キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
(バックナンバー)

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2004年9月


 

2004/9/26

(「日岡だより」第143号)

星を見なさい    

          *

 悩みにあった人だけが、悩みの中にいる人を慰めることが出来る。さらに、

 悩みの中で神様に慰められた経験のある人だけが特に、悩みの人を慰める力に富むのである。

          *

 星を見なさい。しろうと学問でよいから、少し天文学を学びなさい。

 山を見上げなさい。近くの丘でよいですから登ってごらんなさい。

 野の花、空の鳥を見なさい。そこで多くの信仰を学べるでしょう。

          *

 天地にあふれる絶大な力を信じますか。

 これが無ければ宇宙も運行せず、蟻一匹動けません。ましてこの私もあなたも生きて居られません。

 あなたを生みだした力は単なる偶然ではなく、一つの意志者であると、あなたには信じられませんか。

          *

 一瞬と言っても、物理学的な一瞬はともかく、生理的、心理的な一瞬は一秒か二秒の間です。

 この間隙をキリストの思いで満たす工夫をしなさい。そしてこの間隙を少しでも引き延ばす工夫をしなさい。これが最もやりやすい瞑想法です。

          *

 心臓が止まりかけたら、急いで足の小指からしゃ血する(メスを入れて吸玉で血を取る)。すると死にかけた心臓が生き返る(と東洋医学では教える)。

 イエス様は神様の指であって、自ら傷を負い、血を流された。そして私たちが生き返る。

          *

 金を儲けることと、仕事をすることとは違う。

 金を捜すのではなくて、仕事を捜しなさい。

 仕事はどこにでもある。

          *

 仕事という字は、仕える事と書く。

 神様に仕える道、また人類に、社会に、国家に、家族に、隣人に仕える道が、どこかにある。

          *

 ちょっぴり分かりにくいことだが、自分自身に仕える道というものがある。

 学生が勉強するのも、病人が養生するのも、自分自身を神様から与えられた預かりものとして、それに仕えるのです。

          *

 偽善者と言われることを恐れるな。人を愛し、善行を行うことを恥じるな。

 人に見られようとして行う愛や善行は偽善ですが、神様に見て頂こうとして行う愛や善行は決して偽善ではないのです。

 またあなたが自ら心の力、性質を高めようとして行う修養的な努力は決して偽善ではなく、無駄なことでもなく、大切なことです。

          *

 人生は小さな事の積み重ねです。ゲーテのような大文豪も要するに一字一字原稿を書いたのです。

 原稿を書くということの一つの側面は、昔でしたらペンをインクに浸して、紙の上をこすってゆくという単純作業の積み重ねだったということです。

 「少年よ、大志を抱け」とは言いますが、空想のキャンパスの上に大志の夢を描くだけで、目の前の些細な準備一つもしようとしない人は何事も出来ません。

          *

 「弱さに徹する強さ」と私はよく言いますが、しかし時には力を出しきってみませんか。

 力を出しきってみないと、自分の弱さも本当には分かりません。<く>

  


嫌がらせ電話がかかってきたら    

  「霊の賜物は種々あるが、………
  務めは種々あるが、………
  働きは種々あるが、………」
   (コリント人への手紙第12章4〜6節抜粋)

 よく教会で次のように言うことがあります。「信仰さえあれば大丈夫だ。それですべては解決できる。キリスト教は愛の宗教だ。愛さえあれば何でも解決する」。

 それは勿論そうでしょうけれども、残念ながら私たち個人個人がこの世の中で具体的に生きる時、どうもうまくゆかない。私の信仰や愛が足らないのであろうけれど、ともかくどうしたら良いのかわからない。そういう事はよくあることです。それも私たちの信仰生活の現実です。

 一つ一つの事件、一人一人の人物に相対してどのように行動するか、そのとき単なる信仰とか愛という観念や気分だけでは解決できなかったことで、自分の信仰を情けなく思った人は多いことでしょう。

