」に心を奪われた、というより慙慚の念に耐えなかったのである。

 30年ほど前だったか、ある先生をフィリッピン宣教に送るということで、その応援献金を拡大宣教会で取りまとめてくださったことがある。私はその時、初めて拡大宣教という言葉と永井明先生のお名前を知ったのであるが、その後、永井先生の海外宣教への並々ならぬ情熱とその実績を知って驚愕し、また感激したものです。

 永井先生が最初牧会された茨木の教会も、当初はやっと成長しつつある段階、先生はまず海外宣教のため「これこれの献金を送ろう」と決心されて、その旨を会計担当の執事さんに示された。その多額さに執事さんが呆っ気にとられ、また困惑して、「そんな金、どこからくるのですか」と思わずつぶやいた。先生は即刻、言った。「あなたが祈って造り出すのですよ」。

 この先生の信仰に私は脱帽する。けだし、その後、茨木教会はずっと海外宣教への献金を続けられたし、また思いきって、いさぎよく献げる自信と習慣のついた教会に成長したのであろうと、私はお察しし、又感じ入ったのです。

 私はだから、よく当教会の執事会で、こういう対外献金について、もっと励もうと提案もし、了解も得るのであるが、いざとなると財政に苦労している経理の係に送金の指図を出すことを躊躇してきた。そのことを私は金先生のメッセージを聞きながら大いに恥じ入ったのである。

 こうした時に、この「地の果てまで」の記事を読んだ。私は心をゆすぶられたのです。たとえ僅かでも、こうした尊い宣教の働きに、僅かでも献金をお送りしたい、と決心したのです。そして小さい額からでもコツコツと始めようと。

 実は献金だけではない、献金から始まって、実際に宣教師を海外に派遣するまでヴィジョンを持ちたいと。実は今回、前述したチャペル・ノアの聖会に出席した時、この広田先生の手元にいた三俣伝道師が、韓国に宣教師として派遣されていることを知って一驚したのです。身近な所から、こんなことが起こって驚きます。

          *

 そう言えば、フィリッピン宣教師となって横川先生が中津扇城教会から派遣されて行ってから、もう20年を越えていませんかねえ、私どもの現在の会堂を建築して間もない時だったと思います。当時、先生が証しされた。「柴田先生の扇城教会、まだ小さくて、信者さんはおばあちゃんばかり、そんな教会の《目標》に『この教会から海外に宣教師を送り出そう』とある」。

 若かった横川先生は「バッカじゃなかろうか」と腹の底で思ったそうですが、「その私が今、宣教師になって行くんですからねえ」と感慨無量の顔をなさっていた。そのことを今、思い出して私は今、感慨無量です。

 その後、横川先生はフィリッピンでは宣教師仲間の大物になっている感じで、よくフィリッピンに行かれた牧師さんがたから、横川先生に世話になったという話を聞きます。また四国の北条市に行って、T姉のお宅によく泊めて頂くのですが、そこのご子息が横川先生に大層鍛えられて、先生に私淑している様子が見受けられる、「横川先生は凄いなあ」と思いますが、その横川先生を生み出したのは柴田先生と中津扇城教会です。尊敬せざるを得ません。

 私たちキリストの福音大分教会も奮起しましょう。キリスト福音宣教会の「地の果てまで」は、これまで毎月後方の机上においてありましたが、あまり皆さんに読まれている様子ではない。毎月、実は血湧き肉おどるような記事が載っているのですから、今後どうぞ見過ごさずにお読みください。その他、新川先生の中国宣教、在原先生のアルゼンチン宣教、宮川先生の西アジア宣教等、どうぞ、目を留めて下さい。<く>

 

祈りは神様への熱烈な愛の告白   

 先週の夜のテレビでHNKの「英語でしゃべらナイト」という番組を見るともなく見てていて、英語の会話に慣れてゆく次第を聞かせてもらったような気がした。まずアグネス・チャンが出てきて言わく。

「私が香港から日本に来た時は、日本語は全然分からなかった。そこで私の日本語の稽古はテレビマンガの『サザエさん』を見て、その中の挨拶言葉を口真似で覚えて行くことだった」と言うのです。そして彼女は日本語の挨拶言葉を幾つか挙げました。これは私にとって非常に印象的でした。初めての外国にきて、一番にその国の人と仲良くするには、まず第一番、その国の挨拶言葉を覚えて多用することだと納得しました。

