キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
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2005年1月


2005/1/30

(「日岡だより」第161号)

なんだか恥ずかしい     

 なんだか恥ずかしい。眼科に行って、目の手術をするんです。白内障です。

 「先生、なぜ恥ずかしいのですか」と聞かれると困るんですが。

 この白内障、数年前に分かったのですが、ちょうど車の免許の切り替えで、視力が足りないようで、心配でしたが、免許試験場に行く間、「目は大丈夫、必ず、視力は合格する」と口で告白しいしい、試験場に行きました。

 そうすると試験場の視力を検査するところで、0.7度を上がったり下がったりです、危なかったのです。しかし、試験官の人が「まあ、良いでしょう」とおまけしてくれて、やっと合格したんです。

 「どうだい。信仰の告白で目の検査、受かったよ」と、当時いばっていましたが、今回は前回のようにうまく行くかしら、心配ですね。だいぶ前回より、目のかすみがひどくなっているように感じるのです。

 そこで昨年の秋の頃から、目に良いというブルーベリーのサプリメントを飲んだり、時々「白内障は治る。治る、治る」と告白もしていたのです。そして、なんとなくうまく行けそうな自信がありました。

           *

 ところが、今年になって、ふと不安になりました。「まあ、そう、がんばることもないじゃないか、最近は白内障の手術は簡単らしいし」、そう思って多少評判のよい眼科に行って診察を受け、そしてさっそく手術を受ける予約をしてしまったのです。

 そして家に帰ってから、どうでしょう。どうも目のかすむ度合いがひどくなっている。

「これはしまった」と思いましたね。信仰を持ち続ければよかったのに。これが、「なんだか恥ずかしい」と、私の思う理由なんです。

「先生、まあ、それほど気にしなくても。眼科の病気ですもの。こだわらずに、手術なさって下さい」という慰めの言葉も貰いそうです。それはそうですけれどねえ……。

 しかし、メル・ボンド先生の神癒聖会では白内障の治っている人もいるしなあ、と考えるのです。

 尤も、歯がむしばで痛んで、祈って治ったという人はいないなあ。むしばで歯医者さんに行くのは、どんな信仰深い人でも、誰も不思議に思わないようだなあ。こうしたことを想っているうちに、私はふと昔のことを思い出しました。

           *

 昭和18年(1943年)12月か、明くる1月のことだと思うのですが、私は例の「兵役法、その他の違反」で検挙されて、その頃、大分の刑務所の未決監にいたのです。

 ある日のこと、急に右の歯が痛み始めました。痛むのは永久歯で、ジンジン脳の芯まで響きます。私は少年時代から、よく歯が痛みました。40歳くらいになったら、歯はもう全部無くなってしまうのではなかろうかと心配したくらいです。

 その私ですが刑務所の中で歯が痛むのには困ってしまいました。そして看守さんに頼んだものです。

「歯が痛むのです。歯医者さんを呼んでもらえないでしょうか」。

 看守は目を剥きましたね。「なんてことを言う。ここをどこだと思っている。貴様は兵隊を拒否して非国民だぞ。虫歯くらい、なんだ。がまんせい」。

 私は愕然として、目をつぶりましたね。これはもう、死刑になったほうが気がおさまるくらいです。一生、虫歯をこらえて生きるのかなあ。いや、待て待て、歯が膿んであごが腐れそうになったら、外科のお医者さんくらい呼んでくれるかなあ、などと思ったことです。

 そして決心しました。あごの骨が腐れはてるまで、痛みつづけても仕方ないわ、そう思って、刑務所のせんべえ布団をかぶりました。どうにか眠ったらしい。そして目が醒めてみたら、あの激しい痛みがすっかり治っているのです。驚きました。

 この永久歯は大きな空洞をかかえたまま、それから40年間、少しも痛まないで何の治療もしないまま、過ごしました。50歳をちょっと過ぎたころ。他の歯が痛んで、歯科に治療に行った時、「やあ、この歯はもう取ってもよいですね」とポンともぎ捨てられてしまいました。

 私は、この経験から何事でも痛みの極点を通り抜けると痛みは無くなるものだということを悟ったのです。

           *

 この経験は、後に(そうです、まだ20歳代のことですが)T・L・オズボーンの本で神癒信仰にはいった時、ただ神様の癒しを信じて、じっと癒しの結果の起こるのを待つだけという信仰になったのです。

 神様の癒しの力を絶対に信じる信仰でした。風邪をひいても風邪薬一服も飲みません。ちょっとした傷にもメンソレータムを塗りもしません。

 その頃、長男のえりや君が手の指をナイフで切ったことがあります。私が傷を開いて見ました。肉が開いて底に白い骨が見えました。私はその傷を閉じてぐっと手で握って祈りました。そしてさすがに包帯は巻きましたがね。

 3時間ほどたって行って見ると、彼は眠っています。包帯はほぐれて捨ててあります。私がその傷口を手で開こうとしても、肉質が既にくっついていて開かないのです。こういうことがよくありました。

 癒しの宣言で、聖霊による奇蹟的癒しの現場を見るのは手島先生が初めてでした。原始福音の仲間では多くの奇蹟を見ました。少々私も真似をして少しは神癒祈祷の実績もあがりました、私はけっして大物ではありませんが、しかし神さまから、神癒の賜物を頂いていることは確かです。

           *

 とは言え、「歯が痛いです。祈ってください」と私のところへ来る、私が祈って差し上げると、即座に痛みが引く人はいますね。それでも、その後、また痛みが再発して歯科に行くのが普通です。私の刑務所の時の経験のように、ずっとそのまま癒されている例は無いようです。どこか人の心に、「虫歯は祈りだけでは、なおるかな」という不信仰があるのですね。

 徹底的に信じ、徹底的に祈れば、癒されるはずと、私は信じます。そうでなければ、戦地の真中で、地震で孤立した部落で、激痛の病気が起こったらどうしますか、以上のような例を知っていれば初信の信者さんでも、いざという時は自分で祈って、信仰の癒しを体験すると思います。