           *

 それぞれの異なる局面に処して、時期を得た助けを受けるためには、はばかることなく恵みの御座に行こうと聖書は言います(ヘブル4:16参照)。

 それは聖霊の御座であります。なぜなら聖霊は種々なる物事に適応する種々なる働きを持っているからです。

 たとえば最近ある方が嫌がらせ電話に悩まされるようになりました。一日に20回もベルが鳴る。受話器を手に取ると向うはガチャンと電話を切る。こちらには怨まれる覚えも嫉まれる覚えもないが、相手を確かめるすべも、説得するすべも無い。

 このままに日を過ごしていると気の小さい人だったら精神病院行きになってしまいそう。そういう状況です。

 「どうしたらいいでしょう。先生」。その時、聖霊様は具体的な知恵を教えてくれました。

 「ローマ13:21を開きましょう。『悪に負けてはいけない。善をもって悪に勝ちなさい』と、あるでしょう。その人を憎まないで、逆にその人の上に神さまの祝福を祈りなさい。相手の人の背後にいる悪魔の子分を追い出すのです。それにはこうしなさい。ベルが鳴ったら受話器を取って、『ハイ、お電話下さって有難うございます。こちらは××でございます。神さまのご祝福をいのります』と、答えなさい。そうすれば向こうさんが既に電話を切っていても、まだ聞いていようとも関わりなく、あなたの心は汚されず、そういう事態に勝利できます。最初はうまく行かなくても繰り返してください。必ず上手になります。今後いくら嫌がらせ電話がかかってきても全く平気に応対できるようになりますよ」。

 「すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ………」(第一コリント12:8)。これも聖霊の賜物の一つでしょうね。(1985.5.18「テレホン聖書」より)


 〔ご参考に〕今週のキリスト新聞を読んでください。第1頁の記事から、本の広告、書評にいたるまで、私の関心を引きました。その感想を私の日記から以下に抜粋します、主観的日記文ですから分かりにくいでしょうが、ご勘弁ください。
 (1)1頁の下段の富岡幸一郎の「非戦論」の広告に目が行った。ぜひ読みたい。富岡さんが非戦論のテーマで何を語るのか。私はA4を2枚も打てば、もう書くことが無くなるというのに…。非戦主義では同じ一頁にピースメーカーズがYMCAを訪問の記事。団長は洞爺丸沈没当時、同船の女性に救命具を譲ったという若い宣教師のご子息らしい。
 (付記)寺島俊穂という人が「市民的不服従」(風行社)という本を書いているらしく、その書評をサインズ誌で読みました。これも必読。
 (2)「韓国のキリスト教に見る深い病」。韓国のキリスト教にも問題はある。あの「天国の人」でブラザー・ユンが疑問を呈していた「繁栄の神学」もその一つ。行き過ぎては何でも問題が起こる。
 (3)社説の「信仰の本質を問う」、特にキリストのからだなる教会のあり方、クリスチャン共同体の勧奨。私の教会の必須の問題か。((4)は省略)
 (5)小塩さんの「傍らに居られる神」の中で触れている「対話する神」に関して…。ヨハネ1:1の「言は神と共にあった」を原典では「コトバは神に向いている」と読める。これは人間の意識の二重構造の本来の原形ではないかと思う、ここに三位一体論の秘義がありはしないか。以下略。<く>

 


 

2004/9/19

(「日岡だより」第142号)

信仰のアルファとオメガ    

  「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル12:2新改訳)

   この度、9月9日から15日まで、拡大宣教学院から秋田キリスト教会へと、旅に出ていた。その間、先生がたや信徒の皆さんの敬愛を受けて、心に感謝と喜びを一杯満たして大分に帰ってきた。また今回の旅の特徴は良い読書が出来たことだった。最近はキリスト教書以外の本は全然読んでいなかったので、あらためて新鮮な感じがした。読書を楽しむというより、驚嘆して読んだ。特に東横インの社長さんの書いた「内観」の体験記や、斎藤孝さんの金メダル級のアスリートたちとの「身体感覚について」の対話、また例の人質事件の若い18歳の今井君の「イラク体験」、いずれも心の痛点が刺激されて気味のよい思いをした。これらのこともいつか書きたい。

