キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(バックナンバー)2004年8月
2004/8/29
(「日岡だより」第139号)
人はどうして幸福であり得るか
一、人は幸福を求める動物である
人間に最も近い動物のサルでも、幸福を求めるということはないと思います。「えっ?」と、一瞬不思議に思うかも知れませんが、サルでなくても、犬でも猫でも、ライオンでも、生きている生物はすべて、その生存上の快適さを求め、不快対象や恐怖対象を避けるだろうとは想像できます。しかし、それは幸福を求め、不幸を避けているというのとは違います。
幸福とは、「今、自分は幸福だなあ」と自己認識している状態です。不幸とは「今、自分はみじめだなあ。不幸だなあ」と自分で自分を見ながら不幸をかみしめて居る状態です。
自分で自分を認識出来るのは、この地球上では人間だけです。幸福論は、この原理の上に立っています。先日の日南聖会で私が、「私は気分上々」と言ったのを永井先生が取り上げてくださったので、合言葉のようになってしまいましたが、私も調子に乗って言いましたよ。
「幸福とは私の心が気分上々のことです」と。今、自分の心は気分上々だなあ、という自覚がなければ、人が私を見て「この人は幸福そうだなあ」と思ってくれたとしても、私は幸福ではありませんものね。もっとも、後日、あるいは後年になって「あの時は幸福だったんだな」としみじみ思い出して、改めて幸福感を味わうということはありますが。
二、人間の意識の多重性
よく理解してほしいことは人間の意識は二重性になっている。いや各層ごとに下部が上部に指示し、上部が下部に情報を伝えるというように多重性である。(上部とか下部とか言うのは仮の表現です。微妙で私にも良く分からない)。
先に述べたように「私は今、気分上々である」と感じているとき、その感じを自分で認識しています。この自分の心を認識している心が別に存在する、この二重性、これが大切です。
音楽を聞いて、大きな感動を受けたとき、その感動を自己認識している、そこに音楽にひたる幸福があります。尤も、音楽の感動には全く埋没させられることがあります。その時は、その感動を自ら味わう余裕がありません。その感覚を後で思い出して、その喜びを追跡感動し、その喜びを後で味わっているということが起こります(極度な聖霊経験はこれに似ています)。
この意識する心を聖書では魂(プシュケー)と呼びます。人間は霊と魂と肉に分かれます。第一テサロニケ5:23では「霊と心とからだ」と書かれていますが。霊は更に深い部分、神層意識があります。そこは神様と交れる場所です。救われていない人の霊ではそのところが機能が死んでいます。イエス様が「新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」と仰せられたのは、この部門をさして居ます。
浅い層の霊は、人間の霊です。ここが自分自身を見ることができる箇所です。ここも眠ったようになっている人が多いのです。この部門が開かれて自己制御(自制)ができるようになると、いわゆる聖人のような人物になれます。
魂は一般的な意識の働きです。意志、知性、感情です。心理学の世界で扱われる部門です。
この意識は肉体全体に基盤があります。特に内臓に諸意識の根底があるように思います。脳は、その発信波動を貯めたり交信したりするネット機関に過ぎません。魂にも深いところと浅い部門があります。特に深いところは心理学者がいう潜在意識です。潜在意識と霊の浅い部門との境界はやや曖昧です。だから、また交流も容易である傾向があります。
魂の浅いところは、特に感情が活発です。感覚器官の受容部門と親しく結びついて、快不快、受容と反感の意識が激しく動きます。
肉と私が呼ぶ部門を聖書はしばしば「からだ」と表現しますが、肉体に密着する感覚部門です。そこで感じる気分、感じ、心地、好き嫌い、粘着的性感や麻薬感、などをさします。肉を避けなさいなどという聖書の勧奨は、このあたりの感性を取り扱っているのです。
単純な肉体部門は、それほど罪の誘惑に弱くはありません。オリンピック選手のように鍛錬することは有益なことです(第一テモテ4:8参照)。そして肉体の訓練で気質を強化して、霊性をも練りあげることができます(ローマ5:4の「練達」→新改訳では「練られた品性」を生みます)。肉体での最も効果的な訓練は断食です。
三、自分で自分を管理する上部意識
ガラテヤ書5:22、23は御霊の実のリストアップです。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意。忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない」。否定するどころか、これを称揚します。このリストの最後は自制です。これが非常に大事です。ある聖句辞典では「自制」の字句の項では「禁欲を見よ」指示していましたが、これは大きな誤解です。自制は禁欲ではありません。自制は自由な選択、管理、適用、活用です。