 第二番に出て来たのは某スポーツ選手です。彼はアメリカに行って、向こうのコーチの訓練を受けたそうですが、どんな時にも、そのコーチ、彼の動作を駄目だとは言わなかった。どんなに不細工な運動をしても、まず「グッド」と褒めてくれる。その次には「ベター」と言ってくれる。そして最後に最高にほめてくれる時、「エクセレント」と言ってくれた、と。

 なるほど、褒め言葉か。褒め言葉を沢山覚えて多用することだな。異文化の世界に入って皆さんと仲良くするには、褒め言葉を使う事だな、と私なりに理解したことです。

 次の場面はファッション・デザイナーの山本寛斎さんである。「僕はね。どんな時にも熱血語なんだ。外国の美人モデルさんに向かって、僕のアイデアを分かってもらうためには熱血語を使って、彼女らの心をひきつけるほかは無いんだ」と言うのです。

 これには私も「ウーン」とうなりました。話が通じにくい人にも「熱心な言葉」を語りかけること、これが話を通じさせる秘訣だと思いました。

 私はまずこれを伝道語に応用しようと思いました。最初の接触の難しい人には、挨拶言葉をふんだんに使う。次に褒め言葉のシャワー。そして、それらの言葉がうわべのお世辞言葉にならないために、熱血的言語で情熱的に語る。もちろんお芝居ではなくて本気で熱情を込めて語る。私はそれを想像するだけで身震いしました。「ようし、これで行こう!」。

 ところで次に気がついたのが、なんとこれです。「不謹慎だ」と叱られそうですが、神様への祈りの言葉にも応用できそうに思ったのです。詩篇を開くと、まず神様への挨拶の言葉、「ハレルヤ」の連発です。その他「主よ」「愛の主よ」「あなたを慕い求めます」等、幾多の褒め言葉です。

 そして「大いに呼ばわって言った」などと、メソメソ祈りではなくて、「熱血的祈り」です。主の答えを求めています。ヤベツは良い例です。彼はイスラエルの神に呼ばわって言ったのです! 詩篇66篇1節に「全地よ、神に向かって喜び呼ばわれ」とある。引き続き、この66篇を読みつづけてください。熱烈な愛の告白です。神様はこうした祈りに必ず答えてくれるでしょう。ハレルヤ、アーメン! <く>(3月25日祈祷会即席説教、録音を失敗したので記憶で書きました)。

 

2004/3/21

(「日岡だより」第116号)

「真理は汝らに自由を得さすべし」   

 「真理は汝らに自由を得さすべし」、このヨハネ福音書8:32にあるイエス様のこの有名なお言葉は、よく大学などの玄関の前面や碑に刻まれています。

 この言葉を内村鑑三先生はこう説明したそうです。数学で、公式を理解し記憶すると、問題を解く自由を獲得するではないか。これと同じだよ、と。ともあれ私たちが、ある真理を悟る時、その真理の適用角度内で、思想や発想の自由を得るのですね。

 でも、この自由を頂いていても、実際にはその適用に限界を感じることが起こる。というのは、その獲得した思想や発想を発表したり、また行動しようとする時、その自由を阻止しようとする圧力が、しばしば権力がわから、また一般社会通念のがわから、加えられることが多いのです。

 神様の真理に対して、世の力は必ず反発する。限界と言ったのはそれです。この限界を乗り越えるには、いささかでも勇気を必要とします。勇気と言えば、最近の新聞で、こんな記事を読みました。

 あるお母さん、堀江ひとみさんという、当時49歳の普通の主婦ですが、19歳の娘さんが暴力団の抗争事件の巻き添えを食って死んだのです。

 このことを法的に訴えようと思いました。しかし、弁護士さんに相談しても弁護士さんがたも尻込みする始末。堀江さんは図書館に行って法律の勉強を始めました。こうした本はたいてい書棚の高いところにある。はしごをよじ登って本を引っ張り出そうとします。