 しかし、そうではない、普段の環境にいると、緊迫感を欠きます。牧師の私であっても、自分の病気や家族の病気は気がかりで「信仰」を堅持することは正直に言って難しいのです(これも又、恥ずかしい、呵々)。

 しかし、20年ほど前の私の心筋梗塞、10年ほど前の妻の肺癌、いずれも奇蹟的に癒されました。みなさんの厚いご加祷にも支えられました。感謝でした。今後、ますます、神癒の恵みを体験して行きとうございます。今、妻が闘病中ですが、完全に癒されるよう皆さん、どうぞ祈って下さい。《く》

〔あとがき〕
 礼拝室の後ろの棚にビデオを置いてありますが、少し説明します。まず、
 「ジーザズ」10年ほど前になりますか、イエス伝の映画としては評判にもなったし、ユダヤ現地にロケして、エキストラも現地の人たちが出演したと聞いています。福音書が身近に感じられるようになりましょう。出来れば奇蹟の起こる場面をもっとダイナミックに描いてほしいのと、イエス様の動きをもっと明るく、活発にしてほしいと思いました。イエス様を柔らかく、動きをノロノロさせれば、それで神聖な人格を表現出来ると思っているらしい演出には満足できません。しかし、やはりご覧になったほうがよいですね。私は見ている間、何度も感激して涙が出ました。次は、
 「聖書の暗号」聖書に暗号が潜められているという不思議な、実証的なビデオ。この本も教会にあるはずです。一緒に見ると分かりやすいでしょう。3年前のアメリカの同時テロの予言があるのを発見した丁度その時、ツインビルが燃えて倒壊するところを見せつけられる画面が出て、びっくりしました。人類は2006年に滅亡するという予言も出ています。滅亡を避ける方法ありや?《く》


 「日岡だより」161号付録 (2005年1月30日発行)

 「ご協力ください」という言葉の起こり   

 道路工事をしている所などで、よく見かける表示板がある。

 「水道工事中です。ご協力ください」などとあって、ヘルメット姿の頭を下げている作業員の絵などがある。

 「はて、ここでシャベルで土でも掘ってくれと言うのだろうか」などと迷う人はあるまい。これはよく考えると不思議な看板だ。これは実は戦争中の名残りである。

 第二次大戦時より、戦争はしばしば国家をあげての総力戦になった。だから、国民はその国に生きているだけで、システムとして、戦争に協力する立場におかせられる。

 幼稚園の子どもは「兵隊さんに慰問の絵」を描いて送る。これも戦争協力。おやつがほしい時も「戦争協力」のために我慢する。お百姓さんも、お魚屋さんも、工場の工員さんは尚更だ。すべて戦争に協力統制のなかに置かれる。

 今でも満員電車の中で「お互いにお詰めあわせ、ご協力ください」という言葉は、その戦争中の遺物である。

              *

 今、大入島の埋立て問題も、言わばこれに似ている。お上(政府や県庁)は決して阿呆なことをしようとしているのではなく、住民のことも充分に配慮して施工しようとするプロジェクトであろう。

 「これを広い長期的な視野で分かってくれればよいのに、なんでもお上(府や県庁)に反対するのを民主的と称して無闇に民衆をそそのかす連中がいる。そういう連中に連れ込まれて騒ぐ愚かな住民の人たちも困ったものだ」……お上のがわはこう考えていることだろう。

 事実、彼らは悪意や害を与えようと思って、この事業を計画しているのではない。国家人民のため良かれかしと始めたプロジェクトだし、また民主主義に添って議会の承認も得ているのである。

 同時進行で今、問題となっているのは諌早の干拓事業であろう。先般、亡くなった松下竜一さんが戦った豊前海岸の問題や、彼が書いた「蜂の巣城」物語や、「風成の女たち」、大変失礼だが正確な本の題は忘れたけれども、みな同一の「かたち」というか、「ながれ」を持っていたと思う。

 似たような問題では市町村の合併問題がある。なぜ合併しなければならなかったのか、はっきり教えて貰えないまま、合併問題は終結した。多分お上のなかに政府や県庁のほかに町長さんや村長さんがたも加わっていたからではないかと、私は勘ぐっているのだが。

 ともかく、そこでお上は言う。「住民の皆さん、たいへん、ご迷惑おかけします。何とぞ、ご協力ください」。県知事さんの頭をさげた看板でも置くか。《く》(2005五年1月27日現在執筆)

 

愉快に毎日を送る秘訣   

 人は、その人が毎日何を考えているかということが、その人の人格を決定します。だから、「いつも喜んでいなさい」と聖書にもあるのです。

 でも、「そう簡単に喜べませんよ」とおっしゃるでしょうか。ごもっともです、人生、いろいろ問題がありますからね。

 それでも、昨日よりは今日、今日よりは明日、と喜びを増やす妙法があります。簡単です。それは努めて「ワッハッハ」と笑う習慣をつけることです。

 「そんなことは出来ません、笑えることなんか何もないのに、笑えませんよ」とご返事が返ってきそうです。ごもっともです。

 ですから、ここで一つ、ご提案です。まず、誰もそばにいない所と時間をさがして、思い切って形だけでも「ワッハッハハ」と笑ってみてください。車に乗る方は、車の中が良いですね。

 あるいは又、小さな声で「オホホホ」と笑うのでも良いです。そうすると、次第に笑いが上手になります。

 お気づきでしょうか。笑いたい気持ちなんて全然なくても良いのです。多少の無理をして「笑う練習」をするのです。そうすると、心の中に少しでも「喜び」の心は湧いて来るのです。

 ある学者が言いました。「子どもの時、泣き真似をしていたら、本当に泣きだしたなんて、そんなことがあったでしょ」と。

 ですから、私は言うのです。「笑う真似をしていると、本当に楽しくなりますよ」と。

 みなさんは多分、こんなことをなさったことはないかもしれませんが、今日から1か月間でも(いや本当を言えば3か月間だとさらに良いのですが、3か月間やると、たいていなんでも習慣になります)。

 「ワッハッハ」と笑ってください。これが愉快な毎日を送る秘訣です。

 「なんだか、阿呆みたいだな」と抵抗しないで(笑)、笑ってみてください。「笑えば病気も治ります」とは最近はお医者さんもおっしゃっています。私はこのことを20年も前から言っているんです。

 笑うために無理に落語や漫才を聞きに行く必要はありません。金を出して喜劇を見に行く必要もありません。

 一人で笑って下さい。タダですみます。

 ご参考に私の「ワッハッハ、元気が出る電話」を聞いてください。毎日入れ替え、年中無休の3分間電話(551−4154)です。《く》  (教会の周辺地域に配布したチラシの原稿です)


2005/1/23

(「日岡だより」第160号)

幸運な人になりましょう!     