 今回は拡大での始業礼拝と秋田キリスト教会での主日礼拝説教の内容をまとめて以下に書きます。

 

   一、信仰の創始者

 冒頭に書いたヘブル12:2ですが、口語訳では「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」となっている。前半は、私は新改訳を買う。口語訳ももちろん誤訳ではない。しかし、イエス様を信仰の導き手と意義づけるのは、その後半の言葉で十分言い得ている。実に、イエス様は信仰の創始者なのである。

 この創始者と訳された原語は、ヨハネの福音書冒頭の「初めに」という言葉と同じ語源である、この「初めに」という言葉は創世記の最初の言葉の「はじめに」よりも更に遡及する「はじめ」なのだと言われている。

 ともあれ、無限に過去に遡って神様が万物を創造された以前のことなのである。そのような超然たる言葉を使った「創始者」、言い替えれば「創造されるかた」、この方こそイエス様であると言うのです。

 ここのヘブル人への手紙によれば、イエス様を信仰を創造される方と呼ぶのですが、これは聞き慣れない言葉ではないですか。

 普通、信仰とは人がイエス様や神様を自らの意志をもって信じることです。ところが、聖書はここで別の見方を述べています。これは大切な点。信仰は、元々神様のものなのであるというのです。

 マルコ11:22のイエス様の「神を信じなさい」という言葉、これは原文では「神の信仰を持て」なのです。英訳はたいてい正確でHave the faith of Godとなっています。

 第一コリント12:3下では「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」とある。また使徒行伝3:16下では「イエスによって与えられる信仰」、口語訳では「イエスによる信仰」という言葉になっています。

 さてもっと簡潔で直言的な言葉があります。残念ながら邦訳聖書ではいずれも翻訳がよくありません。それはガラテヤ2:16(2回)、20、3:22、またローマ3:22、エペソ3:12ですが、たいてい「イエス・キリストを信じる信仰」とか、「イエス・キリストに対する信仰」などと訳しています。ただ1928年(昭和3年)に出版された永井直治先生の「新契約聖書」だけは、そこを「イエス・キリストの信仰」と端的に訳しています。もっと突っ込んで訳せば、「イエス・キリストが所有されている信仰」と訳しても良いのです。

 有名なカール・バルトはここを「イエス・キリストの真実」と訳したと覚えていますが、彼一流の読み方です。これもよいと思います。

 長々と書きましたが、信仰とは元々神様が持っておられ、イエス様が父なる神様から引き継いでおられる信仰と読んでも良いのです。そのイエス様が私たちの心に信仰を分け与えてくださるのです。言い替えると、イエス様は私たちの信仰の創始者であるということになるのです。

 だから、ペテロは書簡の相手にむかって挨拶します、「わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ」と。私たちの信仰は神様から賜ったものであります(第二ペテロ1:1、ピリピ1:29参照)。

    二、信仰の成長

 前述では、私たちの「信仰の基礎」を述べたつもりです。くどくど書きましたが、大事なことと思ったからです。この項では「信仰の成長」について書きます。信仰の成長とは「霊性の変革」です。霊性の変革をもたらすものは「祈りと黙想」です。

 祈りとは神との深い交わりです。モーセやイエス様のように、光まばゆいばかりに変貌するまで祈ることです。黙想は母マリヤの特別な賜物だったと思いますが、また詩篇第63篇などもお読み下さい。旧約の人々の黙想の深みが伺えます。

 とは言え、今回はもっと初歩的なことを、述べたいと思います。信仰の成長は聖霊による賜物と恵みにより、善き能力と品性が与えられつつ起こります。それはまた、試練と背中合わせという場合も多いのですが、その中で信仰は更に強化され、純化され、深化され、拡大されるのです。