 ちょうど司法試験の勉強にきていた学生たちが、その姿が危なっかしくて見ておれない。事情を聞いて、学生諸君は堀江さんのために条文の解説をしてあげたという。

 やっと7年後、味方になってくれる弁護士さんがたも現われ訴訟を起こした。娘さんを撃った組員の不法行為について、組長の使用者責任を問うたのです。これは前代未聞だったらしい。娘を撃った子分にも責任は当然ある。しかし、堀江さんが本当の責任者は親分の組長ではないかと言いはる。これには13人の弁護士団も声が出なかったという。

 裁判の間、傍聴席は全部暴力団員だった、そういう異常な事態が11年も続いた。その間、兵庫県警も1日も欠かさず24時間の警備をしてくれたという。その恩返しだと言って、勝ち取った和解金4千万円で「暴力団被害者の会」を結成したという、快挙です。

          *

 堀江さんは別にクリスチャンではない。イエス様の言われた「真理」を悟った人と言うわけでもない。でも、この一介の主婦が暴力団の威圧に対して、シロウトらしい素朴な感覚で暴力団に立ち向かったことは凄いですね。

 ここに目立つのは小さな者が不条理な圧力に抗戦する「勇気」です。そうです。真理は自由を得させますが、その思想の自由、発想の自由を用いて、外に向かって言明し、行動に移して行こうとする時、勇気が必要なのです。

 例えば戦時中、私の母は地区の区長さんが各家に持ってくる伊勢神宮のお札を平気で断わった。「私どもはキリスト教ですから、お札はいりません」。「へえ、キリスト教だって日本人に変わりはあるまいにのう……」。うさんくさそうに区長さんは家の中を睨み回す。そういう時代だった。目に見えない圧力が庶民を取り巻いていたのです。

 こうした世間に抵抗して生きるのは並大抵ではない。勇気がいります。「和をもって尊しとなす」という日本人の体質は却って馴れ合いの気風、そして事大主義を生む。戦争中は特にひどかった。

 戦時中、私が当時の戦争に反対の論を吐くと、警官や刑務官は顔色を変えて怒った。国家の官僚としての役目がらの怒りではなく、本気で怒っていた。彼らの本気な愛国心からである。「そういうことは、お上(かみ)に任せとけ。なんという生意気な奴だ」などと言う。まさしく事大主義です。

         *

 ところで戦時は、キリスト教の牧師たち、また一般信徒たちにとって随分、居心地の悪い時代であった。クリスチャンは非国民だと言うわけで、教会の窓ガラスなど、投石でぶち壊されることもあった。そうした世間の反感や異和感を少しでもやわらげようとして、日の丸掲揚はもちろんのこと、出征兵士の見送りも、毎月8日の大詔奉戴日の神社拝にも行った。これも戦争協力の一環だが、クリスチャンである故に、人一倍気を使った。

 こういう時の、特に牧師たちに対して、戦後の先鋭的クリスチャンたちが、厳しく非難することがある。しかし、私は言いたい。彼らに信仰が無かったわけではない。信仰があったればこそ、お茶をにごしてでも、やって来たのである、と。

 信仰を捨てるくらいなら、とっくの昔にはっきりと信仰を捨てて、仏教なり神道なりに、改宗していますよ。ただ出来れば、その上に一片の勇気が欲しかったということです。

 私は戦争中、かなり大胆にクリスチャンとして生きたほうである。それこそ一片の勇気はあった。しかし、戦時中、「弱かった」と非難される牧師たちの苦悩は、私にはよく分かるのである。あの先生がたが、あの時代を生き抜いた力は、正に信仰なのである。内にあるキリストの自由である。真理の御霊による自由である。だからこそ、あの矛盾の時代を生きて来れたのである。これだけは、理解して差し上げたい。

 戦後も厳しい時代です。牧師と言えども人間です。善意で回してもらった米だろうとは言え、ヤミはヤミ。ヤミの米で生きていたでしょう、こんなことは書きたくないですが。同じ時代にヤミの食糧を拒否して餓死したという検事さんがいたのです。私は泣きましたね。

 駅頭や防空壕跡には浮浪者や戦災孤児が群れをなしていました。私は自ら乞食をして戦災孤児と一緒にメシを食っていました、あの時代の生きる苦労は身にしみて知っているのです。

