宇宙の呻き、私の呻き

 私の信仰、ないし神学思想、また哲学的思想と言ってもいいが、その底にあるものは、「この私たちの宇宙は呻き苦しんでいる」という認識である。ローマ8:17〜22を参照してほしい。日本人の宇宙観や自然観のように、ただこれを美しい、秩序整然としている、神秘であると、これを賛美賛嘆するだけではたまらないのである。
 たしかに自然を見れば、天空を見れば、すばらしい。カントのようにその荘厳な天然美を賛嘆するにやぶさかでない。しかし、そうであれば、そうであるほど、この宇宙が呻き苦しんでいるということに私の心は痛まざるを得ない。
 「それは人間の罪から来る」と言うと、多くの人からは短絡過ぎるという批判を受けるであろう。それは余りに聖書の中でも特にパウロの自然観に傾きすぎているという批判を受けるであろう。私はそれに対する早急な反論はしないつもりだ。それだけをデベイトしてみても実りは少ないと思う。しかし、私の依って立つ考えの根拠は、初めのうちにはっきりしておいたほうがよいと思ったのである。
 問題は世界である。そして日本であり。そして実は私自身であり、願わくはあなたも私の仲間に加わって欲しいのである。インターネットの特長は少数でもいい、極端に言えば、世界中でたった4、5人でもよい。本当にうなずきあえる仲間が欲しい。
 そういうことは、私は霊的宇宙間では霊的に可能なのだと思う。霊的インターネットを張ればいいわけである。しかし、霊的貧弱な私の才能のゆえに、今世紀末に現われたこのエレクトロニウスのシステムを利用して霊能的貧弱さを補おうと、今、私はしているのである。
 世界や日本の矛盾や苦しみは人類の根源的罪に由来する。多大の文化活動や福祉活動や援助活動をとおしても解決はつくまい。もちろん、そうと知っても力あるかぎりそれを実行したい。アルバート・シュバイツァーが言ったように、私たちの世界を見る目は認識としてはペシミズム、希望としてはオプティミズム、出来るかぎりのことはしたいのである。
 東西の問題を問題を考える時、ヨーロッパのキリスト教、特にプロテスタントに支えられた勤勉能率主義は非人間的経済覇権主義を生んだと言ってもいいのではないか。
 対するに、アジアの仏教や老荘思想のもとでは大らかな自然主義、自然髄順、わるくすれば怠惰非能率の世界を生んだ。19世紀はヨーロッパの覇権主義のもとにアジアが翻弄された時代と言えよう。20世紀は日本を先頭にヨーロッパ式富国強兵主義でヨーロッパに反撃しようとした世紀であったと言えようか。
 いずれにしても西洋も東洋もその反省期に来ている。そういう時代認識、世界認識が私にはある。今、そして私たち個人個人が一人一人目覚めなければ世界は滅びる、日本も滅びる。そういう切迫感から来る愛国心に私は燃えるのである。

は日本を愛する。日本民族を愛する。そして世界を愛する。 
  そして内村鑑三のように宇宙の完成を祈る。 
  マラーナタ! 主よ、来たりませ! 
  イエス・キリストよ、来たりませ!  

                     (1999.3.1.)

       

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