 「天国の人」のブラザー・ユンのようにあらゆる困難を一手に引受けるというような信仰の勇者もいますが、また私たち平凡な信者のためには、やさしい容易な信仰訓練の場もあることも知ってほしいのです。具体的に申し上げましょう。

 まず永井明先生の「恵みの九原則」というテキストがあります。特にこの中では「告白」の勧めは他に類を見ない特色だと思います。み言葉の告白は、み言葉を自然に暗記させてくれます。そしてその暗記したお言葉を心をとめて黙想するのです。

 先々週の主日礼拝で、次の賛美が歌われました。

  「主イエスの十字架の血で、わたしはゆるされ、
   み神と和解をして、平安を得ました
   だから今、すべての悩みを委ねよう
   主は心に平和を、満たしてくださる」

 この賛美に私は心を奪われました。まず、主イエスの十字架の血で、私の罪がゆるされる。これぞ信仰の第一歩、むつかしく言えば義認の信仰です。罪が赦され、神様との間に和解が与えられ、そこで平安を得ます。和解や平安とは、神様と仲良しになることです。喜びが湧きます。私は立ち上がって賛美リーダーを制しました。

 そして、私が(この私がですよ)賛美を導きはじめたのです。歌詞を繰り返すごとに、最後の行の「平和」を他の言葉に入れ替えました。平和を喜びと歌い代え、また力と、癒しと、聖さと、勝利と、あらゆるイエス様が下さる恩寵を数々あげたのです。

 こうして天のイエス様を目を離さず見上げましょう。信仰が次第に変革されて行きます。この段階は非常に大切です。信仰の段階は、まず罪を赦され、平和を得、そして次第に成長します。この地上で、如何に、巧みに、強く、清く、朗らかに、気分上々、勝利して生きて行くかということです。

 ここで自己訓練が必要になるのです(第一テモテ4:7、8参照)。詳しく言えば、意識の改善、感情のコントロールのため、賛美、告白の利用、イメージ効果の会得。いろんなことが体得されて信仰生活が完成へと成長して行くのです。

    三、信仰の完成

 イエス様こそ、信仰の創始者、またその完成者である。なんとすばらしいお言葉でしょう。

 しかし、このお言葉によって、地上に生きている間に、私たちの信仰が完成するとは思わないで下さい。パウロも言っています。

「わたしはすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスに捕らえられているからである」(ピリピ4:12、その前後のお言葉も参照)。主の日を迎える時、すべてが完成する。「主が完成者である」とは、まさに正しい。主の御再臨にすべてをかけよう。<く>

 


 

2004/9/12

(「日岡だより」第141号)

台風に勇み立つ九州人    

 九州は昔ながらの台風銀座、それにしても今年はよく来ますねえ。16号、18号。もっとも九州人は台風に慣れています。思い出しましたが、永六輔さんが言ってました。

 「驚きましたね、九州の人は台風が来ると『コンチキショウ、台風の奴、また来やがったか』などと言ってはいますが、口ほどにも無く(?)、勇み立っているんですね。」

 それほどにはないにしても、九州人の私には、その辺が少しわかります。腹が出来ているんです。

 最近驚いたというか、感激したというか、それはロシアの学校人質事件の渦中の13歳の少年、ハッサン・ルバエフ君のことです。体育館の人質の中で彼は突然立ち上って言い放った。「あなた方の要求には誰も応じないだろう。あなた方は必ず殺される。我々を殺しても何の役にも立たない」。激昂した襲撃犯の一人の一発で彼は死んだ。

 今、ロシア国内で彼の命をかけて正義を訴えた勇気を称える声が広がっているという。こうした勇気ある言動には平素の覚悟が必要です、昔のサムライはいつも「まさかの時は、畳の上では死ねないぞ」と腹をきめていた。いつでも腹を切る覚悟です。