 あのような困難な時代に「善悪の分別を越え、キリストにあって赦されて生きる自由」の信仰感覚は、私には分かるのです。私が如何に非戦主義で牢獄に行き、戦後を乞食して生きたとしても、それで私が義とされるわけではない。当時、そうした私の生きざまを、「釘宮君の信仰は実践的だ」と言って褒めてくれた先生方もいたのです。しかし、それで私が天国に行けるわけではありません。私は私の犯す罪を深刻に自覚していました。

 その苦渋を当時の日本キリスト教団の大分教会の青年会の会誌に「罪人われ」と題して書きました。神経質と言えるほど重い罪意識を抱きながらも、なおかつ「私は主のもの、私は救われている」という自信と自覚は絶対でした。これこそルターではないが、「キリスト者の自由」です。この確信は今も続いています。正に御聖霊の恩恵です。<く>

 《マイケル・ショウ師聖会》
 先週の主日夜、フルゴスペル別府教会(永野牧師)で持たれた聖会は実に恵まれた聖会でした。大胆な「喜び」の説教は、私の日ごろの説教の熱度を遥かに上回り、私は私で同志愛を感じて、大いに喜びました。説教後の大胆なミニストリーにも圧倒されました。私も早く先生から招き出されてぶっ倒れ、「ワッハッハ」と哄笑した次第。すべて感謝。<く>

 

2004/3/14

(「日岡だより」第115号)

賀川豊彦と「瞑想」   

 近着のクリスチャン新聞(3月14日号)に「賀川豊彦」特集が載っていた。私たちの年配では賀川豊彦と呼び捨てにするのは恐れ多い気持ちがする。やはり、賀川先生である。

 さて、その賀川特集の中で西村虔先生が書いていた。「賀川先生の思想の骨格は『瞑想』である」と。これに私は共感もし、驚感もした。驚感というのは下手な造語だが、実際私は驚いた。というのも、これまで賀川先生の瞑想について語った人は、格別に無かったように思うからである。少なくとも、私は未聞である。

 私はさっそく書庫に行って賀川全集を調べた。先生の全集は15巻あるが、内容は百科事典的で、広範である。しかし、その中に私の求める記述はなかった。それは1日1頁式「365日賀川語録」という類の本なのであるが。

 その本の中では、賀川先生が語るご自身の「瞑想」のことが出ていたのを、私ははっきり覚えているのだ。先生は留置場など、そういうところに閉じ込められた時は、特に独特の瞑想に親しんだようであった。それは座禅とか、ヨガとか、そういう在来のものでなくて、先生が独自に開発されたものらしかった。

 先生はたしか、それを「聖無関心」と呼んでいた。西洋の修道院の神秘家たちの文章を学んだらしい記事もあったが、なにしろ博覧強記の先生のこと、いろんな資料は読んでおられたであろう。しかし、それを実践され、それを平易な言葉で説明されるのは先生の独壇場である。

 こういう時、先生はいろいろと心の持ち方なども工夫されたようであった。「工夫」という言葉は先生の特愛語であったように思う。こういう点、先生は実技的なのである。如何に瞑想するか、その工夫し、会得した世界を「聖無関心」と名付けられていたわけだ。

 留置場の中で(当然、そこでは座っているが)壁を見つめながら、また座った膝のなかに首をつっこんで祈ったなどと、そういう祈りの姿勢も書き残してくれている。

 全集の第3巻に「神に就いての瞑想」という頁があるが、その序文に(この序文がまさに詩なのである。賀川先生の詩人的要素は特に先生の瞑想のなかで培われたのだと感ぜざるを得ない)、先生の瞑想についての感懷が載せられているので、以下に転載する。(多少現代文に修正しました)。

 「瞑想の森に分け入ることを覚えた私は、露のようなしたたりを、その森から受け取るようになった。真夜中に、白昼に、曙に、たそがれに、私はいずこにも瞑想の扉が開かれていることを知った。電車の中、汽車の中、待合室、獄房、路上、至るところで、私は瞑想の休息所を与えられ、そこでしみじみと、私の胸に宿りたもう、大能の神について静思することができる。