 あのナショナル電器の松下幸之助さんに、ある人が聞いたことがあります。

「松下さん、あなたはどのようにして有能な人物を見極めるのですか」

 松下さんは答えました。

「愛嬌と運のいい人だな」

「愛嬌のいい人というのは分かりますが、運のいい人というのはどうして見分けるのですか」

「わしが見れば分かる」

 なんとも不可解です。松下さんに何か神秘な力でもあるのでしょうか。なおも食い下がって聞くと、

「実に簡単。自分は運が良いと思っている人が運が良い人だ」

 ははーん、なるほど! 分かるような気がしますね。

           *

 「運が良い人」と言えば私は聖書のなかのヨセフという人物を思い出します。そして私はつい、私の刑務所経験をまず話したくなるのです。

 私は22歳のとき、福岡の刑務所の独房にいました。キリスト教思想による兵役法違反などという、国家反逆罪ですから、キリスト教関係の本は読ませてくれません。図書係から貸して貰える本は月に2冊です。毎月、「聖書」と申込書に書きますが、ボツになって1冊しか貸してくれないのです。

 しかし、幸運にも図書係の囚人はやさしい人で、間違ったふりをして1ヶ月だけ聖書をニヤッと笑って私の監房に入れてくれました。(この人は細君を殺して無期懲役になっている男だと聞きました。信じられません!)。

 ところで、私はこの聖書を1ヶ月間むさぼるように読みました。その時、旧約聖書の創世記を読んでいて思わず目をこすった個所があります。

 それがヨセフの物語です。ヨセフは少年時代に、親や兄弟たちが自分をかこんで最敬礼する夢を見ました。それが彼に印象深く残りました。この少年時代の夢が、心に燃える幻となって、その後の彼の人生がどんなに過酷な状態になった時にも、ヨセフを支えたのだと、私は思います。

 ところで、その興奮を彼は坊っちゃんらしく、無邪気に兄たちに言ってしまうのです。なんと言っても、これはヨセフの若さの故です。

 この時の彼はまだ人の心を察することができません。これは、ヨセフの無類の誠実さと言ってよいでしょうか。人を疑うことを知らない、無邪気すぎて世間の醜さを知らない。人が善すぎて、逆に言えば人を傷つけます。

 しかし、それは長い苦難の生活で鍛えられ、賢明な人に変えられて行きました。苦難は神様の摂理であったわけです。

 ある日、ヨセフは父の命令で遠くに羊の放牧にいっている兄たちの様子を見に行きます。ところが例の夢の故に彼を妬み、怒り、憎んでいた兄たちは、ヨセフを掴まえて殺そうとします。

 そこへ、ちょうどイシマエル人の隊商が通りかかる。兄たちの気が急に変わり、イシマエル人たちに弟を売りました。これも幸運、命だけは助かります。

 さてイシマエル人たちはヨセフを見て何か感じたのでしょう。エジプト政府の高級官僚の家の奴隷に売ります。そこで「幸運な者」となり、非常に信用され、すべてを任されたと聖書にあります。

           *

 しかし、又もや、苦難は彼を襲うのです。その高級官僚の妻が好色女、ヨセフは彼女に言いよられて拒絶します。さあ、可愛いさ余って憎さ百倍、妻は無実の罪を言い立て、彼は牢獄に投げ込まれます。

 古代の牢獄は、どんなに暗い、悲惨な世界であったことでしょう。しかしそこでもヨセフは「栄える者(原語では先の[幸運な者]という言葉と同じ)」となったのです。彼は看守長から一切を任され自由に仕事をした」と聖書にあります。

 私は刑務所のなかで、「雑役」と呼ばれる囚人がいて、相当の権限を与えられ、結構自由に、又いばって所内を歩き回っているのを見ていましたので、「ああ、ヨセフもあの雑役だったんやな」と、少々シニカルに読んで、鼻の先で笑いたくなりました。

 「いくら、栄える者となったといっても、囚人は囚人。その状況から逃れられた訳ではない。牢屋のなかで栄える者になったと言っても、牢屋のなかでのことではないか。その中で、いささかの自由を得、囚人仲間で得意な思いをしたというだけのことでないか。…なんだ、つまらない」と思いました。

 しかし、聖書の文章は「主がヨセフと共におられたので彼は栄える者となった」と、客観的な文体ですが、よく考えると、ヨセフ自身その悪しき環境のなかで喜々として働いている様子がうかがえます。

 「自分は幸運な人間だ」と自分で喜んでいたのではなかったでしょうか。

 そんなことから、今の私たちの教会のように、何かと言えば、機嫌よく「ワッハッハ」と笑っているヨセフの姿がうかがえます。そういう彼に、高級官僚の主人も、牢獄の看守長も喜んで仕事を任せてしまう気になったのではないでしょうか。

           *

 前文でカッコ書きのなかにちょっと挿入しましたが、この「栄える」という言葉を戦後の口語訳や新改訳の創世記39:2では「幸運な」と訳しています。原語を直訳すれば「成功する」と訳すべきでしょうが、同じ言葉が同じ章の3節や23節ではやはり「栄えさせる」と訳されていますが、私はこの「幸運な」という訳が好きです。