たとえば、御霊の実である柔和も、悪霊を追い出す時には遠慮してもらいます。とは言え、悪霊にたいしては激しく追いたてながらも、悪霊に憑かれている人に向かっては、やさしい面を見せて安心させるような配慮が必要です。そういう多面性こそ自制心の徳です。ですから自制と言う徳目はこのリストの中で一番下になっていますが、一番大切です。すべての徳を支える底辺での力持ちです。
その上で、目標を与え、指示命令し、称賛し、激励し、失敗したら慰め、いたわり、再起させ、継続して、挑戦させる機能を意志は持っています。自分自身を従わせる能力です。この不抜の意志力を持っていることを、私たちはしっかりと自覚しましょう。この機能発揮の道具が言葉です。
四、言葉は力です
言い聞かせたり、命令したり、鼓舞したり、この意志の使い方を多くの人が誤解しています。けっして大した力はいりません。ちょっと軽い意志力をおこして。言葉で言って聞かせ、命令し、鼓舞するだけです。簡単にできます。ただし、コツは出来るだけ口ではっきり言葉にして、声を出すこと。慣れないうちは特に心がけて大きな声を出すのです。
人の顔が気になる人はなるべく人のいない所で、初めは小さい声で良い。車に乗る人は車のなかが一番やりやすい。これは、初めの内は一種の練習ですから、やさしいことから、くりかえし、なんべんもやって見るのです。
私のお奨めする「ワッハッハ」であれば、「私はどこでも大きな声でワッハッハと笑う」と繰り返し自分に向かって言ってください。告白ですね。しだいに笑えるようになります。なんでも出来そうなことを言葉にして告白して、「やったあ」という自信をつけ、心に達成した気分を記憶させるのです。
まず、ただ一つの言葉を口癖になるまで、自分に言い聞かせ(告白)ましょう。最近はある人が「口癖は人生を変える」という本を書いて売れています。その内、たった一つだけではない、複数の命令も可能になります。あなたは幸福になります。<く>
2004/8/22
(「日岡だより」第138号)
乳と蜜の流れる国を目ざす者
以下は随分あつかましい文章です。よくもまあ書いたものだ。これは15年前の年末に書いた文章です。我慢してお読みください。
*
「われらのよわいは70年にすぎません。
あるいは健やかであっても80年でしょう」(詩篇90:10)。
とモーセは歌っている。彼は、自分の寿命は80歳は越すことはあるまいと思っていたのであろう。しかし、聖書は告げている。彼が神様からの召命を受けて、ついにエジプトの王パロの前に立ったとき、そのよわいは80歳であった。
孔子はいう、「30ニシテ而シテ立ツ」と。それならばモーセは「80ニシテ而シテ立ツ」であったわけだ。同様に、人は誰でも神様のみ言葉を聞くとき、棺桶に片足をつっこむような年になっても英雄のごとく立ちあがることができるのである。
モーセが堂々とヘブルの民60万をひきいてエジプトを脱出し紅海をわたる一連の物語は、かつての映画「十戒」でご存じのとおり。彼らはホレブの山で神様から手ずからの律法の石板をいただき、そこを出立してカデシ・バルネアに来る。そこまで来て彼の民はカナンの先住民を恐れて先に進もうとしない。それは神様への不服従である。それが40年の荒野の放浪をもたらす。実に厳しい環境の難、敵の難、同族の離の連続の旅であった。
モーセはその苦難によく耐えた。彼は民を引きつれて、ついにその人生の行程の最後を踏む。古代、王の道と呼ばれた死海の東をとおる隊商の道である。たしかに王の道である。ヘブルの軍勢は連戦連勝する。
それらの戦いのあと、モーセは最終の目的地である「乳と蜜の流れる地」カナンを遠望しつつ120年の生涯をとげて天に帰る。その直前、彼は過去40年を回顧する。旧約聖書の申命記の前のほうに、そのしみじみとした感懐がしるされている。
*
危険があった、困難があった、絶望的であった。気象はきびしい、食糧がない、水もない。そして敵は多く、かつ強い。
民たちは臆病で忍耐心がなく、忘恩的で、始終つぶやいている。こうしたもろもろの状況にモーセは圧倒されない。彼は毅然として立っている。なぜか。主は常に彼と共におられ、彼を助けてくれると知っているからである。彼は生来やさしい人であったと思われる。そして熱心でもあったが、落胆するのも早かった。でも、彼を導いた主は、かつて彼に約束していたのではなかったか。
「私の臨在があなたと共に行く。私はあなたに安息を与える」(出エジプト記33:私訳)。