 アッシシのフランシスは白日の太陽を仰いで、瞑想し祈りをしたと伝えられ、ソクラテスは弟子たちと歩いていて、突然数分間路上に佇立して、瞑想したと、弟子プラトーが伝えている。阿含経を見ると、釈迦もまた同じ習慣があったらしい。イエスは、40日40夜、荒野に退いて瞑想し、ある時はガリラヤの山地に夜を徹して、祈りと瞑想に過ごされた。

 瞑想の泉を汲むものには、神が我々の胸に密接して住みたもうことを経験する。けたたましく忙しい機械文明の今日に住んでいて、なお、太古の静寂を発見したいと望む者は、瞑想の領域に辿り着くより仕方がない。私は、視力を失って後、この聖域に接することが出来て、新しい泉を発見したように喜んでいる。

 無為のときも、無策の日にも、瞑想は先方から私を訪問してくれて、神殿のとばりを高くあげてくれる。私は、芝居の舞台裏に、台風の夜に、忙しい雑踏の巷に、瞑想を通して神を讃美する。神は、私の安息所であり、私の蓄電池であり、瞑想の前に、死も青醒めて消え去り、苦痛も、その威力を麻痺させる。無学な私にも、大能の神は、瞑想のうちに安んじて憩うべきことを教えて下さる。

 私は、神経衰弱に疲れた現代人が、見る前に、読む前に、歌う前に、戦う前に、まず本然の瞑想に帰るよう衷心から勧める。胎児は母胎の10ケ月に、読むことなく、走ることなく、瞑目して安居する。瞑想の工夫は神の懐に寄る胎生である。私は静かに神の脈博を瞑想のうちに感じ、神の血に養われ、瞑目のうちに、光の世界へ踊り出る日を待つ。

 私は呼吸することなくして、生き、動き、かつ、在り得る。ああ、不可思議な胎生よ、地球は大きな母胎であり、また乳房である。私は人類のすべてが、もう一度この大きな母胎に復帰し、神の血脈に、自分を繋(つな)がんことを祈って止まない。(1930・5・29、武蔵野の森の一隅にて)」

 賀川先生は、その活動範囲も、研究範囲も、異常に広い、科学的興味は、宇宙論から原子物理学から鉱石の分類にまで至るのだから叶わない。アメリカの大学に留学したとき、受入れ側の教授から「進化論の文献とその概要」を問われて、余すところなく書名をあげ、その内容をきちんと書きあげて教授を驚嘆させた話は有名である。そのような知的蓄積を神戸の貧民窟で「死線を越えて」(賀川先生の著・大正のベストセラー)の体験を過ごされている中で、どうして得られたのであろうか、不思議な思いがする。

 当時の神戸の三菱造船所のストライキの先頭に立って賛美歌の行進曲を歌わせたのも先生なら、灘の生協を作った生協運動の創始者でもあった。関東大震災が起こると、いち早く東京に行き、援助活動を始められた。敗戦後は、アメリカやマッカーサーから信頼も厚かった先生は当初はアメリカでは戦後の日本の民主化を目論んで「大統領にカガワを」という声もあったくらいだから、さぞ忙しかっただろうと思う。

 そのような多忙のなかにも、以上のような静かな瞑想の時を持たれたのであろう先生は、現代のメチャメチャ慌ただしい時代に大きい示唆を与えるものがある筈と、私は信じる。

           *

 冒頭に書いたクリスチャン新聞の3月14日号だが、その第1頁の大見出しに「なぜオウムにひかれたのか?」とあった。文中、こう述べている。「かつて新宗教に入るのは貧しい人たちだと言われていた。今は飽食の時代、物があふれている現代だが、ふとものたりなさを感じるのも現代だ。

 そこで、青年たちは人生の意味や目的を考えるようになる。その彼らに既成の宗教は答えを用意していない、もしくは正しく提示できないでいるのではないか」と。

 良い指摘である。オウム真理教や、あちこちの親殺し子殺しの世相、また山口、大分、京都、茨木と飛び火(?)している鳥インフルエンザ、先週のスペインの連続列車テロ、これも現代の病相の埒(らち)外ではあるまい。らちと言えば、北朝鮮の拉致事件も似たような匂いがする。世界的に異常な時代が来ているのである、聖書的に言えば、終末の世紀相だ。核装備の問題もある。北朝鮮の核を非難するのは当然として、核を持っているアメリカがこれを言うのは可笑しい、と言う論者は少ないようだが。