 聖書に従えば、その後、ヨセフは夢判断の賜物で、牢獄から引き上げられて、ついにエジプト王に信頼され、そして遂には宰相となるのです。

 どこの馬の骨かもわからぬポッと出のヨセフがいきなり並みいる諸大臣を飛び越えて総理大臣になるわけですから、前任者たちから妬まれ、怨まれ、足を引っ張られ、仕事を妨害され、陰険な仕打ちにあっても当然だろうと思われますのに、そういう気配が少しもありませんね。ヨセフは、尊敬され愛されて死の日まで安定した生涯を送っています。

 この成功人生の基礎は彼を導かれた神様にあります。しかし、彼のがわに限って言えば、彼自身がしっかりと「私は幸運な男なのだ」と信じていたことにあると言って言い過ぎでないでしょう。

 彼自身、どんな時にも自分にむかって「自分は幸運な男なんだ」と言いつづけたに相違ありません。あの少年時代に見た夢が、彼をそうさせたのでしょう。

 彼の一生は夢、(多分それは、形も色も重さも宝石のように輝いて、あたかも軍隊の行進のように響きをたてて迫ってくる「幸運」「成功」「栄光」のヴィジョン)、その夢と幻の実現でした。

 彼は、たしかに、松下幸之助さんが言ったような「自分は運が良いと思っている人」であったに相違ない。

 私は牢獄の中で、このヨセフ物語にふれた時、どんなに励まされたか知れない。このヨセフに倣いたいと思いました。

 事実、私自身、しばしば看守や雑役や同囚の男たちの好意を得る幸運に何度も恵まれたのです。

        *

 さあ、私たちは口に出して言いましょう、「私は幸運な人間である」と。「主が私を栄えさせる」と。どんな逆境にあっても「主によって成功を与えられる」と。そして、朗らかに「ワッハッハ」と声をあげて笑いましょう。

 私の人生のすべてが主によって幸運に運ばれるのですから。これこそ大いなる「楽天思考」です。《く》

(週報1997・11・8号を再編集)


2005/1/16

(「日岡だより」第159号)

脳医学を参考に信仰の成長を図る   

 「脳を調べれば人間のすべてが分かる」という見解を述べた人がいます。アメリカ在住のインド人の学者、ラマチャンドランという人です。本当でしょうか。それはともかく……、

 その内容は非常に示唆に富んでいます。「死の壁」や「バカの壁」の養老孟司教授は、ヨーロッパ人には気のつかない東洋人らしい研究だと言って褒めていました。

 この方の研究実践内容を、私はビデオでこの木曜日に見たばかりです。実は昨年の年末のころ、テレビで放映したらしいのですが、私は見落としていました。ところが、ある人が録画してあったのを親切にダビングして送ってくれたのです。

 ラマチャンドラン教授の研究は以下のようにして始まりました。手や足が切断されるような事故や手術を受けた人に「幻肢(げんし)」という症状が起こることがあるそうです。その人の手や足は既に無くなっているのに、その手や足が痛むのです。

 なぜか。その理由はおおよそ分かっていました。心理学でいうトラウマと同じ現象が、肉体的神経現象として起こっているのだということです。

 幼い時の虐待等で受けた心の傷が、子どもが成長したあとにも、心理的傷を残して、精神科的発病をする、という場合に似ています。一旦受けた外傷の痛みが、脳神経に傷として残って、その後無いはずの手や足の傷が痛むように感じるのです。まさに幼い時の虐待の傷が成長したのちに発病するのと同じです。

              *

 そうした患者のため、ラマチャンドラン博士は冗談のように、思いついたという事ですが、両方の手をつっこめるように箱をつくって、その両手の真中に鏡を置いたのです。残っている手を差し入れたほうから真中の鏡を見ると、写っている手はあたかも、もう一方の無いはずの手のように思えるのです。

 最初の、その実験的治療を受けた患者さんは、その鏡に写った自分の手を見て、ビックリし、感激して、泣き出したと言います。それからというもの、毎日、子どもの遊技のように昂奮して、そして多分、面白がってやったに違いないと思いますね。

 そして4か月すると、その無い手の幻の痛みが消えてしまったと言うのです。

 無いものをあたかも現にあるもののように見続けていたら、本当に痛みが無くなった。ということは、鏡を見ていた目のほうからの刺激が「ほら本当は痛みはないんだよ」と、脳を説得して、その説得がついに四か月目にして成功したと言う訳ではないでしょうか。

 チャンドラン博士はそれを「脳はだまされる」と説明しています。私はこの「だまされる」という言葉は誤解を招きやすいので、「説得される」と言いなおしたほうが良いと考えています。

 鏡に写る手を、正常な元の手と誤解する脳神経は、当人の理性に反してその架空現象を信じている。そして繰り返し見せ続けられるうちに、完全に信じこんでしまって、痛みは消えるのです、

 これは臨床心理学で言うトラウマの説を神経外科的に証明したものと言えましょう。学門的には、これは誇るべき発見でなかったかと思います。

              *

 こうして起こった不思議な治療の結果は次のように理解できます。私たちの脳の中のニューロン(神経繊維)が、それぞれ目から「見た」刺激を受け続けて、その刺激の痕跡(映像)が深まって行き、つぎつぎと関連するニューロンに刺激が伝えられて、一つのまとまった映像が発展的に造られて行ったのだ、と解釈できます。

 こうして映像が脳内現象として造られ、それが肉体現象に転化してゆく所に、教会における神癒現象の医学的解明が見えてくるようです。

 もっとも、ここで注意したいことは、聖霊による一瞬の治癒の現象は、これとは違います。聖霊による治癒、これこそ奇蹟です。この説明は別の機会にゆずります。

 ただし、クリスチャンの場合は、如何なる場合でも聖霊様が働いて下さっているのですから、医薬品で癒された場合も、手術によって癒された場合も、癒しが異常に速かったり、傷跡が見えなくなったり、不思議なことがよく起こるのです。それが聖霊の祝福です。

 ともあれ、神経繊維が外部から受ける刺激、それを脳の内部でネットワークで相互構成しながら、映像が出来上がってゆく。いや、実は映像だけでない。言語や、その他のイメージが残される、つまり記憶です。その記憶の蓄積で、仕上がって行くのが信仰です。