さればこそ、この出来の悪い60万の民に悩まされつつも、ついに「乳と蜜の流れる地」カナンに突入すべき寸前まで来れたのではないか。モーセの40年回顧の言葉には感慨無量な実感がこもっている。そこにはこれまでの人生の越しかたについての感謝と満足、そして将来への展望と確信、つまり彼の人生経験の領域の拡大と展開、彼の能力や気質の良き蓄積を確認する喜びがある。
*
人がおのが人生を回顧して「私の一生はすばらしかった」と言える人は幸福であると思う。しかし、それをあまり他人に言いふらすのは賢いことではないし、謙遜の徳にも外れるだろう。しかし、ここで私は愚かな者になって、次のように書いてみるのだが、ゆるして下さい。
私はこの数年、私自身の信仰とその生活について相当の進歩、向上があったことを感じている。最近、昔の文章を拾い読みする機会があったが、「むかしはこんなにモタモタしていたのか」、と今更のように驚いた。信仰が強くなっているとも言えるし、感情処理とか、性格の陶冶とか、そういう事が上手になったのだとも言える。信仰の実技的訓練が実を結んできたとも言えようか。
こんな事を書くのは、夜郎自大というもので、自惚れもいいところだろう。また、こうした公開の紙面でこんなことを書くのは恥ずかしいことである。かつては私は、人は向上すれば向上するほど、心底から謙遜になるもので、けっして自分から「自分もだいぶ向上したものだ」などとは言いもしないし、思いもしないものだ、と言ってきた。自分で、「自分をひとかどの者」と思うことくらい卑しいことはないし、また滑稽なことはないと思っていた。
*
とは言え、「まだ、まだ。もっと伸びるぞ、もっと伸びるぞ」と欲求水準を高くもって自分の至らぬ点を自覚すること」(ピリピ3:13、14参照)と、「自分は大した者になったなぁ」と自覚するようなことは、一人の人の中に同居し得るのである。パウロの手紙にはこれに類する誇らかな言葉が幾つもある(第一コリント15:10等)。
謙遜とはただひたすら「自分はだめです」と卑下することではない。かえって神様が自分にしてくださったことを素直に受けいれて感謝し、喜び、自信をもって、そこよりまた前進を続ける(ピリピ3:16参照)ことである。自分の信仰や、能力や、性格や、事業等、各方面にわたっていちじるしい展開と蓄積を回顧でき、かつ同様に将来を確信し展望して、年末にあたって、この感慨を持つことができる人は幸いである。(1989.12.29、祈祷会にて)
*
前記の末尾の日付が証明しているように、以上は15年前、1989年12月に書かれたものである。随分、遠慮なく大きなことをぶったものだなあと思ったが、今日になってみても、また正直に言ってみようとすれば、同じようことではないかと思って驚いている。にもかかわらず、15年前の私とはだいぶ違う。あの時分はまだ若かったなと思う。そこが面白い。当時も十分自信たっぷりであるのに、今になってみると当時の青臭さが鼻につく。しかも当時の私、ずいぶん勢いこんで可愛いじゃないかと人ごとのように思うのである。<く>
〔本を読みましょう〕
★「解説 イエス・キリスト」(関 栄二篇著、日本教会新報社
2205円)まだ教会に2冊残っています。イエス様から目を離さず、旧約、新約の聖書を通巻して、週刊雑誌風に手際よくポイントを掴んでやさしく説明をしてくれている、その上、図版が多くて楽しめます。茶の間に置いておくと、いつの間にかノン・クリスチャンのお父さんも読んでくれている、そういう本です。まだ買ってない方はお求めください。
★「死の上がり框で味わう永生」(李載禄牧師著)韓国 万民教会の創立者の李載禄牧師の信仰自伝です。7年間の奇病難病を主に癒されて、ものすごい主の権能に満たされて驚嘆すべき奇蹟的伝道を続けて居られる全容。今回、9月7日に別府万民教会にて「癒し聖会」に参加される方たちの参考にもなりましょう。教会においてありますから、ご回覧下さい。
★「天国の人」(ブラザー・ユン著、マルコーシュ・パブリケション発行、2100円)著者ブラザー・ユンの証しです。中国に生まれ、今46歳の若さ、16歳で伝道に召され、投獄3回。その間75日間の断食を敢行、奇蹟につぐ奇蹟で、読みはじめると本を閉じる余裕がない、息をつかせず読ませられる。迫害、拷問に耐え、勝利、その信仰の強さ、不思議さ、実に如何なるサタンの手も我らを神の愛から引き離す事は出来ない。文字ぎっしり、読みがいがある。内容に比し、定価が安いです。クロス・ロードでお求めください。
★「積極的考え方の力」(ノーマン・V・ピール著、ダイヤモンド社発行、1470円)考え方を変えれば人生が変わる、積極、前向き、肯定生き方の元祖的本。昭和39年に日本で初版、昨年要望に答えて復刊。一般書店でお求めください。
2004/8/15
(「日岡だより」第137号)
わが信仰の射程
本当の信仰とは、ある特定の神様を拝んだり、ある特定の教義を信じたり、そんなことではない。ホンモノの信仰とは何か。