 迫害時代のクリスチャンには、この覚悟があった。第一ペテロ4:12に「あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚きあやしむことなく……」とある、「覚悟はいいか」ということです。

 覚悟を決める秘訣は、(1)聖霊さまの助けを求めること。(2)次に平素から自分自身に言い聞かせることです。「私は主のために死を恐れない」と。<く>

   


世に生きる秘訣    

           ―コロサイ人への手紙4:2〜6―

   一、キリスト教倫理は不可能か

 私は初め、コロサイ3:18から4:1までをテキストにして、パウロが「妻たる者よ、夫たる者よ、父たる者よ、云々」と呼びかけている、私たちの家庭におけるキリスト教倫理をお話したいと思っていました。でも、聖書のその先ではクリスチャンは世に如何に生きて行くか、その基本的秘訣を書いていると思えました。

 キリスト教の市民倫理を説こうとすれば、イエス様の山上の説教(マタイ五章から七章まで)をはじめ、幾らでもテキストが聖書にあります。しかし、それは実行は不可能なのです。ベニー・ヒンの本にありましたが、ハワード・ヘンドリックスが言っている。「信仰生活は困難ではない。実は、不可能なのだ!」と。

 これについて神学的に解決する道があります。バルトとツールナイゼンの共著「山上の説教」は、その格好の論文です。キリスト論的弁証法と言えるのではないでしょうか。自分自身、聖霊によって回心していると、神学のしろうとでも、この本は分かります。しかし、聖霊による体験がなくても、知的に読むだけでも信仰が分かったような気になります。こうした自前信仰の人がバルト流行の時代に多く生まれたように思います。

 本当の生きる秘訣は聖霊を受けることによって生まれます。ベニー・ヒン先生が先ほどのヘンドリックスの言葉を引用した時、そばにエゼキエル36:26、27のお言葉を掲げていました。

「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる」と。

 ベニー・ヒンは、「これこそ秘訣だ、世に生きる信仰生活の秘訣だ」と言っているのではないでしょうか。

 

   二、目を覚まして、ひたすら祈れ

 それではまず、コロサイ4:2を読みましょう。信仰とは霊的な覚醒です。目が覚めているから祈らずには居れないのです。感謝だから祈らずには居れないのです。義務的に祈るのではありません。ひたすらに祈るとは、そのことです。ひたすらに祈りつづけるとは常に祈ることです。一瞬も置かず、絶えず祈るということです。眠っていても魂は祈っている、そういうことは人間に可能でしょうか。可能ですよ。少なくとも、ある程度それが実現すると、ああ、こういうことは出来るんだな、と納得できます。

 そのためには、最近、あの「賛美の力」の訳者の浜田英一先生が「主の臨在を実践する」という小冊子を翻訳してくれました。一瞬も絶え間なく神様に祈る習慣をつける実践的な、実技的な本です。この本に従って「常に祈る習慣をつける」練習をしましょう。「笑う練習」と同じことで、練習をつづけると習慣がつきます。習慣は人間の強力な力です。悪い習慣は悪い力を身につけさせ、善い習慣は善い力をあなたの人格に植えつけます。

 祈りとは神様との会話です。ノーマン・V・ピールの機関紙に出ていたハリディ・キャンプの神様とのマラソン会話を思いだしてください。マラソン会話の祈りこそ、間断なき祈りです。そして神様との間に友情を造ります。

 神様との交わりということを、何か神秘的な霊的な経験かと思いこんで、ややこしく考える必要はないのです。人間の交わりでもそうです。交わりとは会話のある仲です。会話が深まれば深まるほど交わりが深くなるのです。そして会話の相手の人格がこちらに移って来るのです。

    三、神による発言、霊の言葉

 つぎに、コロサイ4:2、3を読みましょう。ここに至って、パウロは「私のために祈ってください」、と言います。上記のように神様との深い祈りが出来始めたならば、このパウロのためにも、とりなしの祈りをしてくれと言うわけです。初信の人、まだまだ弱い信徒さんの取り成しの祈りでも、尊い祈り、必要な祈りです。幼な子の祈りこそ、神様の前に尊い祈りです。