 実は、聖霊経験も人間の脳の中に記憶として維持されることは事実ですが、聖霊経験は脳の中だけではなく、脳と接合しつつ、霊的次元で記憶されているというのが、信仰というものの全面図である、これが私の意見です。

 こうした脳の記憶装置は神様が人間を造って下さった時の最高のお仕事だったと言えるかもしれません。聖霊様による異常な歓喜、力強さ、聖なる感情、これらはずっと生涯忘れることなく記憶されて残ります。これほどの恩寵はありません。

 この事を考えると、信仰とは記憶であると言っても言い過ぎではないと思えます。信仰体験の記憶を蓄積し、加算し、積算する時、強い信仰が 生まれます。

 時々進化論や自然科学の悪い影響が入ってきて信仰の記憶を阻害される人もあるのです。明治時代以降、いわゆる新神学が日本キリスト教界にはいって来て、相当名の知れた先生がたも信仰を失ったことがあります。

 進化論や唯物論の悪影響は言わずもがなですが、最近では心理学や村上教授のグレート・サムシング論等、ご本人が真面目誠実であるだけ、信仰に悪い影響を大きくもたらします。

 生長の家や、幸福の科学等の大衆宗教には、こういう例が多いのです。いわゆる、成功哲学、繁栄の神学、大胆・積極の神学にも、危険な面があります。

              *

 ちょっと触れましたが、映像だけでなく、脳に影響を与える、つまり記憶をあたえるものは言語やその他のものがあります。最も記憶を印刻させる力の強いのは言葉です。聖霊の働きもたいていの場合、言葉で迫ってきます。

 そこで信徒の皆さんが自分の信仰を成長させようとする場合、み言葉、ないし信仰の言葉の「告白」が最も力があるということ、これは多くの聖徒たちの経験が保証しています。祈りは勿論、言葉ですが、瞑想とか黙想の場合も、東洋流の無念無想などという奨めに惑わされないで、言葉をきちんと使って試みてください。

 最後に大事なこと、信仰の中心はイエス様の十字架と御血潮のあがないだと言うことです。しかし、信仰を強くするためには、以上の映像記憶法(私のいわゆるイメージ祈祷法)、あるいはみ言葉の告白、これらが有力なのです。《く》

〔お知らせ〕
来月2月11日には当教会で、手束先生をお招きして「教職者セミナー」を開くことになっていますが、私もぼんやりしていて、永井先生の鳥栖古賀町集会の開所式の日であることを失念していました。申し訳なくて、永井先生には大分の地から、伏してお詫びする次第です。ただし、このセミナーは教職者(牧師等)だけのものですから、信徒方々はふるって鳥栖古賀町集会の開所式のほうにご参加ください。ちなみに福田先生にも開所式のほうに行っていただくことにしています。当日は実は別府後楽園でケズィックの集会もある日で、当教会のセミナーもやや心配ですが、主を信じて決行します。《く》


2005/1/9

(「日岡だより」第158号)

大楽天的瞑想の祈り     

 「幸いなるかな、心の貧しき者」、あまりにも有名なイエス様のお言葉です。マタイによる福音書第5章に出ています。

 一般に「八福の教え」と言われていますお言葉の最初の一句ですが、つづいて「悲しむ者、柔和なる者、義に飢え渇く者、憐れみある者、心の清き者、平和ならしむる者、義のために責められたる者」とあります。合わせて8つの「幸いなるかな」です。

 この最初の一句、「心の貧しい者」というお言葉は当時は「心の謙遜な者」と理解されていたという説があります。これは正しいと思います。しかし、また日本流に「心の貧しい人→心の卑しい人」と読んだとしても、イエス様のお言葉として、なんだか分かるような気がします。これは私の説ですが、イエス様はどんな人にも祝福を投げかける方だった、ということです。

 また同じ「八福の教え」でも(平行記事と言います)ルカによる福音書では「心の」でなくて、単純に「貧しい者」となっています。つまり、「貧乏人は幸福だよ」とイエス様はおっしゃっているのです。

              *

 要するにイエス様のお言葉は変化自在でして、真理を語ってくれます。私がここで注意したいのは、イエス様はすべての人に対して、貧しい人にも悲しんでいる人にも、正義に飢え渇き、正義のために責められるような雄々しい人に対しても、幸福を宣言しているということです。

 イエス様は幸福宣言者である。これが強調したいことです。イエス様は如何なる人に向かってもおっしゃるのです。「お前さんがたは、私の前に来ている以上幸福なんだ」と、山の頂上でイエス様の前で膝まずいている弟子たちに宣言するのです。

 だれでもイエス様の前に行きましょう。イエス様の声を聞きましょう。時にはイエス様に手を握ってもらえるでしょうか。そこで、イエス様は「あなたは幸福だよ」と言ってくれるのです。これが福音です。これは、まやかしの幸福ではない。ホンマモノの幸福です。

 イエス様はこの言葉を命をかけて言うのです。イエス様が十字架にかかられた訳は、人類を一人残らず幸福にしたいからでした。「イエス様を信じる者はみな救われる」と言います。信じるとはイエス様の前に行くことです。

 そして「お前さんは、どんな人であっても、幸福だよ」と言ってくれるお言葉をそのまま「ああ、そうなんだ、私は幸福なんだ」と承知する、それが信仰です。救われます。幸福になります。

 パッションの映画などを見ると、イエス様は如何にも深刻な方です。しかし、他の一面を拝見しましょう。イエス様は大胆な楽天主義者です。すべての人が幸福になる、そのことを、まずイエス様が信じている。

 初めにイエス様の信仰があるからこそ、イエス様のお言葉に寄りかかって、私たちの心に信仰が湧くのです。イエス様の信仰が私たちを救い、私たちを幸福にする。そこにイエス様の大胆な楽天主義があります。

              *

 話題を急転換させます。

 最近、あるご夫婦が来て、彼らの子どもの問題で訴えるともなく私に語るのです。もう相当の年配の娘さんだが、いつまでたっても自立しない。過食症か、何かで、しばしば自分で食べたものを吐いたり、血管をカットしたり、両親の心配は絶えない、というわけです。