ある人が特定の神様を拝み、ある特定の教義を信じているというだけで、それをホンモノの信仰とは言えない。その信者さんの心の中に起っている或る「事実」がホンモノの信仰なのである。
その「事実」とは何か。
イエスが「神の国」と呼び、使徒たちが「イエスの復活」と呼んだ、又教会が代々「聖霊」と呼んだ、その事実である。
教会はそれを神話的教義で粉飾した。しかし、又、その粉飾された華美な教義により、代々の聖徒たちが、ホンモノの「事実」を掴んだ事も事実である。
私はキリストの十字架を信じる。しかし、私はキリストのあの木の十字架が、オマジナイのように私を救うとは信じない。
ある人にとり、あの十字架像が、オマジナイのように効いたことは事実であろう。その事実の源泉は実は十字架にはなく、「神の真実」にある。
私が信じるキリストの十字架とは、神の捨身の愛である。捨て身の愛、身代わりの愛は生命界をささえる法則である。
その法則とは、法律のような冷たい公理のようなものでなく、血も涙もある人格的法則である。
自然界における最高の進化の姿は「人格」である。故に宇宙が成長していると見るならば、その終局像は少なくとも「人格」以上のものである。つまり、人間、もしくは人間以上のものでなくてはならぬ。
故に、もしありとせば人間を救う最高の法則は人格的なものである。その人格的法則が100パーセント化身する時、イエスという方になるのである。
これが私のキリスト教である。私のキリスト教とは、キリスト教という名前も、イエス・キリストというお名前も聖書も教会も必要としないキリスト教だ。
さよう、必要としないけれど、私は神を呼ぶ時やはり「イエス・キリスト様」と呼ぶ。イエス様を通して拝する神が私にとり最もぴったりする本当の神の姿なのである。
同時に、私は聖書も教会も破棄しようとは思わない。そんな事を言うだけで「バチ当り」のような気がする、これは全くの本心である。
キリスト教も聖書も教会も、教会の信者さんが言うほど100パーセント完全なものと私は思っていないけれど、しかし、いかに欠陥が目についても、子にとり親は尊敬と愛の対象であるように、私にとりキリスト教も聖書も教会も100パーセント神聖である。
キリスト教は、天才民族のユダヤ人が造り出した宗教だから尊いのではない。キリスト教は優秀なヨーロッパ民族が伝えてくれた宗教だから立派なのでもない。
キリスト教の完全さはキリストの人格にある。それは人格というよりも神格的実存と云うべきもので、それを聖書は永遠の生命という。
神のイノチである。その神のイノチが、イエスという方に純粋に、まじり気なく、大らかに堂々と表わされている。
人間は水を必要とする。水は人を生かす、砂漠で渇いた人にとって泥水も、彼にとりありがたい水であろう。泥がありがたいのではない。泥に混じった水がありがたいのである。
その水が人のかわきをいやす。水は純粋に水である。泥の中にあっても水は誤りなく水である時、人をいやす。
キリストの霊は生命の水である。イエス・キリストにはその生命の水が、よごれる事なく、にごる事なく、つきる事なく、豊かに溢れていた。
「我に来たれ」
と仰せ給うイエスの中には、そのような豊かな生命が溢れているのである。
キリスト教と言わず、歴史のかなた、或いは辺境に、或は共産主義国家に生れて他の宗教、或は他の思想に生きる人であっても、キリストという名前は別にして、その生命にふれる人は永遠の生命を持つ。
ロケットを駆って、他宇宙に行き、人間の形とは全く違った知的生命に会うかもしれない時、私達がそこで伝えうる真理は、そういう人間、ひいては物質、存在のすべての背後にいます人格的永遠の生命(これぞキリスト)についての事しかないのではあるまいか。
宗教のエキュメニカル運動(ゆくゆくは汎宇宙的に)は、ここに目をとめなければ、所詮一宗派一セクトの城がため作業になってしまうであろう。(1972年6月24日発行「大分通信」No.5より)
〔あとがき〕 以上の文章は私の30年以上前の旧稿である。これを読んで、ギョッとした人、いぶかった人、いや憤慨した人が多かったのではないかと思う。「これは異端だよ」と言われる方も出るかもしれない。「私はもう釘宮さんとは決別する」という方も出るかも知れない。気の小さい私はビクビクしながら、この号を発行する。
これは今回、編集を終わった私の処女著作と言ってもよい本、「こうすれば、信仰がわかる」(仮題)の冒頭の一文である。私の古い週報から古林三樹也先生が抜粋編集をしてくださった。古林先生は信徒訓練、牧師訓練、教会訓練の名手である。文章が達者、写真が達者、マンガが達者、料理が達者、まだほかに多々ありましょうが、私の目が届かないので、他の天才的な面までは知りませんが。
その古林先生が、この私の文章を新著の最終章冒頭に持ってきてくださった。けっして文章をいじらないようという厳命である。私は恐る恐る、この一文を載せます。新著紹介の意味もあって載せてみたのですが、厚顔の段、ご了赦下さい。_<く>