 ところで先日、昔、オウム真理教の道場で信者たちが瞑想の訓練をしていた当時のビデオを見た。そこには現代の頭のよい青年たちが多数来ていた。慌ただしい現代文明に当惑して、目に見えない超越的神秘世界を求めている、そういう青年たちに答える秘法伝授の場だったのである。

 盛んにオウム真理教が売り込んだのは空中浮揚である。ある人から「こんな宗教がある」と言って、麻原の空中浮揚の写真を見せてもらったことがある。このくらいの写真は合成写真でできないことはないし、霊動現象で座ったまま30センチ程度は飛び上がることがあるのは知っていたので、その連続写真の一部かなと思ったりもしたが。

 先日見た、そのオウム真理教の信者訓練のビデオのことだが、その時の信者たちが体を前に倒し、腰や尻を持ち上げる異様な運動をしているのに驚いた。これと同じポーズがヨガにはあるかもしれない。こうした独特の(たぶん)呼吸法や瞑想法、そしてLSD等の薬物投与をしたことは間違いないと思われる。

 これらは、麻原独特の指導法である。それがかなりの成果をあげたことは、その弟子たちの麻原へ傾倒ぶりで分かる。オウム真理教は宗教として、それなりにインチキではないのだ。裁判で目をつぶって知らん顔をしている麻原被告にはそれなりの確信があるのだろう。恐ろしい男である。

 使徒行伝を見よう。あのサマリヤの「大能」と呼ばれた魔術師シモンは麻原のような人物であっただろうか。こういう「世の力」に「勝つのは我らの信仰である」(第一ヨハネ5:4、5参照)。こうしたの強い信仰は聖霊様のもとに、熱意ある「瞑想と告白」によって与えられるのであると私は信じている。皆さん、強い信仰を求めましょう。<く>

 

世界で最も平均年齢の低い国    

 先週3月12日の昼のTV番組で、アフリカの西の果ての国のことを聞きました。「63億のデータマップ」とかいう番組の村竹アナウンサーの報告でしたが、今世界で一番の長寿国は日本だそうです。平均年齢82歳(?)だという。

 ところが、一番の短命な国は前述のアフリカのシェラオネという国だと言います。平均年齢が34歳ですって。乳幼児の死亡率が非常に高いからです。

 現地の保育園に行って見ました。園長さんがなんと根岸さんという日本人シスター、嬉しいですね。もう27年もそこにいるという。この国は、ひどい内戦の結果、こんなに貧乏な国になったのだそうですが、そのひどい内戦の期間を、この園長さんは生き抜いて来たわけです。さぞ命がけの物語が数々あることでしょう。カトリックの凄いところです。

 死亡率が高いと言いますが、事実こんなことなのだと園長さんは言います。園に昨日来ていた子が、今日はもう来ない。死んだのだと言います。そんなことが珍しくない。

 しかし、そんな中で、子どもたちは歌うのです。喜びの歌です。「今日も生きておれて嬉しいな」。大きな身振りで喜びを表現して、本当に喜びに一杯あふれて歌っています。

 NHKの派遣アナウンサーの村竹さんは悲惨な幼児の死を知って悲しい場面を覚悟しながら園を訪問して、この喜びの歌を聞いてびっくりした。

 これは平和の国、日本でおいしいものを沢山食べて「嬉しいな」というようなものではない。厳しい状況を否定も恐れもせず、これを見据えながら全身で喜んでいる幼児たちの姿に教えられる事、実に大きいですね。

 どんな時にも喜んでいる秘密は何か。この園児たちに聞きたいですね。「主にあって常に喜びましょう」。<く>

*この国に行ってみたいですね。この根岸園長さんや子どもたちにも会いたいですね。シエラオネは人口247万人(1968推定)。面積71、740ku

 

「塩狩峠」の長野政雄さんは聖霊体験を受けていた!

今週のリバイバル新聞(3月14日号)を紹介。坂本竜馬の甥御さんが旭川教会の坂本直寛牧師になっていた。この坂本牧師先生、1906年からリバイバル祈祷会を始め、はじめは5、6人でしたが1907年には18名になりました。その祈祷会で突然、聖霊が下りました。全員がすすり泣き、悔い改め、電気ショックのような感動が全員に伝わったと言います。その一人が長野政雄さんだったのです。会社で困り者の社員が長野さんの部下になると、すっかり人が変わると評判だったそうです。聖霊体験が長野さんを聖化していたのですね。塩狩峠の犠牲のわざ、うなずけます。神様に感謝!

