「くぎみやよしと 日本・世界・宇宙を思う・・」      
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         しんこうじつげつ 
くぎみやよしとの信仰日月

最終更新日:00/11/10

1999.5.9

 明日(5月10日)から拡大宣教学院に行く。公開講座と卒業式である。主賓講師は滝元明先生。永井先生と同じくお名前が「明」。このお名前にふさわしく、お二人とも気性が明るく、先見性に富み、何事にも先鞭をつけて、計画力があり、達成力に富む。いや、これはお名前のせいではなく、信仰と祈りの成果であろう。我々の預かり知らぬご苦労も多かろうと思うのです。上よりの更なる聖霊の知恵と力のご傾注を祈ります。▼いつものことだが、この公開講座に列席すると、多くの先生方に会えるので、これも楽しみの一つ。奥山先生、有賀先生、植竹先生、中川先生等。いつぞや大川先生と会って話したのはインターネット伝道のこと。数年前のことだ。さすがに先生、目が早いと思った。数年前のことだ。最近、永井先生が鹿児島の勝先生のところでインターネットのホームページを見て、その国際性に感嘆していた。先生、さっそく始めるだろうか。▼一昨年だったか、パワープレイズの松岡先生と話し合ったとき、先生はインターネットは仲間造りですよと言っていた。これも至言だと思った。インターネットの特質を突いている。私はもう十年にもなろうか、ある事業家よりインターネットによる国際貿易センター構想を聞いてビックリ、あらためて、こうしたことの企業家たちの着眼の敏速さに驚いたのであった。▼最近、中国で起こっている「法輪功」なる新興宗教なみの反政府的熱気、このことは、実は現に北京で見てきた某氏より聞いていたが、その集団組織の結束がインターネットによって出来上がっていることを新聞で知って興味深かった。こういう新しいコミュニケーションの武器についても悪魔の子らの方が光の子らよりも賢く、早い! 鳥肌がたった。▼中国と言えば、最近、キリスト教の異端が発生、たしか北京で落雷とともにキリストが再臨された云々という教え。広範囲に家の教会を蚕食しているという噂を聞いた。聖書が行き渡っていない中国では一旦異端がはびこると手がつけられない恐れがある。聖書をもっと早く持ちこむことが大事だが、インターネットを駆使して対処することが大事だろう。 

1999.5.2

 昨年の今ごろは毎朝、近くの森林公園に行って、林の周縁の道や、高尾山という丘の尾根を散歩していた。今日ひさしぶりに、この公園に行ってきた。約半年休んでいたようである。争えないもので、休んでいた分だけ脚の力が衰えているのが分かって愕然とした。たった一・五キロの散歩で疲れて帰ってきたが、しかし快い疲れではあった。▼私は歩く時、腰には万歩計、手には数取り器(カウンター)を持っている。今日は万歩計では歩数は二千五百歩、つまり私の一歩は六十センチということになる。多分、歩幅は狭いほうでしょう。数取り器は、私が歩きながら告白する回数を示してくれます。大きく息を吸って、吸った息を全身に行き巡らすように吐く。その時、「私は主のご用を楽しく果たせます」などと宣言告白しながら歩くのです。今日は、そのような告白の宣言を百三十五回しました。数取り器を見ればそれが分かる。▼「なぜ、数取り器を使うのですか」といぶかる方もいましょうが、使ってみれば、その良さが分かります。数取り器を使わなくても、宣言告白を繰り返せば同じことではありませんか」と問いただしたいでありましょう。しかし、数取り器を使うのと、使わないのとでは、その効果がだいぶ違います。けっして、その効果が大いに違いますとはいいません。しかし、相当ちがいます。どうぞ実際に試みてください。あなたに合えば、やりつづけてください。うまく行かなければ、もちろん、しなくてよいのですよ。▼告白とか、祈りとかいうことに、ちょっとしたコツを知っていると、非常に有効で便利で得をすることがあります。徹夜祈祷や断食祈祷などにも、それなりのコツというか、心得ておくと良いことがあります。徹夜祈祷においては、祈ることはともかく、祈りの姿勢を一夜とりつづけることが大事です。断食祈祷では牛乳くらいは飲んでもよいから、疑似断食で三日ないし七日、十四日とつづけるのが良いように私には思えます。ともあれ、こうしたことを牧師や先輩が教えてあげるとよいのですね。もっとも、独りで懸命の努力の末、独特にコツを掴むこともすばらしいのです。 

 

1999.4.11

==東北紀行==いつものとおり、拡大宣教学院では先生方やスタッフの皆さんや学生諸君に愛されて、楽しく講義や講壇のご奉仕。それを終えて、今回は秋田の中野渡先生の教会を訪問してきました。大分を出るとき、桜はチラホラでしたが、東北は桜どころか雪がふりました。特に秋田に行く途中、新幹線こまちが東北山脈を越えるとき窓の外は猛烈な吹雪で胸がドキドキするほどでした。▼秋田では男鹿半島の一周は絶壁の海岸にゾッとしたり、雪をかぶった鳥海山の雄姿に惚れこんだりで、東北日本海がわの風物に私の心はトップリつかりました。秋田教会のそば、そこは日本海、風力発電の風車が回っていました。教会のなかでも聖霊様の風が吹き上げて、すばらしい礼拝、中野渡先生の平素の祈りと礼拝指導の厚さが伺えました。私もその上昇気流に乗せられて講壇でも、牧師館でも、外出して食事の時も、大いにはしやいで度をすごしました。目下、大いに反省している所です。 