トランスフォーメーションを切に主に求めよう
南アフリカのドードラクトという小さな村のことです。長年のアパルトヘイト(人種隔離政策)時代の弊で白人地主と黒人労働者の間には、ひどい断絶がありました。彼らの農業生産高も低いものでした。3年ほど前、彼らは前述のトランスフォーメーションのビデオを見ました。彼らはあのアルロモンガの奇蹟を見て興奮しました。
かつては、悪魔、恐怖、貧困、病気、偶像礼拝、アルコール、暴力、犯罪で支配されていたアルロモンガで、1万8千人の住民の92パーセントがクリスチャンになり、市長、全市会議員、実業家、学校教員、一般市民、農民が次々に回心し、社会、家庭が見事に変えられ、農作物まで3倍の大きさになって、しかも味は大味にならないで、おいしい実をみのらせるようになった。
そのビデオを見たドードラクトの人たちは、神様に自分たちの土地にも同じような恵みをくださいと祈り始めました。すると、神様の御手は土地よりも先に、彼らの心に触れ始められました。まず白人の地主たちに深い認罪の霊が注ぎました。彼らは黒人の労働者たちに集まって貰いました。
「私たちはこれまで皆さんと話し会うことも厭い、何の交流もしようとも思わなかった。神様は、この私たちの冷たい心を喜ばれないことをお示しくださった。私たちは悔い改めます。今後、皆さんと一致して主に従い、私たちを祝福してくださるよう祈りましょう」。
その日以降、毎朝必ず、白人地主たちと黒人労働者たちとは一緒になって祈り、そして1日を始めるようになりました。その結果は容易に信じられないようなことでした。まさしく、あのアルモロンガと同じように大きな作物があたえられるようになったと言うのです。
アフリカのウガンダでは、悪魔に魅いられた暴力組織が一掃され、驚いた大統領が牧師隊を執務室に招きいれて、感謝し、また神様にまったく従うことを誓ったのでした。神様は祈りに答え、土地を、社会を、政治を変えられる方であることを知りました、これがトランスフォーメーションです。
トランスフォーメーションのビデオ(2)を栃木の稲葉兄から教えられ、同兄から借りて初めて見た時の興奮は今も忘れられない、その後、その(1)のほうを橋本先生のカルバリチャーチで見せてもらってから、この両方を信徒のみなさんに見てもらっているわけです。まだ、見ていない方はできるだけ早くご覧になってください。
グアテマラのトランスフォーメーションのことは、相当早くより聞いていたし、雑誌「ハーザー」では昨年の3月号、4月号にすでに載せられていたのです。その「ハーザー」の記事の一部を以上に紹介した次第です。<く>
2004/8/8
(「日岡だより」第136号)
大東亜戦争と太平洋戦争
世界的に言えば第二次世界大戦だったが、日本では大東亜戦争である。今はしばしば太平洋戦争と呼ぶが、これはアメリカがわの命名であろう。あの戦争は東アジア諸国を西洋の植民地支配から解放させようという大目標をかかげた戦争であった。この目標ははなはだ立派であった。
それは又、事実、たしかにその目標は実現した。もっとも日本は負けた。壮大に負けた。言わば、自分は犠牲になって東アジア諸国を独立させたのだと言っても、結果としては間違いでは無い。ただ残念なことに、それは建前であって、当時の日本の本気ではなかった。
国民のほうも同じく、口に出して言う時は「東洋平和のためならば、なんで命が惜しかろう」(当時もっともはやった軍歌の一節)と歌っていた。しかし、本音はこうです。
あの真珠湾攻撃が始まり、マレー沖海戦にも成功し、日本中が鬼の首を取ったように湧き返っていた時、私は夜、銭湯に行ってオジサンたちの会話を聞いた。「おい。これでもう、砂糖や石油は日本にどんどんはいって来るぞ」、「そうや、そうや、日本バンバンザイや」と言っている。私はこれを聞いて、「これが国民の本音だナ」と思った。
政府が如何にこの戦争は「正義の戦争、聖戦だ」と言いはっても、実は東洋に覇権を握りたいだけのことです。そうしたことは国民ひとしく暗黙に了解しているのです。
国民というものは、国家の大勢に動かされやすい。これは日本人のみならず、世界のどこの国でも、特に体制が整っている国ほどそうなりやすい。かつてナチス・ドイツがそうだった。今、中国がそうである。せんだってのサッカー競技場での日本チームにたいする中国の観客のブーイング騒動を見ると、それが分かる。
戦時中の日本人がそうだった。みんな、この戦争は東洋平和のための聖戦なのだと信じている顔をしていた。いや、本当にそう信じていた無類に純粋の人もいたことはいた。しかし、多くは外側の建前なのである。しかも、自分はそのように信じていると思っている。
こうして本音と建前が乖離するとき、国家全体に欺瞞精神がはびこると私は見ています。
*