 私はなんとか助けてあげたいのだが、名案がない。ふと思いついて、「楽観イメージはどうや」と言った。もちろん、これだけでは分かるはずはない。私は少し説明した。

「あなたがたの娘さんの、最高にすばらしい状態や環境を、考え尽くせるだけ考えて、その姿をあなたがたの脳裏に思い描いてみるんです。これがイメージです。これを1日、朝晩5分ずつでいい。やってみなさい。」

 2人はけげんそうな顔をしている。私は言った。

「あなたがたが心の中で描く娘さんの姿が、今後のあなたがたの娘さんを変えて行くのですよ。」

「………」

 なかなか信じられないのは理解できる。私は一人の奥さんの実例を話した。その奥さんのご主人は大変出来た人で、品行方正、同僚も認める堅物であったが、しかし、

 たった一つ欠点があった。午前様、朝帰りである。会社の部下たちを連れて飲み屋街をはしごしてくる。部下を可愛がり、またその人心収攬(しゅうれん)術であったのだろうが、毎日のことなので奥さんはたまらない。

「せめて、午後7時に帰ってくれればいいんですがねえ」と言う。そこで私は提案した。

「奥さんねえ。頭のなかでイメージを描いてください。ご主人が午後7時になると、ご機嫌で『おおい、今帰ったよ』と、お寿司の一つでも手に持って帰ってくる。それを迎える奥さんが映画のシーンにでもあるように、やさしく、たのしく、迎えてあげる。そういう絵、動く絵を見るのです、心の中で。

 これを3か月続けてください。3か月したら、かならずご主人は、午後7時にはお宅にご帰還です。3か月続けてくださいね。」

 この私の約束通り、実現しました。実は、提案した私もびっくりしたのです。3か月というのは、私の宛てずっぽうでもあるが、私なりの理論的裏付けも多少あったのです。

              *

 こうした過去の私の実例を、そのご夫婦に話した上で、「あなたがたの虫のいい想像でよいから、それを動く絵にして、毎日脳裏に描くのです。これがイメージ法です。アメリカでは、この方法で癌を治した医者もいるのですよ。イメージ療法と言います。

 1日に5分か、10分、毎日朝晩と2回くらい、やってください。時間を長く取るより、出来れば、朝、午前、昼、午後、夕、寝る前、と回数を増やすほうがよいですね。

 つまり、1回の時間が長いより、繰り返しと継続が大事なのです。「継続は力なり」と言いますが、それは何事も継続すると、それが習慣化するからです。習慣は人間の最大の力だと言った人もいます。

 継続のコツは、たとい1日か2日忘れても、あたかも1日も休まなかったかのごとく、ケロリとして3日目をつづけて行くことです。1日か2日忘れたくらいで、自信喪失して自尊心を傷つける必要はありません。」

 つづけて私は言った。「娘さんが最高に気分がよい、喜んでいる。しっかりしている、そういう時の顔や起ち居、振舞を思い浮かべてください。娘さんのしぐさや、声がはっきり心に浮かぶとよいですね。それがイメージです。イメージをはっきりさせるには少々訓練が必要です。私の『誰でもできる精神強化法』を読んでください。その中でイメージの作りかたを説明してあります。

 そのようにして、娘さんのすばらしい様子について、あなたがたご夫婦2人の見る姿が一致すると良いのです。出来れば動く絵になると良い。お2人で相談しあって、一致した絵姿、動きを決めてください。物語風にシナリオができると更に良いのですが、そのシナリオもお2人で相談して作り上げると良いのです。こうして出来あがったイメージを毎日、心の中のディスプレイで見てください。

 これを私は「楽天瞑想法」と呼びます。瞑想とまで行かなくても黙想で結構です。黙想とは何か、と言えば難しいですが、この程度のイメージ実修で、ほぼ出来ていると思います。

              *

 以上の文中で、ご夫婦に語った説明で宗教的に重要なことは、ご両親の心に完成したイメージが、霊的なチャンネルを通して、娘さんに実現するのだということです。

 もっとも、この世の心理学者は、こうしたイメージがご両親の心にできあがると、この両親の日常の行動、しぐさ、言葉、特に娘さんに対する態度や、言葉のちょっとした音声や口調に変化が生じて、その変化に娘さんが知らず知らずに影響を受ける。ご両親の無意識のうちに起こっている変化が、娘さんの無意識層に変化を与えた訳だと解釈するでしょう。これも正しいと思います。

 ここで私に展開する重要な信仰を述べたいのです。私は、私自身にあてて、私の家族について、上記のご夫婦に語ったとおりの方法でイメージ黙想をしよう。それは信仰的告白の一つである。また正しく祈りであると言える。

 自分を責める悔い改め的祈りもある。また、自分を初め、家族や、教会の兄弟姉妹のための取り成しの祈りもある。

 しかし、すべての物事が、ゆたかな神の栄光を現わし、一切が聖にして、歓喜と、熱情を燃やしているような、大胆な、豊かな、広大な夢を、神様の前に繰り広げるようなイメージ瞑想をしたい、それが今の私の願いです。

 私はこれをクリスチャンの楽天的イメージ祈祷と呼びたいのです。自分のこと、家族のこと、教会員のことばかりでない、もっと大きな国家のこと、世界のこと、霊界のこと、一切を含めて、豊かな天地を瞑想したい。これは私のはなはだ大胆な言葉なのである。今や、神様の尊い高遠なご経綸に触れてしまった感じがする。エペソ人への手紙1:9以下を引用したい。

 「御旨の奥義を、自らあらかじめさだめられた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである、それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、天にあるもの、地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。」

 神の御旨の奥義は「天にあるもの、地にあるものを、ことごとく、キリストあって一つに帰せしめようとされる」ことである。そのような聖にして歓喜すべき栄光のイメージを描いて内村鑑三先生ではないが、「宇宙の完成を祈る」瞑想をしたいのである。驚くべき結論である。「大楽天的瞑想の祈り」と題したい。《く》