 

2004/3/7

(「日岡だより」第114号)

主の栄光を見よ   

「あなたがたは主の栄光を見るであろう」  
〜出エジプト記第16章7節〜   

 イエス・キリスト宮崎福音教会の高森牧師先生が、今回、拡大宣教学院の機関紙「マグニファイ」187号に「あなたの天幕の場所を広げ」と題して巻頭メッセージを寄せておられましたが、それは会堂建設計画にまつわるお証しと、奥様の久美子先生のご病気に関するお証しでした。すでに「マグニファイ」を読んでおられる方々には重複しますけれど、本紙の読者の皆さんにぜひご紹介したいと思い、以下に転載しました。どうぞお読みください。

 1999年の元旦に新会堂建設の思いが与えられてから、4年が過ぎました。今まで数カ所の候補地が上がりましたが、いざ決定しようと思うと、「ここが確かにみこころの土地だ!」という確信がなく、躊躇していると、そのままその話が立ち消えになったり、候補地に不都合が見つかったり・・・ということを繰り返してきたのでした。

 しかし、2003年8月、新会堂建設は緊急課題となりました。教会近くの農地14万ヘクタールが、新たな都市計画のため宅地として造成されることになり、工事が始まったために、今まで来会者の駐車場として利用させてもらっていた農地がつかえなくなってしまったのです。

 いよいよ、新会堂の土地が必要になったのです。神様・・・思い巡らしているとき、教会の2軒隣のご主人の娘婿がその土地の造成を受け持っている工務店の営業部長をしているということが分かりました。早速、話してみると、メイン道路の中央、大きなスーパーを建設する予定地のすぐ横(12m道路を挟んだ)の土地を紹介されました。そしてその土地を実際に見たとき、「ああ、ここがその土地だ!」と思ったのでした。そして、みこころを確かめるために、茶臼原の「祈りの家」に行くことにしました。そして、下記の3つのことから、確か神様のみこころであるという確信を得ることが出来ました。

 (1)「祈りの家」に行く前に、ふと手にした本に、「教会を建てるなら駅前に! とにかくメイン道路に」というお勧めがあった。今までの候補地は呵々うのことなど考えて、どうしてもメイン道路からはずれていたが、今度の候補地はメイン道路に面していること。

 (2)「祈りの家」で、たまたまそこにあったメッセージのテープの中から無作為に取上げて聞いたテープが自分が1999年の元旦に新会堂建設の思いが与えられたことを証し、会堂建設の必要を語ったものであったこと。

 (3)「祈りの家」から帰って来て読んだ、『恵みの雨』に、「事をなすとき、それが神のみこころであることを知るための条件」が書かれていたが、その一つに「現在の自分たちの手に負えないこと」という条件があったこと。まさに、新会堂建設に必要な費用(土地+建物の総費用は約1億5千万円)は今の私たちの教会、信徒にとっては手に負えないことであった。

 これらのことから、新会堂建設が神様のみこころであると確信して、9月7日、永井明牧会長先生に第1回新会堂建設の御用をしていただきました。そして、第2回決起集会を11月30日にしようと計画していたやさきのことです。

          *

 家内が体調を崩して病院で検査を受けました。検査の結果は大腸ガンでした。それも、内視鏡写真を見て、医師でない私でさえもかなり悪いことが分かりました。手術をすることになったのですが、担当医師の話では、「開腹してみないと分かりませんが、もし腸に穴が開いているようだったら希望はありません。」ということでした。