大東亜戦争の前段階に、まず1931年(昭和6年)の満州事変、上海事変、支那事変と続く、日本と中国との摩擦、衝突。これがアメリカの焦燥を呼び、また日本への干渉が始まったと言えるだろう。日本から言えば、いらぬお節介である。ついにはハル・ノートの最後通牒、これは恫喝と言っていい。売り言葉に買い言葉どころでない、一か八かの真珠湾攻撃で答えた。日本首脳部の愚挙である。
(こういう一か八かの決死行動を、かつて日露戦争の名将・東郷元帥は「卑怯もの」と断じていた。落ち着いて真の武者らしく構えて行動する禅者のような風格が当時の東條首相以下、日本首脳部になかった)。
東條首相は「戦争とは夜討ち朝駆けだよ」と幕下に言ったそうだが、その言葉を聞くはずもないワシントンの日本の大使館が館員の結婚式にかこつけて、宣戦布告の通知をホワイトハウスに持って行くのを遅らせていた。これは一種の切腹覚悟の来栖大使の芝居だったと私は思っている。
こうして始まった戦争をアメリカは太平洋戦争と言う。確かに彼らは、この戦争の地理的特徴を捉えている。日本は先に占領した東アジアの政策に引きずられて腰が重い。
アメリカのほうは、莫大な資源と工業生産能力によって、次々と武器、人員、補給が可能である。食糧は勿論、ビールからコカコーラまで前線に送りこんだ。
日本はどうか、食糧は殆ど現地調達、軍票を払うかも知れないが、事実上は略奪にひとしい。こういう食糧調達方式は、南洋の島々ではたぶん難しかっただろうと思われる。ともあれ、無理な戦争だった。
日本の最初の真珠湾攻撃は子供が横綱の足を蹴ったようなもので、本当は厳しい顔で穏やかに言い聞かせれば良かったともいえるが、それにしてはアメリカの誇りを傷つけ過ぎた。アメリカもそれほど大人にはなれるはずはなかった。
却って、あの時点でアメリカが勢いこんで日本をやっつけようとしたのは何故か。大国の横柄さでもあるが、また一つには「この際、日本をコテンパーにやっつけて東洋の利権をこちらが頂戴するか」などという、さもしい下心もあったのではないか、と私は思う。
戦争は国益の戦いであって、実は見栄も道徳もないのである。もちろん、国際外交の場では公義や道徳が説かれようが、それは表むきであって、底に横たわる強い理念は、「それが我が国にいかなる利益をもたらすか」、である。
先に国民感情で述べた建前と本音の関係がここでも生じる。
戦争が始まると、愛国心が叫ばれる。しかし戦時に説かれる愛国心は、しばしばエゴイズム(利己心)を国家大にしたものである。国家は舌なめずりしながら、戦争を始める、これが当時のアメリカだと私は睨んでいるのだが、意地の悪い誤解だろうか。この誤解(?)を更に拡大すると、あの太平洋戦争はアメリカの侵略戦争であった、とさえ言えるかもしれない。その意図は潜在的に持っていたと言っても間違いはあるまい。
だから、誇張して論じると太平洋戦争というのはアメリカ勢力圏の太平洋のなかに、日本がうっかり誘いこまれて不利な防御戦を押しつけられたのだと言えるかもしれない。この論理はひょっとしたら小林よしのりさん流か。
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日本の場合、大東亜戦争という筋目であの戦争を振り返ると、その先史は支那事変、上海事変、満州事変、とさかのぼる。日本の法律では天皇の名において宣戦を布告すれば、戦争と言う。宣戦布告無しの戦争を事変と称した。
まず1931年(昭和6年)9月18日、満州事変が起こる。現在、中国東北地方と呼ばれる一帯を、当時満州と呼んだ。日露戦争以降、満州における日本の権益の南満州鉄道をはじめ、日本資本経営の商社、在留の日本人たちを保護するために駐留する日本の陸軍部隊があった、それを関東軍と言う。その名の言われは何なのか私は知らない。
この関東軍の参謀たちがたくらんで、現在の瀋陽(当時の奉天)郊外・柳条溝の前記南満州鉄道の線路を爆破して、これを支那軍の攻撃と称して日本軍の総攻撃が始まった。まったくの悪辣な所業である。これを見る時、日本の当時の支那大陸における戦争は明らかに侵略戦争である。実は当時の日本国民は心の底では、そのことは分かっていた。
支那事変(今は日中戦争と呼ぶ)は1937年(昭和12年)7月7日、北京郊外蘆溝橋にて日支両軍の衝突から始まる。日本の首相は当時人気抜群だった近衛文麿さんだったが、時局の見極めが悪かったと今では人気が無い。この人は戦局不拡大と言いつつも、軍部の勝手気ままな戦闘行為拡大をとめられない。ついに身動きならない泥沼状態に陥るのである。
ともあれ、私は思う。太平洋戦争は日本が受け身の戦争、こう言えばアメリカ側は怒るだろうけれど「日本こそ彼侵略国であるぞ」と言えるかも知れないが、支那事変こそはまさに日本の侵略戦争であったと私は言いたい。ここに日本人が深く深く陳謝の思いを持つべきである。