【お願い】
「日岡だより」昨年末156号の4頁に東京山谷でホームレスの人たちに伝道している森本春子先生のことを書きました。本当はもっと詳しく書きたかった。終戦後、戦災孤児と共同生活をした私は、同志的愛を覚えます。そのくせ、なかなかご援助もままなりません。さて今回、次のような品々を求めていると案内がありました。みなさん、どうぞご協力ください。ご献金も献品も教会でまとめますが、遠隔のかたは末記の森本先生の教会名等ご参照ください。《献品について》そのまま利用出来るものをお願いします。例えば夏には夏ものを、ですね。(衣類))ジャンパー、コート、セーター、毛布、寝袋、ズボン、上着、下着(下着はできるだけ新しいものを)、運動靴、靴下、帽子、ベルト、(食品)めん類、缶詰、米など保存食、調味料等、(医薬品)かぜ薬、胃腸薬。栄養剤、シップ剤、バンドエイド等、(その他)靴を入れるためにビニール袋、男性用の大きいショルダー、大きいリュックサックを頂けると幸いです。(次のものは不要です)布団、ワイシャツ、背広の上、チョッキ、婦人子供服。食器類、小さいバッグ、ナップサック。
《品物の送り先》 〒111-0025 東京都台東区東浅草 2-28-6 聖川基督福音教会 03-3875-8109
《献金の送り先》 〒120-0026 東京都足立区千住旭街20-16 聖愛基督福音教会 03-3881-2390
振替 00170-1-398148 よみがえりの里建設係


2005/1/2

(「日岡だより」第157号)

み顔の光の中に生きよ      

   「主よ、彼らはみ顔の光の中を歩み、
   ひねもす、み名によって喜び、
   あなたの義をほめたたえます。」
            (詩篇89:15、16)

 昨年の日本は、まさに台風、洪水、地震と、災害列島でした。加えて、悲惨、残虐な小児殺害、あるいは親殺し。年の瀬が迫れば、インド洋津波が追い掛けてきて、災害がアジア大にふくれ上り、なんとも去年は異常な年でした。

 国際的には、泥沼に入りそうなアメリカのイラク介入、これはブッシュさんが手を引けばいい問題ですが、でも、この方は意地を張りつづけるのでしょうねえ。イラク紛争のきっかけとなった9・11テロの、後続テロは小型ながらも依然としてイラク国内で続き、またパレスチナとイスラエル間もしかり。また、ロシアにおけるテロ、小学校体育館における児童人質事件も世界を衝撃させたニュースでした。

 世界中が喉(のど)が乾きあがってしまいそうな心の乾燥を覚える今日ですが、キリスト教世界のニュースには驚きます。発展途上国の貧しい国々で大型なリバイバル、と言うよりトランスフォーメーション、国をあげての民衆の心の変革です。大統領が議会で信仰を告白しているニュースも来ています。

 これには、闇のなかで光を発見したような昂奮を覚えます。文明ではない、文化でもない。神の福音が世界を変えようとしている、その突破口的地域変革が、今、起こっています。

 ペテロが獄中で体験し、パウロがダマスコ途上で体験した、あの強烈なみ顔の光が地球を巡り照らす時代が今、来ようとしているのです。《く》 


この年のうちに何が起こりますか     

   「主よ、わたしはあなたのことを聞きました。
    主よ、わたしはあなたのみわざを見て恐れます。
    この年のうちにこれを新たにし、
    この年のうちにこれを知らせてください。
    怒る時にもあわれみを思い起こしてください。」
                  (ハバクク3:2)

 北朝鮮の拉致問題は、今年も先鋭化するでしょうね。政府首脳は本当は伏せて置きたい問題でしょう。小泉さんがかつてビョンヤンに出かけて行って金正日とじか談判、総書記さんに拉致問題の存在を確認させた。これは小泉さんの手柄でした。しかし、一度握った手の後の持って行き場に困っているのが現状でしょうか。今後、どう対処したらよいのか、「どうでもなれ」と捨て鉢な姿勢の北朝鮮さんには、手こずりますよね。

 昨年末、12月29日の朝日テレビでやっていた例のハマコウ先生の出る番組ですが、切って血の出るような近来珍しい放送でした。ある人いわく、「もしこちらが武力攻撃して、彼らから核反撃を受ければ東京は無くなりますしね」などと言っていた、私はもう10年前から言っていることだが、公的なテレビでこんな言葉を聞くのは初めてだった。

 そこに立花隆さんが出て来る。「経済制裁と言いますけれどねえ、中がどうなっているのかさっぱり分からないような閉鎖国家に経済制裁などかけるのは、ずいぶんヤバイことなのです」という。どうしてかというと、「太平洋戦争がよい例です。あの時アメリカは日本に経済制裁をかけた、つまり石油を全面輸出禁止したのです。(釘宮註。これをABCD包囲陣と言った。Aはアメリカ、Bはブリテンのイギリス、Cはチャイナの中国、Dはダッチでオランダのこと、オランダ領のインドネシアが石油産地だったから、オランダは日本経済封鎖の筆頭株だっただろうと思う)。

 当時の日本は、国際情報ではほとんど鎖国状態です。今の北朝鮮と全く同じです。そこへ経済封鎖、いきりたった日本の真珠湾攻撃です。そんな反応はアメリカには思いも寄らなかった。こんな風にやみくもな経済制裁は危険なんです」と、立花隆さん。

 私も言うのです。もし金総書記さんがヒステリーを起こしてご覧なさい、5発か10発かあるらしいノドンの発射ボタンを押してご覧なさい。日本の五大都市や工業地帯は壊滅です。アメリカはすぐ迎撃弾道弾を発射するでしょうが、それよりも北朝鮮に直接弾を打ち込むことを優先するでしょう。そして総書記さんは覚悟の日本と無理心中です。