 そして10月30日、家内は手術室に入って行きました。手術時間は順調にいけば2時間、遅くても4時間ぐらいということでしたが、全てが終わったのは手術開始から6時間経った後でした。結果は「腸に穴が開いており、大腸を70センチほど切除しましたが、骨盤に転移している部分は取り除くにはあまりにも危険が大きいので、そのまま残さざるをえませんでした。このままでは半年の命、治療しても1年でしょう。」という最悪のものでした。この報告に一時は目の前が真っ暗になる思いでした。しかし、私には手術の前日、早天で祈っているときに与えられたことばがありました。それは「シャローム(平安あれ)」でした。「主よ。信じます。信じます。」と告白しながら病室へ行き、「シャローム、これが神様からあなたへのメッセージだよ」と家内に伝えますと、家内は「アーメン」と答えました。そして家内はそれからの入院生活の間中、不思議なほどの「神の平安」を持ち続けることができたのです。

 最初、家内は真実を知らされていませんでした。悪いところは全部取り除かれたと告げられていたのです。しかし、真実を告げたほうが良いと判断し、2日後に娘を通して「ガンは全部取り除けなかったこと、余命が半年か1年であること」を知らせました。すると、家内は「手術後に全部ガンが摘出されたと聞いてほっとしたと同時に、『でも医師の手で全てが解決したら、神様の栄光はどこで現されるの? 先に与えられていた神様の手で癒されるというおことばは何だったのかしら? 私の神様からのおことばの受け取り方は間違っていたのか?』と悶々としていたの。よかった。神様の栄光が現わされる部分が残されていて・・・」とすっきりした面持ちで、その知らせを受け取り、前にも増して神様を賛美し、祈って入院生活を続けました。

 そして、11月22日に受けたCT検査で神様の栄光を見ることができました。ガンのために圧迫されて正常の大きさの四倍ほどに肥大し、機能が完全に死んでいた左の腎臓が治っていました。そして取り残されていたガンも消えていたのです。しかも抗ガン治療はいっさいなされずに・・・。ハレルヤ!

 このことを通して「新会堂建設は神様のみこころだ! 必ず成る!」と、私たちの信仰が引き上げられたことは言うまでもありません。まだまだ新会堂建設のためにたくさんの必要があります。引き続きお祈りくだされば幸いです。

 最後になりましたが、家内のためにみなさまのとりなしのお祈り、ほんとうにありがとうございました。紙面を借りて感謝いたします。


〔あとがき〕
 最近、栃木県芳賀町の稲葉さんから「トランスフォーメーションというビデオを見ました。日本もこのようになってほしいと思いました」と手紙を頂いた。そう言えば、私も中南米だったか、その地のトランスフォーメーション(変革)の噂を読んだことがある。地域に大々的に影響をおこすリバイバルと言えようか、ともかく早速、そのビデオ(プレイズ出版・定価3千円)を購入し見てみた。内容についての紹介は、滝元望先生が次のように書いています。

 世界の各地において主がなさっておられる聖霊の働きがあります。それはリバイバルにとどまらず、地域共同体を変革(トランスフォーム)していくという驚くべきことです。
 長年の間、世界各国を霊的洞察をもって調査してこられた、センチネル・グループの代表ジョージ・オーティスJR.師がカナダ、ウガンダ、スコットランドの変革(トランスフォーメーション)を体験した町や地域共同体にその足を運んで、記録しまとめられたビデオが「トランスフォーメーションU」です。このビデオは単なる記録映画ではなく、変革を体験した町や国を調査し、その人々にインタビューし、その生々しい現実を照らし出しています。
 多くの場合、リバイバルが起きた国の物語を聞いたり、読んだりすると、ただため息をつくだけであったり、途方もない夢物語に浮かれてしまいがちです。しかし、このビデオは、リバイバルが起きた教会や町がどのようにして前進し変革を体験していくのかという原則を丹念に描いています。その意味では夢物語を聞かせるものではなく足が地についた教材と言えます。
 イヌイットの町に主が訪れ、激しい響きと振動がその教会を包みました。その音が収録されていますが、なんと録音装置がオフになっていたにもかかわらず、その音は録音されていたというのです。この響きは日本をも揺り動かすものだと信じます。(瀧元 望)

 イヌイットやウガンダと違って、極度に物質文明が発達した国で同じような展開を見せるかどうかは疑問ですが、しかし手束先生の提唱される「日本民族総福音化運動」こそ、目指す所は同じです。確信と希望を持ちましょう。祈りましょう。言葉は悪いですが貧乏な国の変革もすばらしいが、日本のような豊かな国の変革も又、すばらしいでしょう。日本が変われば、世界が変わります。<く>

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