そして日本は中国に負けた。可笑しいが、中国は戦争で滅多に勝ったことのない国である。しかし、常に戦争で負けたようにあって、遂には勝つのである。先だって日本を最後にどうするかのルーズベルト、チャーチル、蒋介石の会談の経過をNHKのテレビで見たが、蒋介石の外交能力に驚いた。あの時、中国は完全に勝利を手に収めたといえると思った。人のふんどしで相撲を取ったのである。
*
なぜこんなことを長々と書き続けたか、戦争には正義の戦争というものはないということである。但し、より悪くない戦争。尤もだ! と同情できる戦争は多々ある。
日中戦争(支那事変)における中国の場合や、アメリカの対英独立戦争も、同じかもしれない。詭弁かもしれないが、太平洋戦争の日本もそれにあてはまるかもしれない。
さて、今後の問題、本稿の一番言いたい所論です。戦争に善い戦争はない。しかし、同情すべき戦争がある。たとえば、断りなしに攻め込んでくる敵国の軍隊。無辜の民をどんどん殺される、この暴虐にたいして雄々しく立ち向かおうではないか、同胞を守ろう。愛国者よ、立ち上がれ。こういう声があがるのは当然である。
そんな時、「戦争は悪です。私たちは戦争反対です。私たちの教え子、私たちの可愛いい子供は戦争に行かせません」。そんなことを言えるものではない。かえってお母さんも学校の教師も、「さあ、子供たちよ、お前たちも兵隊さんにならって、お国のために尽くそう」などと言い出す。戦争体制とは、そういうものです。
こういう時、ガンジーズムの大衆への徹底は非常に困難です。非戦論をぶつことは、まあまあ簡単ですが、非戦主義に生きることははなはだ困難なことです。
しかし、そういう時が来ても、私は「戦争は罪です。絶対反対です」と叫ぶつもりです。家族を含めて、敵の手で、または自国の法律で殺され、投獄されても叫び続けるつもりです。
もっとも、このことは口や紙で言うだけであって、実際に戦争反対の物理的行動を起こすのではない。ここは微妙な所です。日露戦争が始まってから、非戦論の高唱を止めた内村先生の心境もこの辺にあるのでしょう。
ともあれ、最後に言います。創造者なる唯一の真の神を信じ、拝すること、これが第一です、そして十戒の第六戒の「人を殺すなかれ」、更に「敵をも愛せよ」とのイエス様のお言葉、これらの戒めと教えに従う時、戦争はいかなる場合にも罪であると断ぜざるを得ません。<く>
2004/8/1
(「日岡だより」第135号)
熱中症?
「数字常識テストです。ハイ、9・11は何でしょう」「きまってます。ツインビル、同時テロの日です」「それでは次、39・5は何でしょう」「……? ハイ、先日の東京最高気温です」
最近は、部屋の中にいても熱中症になる例があると新聞で読みました。念のため熱中症という言葉を辞書でしらべると、ありませんね。新しい言葉らしい。かつては日射病とか脱水症などとは呼ばれてきたのですがね。とにかく家の中にいても、日射病と同じような症状を呈するのでしょうか。
さて、私の言いたいのは病気のことではない。熱中する人のことである。かつてアメリカの大リーガーにフランク・ベトガーという男がいた。彼が不振でクサッていた時、監督が彼に向かって言った。「お前はやる気がないんだ」
彼はその言葉に発奮した。やる気を起こした、ベースに着くにも、ダッグアウトに帰るにも、たとえ、いかに易しい捕球にしろ、軽い投球をするにしろ、打った球が軽いフライだと分かっていても、まるでクリーン・ヒットを打ったかのように走った、熱心を絵に描いたようにやった。日本の高校野球のようにやったのです。
自然にその雰囲気がチームのメイトたちに伝染していった。そして彼に人気が出た。フアンは彼を「火の玉選手」と呼んだ。次のシーズンには彼の給料が上がった。彼は言う。
「僕はけっして野球の知識が増えた訳ではない。技術がうまくなった訳でもない。それほどヒット数や盗塁数が増えたわけでもない。しかし、監督は私の給料を増やした。なぜか、私には分かっていた。私が試合に熱中したからだ」
つまり、彼は熱中症になっていたのである。
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彼はその後、大きな負傷をして野球をやめた。そして生命保険のセールスを始めた。最初は成績が上がらなかった、しばらくして、あのリーグにいた時の失敗と監督の言葉、そして彼自身の「火の玉選手」の時代のことを思い出した。彼は再び発奮した。
何よりも熱心。熱心が見込み客の心を打つ。やわらかい不思議な熱心さであった。時には契約を迷っている相手に万年筆を持ってきて「さあ、サインしてください」と言ったとかいう話もある。それでいて、相手客に決して悪い印象を与えなかった。こうして彼は世界一の契約高達成者になった。