 こんなお手紙を頂いた。「いつも週報を送っていただいてありがとうございます。私は未だに神の存在については十分に理解できていません。でも釘宮先生のお話は親しみやすくよく理解できます」、とおっしゃって週報郵送の切手までお送りくださった。内梨さんという方である。感謝である。ところで、「神の存在証明」ですが、これは不可能と言ってもいいのですが、更に言えば、「神の不存在証明」も不可能なのですね。神の存在はあくまで信仰、あるいは各自の信仰の問題ということになりましょう。それにもかかわらず、「神の存在証明」については、いつか書きたいと思っています。

1999.3.28

二十年ほど前、私は鳥羽聖会に行った時など、よく神学生や信徒の方をつれて伊勢神宮に行った。そのことを他の牧師先生方が知って不思議がられたことがある。私は伊勢神宮の燈篭にイスラエルの国章(ダビデの紋章)と同じデザインが刻まれていることや、八咫の鏡のヘブル文字のことなどについて語ったものである。でも当時は先生方はあまり興味を持って下さらなかった。

さて「声石」という雑誌がある。シャローム宣教会の小石豊先生が主筆である。先生は昔からイスラエル問題をライフワークとしておられ、いくつかの著書も出された。中の二冊は天下のカッパブックス光文社から出ている。この「声石」の四月号に辻井圭三氏という方の「知られざるユダヤ難民救済」という記事があった。外交官杉原氏のビザ発給も有名であるが、それにもまさる驚くべき秘話である。

戦時下、ハルピン特務機関長であった樋口季一郎という当時少将であった方が、ソ連領オトポールにあったユダヤ人難民二万人を窮地から救ったというのである。読めば分かるが、けっして安易なことではない。しかし樋口氏がかつてユダヤ人の老人から「必ず東方の民日本人が我々を救いに来てくれるだろう」と熱涙をこめて訴えられた言葉を想起して断固決意してなさったのだという。

人間の断固とした決意というものは凄いところがある。時にはコンバージョンに似ている。仏教では決定心(けつじょうしん)と言う。今の人は理解できまいが、戦時下の一部の将校や兵士たちにはそうした確固たる身を捨てた愛国心があった。今言えば日本のかいらい政権に過ぎないと言えるが、満州国という国の下部組織の青年と私と、世界の平和、東洋の解放、日本の使命について数時間論争したことがある。彼にも一種の決定心があった。双方、共に譲られぬ世界観があり、信念があり、真剣だったから、どちらも引き下がらない。涙を流して分かれた。私は彼を忘れることができない。もしいつの日か、再会する日があれば、大いに歓呼して抱き合うことであろう。 

1999.3.21

週、倉敷の小橋護先生からワッハッハの絵はがきがくる。先生の漫画チックな絵で表も裏も一杯、みな私への励ましであり、またワッハッハの「笑いの福音(?)」への共感である。このはがきを頂いて私もワッハッハと次の仕事に取りかかるのです。

近は一般の方々の集まりに招かれておしゃべりすることが多い。先月、佐伯市で、また今月、大分市でも二回、いずれも愉快な会です。どの会も特長はキリスト教に関係のない人々の会です。しかし私は当初からあっけらかんと「皆さんが全員、いつかクリスチャンになってください」などと申し上げてワッハッハと笑わせている。どの会もにぎやかで遠慮がない。私も気楽になんでも話題にして好き勝手にしゃべっている。
感心するのは、こうして今の時代、心の時代というが、たしかに心の世界の向上一路、真理を求め、生き甲斐を求め、確かな人生をお互いにいそしみ合い、語り合い、同志と共に励んでいる方が多いと言うことである。武者小路実篤でないが、「人間万歳」と言いたくなるのである。

れでは先生、伝道はしないのか、という人もあろうが、そうではない。ますます伝道精神はさかんです。先々週の巻頭短言に書きましたが、庄内町の葬儀、クリスチャンは四、五人しかいない、葬儀説教も大変です。異教徒の方々に対し失礼な言辞は絶対しない。しかし妥協もしない。キリスト教教義ははっきり言うが、仏教的例話やお経の文句一つくらいは使ってみる。会集は思わず賛美歌も声高く歌ってくれたし、アーメンの声も大きくあがっていた。あとで「今日の葬儀は善かったですなあ」などと遺族や葬儀社にさえ電話があったという。

て、W姉から手紙が来た。私に習った数取り機(カウンター)による短句告白の祈りの効果があったと。これは沖縄から巡ってきたリヤカー伝道のペテロ老人から聞いた悪霊払いの方式である。私もやってみた。先夜、床の中で眠りに入る前に数取り機を使って、何度も祈った。「主よ、耳が聞こえます」、これだけの祈りです。私の耳が難聴で妻の声も分からなくなっていたが、この祈りで一夜で耳が聞こえ出したのである。 


       

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