キリストの福音大分教会・牧師のメッセージ
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告白の力
第9回・悪い思いを追い出せ
一、人は言葉で考える
「すると、律法学者たちは、心の中で、『この人は神をけがしている』と言った。イエスは彼らの心の思いを知って言われた。『なぜ、心の中で悪いことを考えているのか』」(マタイ9:3〜4)
この聖書の箇所を読むとき、「思い」とか「考え」とかは、「心の中で言う」ことなのだということ、つまり人は「言葉で考えたり思ったりする」のだということがわかります。
イエスさまが荒野で悪魔の試みを受けます。悪魔はイエスさまに接近して、まず「あなたが神の子なら、このパンが石になるように、命じなさい」と言うのです。この言葉がイエスさまの意識に入ると、それが「誘惑」になります。イエスさまはそれを言葉を用いて撃退します。
イエスさまには、空腹という生理的条件がありました。そこで悪魔は石という、パンに似たものを見せつけます。イエスさまにとっては石をパンにすることくらいは何でもないことです。ここに悪魔のお膳立てが整っているわけです。
蛇がエバを誘惑するときも同様です。蛇はたぶん、食べるに良く、目に慕わしい知恵の木の実をエバに見せつけたことでしょう。そしてうまい言葉で彼女に語りかけます。蛇の言葉がエバの意識に入りこみますと、もう彼女はその言葉に抵抗できません。創世記を読めばわかりますが、エバは断固として蛇の言葉を拒絶しないで、あいまいな言葉で応酬する、そこが悪魔の目のつけどころなのです。
イメージをもって感覚に訴え、そこに生じる欲求を満足させる言葉を投げかける、悪魔の常套手段です。こうして人の心に悪い言葉が住みつき、その心に葛藤が起こります。パウロがローマ7:15〜24で語る問題がそれです。二、パウロの罪意識
このローマ7:15〜24におけるパウロの罪意識とその嘆きは、彼の回心以前の経験なのか、あるいは回心以後の、あるいはこの手紙を書いた時点での彼自身のことなのか、種々異論があります。さて、私はこう思っています。パウロはこのローマ書簡を書いた時点での彼自身の内面を包み隠さず語っているのです。
ところで私は、このときパウロ自身は、実はそれほど悲嘆してはいなかった、と思うのです。なぜなら彼は、彼に内在する罪の解決策を知っており、それを行使する秘訣を握っていたと信じるからです。
聖書を読むと、パウロは彼自身が罪を行なっている責任者だとは、一言も言っていません。
「それ(罪の行為)を行っているのは、私ではないのです」(ローマ7:17)とさえ、言い切っているのです。
それでは、罪を行っているのは誰でしょうか。パウロははっきりと、「それを行っているのは、私のうちに住みついている罪なのです」(ローマ七、一七)と書いています。続いて、こうも書くのです。「私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです」(ローマ7:18、23)パウロは、自分の肉のうちに罪が入りこんでおり、その罪の律法(法則)が心の律法(法則)に戦いを挑み、これをとりこにしているのだ、と言います。こうした述懐の後で、パウロは「私は、ほんとうにみじめな人間です」とは言います。しかしその次節ですぐ、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と言い、そしてただちに、「いのちと平和と勝利」の第八章を綴るのです。罪に対する勝利がそれほど簡単ではないにしても、確実に勝利する道をパウロは知っていたからであります。三、肉のうちに住みつく罪
人間の存在様式を、「霊、心、肉」の三層図で表すことができます(Tテサロニケ5:13参照)。同心の三つの円を描いて、いちばん内側を霊、そのまわりを心、いちばん外側を肉と考えてください。そのようにはっきりとは区分できるとは思いませんが、こう描くと理解しやすいのです。この中心の“霊”は‘ アダム、エバ以来死んでいます。ゆえにイエスさまは「霊において新しく生まれなければ人は天国を見ることはできない」と言われたのです。クルスチャンはイエスさまを主と告白したときから、すでに霊においては永遠の生命を獲得しています。そこで、霊が再生すると、“心” も霊に伴って清く正しい思いに変わるべきですが、実情は、しばしば悪い思いを抱き、悪事を行いさえするのです。ここが上述のパウロの嘆きの起こるゆえんです。
その原因は “肉” にあります。肉に住みついている罪が心を誘惑するのです。パウロが言う肉とはもちろん肉体のことではありません。それは、罪を受容しやすく世と調子を合わせやすい心の部分、感覚的に快を喜ぶ部分です。それは、「肉の欲、目の欲、持ち物の自慢」(第一ヨハネ2:16)を生じる所、エバが「食べるのに良く、見るに慕わしく」(創世記3:6)思った心の領域です。
パウロはこういう感覚的領域を肉と呼んでいます。そして、その肉(からだ)の中に住みついてる異なる律法(法則)が、心の律法(法則)にたいして戦いをいどんでいる、と言うのです。異なる律法(法則)いうのは本来自分のものではない罪の律法(法則)なのだと言う事です。
四、橋頭保
織田信長が美濃を攻めるとき、まず木下藤吉郎を起用して美濃の領地のなかに出城の墨俣城を作りました。法的には美濃の領地であっても、そこに出来ているのは尾張の城です。出城、これを戦術的には橋頭保と言います。
悪魔は人の肉の中に橋頭保を造ります。パウロのいう肉のうちに住みつく罪です。悪魔はその橋頭保から私たちの心の律法(法則)に戦いをしかける戦法です。
神様が善き事を人に命じられる時、まず人の中心にある霊をとおして指示を出します。それを心の領域が受けとめ、命令し、肉体によって行動を起こそうとします。その時、肉の橋頭堡から不安・疑問・恐怖などの言葉の火矢が飛んできて、その命令系統を混乱させ、行動の照準を狂わせるのです。
聖書の罪という言葉はヘブル語でもギリシャ語でも「的をはずす」ですが、まさしくそのとおりの図式がおこります。
この罪の火矢を打ち消し、打ち払う方策を聖書に学ぼうではありませんか。五、言葉の剣で勝利せよ
前述の三層図に従って言えば、悪魔は肉の橋頭堡から人の内面に向かって包囲陣を敷き、人の善をしようとする意志を阻止、かえって悪を行なうようにしむけるのです。ペテロが「悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」(第一ペテロ5:8)と言うとおりです。
この悪魔にたいして勝利する道をペテロはその次節で示します。「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向いなさい」。ヤコブも同様に言います。「悪魔に立ち向いなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」(ヤコブ4:7)。
それでは何よって立ち向いますか。
エペソ6:14〜17を読みましょう。悪魔の放つ火矢を消すものは信仰の盾であるとあります。盾はなるほど防備の武器であり、また近接戦では敵を叩きふせる武器でもあります。
さらに徹底的な武器、敵に真っ正面に立ち向かって行く武器は剣です。剣は神の言葉です。「みことばには、あなたがたのたましい(心)を救う力があります」(ヤコブ1:21)と、聖書にあります。啓示的に与えられる神の言葉であれば最善ですが、又あなたが選ぶ神様の言葉、つまり聖書の言葉を力強く告白しましょう。更に又、その告白を繰り返しましょう。信仰が湧き、悪魔を撃退する力となるまで、告白をつづけましょう。
あなたの肉にひそむ罪の思い、それは悪魔からくる汚れた反抗的、敗北的言葉などです。その悪魔からくる言葉にたいして、声高く(黙っていても良いですが、声を出せればさらに良い)叫びなさい。神様の言葉は悪魔の言葉を圧倒します。こうして、あなたは罪の誘惑にかならず勝利することができます。
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