熱心という言葉の英語はエンシュージアズムと言って、「神の中にある」というギリシャ語から来る。神様は熱心な方である。「万軍の主の熱心がこれをなされる」(イザヤ9:7、37:32)などと聖書にあるとおりです。
譬は悪いが、人はしばしば病原菌を受けて、熱病を起こす。同じように、凡庸な信者でも、神様の御言葉を受けると、霊の熱中症を起こす。パウロが狂えるように伝道したのは、それである。パウロほどではなかったにしても、私も神様から御声を聞いた。「鶴崎に行け!」
その頃、鶴崎は大分市の東に隣接する町であったが、私は1、2度しか行ったことがなかった、しかし、私は瞬時もおかず自転車に乗って鶴崎の町に行き、そこの中心街の街角の電信柱に「この町で近くキリスト教伝道を始めます」とポスターをはりつけた。
そして3日後にその町にある高等学校の事務官の職が与えられ、私の第1期伝道が始まった。熱心を絵に描いたような伝道で、O姉やK姉や、今の私の妻が聖霊を受けて信仰を与えられたのである。私の熱中症の結果であった。<く>
信仰とは記憶である(一)
数年前、ある姉妹から電話があった。帰省した大分から東京に帰ろうとしているのだが、大分空港上空に霧が発生して、飛行機がフライト出来ないでいるという。
「先生、今日、東京に帰れないと困るんです、祈ってください」という強い懇願だった。
私ははっきり言った。「よろしい、祈ってあげるよ」。そして、私は痛切に声を上げて祈った。確信して神様に祈った。
すると、1時間ほどして姉妹から電話があった。「先生、ありがとうございました。霧が晴れました。すこし時間は遅れましたが、間もなく出発だそうです」と言う。私はもちろん、大いに神様に感謝した。
ところで、どうしてこういう信仰の祈りができるのか。ここに語っておきたい秘訣がある。
実は、その前年の11月、私は妻と一緒に東京から大分に帰る飛行機の中にいた。大分空港が近づいて、機内アナウンス、「大分空港の上空付近、霧があって飛行機は大分に着陸出来ないかも知れません、最悪の時は福岡空港に着陸させて頂きます」
「なんだって、冗談じゃない」、私は妻の手を握って「さあ、祈ろう」。私たちは2人手を握り合って、声を上げて祈った。
「主よ、霧を払ってください。私たちを無事、大分空港に降ろしてください」
そして2人で声を合わせて霧に命じた。「霧よ、退散せよ」
なんと間もなく霧は晴れて、私たちは無事大分空港に降りたったのである。
*
こうして一度、成功したことがある祈りは、次の似た状況の際、もう一度同じ祈りを祈る確信を助けるのである。私はこれを「信仰とは記憶である」という言い方をする、
この記憶とは勿論、英語のABCを覚えたり、数学の公式や歴史年表を覚えることではない。演壇にあがってスピーチを一応やりとげた経験は、次のスピーチの自信を生むのと同じである。
「癒しの祈り」で言うなら、一度、心筋梗塞のため祈って癒されたり、また友人の腹痛を祈って癒されたり、そういう経験が1度、2度と続くと、次の機会に自信を持って祈れる。
時には経験にない、もっとひどい、手ごわい症状に接しても、向こう見ずに挑みかかるようにして大胆に祈り、病気に向かって「憎っくき病気の霊よ、ただちに出て行け」などと声を上げたりする、それが成功すると、大胆祈りの癖が出来る。癖は身についた記憶です。
(かつてチョウ・ヨンギ先生が語っておられた。「私には格別、霊の賜物や悟りがあるのではないのです。ただ私にあるのは大胆の霊です」。先生のご謙遜ではあろうが、又真実を語っておられると私は思ったことでした)。
こうして成功の記憶が更に大型の成功を生む。私はこれを成功の記憶の法則と言う。失敗は案外これを記憶しないで、忘れるものである。一度覚えた泳ぎや自転車の運転は忘れることなく、それまで何べんも失敗したはずの泳ぎや自転車の失敗経験は記憶に残らない不思議さに気づいてください。なんど失敗しても、人は一度成功すれば、特に体得的経験は多くの数の失敗を一挙に忘れさせてしまうのです。<く>
〔あとがき〕
★「平和憲法を護ろう」という記事を先週の本紙に載せましたが、先日の大分合同新聞に「平和を守る」意見広告の運動、「赤とんぼ」の会の紹介が出ていました、もう何年もつづいている良い企画です。だれでも、少しでもその気持ちのある人は、大分県内5つの新聞の一頁広告に自分の名前だけでも載せることができる。人によってはたった1行の名前でも天下に公表することは嬉しいことであろう。怖いと思う人もあろうが、思い切って申し込みましょう。この平和広告運動に協賛サポート、たった1000円でよい、郵便局で振替用紙(青)を貰って、次の振替番号で振り込みましょう、01540・0・12160「あかとんぼの会」。問い合わせは「みんなの家」tel097・545・3134。受け付けは8月3日まで。□く★第1頁に紹介したフランク・ベトガーの本は「私はどうして販売外交に成功したか」ダイヤモンド社刊、1223円