 しかし、又、実質的に力ある強い祈りをもって「私を助けて欲しい、私には伝道の門が開かれているが、また反対のサタンの反抗もあるのです。そのために獄にさえ繋がれている」とパウロは言うのです。先の号に書いたブラザー・ユンのように、強烈に働く主のしもべには、反対の勢力も躍起となって働くのですから。

 神の御言葉のための門、という言葉を伝道のための門戸と理解するのが、常識でしょうが、私の旧師手島先生は「異言のための門」と語ってくれたことがあります。そのために喉が獄につながれるように苦悶している。そして、やっと異言が出た後も、はっきり国語を話せるように口や舌を解放してほしい。つまり明確な預言の賜物を与えられるように祈ってくれと言うのです。「それは何か、キリストの奥義である」とパウロは言います。こんな懇望を信徒諸君にするパウロの謙遜さに胸を打たれます。

 

    四、時を奪還せよ

 コロサイ4:5の御言葉を直訳すると「知恵にあって(エン)歩み、時間を買い戻しなさい」となる。知恵とは神の知恵です。御霊がイエス様の上にとどまる時、それは「知恵聡明の霊、謀略才能の霊、知識の霊、エホバをおそるる霊」(イザヤ11:2二文語訳)です。イエス様を受け入れた私どもの内には、そのイエス様の知恵の霊がとどまるのです。世の人には愚かな知恵でも、私たちには神の力、神の知恵です(第一コリント1:18〜25参照)。

 「歩む」とは、人間のこの地上での生活のことです。この言葉は現在形ですので、ギリシャ語の文法として「その行為を繰り返し継続して習慣になるまで」歩み続けよとのことになります。

 「時間」という言葉は、ここではカイロスです。新約聖書では時を表す言葉が3つあります。経過的時間はクロノス(昔、特殊な正確な時計をクロノメーターと呼んだ)と、月や季節や時代を表すホーラと、このカイロスです。

 カイロスは言わば点です。マルコ1:15のイエス様のお言葉、「時は満ちた。神の国は近づいた」の時がそれです。幕開きのような決まった時間、意味のある「時」です。口語訳では「今の時を生かして用いよ」(エペソ5:16も同様)とあります。そして、「賢い者らしく歩む」ための条件のように語っています。

 ここで「生かす」と訳してある言葉は、原典ではイエス様による「あがない」という言葉を使ってあるのです。言い替えれば「買い戻す」、もっと強烈に訳せば、「奪還する」です。イエス様は私たちを罪や悪魔の牢獄から御血をもって「買戻し」、「奪還」してくださったのです。

 だから悪魔に乗っ取られている私たちの時間、私たちの貴重な時間を悪魔から奪還しよう。それが、人生を賢く生きる秘訣なのだということを、ここで学びたいと思います。

 

   五、聖霊に味つけられた言葉を

 コロサイ4:6の御言葉を以下に載せます。私のしろうとらしい訳ですが、お読みください。

 「常に恵みのうちに語りなさい。塩で味つけされなさい。外(そと)の人々の一人びとりに対して何と答えるべきか、当然の言葉を悟るために」。

 「塩で味つけされる」とは聖霊様の恵みを受けるということです。聖霊様の恵みを受けると、私たちの語る言葉は聖霊の「恵み」の中で語られるようになります。勿論、それは異言であり、預言であると言ってよいのですが、また口語訳聖書の訳のように「やさしい言葉」でもあるのです。新改訳では「親切」、新共同訳では「快い」です。