            *

 アメリカはすでに「北朝鮮人権法」という法律を作っているらしい。イラクに対しては、同じ様な国内法で攻撃しているわけ。同様に北朝鮮に対して合法的に攻撃できる準備ができている様子だ。これは由々しきことではないか。なお、アメリカのジャーナリストらしい人が言っていたが、アメリカには既に金正日を暗殺する計画などもあるという。そこまでは本当か嘘か、私も分からないですが、ありそうな気もする。

 さてブッシュさんを応援し、戦争気分を盛り立てているアメリカのキリスト教福音右派というのは、どういう人たちだろう。その福音派の先生がたの一人が「北朝鮮人権法」に関連して、「最後的手段としては北朝鮮に武力攻撃もあり得る」とさえ断言していたほどだ。この福音派の先生がたがブッシュを応援する理由の一つはブッシュさんは既に「宗教的生まれ変り」をしている信頼できるクリスチャンだということであろう。ブッシュさんはある牧師先生(アメリカでは有名な牧師らしい)から信仰をすすめられ、「宗教的生まれ変り」を経験しているということであった。

 ここで「宗教的生まれ変り」と呼ばれているのは、ボーンアゲイン体験のことだと思うが、ボーンアゲインとはなんだろう。この言葉はニクソン大統領下に起こったウォーターゲート事件に関わったチャールズ・W・ニコルソンという人、彼はニクソンの腹心で政界の殺し屋と言われた豪の者だったが、彼が悔い改めて本物のクリスチャンに生まれ変ったと言う。その経緯を書いたのが「ボーンアゲイン」(邦訳初版1979年)という本だった。その時からボーンアゲインという言葉がキリスト教界で、よく使われ出したと思う。

 イエス様が「人は新しく生まれなければ神の国に入ることは出来ない」と言われた、その「新しく生まれる」という言葉が英語では「ボーンアゲイン」(特にKJV)なのである。私は上記のニコルソンの本を読んで感動して以来、ボーンアゲインという言葉を私の愛用する用語「回心」と同じ深みに考えて使ってきたが、今回のブッシュ大統領が「ボーンアゲインしている」と聞いて、この言葉を危なつかしく思い始めた。日曜礼拝に真面目に出て、祈っているというだけではブッシュさんを回心したクリスチャンとは信じがたい、あの強烈なイラク攻撃に邁進する大統領を霊的生まれ変りしたクリスチャンとは思えないのである。

            *

 このブッシュ大統領を応援するアメリカの福音右派という牧師、信徒たちは、私の目には日本の戦時中、皇道キリスト教を信奉し、礼拝中に東方遥拝と言って天皇礼拝をやった日本キリスト教団の一部先生がたや信徒のみなさんと同じように見えるのである。私はなんども言うが、私は彼らを厳しく責める気はない。無理もないのだ、弱い指導者が弱い信徒たちを守って、あの戦時下を生き抜くことは大変だったろうと思う。同情する。

 所詮、人間は弱い。迫害に負けないで殉教したような信仰の人にも弱さはある。彼はイエス様を信じて救われるのであって、迫害に勝ったから救われるのではない。また迫害を恐れ、表面では神道国家に妥協して生きてきたクリスチャンでも、彼がイエス様を信じているのなら、やはり救われる。彼らは共どもに天国に上げられる。地上の罪を赦され、イエス様に見える喜びを味わうであろう。しかし、そこで報いの差があることは承知しておきたい。5タラントには5タラントの報い、1タラントには1タラントの報いがある。

 この辺は要するに愛国心の問題です。内村先生でも「非戦論」を吐きつつも、戦争が始まったら「非戦論を唱えるのは国民としてしのびない」と言う。内村先生の愛国心です。この点、理解できるが、私は納得しなかった、現実に自分が鉄砲を持って戦いの前線に行かねばならない時、私は鉄砲を捨てざるを得ない。内村先生の時代はまだ状況が甘いのだ。真の平和的愛国心を守るためには、戦時下の個人の内面葛藤は如何にも凄まじいのである。

            *

 最後に聞き逃しがたい最高の良い話があった。韓国の「冬ソナ」のビデオCDが北朝鮮で大量に出回っているというのです。「冬ソナ」は中国でもかつての日本の「おしん」のように、今、人気があるということだが、この北朝鮮においては「冬ソナ」の魅力が北朝鮮の民衆に自由への希望を与え、軍人層にすら韓国愛好気分を醸し出しているということだった。

 どの程度信用してよいか分からないが、韓流文化がアメリカの武力攻撃よりも、断然平和的で、かつ効果的であるということである。これは意外な北朝鮮への平和的挑戦の窓口ではないか。

 私は本紙154号欄外に、民衆による食料援助活動のことを提唱しましたが、こういう草の根的援助方法も考えましょう。《く》

 

 〔あとがき〕
新年おめでとうございます。例年ならば、本紙も第1頁の冒頭に「新年おめでとうございます」と書くところです。今年の年末の情勢はスマトラ地震などもあって、書きたい事が一杯。年を越えても、お正月気分になれないところがある。▼昨年末、N君が会堂前に立てる説教題の看板に、「説教題をなんと書きましょうか」と問われて咄嗟に答えたのが「光の中に生きよ」です。後になって、祈りの中で示された、これこそ、2005年の主題である。▼闇は光に勝たない。主の日は近い。世界を蓋う闇の力に勝つのは神の光のみだ。闇の力とはサタンである。個人的にも、教会においても、あらゆる団体においても、国家においても、誘惑はサタンから来る。▼主の祈りの第6祷下で「悪より救い出したまえ」とあるのは誤訳である、本当は「悪しき者より救い出したまえ」である。悪という普通名詞ではなく、人格的悪しき者である、それはサタンのことである。悪しき事に誘惑するのがサタンである。▼人は強力なサタンに簡単には勝てない、然し、イエス様のお名前によって勝つ事が出来る。誘惑に陥らないためにはイエス様のお名前によってサタンを私たちの面前から、周辺から追い払う事である。▼悪しき行いや悪しき思いが私たちのすき間を伺ってはいり込もうとする。そこにはサタンのしのびこませる悪しき言葉がある、その言葉を追い払おう。これが聖化のコツである。《く》 


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