 しかし、それはやさしい言葉以上に知恵のある言葉のはずなのです。ソロモンの知恵です。御霊の恵みの言葉は知恵の言葉だと私は信じます。

 2人の遊女の間で赤ちゃん争いが起こった時のソロモンの裁きというものは全く神の知恵でした(列王記上3:16〜29参照)。

 私たちの教会はカリスマ派と言われますが、カリスマとは「恵みの賜物」という意味です。カリスマ派で大きな声で賛美したり、踊ったり、異言、癒し、預言、それらはすべてカリスマ派の教会の特徴でしょうね。しかし、それはそれとして、

 教会外の世の人々の疑問、質問に対し、それぞれ適切な言葉で答えられる神の知恵の賜物を持ってほしい。それが「世に生きる秘訣」の基本になるよと、パウロは言いたいのだと思います。(2004年9月5日主日礼拝にて)<く> 

 


 

2004/9/5

(「日岡だより」第140号)

灯台が一夜で消えた?    

 宮崎県細島の灯台が一夜で消えるという珍事がありました。台風16号による10メートル以上の高波が土台だけを残して灯台を壊したのであろうということです。岩礁の多いあの付近では、灯台が無くては、船舶にとっては危険きわまりないことです。

 最近のチェチェンの学校人質事件、それに対するロシアの有無を言わせぬ制圧、そこには社会や行政を安定させる「灯台」的なものが消えています。日本国内で言えば頻発する異常な殺人事件、おれおれ詐欺等、いずれも社会の道を示す「灯台」が消えかけているのかという感じです。

 聖書には「預言の言葉を暗やみに輝くともしび」(第二ペテロ1:19)とせよとあります。まず神の御言葉を、あなた個人の、又あなたの家庭の、又あなたの周辺の小さい社会に、点火しましょう。喧嘩の絶えない家庭でこそ強く愛を語り、また自衛隊のある国家であればこそ、平和の声を高く叫びたいのです。

 「戦いや争いは私たちの肢体の中で相戦う欲情から起こる」(ヤコブ4:1参照)と聖書にあります。読み方によっては、私たちの家庭や小社会での小さな喧嘩や戦いの影響が微細なネットワークとなって、大きなテロ事件や戦争や、また世間の忌まわしい諸事件を起こしているのではないかと、私たち自身の連帯責任を考えさせる程でありますが、

 それにしても、最近の荒廃した暗い世相を報じる新聞の記事などで、一般の日本人は却ってそれを反面教師にして案外快活になっているのではないか。オリンピックの金メダル・ラッシュがその証拠のような気がする。<く>

 


激烈なる宣教の人      

 ―新刊「天国の人」を読む―  

 新刊「天国の人」を読んだ。その書評をリバイバル新聞に依頼されて、書いたのが以下の前半です。(感動する箇所が多くて、依頼されたスペースに書ききれなかった分を後半に載せました。)

 著者ブラザー・ユンの、その名はクリスチャンの友人たちが彼を呼ぶときの愛称のようであります。本当の名はリウ・ツェニンだそうだ。もう一つの愛称というか尊称というか、それが本書の題名ともなった「天国の人」である。

 彼は1958年、中国の河南省南陽県の農村に生まれた。彼が16歳のとき、1974年であるが、彼のお父さんが絶望的なガンに侵され、いつ死んでもおかしくない状況だった。

 お母さんに呼ばれて、子どもたちも全員一緒になって「イエス様、父をいやしてください!」と繰り返し祈ったとき、お父さんがメキメキいやされたという。

 その時からユン兄はイエス様を救い主と受け入れただけでなく、全身全霊で主にお仕えしたいと願う人間になったのだと言います。

 その後、彼は中国で奇蹟的、激烈な伝道を行い。入獄を繰り返し74日間の断食を断行し、最後は超奇蹟的脱獄を行って、ついに中国を離れてドイツに向かう。1997年のことです。

 彼は今、ヨーロッパに滞在、世界的に招かれているようですが、数えてみれば現在46歳の若さではありませんか。驚嘆します。

 先に「激烈な」と書きましたが、このユン兄の伝道姿勢の激烈なこと、いわゆる「鬼神もこれを避く」という中国の古語のとおり、幾度となく生死の境を突破して乗り越えてゆくのです。

 最後の刑務所脱出の場面など、30名の看守たちがウロウロする中を彼らの眼の前でスルリと通り抜けるように門扉から出て行くのですからスリル満点! です。まるで天使がペテロを獄中から救い出す場面を彷彿とさせます。

 使徒行伝と言えば、聖書の文体は簡潔すぎるほど簡潔ですから、ぼんやり読むと多少情緒的な感銘を受けにくいことがあります。

 ところが、このユン兄の手になる本書は内容が詳細ですし、描写が生き生きしていますから、使徒行伝よりも西部劇を見るみたいに面白い面があると思います。こんなことを書くと、まじめな先生がたから叱られそうです。心配だなあ(笑)。

          *

 以上がだいたいリバイバル新聞に寄稿した書評の内容です。書き足りなかったところを以下に書きます。

 ユン兄は言う。「会堂にこもらないで家の教会に徹しよう」と。又いわゆる「繁栄の神学」に対して疑問を呈するところ、これらは、中国の家の教会の指導者らしい一面でしょうか。これは西欧的教会にたいする厳しい注文でもあります。日本の教会は低頭して聞くべき注意かと思います。

 更に、最も注意したいのは彼の「エルサレムに帰れ」という主張、もしくは提唱です。いわゆる「エルサレムに平和を」ではないのです。

 「シルク・ロード周辺(そこは仏教、イスラム教、ヒンズー教の盛んな地域です)にキリストの福音を伝えつつエルサレムまで徒歩で行こうではないか」と言うのです。

 これは今まで聞いたことのない壮大な宣教ヴィジョンです。主の日が近づいていることを、真っ正面に意識した終末的宣教角度です。キリスト教外の世界3大宗教を飲み込もうという極めて積極的「勝利の宣教学」です。

 ユン兄弟は。若い時に母を通して聞いた主の言葉は「西へ東へ行って主の福音を語りなさい」というのでした。今にして彼は母の預言的提示に感動して身震いしているのではないでしょうか。

 その他、文中、感銘した言葉を列記します。

 (1)彼はこう祈っています。「正義の神様、どうかこの国(中国)をお許しください。あなたの子どもたちを迫害する人々、また私たちを憐れんでください」と。
 私たちも祖国日本のために祈りましょう。天皇様や大臣諸君、政治や産業界の実力者たち、いわゆる文化人、評論家諸君、彼らに聖霊さまの威力が及び、彼らが真理に目覚めて回心し、日本を霊的大国として下さるように。教会に旧約の預言者のごとき人々を興し給えと祈りましょう。

 (2)ユン兄は述懐します。「人間の悪だくみに関係なく、いつも主は忘れずに私の命を制御してくださった」と。

 (3)また、こう言っています。「私たちの力の限界が来た時、それは失敗ではなく、神の無尽蔵の力が注ぎ込まれる瞬間なのです」と。

 (4)彼は明確に御声を聞いたそうです。「荒野に行って祈りなさい。祈ってから説教しなさい。祈ることなく説教してはいけない」。(説教者たる私の魂にドスンと来ましたね)。

 (5)また言います。「あなたの灯心は常に主の油で満たされる必要があります」。

 (6)また、こう言います。「十字架の道とは、血を流すために召し出されることです」と。

 (7)ユン兄も、彼のお母さんも、彼の奥さんも、彼の信仰の同僚たちも、しばしば確実な主の御声、幻、夢で重大な警告や励ましを受けていることにも大いに驚きます。

 (8)まだ沢山ありますが、もう一つ書き添えたいことは、聖書の暗記を特に奨励している事です。福音書を1日1章暗記せよと奨励している箇所がありました。(なるほど聖句を黙想するには、まず聖書のお言葉を暗記しなければなりませんからね。み言葉の暗記、暗唱、黙想を励行しましょう)。<く>


 

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